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夢煙草 - (2010/07/19 (月) 02:27:06) のソース

「夢煙草」

まだ小学生の時分の話でございました。
世は幼児教育のブームでございましたようで、わたくしもご多分に洩れず進学塾に通わされておりました。
夜は8時9時に帰宅することもざらでございまして、それも冬の夜ともなれば日はとっぷりと暮れてしまい、
幼心にそれは怖い思いをさせられたものでございます。

それでも、その塾が繁華街にあったものですから、
晩ともなればネオンが道々を照らし、その歪な光は、わたくしに安寧を与えてくれました。

その繁華街の一角に、変わった店がございました。
所謂外国人向けのカフェバーだったようで、
オープンカフェの軒下に、見るからに異国の人間が、石床に置かれた金属のホイールから、
これまた金属でできたストローをうまそうにスパスパと吸いあげておりました。
水煙草というやつでございましょう。

その光景を思い返すと、今でもぞっと身の毛がよだちます。
いえ、何も恐ろしい景観ではなかったはずなのです。
ですが、その異質さに、わたくしはぞくぞくするような恐ろしさ…としか言えない心持ちをを感じていたの
でございます。
その光景は恐ろしいものでございましたが……そこから香る匂いは、わたくしを和ませました。
ふんわりと甘い、人口の果物のような、なんとも言えない香りでございました。
わたくしの勉学が進み、阿片なるものの歴史を学んだとき、ああきっと麻薬なるものはこのような匂いが
するのだろう、と漠然と思ったものです。
それこそが、わたしを震え上がらせた水煙草なるものの、香りそのものでございました。

見た目はおそろしく、けれど目をつぶればやさしく甘味な高揚。
畏怖と崇拝とは表裏一体であるなどとは、宗教心理学などで取りざたされておりますが、
なるほど、幼いわたくしはそれに近い心理状態であったのでしょう。

わたくしがおそれおののきながらも、塾の帰り足には、必ずその店の前を通って
…立ち止まることなど恐ろしくて、もちろんできませんでしたが…
そう通っていったのも、そのような心理からだったのでございましょう。

進学塾の甲斐あってか、見事私立学校に進んだわたくしは、自然家から離れる生活となり、
あのおそろしい水煙草からも離れてしまいました。

今になって思い出すのです。
あの雑踏の中に、人に塗れた中に香る……甘やかな、夢のようなおそろしさを。