羅憲[令則]
?~270 最高官位:陵江将軍、武陵太守 『晋書』立伝
- 13歳にして文才に優れ、早くから名を知られた 「政」
- 譙周に師事し、同門の人々からは、孔子の弟子の子貢に準えられた (政)
- 性格は誠実にして厳格、士に対しては丁重に接し、財を軽んじ施しを好んだ 「政」
- 使者として派遣された呉の人々にも称えられた (政)
- 権力を握った宦官の黄皓に追随せず、左遷された 「政?」
- 蜀が降伏すると混乱が生じたが、乱れ騒ぐ者を一人斬ってそれを沈めた 「統」
- 蜀降伏後に呉軍が迫ると、武具を修繕し、城郭を整え、節義を示し兵を激励した 「統」
- 呉の歩協を破った 「統・武」
- 長期に渡って城を守り、陸抗の攻撃を防いだ 「統・武」
- 蜀の常忌、杜軫らを推挙した。推挙した人物は皆良才で、司馬炎によって登用された 「政」
- 呉の巫城を襲撃、奪取した 「統・武」 [霍峻伝]
- 呉討伐の計策を上奏した 「知」
劉虞[伯安]
?~193 最高官位:大司馬、幽州牧 『後漢書』立伝
- 幽州刺史に就任すると、異民族はその徳性に感化されて朝貢し、周辺を荒らすこともなく、人民は喜んだ 「政」
- 甘陵国相に就任すると、荒廃の傷跡深い民を慰撫し、節倹を旨に指導した 「政」
- 幽州牧に就任すると薊の屯兵を解散し、恩信を広げることに務め、反乱した烏丸の峭王らに改心を促した。敵将の張挙と張純は逃げ、配下は皆降伏した 「知・政」
- 寛政を心掛けて農業を奨励し、上谷で胡人と貿易を行い、漁陽で塩と鉄を精製して利益を得た 「政」
- 黄巾の難を避け、青州、徐州の人々百万余人が幽州に避難してきたが、劉虞はその全てを受け入れて労わり、仕事を設けた 「政」
- 性質は節約家で、遠近の奢侈な豪族の心も改めさせた 「政」
- 仁愛を旨に政を行い、民の利益を第一としたため、公孫瓚と対立した 「政」
- 公孫瓚の諌言を退け、袁術に留められている劉和の下に数千の騎兵を派遣した 「-知」
- 程緒の諌言を退け、見せしめに処刑して公孫瓚を攻撃した 「-知」
- 州の従事の公孫紀は、劉虞の襲撃を公孫瓚に密告した 「-知?」
- 劉虞の兵は戦慣れしていなかった 「-統・-武」
- 住民の家屋を守るため放火を禁じたが、逆に公孫瓚に火を放たれ、そこを突撃されて敗走した 「-統・-武」
- 厚く恩恵を施し人心を得ていた 「政」
- 徳が高く人望があり、韓馥と袁紹は、劉虞を皇帝に擁立しようとした 「政」 [袁術伝]
- 病気になって官を辞し、帰郷している時も、人々は裁判沙汰が起こると劉虞に判断を仰いだ。劉虞の筋道に従った裁定に人々は服従した 「政」 [公孫瓚伝]
- 皇族の内でも特に礼儀を弁えていた 「政」
- 博平県令に就任すると、正しく公平な統治を行った。領内に盗賊はいなくなり、災害も発生しなくなった 「政」
- 袁紹と韓馥の擁立を退けると、職務に忠実に励み、貢物を奉って、ますます深く身を慎んだ 「政」
- 田疇の「公孫瓚を早く始末するように」という進言を退けた [田疇伝]
- 天下に清廉と評判されていた 「政」 [劉焉伝]
劉寔[子真]
220~310 最高官位:太傅 『晋書』立伝
- 学問を好み、書物を暗誦し、広く古今のことに通じた。身の清廉潔白を保ち、行いには瑕疵がなかった 「政」
- 鍾会と鄧艾が蜀へ侵攻する時、その平定には成功するが、2人が帰還できないことを予測した 「知」
- 世間では清廉、謙遜の道が失われていることから『崇譲論』を著し、その矯正や官吏選抜の改革を図った 「政」
- 弟の劉智には反対されたが断りきれず、後妻として華氏を娶った。華氏の一族は貪欲で、後に子の劉夏も賄賂を受け取り、その罪に劉寔も連座した
- 故郷の人から、劉寔自身のように子を正せないのかと詰問されると「私の行いは、私自身の見聞に基づくもので、父祖から習ったものではない。どうして教誨によって得られるものであろうか」と答えた。世の人々は劉寔の言を妥当だと考えた
- 官位や名望が高みに及んでも常に質素倹約を旨とし、俸禄は親族や旧友に分け与えた。世間では礼教が衰退していく中で、己の行いでもってそれを正そうとした 「政」
- 年少時から老年に至るまで篤学を貫き、職務中であっても書巻から手を離さなかった 「政」
- 春秋三伝に精通し、春秋公羊伝については批判も展開した。また『春秋條例』20巻を著した 「政」
- 儒学において名声を馳せ、博学で弁は立ったが、玄学的なことを論ずるのは不得手で、裴徽や何晏には劣った [管輅伝]
劉巴[子初]
?~222 最高官位:尚書令 『三国志』立伝
- 若年から名声があり、推挙されても出仕しなかった (政)
- 清廉な生き方に徹し、財産を増やそうとはしなかった 「政?」
- 劉備が帝位に即く時に必要な文書を全て作成した 「政」
- 諸葛亮らと共に蜀の法律『蜀科』を制定した 「政」 [伊籍伝]
以下『零陵先賢伝』
- 劉巴暗殺を目論んだ劉表が、彼を騙すために人を派遣したが、劉巴が騙されることはなかった 「知?」
- 益州に劉備を迎え入れようとする劉璋を諌めた 「知」
- 劉備は「子初の才智は卓越している。私なら彼を用いることができるが、私のような者でなければ難しいだろう」と評した (知?政?)
- 諸葛亮は「帷幕の中で策を運ぶことに対して私は子初に遠く及ばない」と評した (知)
- 益州の平定後、兵士たちが宝物を取り合い、軍用品が不足した。劉巴が貨幣の鋳造と、官営の市場の設置を進言し、劉備がそれに従うと、数ヶ月の内に倉は宝物で満たされた 「政」
劉表[景升]
?~208 最高官位:鎮南将軍、荊州牧 『三国志』立伝
- 若い頃から有名だった 「政?」
- 荊州に侵攻して戦死した張済の死を悼んだ。張済の軍兵はこれを聞き、喜んで劉表に服従した 「統」
- 長沙の張懌を討伐した 「統・武」
- 蘇代らが反抗した際、カイ越とカイ良の進言の内で前者を選び、蘇代らを招き寄せて処刑した 「知」
- 学校を開設し、広く儒者を探し求めた 「政」
- 曹操を称賛した韓嵩を監禁した 「-政?」
- 曹操が遼東に遠征した際、許を襲撃をすべしとした劉備の進言を退け、後に後悔した 「-知」
- 曹操と同盟すべしとした王儁の進言を退け、袁紹と結んだ 「-知」 [武帝紀]
- 袁尚と争う袁譚を諌めた 「政」 [袁紹伝]
- 賈詡に「平和な時代なら三公になれる人物だが、事態の変化を見抜けず、猜疑心が強くて決断力がない」と評された (-知・政) [賈ク伝]
- 毛玠に「将来を見通す思慮を持たず、基礎を固めていない」と評された (-知) [毛カイ伝]
- 率直な発言をした劉望之を処刑し、荊州の士人を恐れさせた 「-政」 [劉ヨク伝]
- 和洽に「遠大な志はないが、人を愛し士を好む」と評された (政) [和洽伝]
- 西鄂で杜襲を破った 「統・武」 [杜襲伝]
- 天下に清廉と評判されていた 「政」 [劉焉伝]
- 諸葛亮は「毎年恩赦を行っていた」と話した 「-政」 [後主伝]
- 甘寧に「遠い先への配慮がない」と評された (-知) [甘寧伝]
劉馥[元穎]
?~208 最高官位:揚州刺史 『三国志』立伝
- 袁術の将軍だった戚寄と秦翊を説き伏せ、曹操のもとへ鞍替えさせた 「政」
- 雷緒らを手なずけ彼らを安定させたので、献上品が相次いで奉られた 「政」
- 合肥に赴いて数年で恩恵教化を行き渡らせ、人民はその政治を喜び、身を寄せる流民は五桁の数に上った 「政」
- 学生を集めて学校を建て、屯田を拡大し、堤防を築いたり修理したりして稲田を灌漑し、貯蓄を作った 「政」
- 城壁や土塁を高く築き、草むしろ数千万枚を編み、魚の油数千石を貯蔵し、戦争の備えとした 「政」
劉放[子棄]
?~250 最高官位:驃騎将軍、中書監 『三国志』立伝
- 王松のもとに身を寄せていた際、曹操に服属するよう進言した 「知」
- 王松のために、流麗な文章で曹操への返書をしたためた 「政」
- 文書、布令文を書くことに優れ、曹操らが詔勅を下して降伏を呼びかけたり諭したりする時には、その多くを作成した 「政」
- 孫権の文書を改変し、孫権が魏になびこうとしているかのような文章を作って、諸葛亮に疑心を抱かせた 「知」
- 遼東平定の計画に参加した 「知」
- 曹叡が曹宇らに後事を託そうとしたことを非難し、曹爽と司馬懿に託すよう主張した
- 機密の事柄を決定し、関わらない政治問題はなかった 「政」
- 才能、策謀の点で孫資より勝っていたが、品性の点では及ばなかった 「知・-政」
- 主上の気持ちに沿って従順であった上に、是非の判断をはっきり述べたことは一度もなかった 「-政」
- 辛毗を抑えて王思を助けたため、世間から批判を受けた 「-政」
- 臣下たちの諫言を利用してその正しい主張を側面から援助したり、密かに事柄の長所短所を説明したりすることもあった 「政」
劉曄[子揚]
?~? 最高官位:大鴻臚 『三国志』立伝
- 許劭に「君主を補佐する才能がある」と評された (政)
- 鄭宝を斬り、その配下に利害を説いて軍勢を掌握した 「全」
- 陳策が要害に立てこもった際、恩賞を掲げて降伏を呼びかけてから大軍を向かわせるよう進言した 「知」
- むやみに座談をさせず、重要なことは一人ずつ会見して語らせるべきと進言した 「政」
- 張魯征討の際、退却しようとした曹操を諌めた 「知」
- 漢中平定後、そのまま蜀の劉備も攻撃するよう進言したが、曹操は従わなかった 「知?」
- 魏諷と孟達の謀反を予測した 「知」
- 関羽が呉に討たれた後、劉備がその報復のために呉を攻撃すると予測した 「知」
- 呉が藩国と称してきた際、蜀に同調して呉を襲撃するよう進言したが、曹丕は従わなかった 「知」
- 夷陵の戦い終結後、呉を討伐しようとした曹丕を諌めた。曹丕は従わず親征したが、劉曄の予測どおり孫権が出てくることもなく、曹丕は軍を返した 「知」
- 曹騰以前にまで追諡しようとした曹叡を諌めた 「政」
- 公孫淵の反乱を予測した 「知」
- 曹丕の問いに「狩猟は音楽以上」と答え、鮑勛に「媚びへつらって不忠」と批判された 「-政」 [鮑勛伝]
- 陳矯を「権力を我が物にしている」と讒言した 「-政?」 [陳矯伝]
- 楊阜を「宰相の節義を持っている」と評した 「知」 [楊阜伝]
呂布[奉先]
?~198 最高官位:左将軍、徐州刺史 『三国志』立伝
- 勇猛さを認められ丁原に仕えた 「武」
- 弓術と馬術に優れ、抜群の腕力を有していた 「武」
- 董卓の戟をかわした 「武」
- 涼州の人間を抑圧した。抑圧された人々は李カクらの元に結集し、呂布は敗走した 「-全」
- 郭汜と一騎打ちを行い矛を突き刺した。郭汜は騎兵によって助けられた 「武?」
- 赤兎馬に乗り敵陣に突進して、張燕を破った 「統・武」
- 将兵が略奪を行い、袁紹に疎まれた 「-統」
- 袁紹が派遣した刺客の気を逸らすために音楽を演奏させ、刺客が眠ると逃走した 「知」
- 劉備が袁術を攻撃している間に下ヒを襲撃し、張飛を破った 「統・武」
- 戟に一発で矢を射当てた 「武」
- 陳珪、陳登親子が曹操に内通していることに気づかなかった 「-知」
- 陳珪の計略を採用し、手紙を送って韓暹、楊奉を味方に引き入れた。共に張勳を破り、通過した地域で略奪を行った 「全」
- 手紙を送り蕭建を服従させた 「政」
- 高順の諌言を退け、臧覇を攻撃したが勝利できなかった 「-統・-武・-知」
- 下ヒで曹操と戦ったが敗走し、成廉を捕らえられた 「-統・-武」
- 身内の者を統制できず、配下の将が疑心暗鬼になり、敗れることが多かった 「-統」
- 彭城で曹操を迎撃すべしとした陳宮の進言を退けた 「-知」
- 酒を醸造した侯成に激怒し、降伏を招いた 「-統・-知」
- 鄄城を攻撃したが勝利できなかった 「-統・-武」 [武帝紀]
- 騎兵によって曹操の青州兵を崩した 「統・武」
- 乗氏で李進に敗れた 「-統・-武」
- 定陶で曹操に敗れた 「-統・-武」
- 曹操に攻撃された薛蘭を救援したが、敗れた 「-統・-武」
- 曹操の伏兵に奇襲を受け敗れた 「-統・-武・-知」
- 夏侯惇に降伏すると見せかけて攻撃し、捕らえた 「統・武・知」 [夏侯惇伝]
- 小沛で劉備を破った 「統・武」 [先主伝]
呂蒙[子明]
178~200 最高官位:虎威将軍・南郡太守 『三国志』立伝
- 少数の部隊の併合されることになった時、呂蒙は配下の兵に衣服などを支給して士気を高めた。良く訓練された兵を見た孫権は、呂蒙の配下を増員した 「統?・知?」
- 孫権に従って丹陽の討伐に加わり、至るところで戦功を立てた 「統・武」
- 先鋒を指揮し、黄祖軍の水軍指揮官である陳就の首級を挙げた 「統・武」
- 曹操を烏林で破り、曹仁を南郡で包囲した 「統・武」
- 益州から襲粛が兵を率いて帰順してくると、その兵を呂蒙の配下に回す意見もあったが、呂蒙はこれを辞退し襲粛を重用するよう進言した 「政」
- 夷陵で甘寧が包囲された時、諸将は救援に赴くのは無理と主張したが、呂蒙は凌統に後を任せ、急ぎ甘寧の救援に向かうことを主張した 「知」
- 軍が夷陵に着くと、その日の内に甘寧を包囲する敵軍と戦い、半数以上を殺した 「統・武」
- 敵の逃走経路に障害物を設置し、馬で逃げられないようにして放棄させ、その馬を奪取した 「知」
- 甘寧を救助したことで意気上がった自軍は、南郡から曹仁を撃退することに成功した 「統・武」
- 周瑜の後任として陸口に赴任する魯粛に対し、関羽への警戒を促し、五つの策略を献言した。魯粛からは「貴方の才略がこれほどまでとは知らずにいた」と称えられた 「知」
- 孫権の勧めを受けて学問に身を入れ、読んだ書物の量は元からの儒者でも太刀打ちできぬほどになった。孫権は学問に励んだ呂蒙と蔣欽を「二人揃って国を代表するような人物」と称えた 「政」
- 呂蒙と駐屯地の近い軍の指揮官たちが死ぬと、孫権は呂蒙の軍と併呑しようとしたが、呂蒙は早逝した指揮官の栄誉を尊んでそれを辞退し、彼らの遺子に教育係をつけてやった 「政」
- 略奪を働いていた謝奇の軍に襲撃をかけると、以後略奪は治まり、彼の配下たちは帰順してきた 「統・武」
- 濡須口の戦いに従軍し、堡塁を築いて曹操の進軍を防ぐなど、複数の優れた計略を進言した 「知」
- 曹操が皖に本営を置き、盛んに水田を開墾すると、これを早期に除き去るよう進言した 「知」
- 皖城攻略に当たり、諸将は攻城の道具を揃えることを主張したが、呂蒙はそれに時間をかければかえって自軍が不利になると計算し、強硬策を進言した 「知」
- 甘寧を先鋒に任じ、呂蒙はその後ろで太鼓とばちを手にし、後陣を指揮した。士卒たちは勇躍して我先に城壁を乗り越え、瞬く間に皖城を攻略した 「統・武」
- 廬陵で不服住民が蜂起すると他の部将では鎮圧できなかったが、呂蒙はすぐにその首謀者を捕らえ、処刑した 「統・武」
- 鄧玄之に零陵太守の郝普を説得させ、その城を奪取した 「知」
- 合肥の戦いで、命を賭して張遼から孫権を守った 「武」
- 曹操が再び濡須へ進軍してくると、呂蒙は先に築いた堡塁に拠り、その上に強弩を大量に配置してこれを防いだ 「統・武」
- 孫権と劉備とは友好関係にあったが、呂蒙はこれを当てにせず、襄陽など荊州を占拠する関羽を排除して、地力で曹操に対抗することを進言した 「知」
- 表面上は関羽を相手に低姿勢を取り、友好関係を固めた 「政」
- 関羽が樊城攻略に向かうと、呂蒙は病気と偽って建業に帰還した。その思惑通りに関羽は警戒を解き、後方を守る兵を次々と樊城攻略に動員した 「知」
- 関羽の撃破に向かい、まず民衆を徴用して商人の振りをしつつ、その船に兵を潜ませて尋陽に向かい、油断させている内に関羽配下の守備兵を捕縛した 「知」
- 見張りの兵を捕縛しつつ南郡まで軍を進め、その留守を守る糜芳と士仁を降伏させた 「統?」
- 南郡を占拠すると、関羽軍将兵の家族たちを軒並み捕らえたが彼らに恩愛を施し、自軍の将兵には一切の略奪を禁じた。ある兵が自軍の鎧の覆いのために民家の笠を使うと、呂蒙は禁令違反として涙ながらに彼を処刑した。全軍は震え上がり、以後禁令を犯す者はいなかった 「統」
- 関羽が使者を送ってくると呂蒙はそれを厚遇して返した。関羽配下の将兵はその家族が呂蒙によって厚遇されていることを知り、敵愾心を削がれた 「知?・政?」
- 関羽が逃走すると、朱然と潘璋に命じてその逃げ道を塞がせ、関羽父子を捕らえた 「統」
- 若い頃には学問をしたことがなく、重要な事柄について上陳する時には、いつも口述筆記で文書を作らせた
- 私兵のことで蔡遺から讒言をされたことがあったが、呂蒙はそのことを根に持たず、かえって蔡遺を推挙した 「政」
- 甘寧はたびたび孫権の意に背くことがあったが、呂蒙は「甘寧のような勇猛な将はなかなか見つかりません」と擁護し続けた 「政」
- 孫権の評。「若い頃は果敢で大胆というだけの人柄だったが、長じてからは学問によって自らの視野を広げ、飛び抜けて優れた計略を立てて、周瑜に次ぐ人物となった。計略の壮大さと鋭敏さで周瑜に一歩劣ったに過ぎない。積極的に関羽を捕えようと計った点では魯粛に勝っていた」 (武・知)
- 孫権が呂蒙と孫皎を左右の指揮官に据えようとした時、周瑜と程普の事例を引いて両者を並立させることに反対した [孫静伝]
- 甘寧を推挙した 「政」 [甘寧伝]
- 自身の後釜として朱然を推挙した 「政」 [朱然伝]
- 病のため陸口を離れたが、後任として陸遜を推挙した 「政」 [陸遜伝]
梁習[子虞]
?~230 最高官位:大司農 『三国志』立伝
- 匈奴の指導者を礼を尽くして召し出し、推挙して幕府に出頭させた 「政」
- 指導者がいなくなった匈奴から成人男子を徴発して義勇兵とし、またその家族をギョウに移住させた 「統・政」
- 命令に従わない匈奴を討伐した。斬った首の数は四桁、降伏者の数は五桁に上った 「統・武」
- 匈奴を服従させたことで国境地帯は静まり、人民は野に満ち、農業蚕業に励み、命令禁令は行き渡った 「政」
- 大きな木材を取り寄せてギョウの宮殿造営に提供した 「政」
- 街道の道筋に豆と粟を植えて、人と牛の使用に支給するよう上奏した 「政」
- 暮らしは至って貧乏で、地域の高価な産物を所有することはなかった 「政」
- 鮮卑の育延と会合中、蛮人が市場を荒らしたため、育延を咎めて斬った。以降、乱暴を働く蛮人はいなくなった 「武・政」
- 烏丸王の魯昔が逃走した際、鮮卑人を募って追跡させ、彼を射殺した 「知」
- 王思が政治についての意見書を具申すると、曹操は激怒して重罪に処そうとした。王思が外出していたため代わって出頭し、言い逃れはしなかった
- 鮮卑の軻比能を討伐し、散々に打ち破った 「統・武」 [文帝紀]
- 海西、淮浦の住民が反乱を起こした時、徐宣の家に駆けつけて彼を助けた 「政?」 [徐宣伝]
- 州内の名士である常林、楊俊、王凌、王象、荀緯を推薦した。曹操は全員を県長とした 「政」 [常林伝]
涼茂[伯方]
?~? 最高官位:太子太傅 『三国志』立伝
- 学問を好み、議論では常に経典を根拠に価値判断を下した 「政」
- 曹操が遠征中に鄴を襲撃しようとした公孫度(公孫康?)を批判した 「知」
- 魏郡太守、甘陵国相と転任し、行く先々で業績を挙げた 「政」
盧毓[子家]
183~257 最高官位:司空 『三国志』立伝
- 戦死した兄の妻や子を養い、学問と品行によって称えられた (政)
- 逃亡兵とまだ顔も合わせていない妻の連座に反対した。その際に古典を引用し、曹操から高く評価された 「政」
- 曹丕が土地の痩せた譙の地を屯田させたことに反対し、肥沃な梁の地へ移住させるよう進言した 「政」
- 民に利益をもたらすことに腐心し、自身で美田を選んで、そこに民を住まわせた 「政」
- 制定中の刑法に一貫性と公正さをもたらすよう進言した 「政」
- 曹叡の宮殿造営を諫言した高堂隆を擁護した 「政」
- 栄転するに当たり、曹叡に自身で後任を選ぶことを求められた。盧毓は鄭沖、次いで阮武と孫邕を推挙した 「政」
- 名声によって官吏を採用することを否定した曹叡に対し、名声によって人物を見極めることは必要で、また採用した後に勤務を評定することこそが重要と訴えた 「政」
- 司徒が欠員となった時にまず管寧を、次いで韓暨、崔林、常林を推挙した 「政」
- 官吏の選抜に当たってはまず性行を問題とし、その後で才能に触れた。その理念は李豊らを感服させた 「政」
- 曹爽らが逮捕されるとその裁判を担当した 「政」
- 毌丘倹の乱鎮圧のため司馬師が出征すると、その後事を取り仕切った 「政」
- 崔琰から「聡明で道理に通じ、百度叩かれても潰えることはない。公に上る才の持ち主」と評価された (政) [崔琰伝]
- 名声は孫礼と同等だったが、徐邈や韓観には及ばなかった [徐邈伝]
盧植[子幹]
?~192 最高官位:侍中 『後漢書』立伝
- 良く古今の学に通じ、精密な研究を好んで章句にはこだわらなかった 「政」
- 劉備や公孫瓚らに教授した 「政」
- 竇武に、霊帝を擁立したことを咎め、大きな褒賞を辞退することや、能力の高い者を選んで役割に応じて爵位を与えることなどを促す書簡を送った 「政」
- 九江郡で反乱を起こした蛮族を服従させた 「統・武」
- 『尚書章句』『三礼解詁』を著した 「政」
- 太学に石経が立てられた際、その校正に当たることを志願し、また太学の講座について意見を述べた 「政」
- 深く政に通じ、廬江太守になると目立った行動を起こさず、政府の方針を宣布するだけだった 「政」
- 宮中の五経、史書を校正し、『東観漢記』の編纂に携わった 「政」
- 女色に溺れ讒言を信じる霊帝を諌めた 「政」
- 連戦して張角軍を破り、一万余人を斬ったり捕らえたりした 「統・武」
- 張角が広宗の砦に篭ると堀を穿ち、雲梯を作り、まさに砦を破ろうというところで、賄賂を拒んで左遷された 「統・武・政」
- 皇甫嵩は「盧植の策謀を参考にして採用したことで功を挙げられた」と述べた (知)
- 董卓を招聘しようとした何進を諌めた 「知」
- 少帝を廃立しようとした董卓に抗議した 「政」
- 蔡邕が朔方郡に左遷された際、その減免を請願した 「政」
- 董卓が盧植を誅殺しようとした際、彭伯は「盧植は海内の大儒、人望の的です」と諌めた (政)