伊籍[機伯]
?~? 最高官位:昭文将軍 『三国志』立伝
- 弁舌の才があり、孫権への使者として派遣されると、機智溢れる問答で感心を得た 「政」
- 蜀の法律である『蜀科』を起草した 「政」
于禁[文則]
?~221 最高官位:左将軍 『三国志』立伝
- 鮑信の募集に応じ、黄巾討伐に従軍した 「武」
- 将軍王朗に「大将軍を任せられる才能」と評価された (統)
- 兵を率いて徐州の広威を攻撃し、勝利した 「統・武」
- 濮陽の呂布討伐に参加、別軍として城の南の二陣営を破った 「統・武」
- 別軍を率いて、須昌で高雅を破った 「統・武」
- 寿張、定陶、離狐の攻撃、雍丘の張超包囲に従い、それら全てを破った 「統・武」
- 劉辟、黄邵らの討伐に従った。黄邵らが曹操の軍営に夜襲をかけると、麾下の兵士を率いて黄邵らを斬り、その軍勢を降伏させた 「統・武」
- 苦における橋ズイ包囲に参加し、橋ズイら四将を斬った 「統・武」
- 曹操が張繍に敗れても部隊が乱れることがなかった 「統」
- 青州兵が混乱の中で略奪を働くとその罪を責めた。青州兵は曹操のもとに逃げ込み于禁を訴えたが、于禁は張繍に備えるのを先決として塹壕を掘り、陣営を固めた 「統・武・知」
- 曹操に従い、穰で張繍を征伐した 「武」
- 下ヒでの呂布包囲に参加した 「武」
- 曹仁らと共に射犬でスイ固を破った 「統・武」
- 歩兵二千で延津を守り、袁紹を防いだ 「統・武」
- 曹操が劉備討伐に赴いた際、袁紹が攻め寄せたが堅守した 「統・武」
- 楽進らと、袁紹の別陣営を攻撃。汲、獲嘉の二県の三十余の屯営を焼き払った。首級数千を挙げ、兵士数千と何茂ら二十余人を降伏させた 「統・武」
- 別軍を率いて杜氏津にある袁紹の別陣を攻撃、これを破った 「統・武」
- 曹操は陣営を連ね土山を築いて、袁紹と相対していた。土山の守備を任された于禁が力戦したため、士気が高まった 「統・武」
- 臧覇らと共に梅成を討伐した 「統・武」
- 陳蘭と対峙する張遼らへの兵糧輸送を担当した 「統」
- 厳格な態度で軍を保持した 「統」
- 兵士や民衆の心を掴めなかった 「-政」
- 七軍を率いて曹仁救援に向かったが、漢水の氾濫のため関羽に敗れ、降伏した 「-統?-武?」
- 昌豨を攻撃したが勝利できず、夏侯淵の協力を得て勝利した [夏侯淵伝]
- 博望で夏侯惇に従って劉備を追撃したが、伏兵に遭い敗れた 「-統・-武」 [先主伝]
衛瓘[伯玉]
220~291 最高官位:太保、録尚書事 『晋書』立伝
- 10歳で父を亡くしたが、孝に優れた。穏やかで論理的、見識のある性質を称えられた 「政」
- 中書郎として在官10年、権臣とは程良い距離を保ち、仕事ぶりを称えられた 「政」
- 廷尉卿として法理に明るく、常に訴訟に立ち会い、刑罰の大小は妥当性があった 「政」
- 鄧艾の部下に、詔と称して鄧艾を捕らえる命を下した。諸将は皆それに従い、眠っている間に鄧艾父子は捕縛された 「知」
- 鍾会が反乱を企てると、病気と偽って油断させた後、諸将に反抗を呼びかけて鍾会を撃ち破った 「統・武・知」
- 青州を統治し、治績を挙げた 「政」
- 鮮卑の幹部を離間し、降伏あるいは死に追いやった 「知」
- 尚書令となると、厳正に法を用いて部下を統御した 「政」
- 学問を広く深く修め、文芸を習い、草書を得意とした 「政」
- 司空となっても政治は清らかかつ簡潔で、称賛を得た 「政」
- 九品官人法の廃止を上奏した 「政」
- 鄧艾を殺害したことで杜預からは非難を浴びた 「-政?」
- 牽秀を引き立てた 「政」 [牽招伝]
袁渙[曜卿]
?~? 最高官位:郎中令 『三国志』立伝
- 清潔で落ち着きがあり、必ず礼に従って行動した 「政」
- 袁術に諮問を受ける度、正論を吐いた 「政」
- 人民に道義を弁えさせるよう進言した 「政」
- 曹操に身を寄せると対等の挨拶をして、彼の尊敬を受けた。曹操が呂布の物資を好きなように取らせても、書籍を貰っただけだった 「政?」
- 屯田を人民に強制しないよう進言した。曹操がその進言に従うと人民は喜んだ 「政」
- 政治に際して教化訓戒を第一とし、思いやりを示して実行した 「政」
- 多くの下賜を受けたが全てそれらを消費し、家に貯えず、土地財産など眼中になかった。不足すれば他人から取り立てを行ったが、それでも人々は彼の清潔さに感服した 「政」
- 自分の登用を受けなかった友人を処刑した呂岐を弾劾しなかった 「政?」
- 「書籍を収集し、聖人の教えを明らかにし、人民の耳目を一新すべし」と進言した 「政」
袁紹[本初]
?~202 最高官位:大将軍、冀州牧 『三国志』立伝
- 四代続いて三公を輩出した名家の出で、天下の人々に多大な影響力を持っていた 「政」
- 身分にこだわらず士人に対して下手に出たため、大勢の人々に身を寄せられた 「政」
- 何進にすぐさま宦官を誅殺するよう進言した。何進は従わず、逆に宦官に殺された 「知」
- 兵を指揮して宦官を捕らえ、虐殺した。品行正しい者や、或いは宦官でない者まで殺されてしまった 「統・-政」
- 渤海で挙兵し、反董卓連合を主宰した 「統」
- 界橋で公孫瓚と対戦し、先鋒の麹義の活躍で勝利した 「統」
- 蒼厳山で于毒らを破った。さらに北へ向かい、左髭丈八らを破って数万の首級を挙げた 「統・武」
- 献帝をギョウに迎えるべきという郭図の進言を退けた。曹操が献帝を擁護すると後悔した 「-知」
- 沮授の諌言を退け、袁譚に青州を治めさせた 「-知」
- 沮授らの諌言を退け、大軍で許昌へ遠征した 「-知」
- 曹操が沛の劉備を征伐に向かった際、曹操の背後を襲うべきとした田豊の進言を、息子の病気を理由に退けた 「-知」
- 沮授の諌言を退け、顔良に白馬の劉延を攻撃させた。顔良は敗れ、死亡した 「-知」
- 沮授の諌言を退けて官渡の曹操を攻撃したが、砦に篭られ、逆に奇襲部隊によって輸送車を襲撃された 「-知」
- 淳于瓊に輸送車を迎えに行かせた際、別軍を派遣して曹操の略奪を断つべきとした沮授の進言を退けた。曹操が淳于瓊を攻撃すると、それを救援するべきとした張コウの進言を退け、曹操の本陣を攻撃させた。結果、曹操の本陣を陥落させることはできず、淳于瓊も敗れた 「-知」
- 沮授の諌言を退け、全軍を官渡に進めた 「-知」
- 田豊を処刑した 「-政?」
- 冀州の反乱を平定した 「統・武」
- 庶子の袁尚を後継者にしたいと思いながらも、それを公表する前に病死し、後継者争いを招いた 「-知」
- 曹操と協力して、公孫瓚が派遣した劉備らを破った 「統」 [武帝紀]
- 曹操にその人柄を酷評された (-全)
- 献帝の元に向かうべきとした許攸の進言を退け、曹操との対決に固執した 「-知」
- 洛陽に上ったばかりの董卓を捕らえるべきとした鮑信の進言を退けた 「-知」 [董卓伝]
- 反董卓連合の盟主になると驕り、張バクの責めを受けた 「-政?」 [呂布伝]
- 劉勳を殺害し、臧洪と公孫瓚に非難された 「-政?」 [臧洪伝]
- 東郡で臧洪の城を陥落させた 「統・武」
- 臧洪と、彼の処刑に反対した陳容を処刑した 「-政?」
- 高焉らから理不尽に金を取り立てた、と公孫瓚から非難された (-政?) [公孫瓚伝]
- 易京で公孫瓚を包囲した。公孫瓚が張燕に救援を求めたことを知ると、救援と偽って公孫瓚を誘い出し、伏兵を設けて破った。更に地下道を掘って、城郭を打ち崩した 「統・武・知」
- 張燕が派遣した杜長らを破った 「統・武」 [張燕伝]
- 荀彧は、曹操は袁紹と比べて、度量・計略・武力・徳義で勝っていると評した (-全) [荀彧伝]
- 荀攸は「袁紹は寛大さと厚情によって人々の気持ちを把握していた」と述べた (政) [荀攸伝]
- 賈クは、曹操は袁紹と比べて、聡明さ・勇敢さ・人の使い方・決断力で勝っていると評した (-全) [賈ク伝]
- 士卒が乱暴を行い、崔エンに諌言された 「-統・-政」 [崔エン伝]
- 毛カイに「将来を見通す思慮を持たず、基礎を固めていない」と評された (-知) [毛カイ伝]
- 鮑信に「権力を利用して利益を独占している」と評された (-政) [鮑勛伝]
- 程昱に「知力は不十分」と評された (-知) [程昱伝]
- 郭嘉に「人物を使う機微を知らず、決断力がない」と評された (-知) [郭嘉伝]
- 郭嘉は、曹操は袁紹と比べて、十個の面で勝っていると評した (-全)
- 郭嘉は「袁紹は人民・蛮人に恩を施していた」と述べた (政)
- 延津の于禁を攻撃したが、陥落させることができなかった 「-統・-武」 [于禁伝]
- 李通に「任命使用がでたらめ」と評された (-政) [李通伝]
- 楊阜に「法を守れず決断力がない」と評された (-知・-政) [楊阜伝]
- 三郡烏丸を手なずけ、精鋭の騎兵を自分の軍に加えた 「統・政」 [烏丸伝]
閻圃
?~? 最高官位:建節将軍
- 張魯が漢寧王を名乗ることを諌めた 「知」 [張魯伝]
- 曹操に降伏しようとした張魯に対し、抵抗してから降った方が評価が高くなると進言した 「知」
王允[子師]
137~192 最高官位:司徒、尚書令 『後漢書』立伝
- 郭泰に「王佐の才を持つ」と評された (政)
- 貪欲横暴に振る舞っていた小黄門の趙津を殺害した 「政」
- 太原太守の王球が名声も品行もない路仏を登用した際、それを固く諌めた 「政」
- 経伝を繰り返し読み、朝夕に騎射を練習した 「武・政」
- 黄巾の別将を破り、皇甫嵩、朱儁と共に数十万人を降伏させた 「統・武」
- 張譲の賓客が黄巾賊と交わしていた書簡を手に入れると、それを告発した 「政」
- 董卓の意見に従って信頼を得たため、朝政の全てを委ねられ、皇室を支えた 「政」
- 呂布と手を結び、董卓を殺害させた 「知」
- 董卓を殲滅すると最早敵なしと思い、正道を頑なに守るだけの一点張りで、群臣の心は離れた 「-政」
- 蔡ヨウを処刑した 「-政」
- 董卓の配下を放免せず軍を解散させようとしたために疑心を招き、長安を攻められて殺害された 「-知」
- 孫資を評価した 「政」 [劉放伝]
王渾[玄沖]
223~297 最高官位:司徒、録尚書事 『晋書』立伝
- 沈着、典雅にして器量があった 「知?政?」
- 飢餓に苦しむ民を配給で救った 「政」
- 国の損益を述べて政策を献じ、その多くが採用された 「政」
- 豫州刺史として威信を発揚し、呉からの降伏者を招き寄せた 「統」
- 薛瑩らの大軍に対し、寡兵で淮水を密かに渡って奇襲し、勝利を収めた 「統・武・知」
- 応綽に呉の皖城を攻撃させ、撃ち破った 「統」
- 呉の地形や城を観察し、攻め取る機を窺った 「知」
- 陳慎らに尋陽の瀬郷、孔忠を攻撃させ、呉将の周興らを捕虜にした 「統・武」
- 李純に俞恭を攻撃させて勝利を収め、多数の呉兵を斬首または捕虜とした 「統・武」
- 呉の丞相張悌らが数万の兵を率いて城陽に向かうと、周浚らを派遣して攻撃させ、撃ち破った。敵兵7800を斬首または捕虜とし、呉を震撼させた 「統・武」
- 孫皓を降伏させる功を王濬に取られたのを恨み、讒言した 「-政」
- 刑罰を課す際は形式にこだわらず、明解な判断を下した 「政」
- 戦乱のため他郷に逃れた人々を労い、虚心をもって迎え入れた。江東の士人は喜んで晋に降った 「政」
- 司馬攸を藩国に赴任させることに反対し、司馬炎に腹心とするよう勧めたが、退けられた 「政」
- 司徒に任じられても、配下の服は小役人の物を着用させ、その謙虚さを称えられた 「政」
- 地方の風俗に関する司馬衷の諮問に応えた 「政」
- 歴任した数々の官職で名声を博したが、司徒となってからは声望が衰えていった 「-政」
王脩[叔治]
?~? 最高官位:奉常 『三国志』立伝
- 豪族の孫氏の子分や客人が法律を犯すと、官民を率いて彼の家を取り囲み、悪人を差し出させた 「政」
- 租税の取り立てを拒否していた公孫廬のもとに、数騎の供を連れて向かい、彼らを斬って他の者を慰撫した 「武・政」
- 孔融に「身の清潔さを保ち、幾つもの困難に対策を立てて間違わず、人民に愛情と訓戒を注いでいる」と評された (政)
- 自分を貶していた劉献が死刑に処されそうになった時、彼を弁護した。人々は王脩の立派さに感心した 「政」
- 管統が袁譚の救援に訪れると予測した 「知」
- 袁尚と争わず、奸臣を斬って防戦に努めるよう、袁譚に進言した 「知」
- 楽安に兵糧を輸送した 「統」
- 楽安に立てこもった管統を出頭させた 「政」
- 袁氏の重臣は多くの蓄積をしていたが、王脩の家の穀物は十石に満たず、書物が数百巻あった。曹操は「士人はみだりに名声があるのではない」と感嘆した 「政」
- 魏郡太守に就任すると、強者を抑え弱者を助け賞罰をはっきりさせた行政を行い、郡民に称えられた 「政」
- 肉刑の施行に反対した 「政」
- 高柔と王基を若年の内に評価した 「政」
王戎[濬沖]
234~305 最高官位:司徒 『晋書』立伝
- 幼くして才智と、風貌に優れていた 「知」
- 道端の木にすももが残っているのを見て、それが苦い実と見抜いた 「知?」
- 阮籍に「清らかで優秀」と評価された (政)
- 父の喪に際し香典を受け取らず、名声が高まった (政)
- 自然体で威儀は飾らず、話し好きでその要点を良く抑えていた 「政」
- 張良や季札について論じ、王済に称えられた (政)
- 鍾会が蜀を討伐する時「功績を成すことが難しいのではなく、これを保つことが難しい」と述べ、知言と称えられた 「知?政?」
- 大軍をもって武昌を攻め、長江に臨み、呉の劉朗、孟泰らを降伏させた 「統・武」
- 呉から晋に降伏した者たちを慰撫し、威恵を広めた 「統?政?」
- 孫皓の治世を良しとせず隠遁していた石偉の節義を評価し、推薦した 「政」
- 南郡太守の劉肇は王戎に賄賂を贈ろうとし、糾弾された。王戎はまだそれを受領していなかったので刑は免れたが、名声は損なわれた 「-政」
- 官職にあって特別な能力はなかったが、及第点の事績を修めた
- 政権を握った司馬繇を「大事の後ですから権力を専らにしないように」と諌めた。これに従わなかった司馬繇は失脚した 「知?政?」
- 人事制度『甲午の制』を創設したが、傅咸から「地方官の在職期間が短すぎる上に不正が生じている」と非難された。それでも外戚と親しい仲にある王戎は処罰を免れた 「-政」
- 時の権力者に媚を売り、皇太子廃位の際も口を挟むことはなかった 「-政」
- 司馬冏が支持を失っていることを糾弾し、斉王として私邸に帰るよう勧めたが、退けられた 「政?」
- 賢者の人となりを慕いながら、時局に沿って進退を図ることも、直言するほどの節義もなかった 「-政」
- 人事の官にあっては寒門の士を推挙することも、虚名の持ち主を退けることもなかった 「-政」
- 桃を売る時には、人々が種を手に入れることを恐れ、それを抜いてから売るほどの吝嗇ぶりを非難された 「-政」
- 人物眼を有し、山濤、王衍、荀勗らを評価した。名声高い王敦は嫌っていたが、後に反乱を起こした 「政」
- 従弟の王衍に、孫秀への便宜を図るよう勧めた。後に孫秀が権力を握るに及び、多くの者が粛清されたが、王戎と王衍はそれを免れた 「知?」
- 鍾会に「淡白で要を得ている」と推挙された (政) [裴潜伝]
- 軍法に羊祜に処刑されそうなり、後に羊祜を讒言した 「-政」 [晋書 羊祜伝]
- 荊州刺史の時、羅尚らの文才を評価し、あらゆる仕事を一任した [晋書 羅憲伝]
王濬[士治]
206~285 最高官位:撫軍大将軍、後軍将軍、散騎常侍 『晋書』立伝
- 容貌美しく、古典を広く学んだが、品行を修めなかったため当初は名声はなかった。後年になりその節操を改めた
- 羊祜に厚遇された。羊祜の甥は「王濬は野心が過大で、奢侈を好みます」と注進したが、王濬の才能を買う羊祜はこれを退けた
- 民が苦しんでいた徭役を緩和し、育児を推進した 「政」
- 王濬の善政によって救われた子らが成長すると、その一家は呉討伐に進んで協力した 「政?」
- 広漢太守となると政令を敷き、民に恩恵を施した 「政」
- 益州刺史となると、前任の刺史を殺害した賊を計略でもって鎮圧した 「統・武・知」
- 異民族を厚遇し、多くの者を帰服させた 「政」
- 王濬が中央に召還されると、その才略を買っていた羊祜は、王濬を益州に留めるよう上奏した (知)
- 呉討伐のために盛大な戦艦を築造した 「統」
- 呉の討伐を上奏した 「知」
- 丹楊を攻め、盛紀を捕虜にした 「統・武」
- 呉は長江に鎖を設置して船の侵入を防いでいたが、事前にその情報を得ていた王濬は筏を流してそれを排除した 「知」
- 西陵を攻め、留憲、成據、虞忠を捕虜にした 「統・武」
- 荊門城、夷道城の二城を落とし、陸晏を捕虜にした 「統・武」
- 楽郷を攻めて陸景を捕らえ、施洪を降伏させた 「統・武」
- 呉を降伏させると国庫を封印し、兵は略奪を働くことはなかった 「統」
- 呉討伐の功を誇り、王渾らから圧力をかけられたことに憤り、司馬炎に謁見する度に自らの功を訴えた。高官に昇ると奢侈に耽った 「-政」
王祥[休徴]
185~269 最高官位:太保 『晋書』立伝
- 継母に嫌われたが親孝行に努めた 「政」
- 徐州には盗賊が蔓延っていたが、兵を率いてそれを撃ち破った 「統・武」
- 徐州の政治改革を行い、民に善政を歌われた 「政」
- 曹髦に帝のあり方や、君臣の関係について講義した 「政」
- 老齢になり参内を控えても、司馬炎から政治の得失について諮問された 「政」
- 王戎は王祥について「言葉が巧みとは思われていなかったが、話してみると非常に理に適っていた。徳が言葉を覆い隠していたのだ」と語った (政)
- 徐州刺史の呂虔に民政の一切を任せられた 「政」 [呂虔伝]
- 誠実さと純粋さによって尊敬を集めた 「政」
王沈[処道]
?~266 最高官位:驃騎将軍、録尚書事、散騎常侍、城外諸軍事 『晋書』立伝
- 叔父の王昶に父のように仕え、その寡婦にも孝行を尽くし、称えられた 「政」
- 書を好み、文を綴るのを得意とした 「政」
- 荀顗、阮籍と共に『魏書』を編纂したが、その内容は時勢に配慮したもので、陳寿の著作には劣った 「-政?」
- 裴秀らと共に曹髦に招かれ、幾度も議論や著述を行った 「政」
- 曹髦に司馬昭襲撃の計画を明かされると、それを司馬昭に告白し、不忠の非難を浴びた 「-政?」
- 豫州に着任すると直言を求めたが、安易に報酬を出せば佞言が増えるだけという配下の戒めに従い、命令の布告は取りやめた
- 賈逵が豫州刺史だった時以来の法制を調べ、その中で良いものに従い、善政を追求した 「政」
- 学問を推奨し、教化を行き渡らせた 「政」
- 蜀制圧後、呉がそこへ攻め入ろうとして発生した混乱を鎮めた 「統」
- 才能と名声に溢れ、賈充や裴秀らは建国の事業について、全て王沈に相談した 「政」
- 羊祜とは異なり、曹爽の招聘に応じた。後に曹爽が失脚するに及び、王沈は羊祜の先見の明を称えた 「-知」 [晋書 羊祜伝]
王淩[彦雲]
172~251 最高官位:太尉 『三国志』立伝
- 発干県長、次いで中山太守となり、各任地で治績を挙げた 「政」
- 張遼らと共に呉を征伐。風で流された呂範らの船が着岸するとこれを迎撃し、戦功を挙げた 「統・武」
- 青州刺史に就任すると行政を行き渡らせ、善を賞して悪を罰し、綱紀を引き締め、住民から称えられた 「政」
- 曹休に従って呉を征伐した時は敗戦を喫したが、王淩が力戦して包囲を破ったため、曹休は難を逃れた 「統・武」
- 揚州刺史、豫州刺史を歴任し、どちらの州でも軍民の称賛を受けた 「政」
- 豫州刺史に着任すると、過去の賢人の子孫を称賛し、まだ見ぬ在野の士を探し求めた 「政」
- 条令を設け、その意義は大きなものがあった 「政」
- 親交のあった兗州刺史の司馬朗、豫州刺史の賈逵の後任となり、彼らの業績を継いだ 「政」
- 全琮を芍陂で迎撃。堤防を争い連日力戦した後、これを撃退した 「統・武」(※)
- 子の王広の諫言も退け、曹彪を擁立してクーデターを企てたが、司馬懿に密告され逮捕、自害を遂げた 「-知」
- 蔣済は「王淩は文武を兼ね備え、古今無双の存在だが、息子たちの志と力は父に勝るものがある」と評した
- 兵士の蔡方らが反乱すると、任福らと協力しこれを討伐した 「統・武」 [文帝紀]
- 呉の孫布の降伏に際し、満寵の諫言を退けて迎えの兵を出したが、降伏は偽りで襲撃を受け、損害を出した 「-知」 [満寵伝]
- 若年にして王昶と共に名を知られた (「政」) [王昶伝]
- 青州刺史となると王基を別駕とし、その補佐を得て、治績を挙げた 「政」 [王基伝]
- 芍陂の戦いで勝利は収めたが、張休、顧承の奮戦は打ち崩せず、全緒、全端らの攻撃を受け退却した [顧雍伝](※)
応瑒[徳璉]
?~217 最高官位:五官中郎将文学 『三国志』付伝
- 文学を愛好する曹丕から親愛を受けた (政)
- 曹丕は著書の中で、現代の文学者の7人(建安七子)として名を挙げたが「調和は取れているが力強さに欠く」と欠点も指摘した。呉質への手紙の中では「常に優れた文才を発揮して著述の意志を抱き、その才と学は書を著すに足るものだったが、立派な志は遂げられなかった」と記し、その死を悼んだ (政)
王朗[景興]
?~228 最高官位:司徒 『三国志』立伝
- 経書に通じていることから、郎中に任じられた 「政」
- 陶謙に、朝廷に使者を派遣するよう進言した 「政」
- 会稽を保持しようと孫策と戦い、敗れた 「-統・-武」
- 儒学の教養ある正しい人間であることから、孫策に殺されなかった 「政?」
- 会稽太守に就任すると、始皇帝の祭祀を取り除き、郡民を慈しんだ 「政」
- 大理に就任すると寛容に努め、罪に疑義があれば軽い方に従い、裁きの見事さを称えられた 「政」
- 曹操の排除を図った劉陽の遺子を擁護した 「政?」
- 曹操が節約しないことを咎めた 「政」
- 民を育み、刑を減らすよう上奏した 「政」
- 曹丕の狩猟を咎めた 「政」
- 節約削減について上奏した 「政」
- 二人の上官を助けた張登の道義を顕彰するよう上奏した 「政」
- 呉と協力して蜀を攻めることに反対した 「知」
- 独行の君子として楊彪を推薦し、自分の地位を譲ろうとした 「政」
- 孫登を参内させない孫権を征伐することに反対した。軍は進発したが、結局長江を前に引き返した 「知」
- 曹叡の宮殿造営を諫めた 「政」
- 曹叡が子宝に恵まれないことを憂い、また皇子を過保護に育てないよう進言した 「政」
- 『易』『春秋』『孝経』『周官』の注釈を著した 「政」
- 高い才能と広い学識を持ち、性格は厳格で礼儀正しく、謙虚で慎ましかった。贈り物を受け取らず、財物を施して貧窮者を救った 「政」
- 肉刑の復活に反対した 「政」 [鍾繇伝]
- 張昭や趙昱と並んで名声を馳せた (政) [張昭伝]
- 陳琳は張紘への手紙で、王朗の文章を称えた (政) [張紘伝]
温恢[曼基]
?~? 最高官位:揚州刺史 『三国志』立伝
- 家は富裕だったが、「富なんか持ってもどうしようもない」と財産を一族の者に分け与えた。郷里はそれを立派な行為と称えた 「政」
- 県令や国相を歴任し、全ての任地で評判を取った 「政」
- 揚州刺史に就任すると、曹操は張遼らに「揚州の刺史は軍事に通達している。一緒に相談して行動せよ」と述べた (知)
- 曹仁が樊城で危機に陥ることを予測した 「知」
- 裴潜が召し寄せられ、ゆっくり来るように言いつけられた際、近日中に早く来るよう急き立てられると予測し、急いで向かうよう勧めた 「知」