高畑館 (たかばたけだて) | |
所在地 | 会津若松市河東町(旧河沼郡河東町)谷沢字館ノ内 |
別称 | 高畠館 |
築城年 | 安元元年(1175)頃か |
築城者 | 伊澤俊行 |
城主変遷 | 奥州藤原氏[伊澤氏]-源氏[神保氏]… |
廃城年 | 不明 |
現状 | 耕作地 |
高畑館は福島県会津若松市(旧河沼郡河東町)に所在した城館跡である。
平安時代末期、奥州藤原氏家臣伊澤権頭俊行が構築し、後に神保小次郎長保が住したとされる。
当時会津は隆盛を誇った磐梯山慧日寺、猿戻城を主城とした会津八館を築いて会津への進出を図る越後平氏の城氏、そして奥州藤原氏が互いに勢力を競っていたと考えられ、藤原氏は会津進出、支配に当たり地頭として河辺太郎高経を御山館に置いていたという。高経が御山館にあったのは安元元年(1175)頃とされており、伊澤俊行もほぼ同時期に会津へ入部、高畑館を築いたものと推定されている。御山館の前衛として、慧日寺、城氏の動向を探る役割を担ったであろうこの館がどれだけ活躍したかを示す資料は無いが、その後間もない文治五年(1189)の奥州合戦で藤原氏は滅亡しており、藤原氏の会津支配に大きな役割を果たしたものとは考え辛い。
なお伊澤氏の後に高畑館に住したという神保氏は源頼朝の家人と見られるが、会津一円は蘆名氏祖である佐原十郎左衛門尉義連に与えられており、ごく短期間の居住であったか、佐原氏の被官として高畑館にあったのかは判然としない。
『新編会津風土記』には東西19間、南北27間、『会津鑑』『会津古塁記』には東西28間、南北21間とあり、規模の記載に差異が見られるが館主の記載は同様である。なお館ノ内を字限図で見ると、東辺が南北54間、西辺が南北41間、また北辺が東西37間、南辺が東西45間となっており、不整形の方形館であったと見られる。また周囲は4間ほどの堀が周囲を取り巻いていたと見られている。しかし現在は圃場整備によって全く姿を消しており、遺構は存在しない。
なお往古は伊澤村、その後高畠村と称されていたが、明治時代以降高畑村となった様である。