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<p><span style="font-size:larger;"><strong>日本神話の解釈―日本古代史の流れ―</strong></span><span style="font-size:large;"><strong><br /></strong></span><br /><br /><strong>◎縄文人のルーツ・モンゴロイド</strong><br /><br />
 日本人のルーツは何か。人類は、アフリカ大陸を起源として、アジア方面へはモンゴロイドが進出したと言われる。アジアへ進出したモンゴロイドには二種系統あって、北方のシベリア(ブリヤート人)を経由する新モンゴロイドと、南方のインドネシア大陸(スンダランド)を経由する古モンゴロイドに大別することができる。大昔、氷河期には日本列島は大陸とほとんど陸続きであった。現代の考古学的数値によれば、約1万2千年前、北方のブリヤート人(新モンゴロイド)は、北海道を経由して渡来し、森の民である最古の日本人を形成した。南方のスンダランドからは、海の民である古モンゴロイドが黒潮に乗って鹿児島へ渡来してきた。この二種が混じり合うことで、縄文人が形成された。弥生時代が形成される頃、前5世紀辺りから、呉や越といった中国大陸の国々から渡来人がやって来るようになった。その後、前1世紀頃から、朝鮮系渡来人が渡来してくるようになったと思われる。この中国系渡来人は、北九州地方を中心として、邪馬台国を形成したと考える。また、朝鮮系渡来人は、古事記や日本書紀で描かれる天孫族、大和政権の始祖と考える。<br /><br />
 モンゴロイドの根源を遡って行くと、ユダヤ人の聖典、旧約聖書によれば、人類はノアの大洪水の後、セム・ハム・ヤペテの三氏族に枝分かれした。この内、モンゴロイドはセム系に相当するという。また、古代の宗教的風習の起源は、人類最古の文明、メソポタミア文明のシュメール人であり、ここから脈々と受け継がれている。メソポタミア、エジプト、フェニキアの諸宗教は、多くの点で共通性がある。日本列島へ訪れた縄文人も、こうしたオリエント宗教の影響を、長い旅路の中で変形させつつも、継承している。<br /><br />
 フェニキアのカナン宗教では、山の高きところに祭壇を立て、男根を象徴する聖木を立て、女神像を作り、そこで生贄を捧げたり、巫女がいて雨乞いをした。古代人にとって、農作物をもたらしてくれる太陽や雨といった天の恵みは最重要なものであった。彼らは、水の循環そのものに敬意を持っており、季節ごとに儀式を行なった。大雨をもたらす時に天から下る稲妻の姿から、多頭の龍神信仰が生まれた。その龍神が稲妻となって地上に降りてきてもらうために、高いところに祭壇を築き、避雷針でもあるかのような聖木を立て、龍神が好きそうな生贄を祭壇に供えた。こうして、稲妻が祭壇の生贄を焼尽くすと、雨乞いの儀式は達成された。まもなく、大嵐と共に大雨が降り注ぐことになるからだ。その龍神は、今度は雨水となって、山の上流から数々の支流と枝分かれしながら、海へと到達する。その水の流れもまた、多頭の龍神の姿と重なったと思われる。こうして、田畑を潤し、龍神は海の彼方へと去って行き、再び季節が巡ると、山の上から降臨すると信じられたのだろう。<br /><br /><strong><br />
◎高天原近畿説</strong><br /><br />
 高天原はどこにあったのか。邪馬台国は、九州説と近畿説がある。私は、天孫族の支配地域は、はじめ近畿にあったと思う。それとは全く別に、邪馬台国が九州にもあったと思う。天孫族の支配地が九州であるとすると、「古事記」や「日本書記」の物語が、自然な流れとならない。しかし、天孫族の支配地が大和であったとすると、話が実に流れるように理解できるからだ。<br /><br />
 まず、高天原が九州にあったのなら、なぜ、天孫降臨の際に、伊勢の豪族であるサルタヒコが、宮崎にある高千穂まで道案内するだろうか。しかし、それまでアマテラスの一群は大和に拠点を持っていたと考えれば、この点は素直に理解できよう。また、後の神武天皇であるイワレビコが東征し、大阪に入った時、なぜ同じ天孫族のニギハヤヒがそこにいたのか、という点も、高天原が大和にあったと考えれば、簡単に理解できる。ニギハヤヒは元々、大和に住んでおり、天孫降臨したニニギ一族(その子孫がイワレビコ)だけが、九州地方に降り立ったと考えれば済むのである。<br /><br />
 ゆえに、高天原は近畿にあったと考える。もっとも江戸時代までは、高天原は葛城山にあったと見なされていたわけだし、高天原九州説は、近代に入ってから本格的に議論されはじめたものなのである。<br /><br /><strong>◎神々とは特定勢力の象徴体</strong><br /><br />
 次に、古事記や日本書紀を解く時の前提として、たくさん登場する神々を、一人の特定の人物とは考えない。これら神話は比喩であって、特定の実在人物を指すわけではないからだ。もちろん、後代の天皇になるにつれ、特定の人物になっていくが、古代に遡れば遡るほど、特定の人物など知られるはずもない。これら神々は、基本的にいって、ある一勢力を現わす象徴として描かれていると思われる。例えば、アマテラスというのは、特定の女神というよりは、アマテラスで象徴される国、豪族、勢力を現わしているに違いない。こうした神々を一人の実在した人間と考えることで、神話の記述が奇想天外に思えてくる。けれども、それを一つの国家に生じた出来事の例えと考えれば、摩訶不思議な記述も、よく理解できる。<br /><br /><strong>◎天津神の実体</strong><br /><br />
 さて、本題に移りたい。すべての神々の源であるアメノミナカヌシとは何者だろう。アメノミナカヌシは中国の皇帝と考えたい。その後、イザナギ・イザナミといった夫婦が日本列島に降りてくるが、この夫婦神は、国産みを失敗した時、この天津神にアドバイスを受けに行く。つまり、アメノミナカヌシは、中国の皇帝のことであり、日本建国を皇帝の許しを受けて行なったということだろう。古代においては、中国には中華思想というのがあり、中国は世界の中心であり、他の国は、中国に朝貢するという形式で、国家の存在を認められていたのだ。<br /><br /><strong>◎邪馬台国のルーツ</strong><br /><br />
 イザナギ・イザナミの話に移る前に、神話から目を逸らして、考古学的な側面に着目したい。古事記や日本書紀には、邪馬台国のことは直接書かれていない。では、この邪馬台国とはどこなのだろうか。私は、邪馬台国は北九州にあったという一般の説を信用したい。卑弥呼が受けた金印が九州で発見されているからだ。したがって、この地域には中国に認められるほどの強力な国があったはずだ。<br /><br />
 古来より、中国では日本の先祖は呉の太白であると言われてきた。呉とは、春秋戦国時代の一国家である。呉は越と争って敗北した(B.C473)。その後、敗北した呉の一族は九州へと移住したそうだ。(一方、その後、越は楚に敗北し、その越の一族は朝鮮を経由して新潟辺りから上陸したそうだ。だから、新潟辺りは、越前、越中、越後、と呼ばれるのだろうだ)。この呉の末裔が、九州に上陸し、隼人(ハヤト)や熊襲(クマソ)や
狗奴国(クナコク)や奴国(ナコク)を形成し、邪馬台国へと発展していったのかもしれない。彼らは身体に入れ墨をし、高度な製鉄技術を日本にもたらした。<br /><br /><strong>◎二つのアマテラス勢力<br /></strong><br />
 魏志倭人伝に登場する卑弥呼とは、この邪馬台国の支配者かつ巫女として君臨した女王だが、恐らく、彼らは太陽信仰を行なっていたので、アマテラスはこの卑弥呼に相当するという説もあった。しかし、卑弥呼はアマテラスであって、アマテラスではないと私は思う。少なくとも、古事記や日本書紀に登場するアマテラスではない。古事記や日本書紀に登場するアマテラス(天孫族)と、邪馬台国の卑弥呼は、全くルーツを異にするからだ。邪馬台国の卑弥呼は、中国渡来系である。しかし、天孫族は朝鮮渡来系であろう。この中国渡来系氏族と朝鮮渡来系氏族が、どちらが日本を治める正当な権力者であるか、という抗争が、話の根底に流れていると思う。したがって、卑弥呼は原初アマテラスと言えなくもないが、天孫族のアマテラスの方が大神(偉大な神)であって、こちらの方が正当な太陽神である、と古事記は主張していると思う。<br /><br />
 卑弥呼が原初の太陽神(アマテラス)である根拠は、丹生都比売(ニウツヒメ)伝承から伺える。そこでは、呉越戦争で敗北した呉の王族は、北九州へ渡来したが、その際、姉妹のオオヒルメとワカヒルメという女神が渡来したと言われる。姉のオオヒルメは後にアマテラスと受け継がれ、妹のワカヒルメはニウツヒメとして受け継がれたという。ニウツヒメの”丹”という漢字は、朱色の水銀のことであり、古代のタタラ製鉄所を想起させる。邪馬台国には、大規模なタタラ製鉄所があったのだろう。<br /><br />
 これに関連するものとして、秦の始皇帝時代、徐福(ジョフク)という人物は、秦始皇帝の命を受けて、不老不死の薬を手に入れるため、日本に渡来してきた(B.C210)。しかし、徐福は日本に定住し、五穀栽培の技術などをもたらし、王になったという。彼らは秦氏(ハタ)と呼ばれる豪族の末裔とも言われる。徐福一行は、不老不死の薬を手に入れるために、水銀を用いた可能性がある。この水銀採取のために、日本のタタラ製鉄所が多く用いられ、発展したかもしれない。<br /><br />
 よって、朝鮮系のイザナギが渡来してくる前に、すでに日本には、北九州地方一帯に、すでに強大な国(邪馬台国)があったのである。それで、イザナギ族は、北九州に拠点を置くことができず、瀬戸内海を航海して、淡路島に到着し、そこを拠点としながら、近畿地方に国を建てようとしたのだと思う。<br /><br /><strong>◎朝鮮系渡来人と倭人の協力―タタラ製鉄―</strong><br /><br />
 イザナギは、イザナミとペアの夫婦神である。これは、中国のフギとジョカを神話に取り入れたものだが、史実として何を言いたいのかと言えば、これは、朝鮮系の渡来人であるイザナギが、日本の原住民であるイザナミと協力して、国家を建設しようとした、ということだろう。女は、従属する側を指すので、イザナギが主導権をもって、日本の原住民を統治したことを表す。神話からは、イザナギが初め渡来した時には、日本の原住民(イザナミ)が主導的に共同統治を勧めたのだが、それではうまくいかなかった事が伺える。それで、一度、天津神の助言を受けに戻ってから、今度はイザナギ主導で国産みを行なった。これは、中国の皇帝の許可を得た朝鮮系氏族が、日本の原住民を支配することを正当化するための記述と思われる。<br /><br />
 さて、日本の原住民の象徴であるイザナミであるが、彼らは、タタラ製鉄所を営んでいた。イザナギが来る以前から、日本人は、呉や越の末裔や徐福たちによって、タタラ製鉄技術を発達させていたと思われるからだ。しかし、イザナギとイザナミの最初の子がヒルコという未熟児であったように、タタラ製鉄技術は、公害問題や自然環境汚染をもたらした。例えば、鳥取にある鳥取砂丘という砂漠のような砂浜ができた原因は、古代のタタラ製鉄にある。製鉄で用いる砂鉄を採取するために、かんな流しという技術があるが、これは川の上流から砂鉄を含んだ岩石を流し込むと、下流でその岩石が砕けて、大量の土砂と砂鉄とが分離され、砂鉄だけを大量に採取することができる技術である。しかし、かんな流しをすると、大量の木を伐採することになるし、大量の土砂が川の下流に集まり、その土砂を海からの波が浜辺へと打ち寄せるので、鳥取砂丘のような砂地ができたり、川底が低くなって洪水が起きやすくなるという弊害があるのだという。また、水銀などの採取もまだ行なわれていたとすれば、水銀中毒という大変な公害問題をもたらした可能性が高い。現代に起きた水俣病問題が、かつての呉・越の末裔、また徐福が訪れたという熊本県や新潟県で起きたのも、単なる偶然であろうか。</p>

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