呂布(りょふ)
一
- 洛陽(らくよう)の余燼(よじん)も、ようやく熄(や)んだ。
- 帝と皇弟の車駕(しゃが)も、かくて無事に宮門へ還幸(かんこう)になった。
- 何太后(かたいごう)は、帝を迎えると、
- 「おお」
- 「と、共に相擁(あいよう)したまま、暫(しばら)くは嗚咽(おえつ)にむせんでいた。
- そして太后はすぐ、
- 「玉璽を――」
- と、帝の御手(みて)にそれを戻そうと求めたが、いつのまにか紛失していた。
- 伝国(でんこく)の玉璽が見えなくなった事は漢室(かんしつ)として大問題である。だがそれだけに、絶対に秘密にしていたが、いつか洩(も)れたと見えて密(ひそ)かに聞く者は、
- 「ああ。又そんな亡兆(ぼうちょう)がありましたか」と、眉(まゆ)をひそめた。
- 董卓(とうたく)はその後、蓮池(れんち)の兵陣を、すぐ城外まで移して来て、自身は毎日、千騎の鉄兵をひきつれて市街王城をわが物顔(ものがお)に横行していた。
- 「寄(よ)るな」
- 「咎(とが)められるな」
- 人民は恟々(きょうきょう)と、道をひらいて避けた。
- その頃、幷州(へいしゅう)の丁原(ていげん)、河内(かだい)の太守王匡(おうきょう)、東郡(とうぐん)の喬瑁(きょうぼう)などと諸将がおくればせに先の詔書(しょうしょ)によって上洛して来たが、董卓軍の有様を見て皆、為(な)すことを知らなかった。
- 後軍(ごぐん)の校尉(こうい)鮑信(ほうしん)は、ある時、袁紹(えんしょう)に向かってそっと囁(ささや)いた。
- 「どうかしなければ不可(いか)んでしょう。あいつらの沓(くつ)は内裏(だいり)も街(まち)も一しょくたに闊歩(かっぽ)しておる」
- 「なんの事だ」
- 「知れさった事でしょう。董卓とその周(まわ)りの連中ですよ」
- 「だまってい給え」
- 「なぜです。私は、安からぬ思いがしてなりませんが」
- 「でも、この頃漸(ようや)く、宮廷も少しお静かになりかけたところだからな」
- 鮑信(ほうしん)は又、同じような憂(うれ)いを、司徒(しと)の王允(おういん)にもらした。けれど司法官たる王允でも、董卓のような大物となるとどうしようもなかった。
- 網を携(たず)さえた漁夫(りょうし)が、鯨(くじら)をながめて嘆(たん)じるように、
- 「ううむ。まったくだ。同感だ。だが、どうしようもないじゃないか」
- 疎髯(そぜん)をつまんで、尖(とが)った顎(あご)を引っ張りながら、そう嘯(うそぶ)くだけだった。
- 「やんぬる哉(かな)――」
- 鮑信は、嫌になって、自分の手勢だけを引(ひ)き具(ぐ)し、泰山(たいざん)の閑地(かんち)へ逃避してしまった。
- 去る者は去り、媚(こ)ぶる者は媚(こ)びて董卓の勢力に従(つ)き、彼の勢いは日増しに旺(さかん)になるばかりだった。
- 董卓の性格は、その軍に、彼の態度に、漸く露骨(ろこつ)にあらわれてきた。
- 「李儒(りじゅ)」
- 「はい」
- 「断行しようと思うがどうだろう。もういいだろう」
- 董卓は、股肱(ここう)の李儒に計(はか)った。それは、かねて彼の腹中にあった画策で、現在の天子を廃し、彼の見こんだ陳留王(ちんりゅうおう)を位に即(つ)けて、宮廷を私(わたくし)しようという大野望であった。
- 李儒は、よろしいでしょうと言った。時機(じき)は今です、早くおやりなさいともつけ加えた。これも彼に劣らぬ暴逆家だ。しかし董卓は気に入った。
- 翌日。温明園(うんめいえん)で大宴会がひらかれた。招(まね)きの主人名はいう迄もなく董卓である。故(ゆえ)に、その威を怖(おそ)れて欠席した者はほとんどなかったと言うてよい。文武の百官はみな集まった。
- 「みなお揃(そろ)いになりました」
- 侍臣から知らせると、董卓は容態をつくろって、轅門(えんもん)の前でゆらりと駒(こま)を下り、宝石を鏤(ちりば)めた剣を佩(は)いて悠々(ゆうゆう)と席へついた。
二
- 美酒玉杯、数巡して、
- 「今日の宴(えん)に列せられた諸公にむかって、予(よ)は一言提議したい」
- 董卓は起(た)って、おもむろにこう発言した。
- 何を言うのかと、一同は静まり返った。董卓はその肥満した体をぐっと反(そ)らすと。
- 「予は思う。天子は天稟(てんんびん)の玉質であらねばならぬ。万民の景仰(けいぎょう)をあつめるに足る御方であらねばならぬ。宗廟(そうびょう)社稷(しゃしょく)を護(まも)りかためて揺るぎなき仁徳(じんとく)を兼ね備えて在(おわ)さねばならぬ。然(しか)るに、不幸にも新帝は薄志惰弱(はくしだじゃく)である。漢室のため、われわれ臣民の常に憂(うれ)うるとことである」
- 大問題だ。
- 聞く者みな色を醒(さ)ました。
- 董卓(とうたく)は、寂(せき)としてしまった百官の頭上を見まわして、左の拳(こぶし)を、剣帯(けんたい)に当てがい、右の手をつよく振った。
- 「ここにおいて、予(よ)はあえて言おう。憂(うる)うるなかれ諸卿(しょきょう)と。幸いにも、皇弟陳留王こそは、学を好み、聡明(そうめい)に在(おわ)し、天質玲瓏(てんしつれいろう)、まことの天子の器(うつわ)といってよい。今や天下多事、よろしくこの際ただ今の天子に代うるに、陳留王をもってし、帝座の廃立(はいりつ)を決行したいと考えるが、如何(いかが)あろうか。異論あるものは立って意見を述べ給え」
- 驚くべき大事を、彼は宣言同様に言い出したのである。広い大宴席に咳声(せき)ひとつ聞こえなかった。気をのまれた形でもあろう。董卓は、俺に反対する者などあるわけもない――と言ったように、自信に充(み)ちた眼で眺(なが)めまわした。
- すると、百官の席のうちから、突(とつ)として誰か立つ音がした。一斉に人々の首は彼のほうを見た。
- 幷州(へいしゅう)の刺史(しし)丁原(ていげん)である。
- 「吾輩(わがはい)は起立した。反対の表示である」
- 董卓はくわっ睨(にら)めて
- 「木像を見ようとは思わない。反対なら反対の意見を吐(は)け」
- 「天子の座は、天子の御意(ぎょい)にあるものである。臣下の私議(しぎ)するものではない」
- 「私議はせん。故におれは公論に糺(ただ)しておるのじゃっ」
- 「先帝の正統なる御嫡子(おんちゃくし)たる今の帝に、なんの瑕瑾(きず)やあらん。咎(とが)めやあらん。こんな所で、帝位の廃立(はいりつ)を議(ぎ)するとは何事だ。おそらく、簒奪(さんだつ)を企(たくら)む者でなくば、そんな暴言は吐けまい」
- 皮肉(ひにく)ると、董卓は、
- 「だまれっ、われに反(そむ)く者は死あるのみだぞ」
- 繍袍(しゅうほう)の袖(そで)をはねて、佩剣(はいけん)の柄(つか)に手をかけた。
- 「なにをする気か」
- 丁原はびくともしなかった。
- それも道理、彼のうしろには、一個の偉丈夫(いじょうぶ)が儼然(けんぜん)と立っていて、
- (丁原に指でもさしてみろ)と言わんばかりに恐ろしい顔していた。
- 爛々(らんらん)たるその眸(ひとみ)、凛々(りんりん)たる威風、見るからに猛豹(もうひょう)の気がある。
- 董卓の股肱(ここう)として、常に秘書のごとく側(そば)へ附いている李儒(りじゅ)は、あわてて主人の袖を引っぱった。
- 「きょうはせっかくの御宴(ぎょえん)です。固くるしい国政向きのことなどは、席を改めて、他日になすっては如何(いかが)です。とかく酒気のあるところでは論議は纏(まと)まりません」
- 「……む、うむ」
- 董卓も、気づいたので、不承不承(ふしょうぶしょう)、剣の柄から手を下げた。しかしどうも、丁原のうしろに立っている男が気になって堪(たま)らなかった。
三
- けれど、董卓の野望は、丁原に反対されたぐらいで、決して萎(しぼ)みはしなかった。
- 大饗宴(だいきょうえん)の席は一時そんなことで白(しら)けわたったが、酒杯の交歓一(ひと)しきりあると、董卓は又起(た)って、
- 「最前、予(よ)の述べたところ、おそらく諸君の意中であり、天下の公論と思うがどうだろう」
- と、重ねて糺(ただ)した。
- すると、席にあった中郎将(ちゅうろうしょう)盧植(ろしょく)が、率直に、彼を意見した。
- 「もうお止(や)めなさい。あまり我意を押しつけようとなさると、天子の廃立に名分をかりて、董公(とうこう)自身が、簒奪(さんだつ)の肚(はら)があるのではないかと人が疑います。昔、殷(いん)の太甲(たいこう)無道(むどう)でありし為(ため)、伊尹(いいん)これを桐宮(とうきゅう)に放(はな)ち、漢(かん)の昌邑(しょうゆう)が王位に登って――」
- なにか、故事(こじ)をひいて、学者らしく諫言(かんげん)しかけると、董卓は、
- 「だまれっ、だまれっ――貴様も血祭りに首を出したいのか」
- と激怒して、周囲の武将を顧(かえり)み、
- 「彼を斬(き)れっ。斬っちまえ。斬らんかっ」と指さし震(ふる)えた。
- けれど、李儒(りじゅ)は、押(お)し止(とど)め、
- 「いけません」と、言った。
- 「盧植は海内(かいだい)の学者です。中郎将としてよりも、大儒(だいじゅ)として名が知られています。それを董卓(とうたく)が殺したと天下へ聞こえることは、貴方(あなた)の不徳になります。御損(ごそん)です」
- 「では、追っ払えっ」
- 董卓は、又つづけざまに怒号した。
- 「官職を引(ひ)っ剝(ぱ)いでだぞ。――盧植を官に置こうと言う者はおれの相手だ」
- もう、誰も止めなかった。
- 盧植は、官を逐(お)われた。この日から先、彼は世を見限って、上谷(じょうこく)の閑野(かんや)にかくれてしまった。
- それは、偖措(さてお)き、饗宴(きょうえん)もこんなふうで、殺伐(さつばつ)な散会となってしまった。帝位廃立の議は、又の日にしてと、百官は逃げ腰に閉会の乾杯を強(し)いて挙げた。
- 司徒(しと)王允(おういん)などは、真(ま)っ先(さき)に孤鼠孤鼠(こそこそ)帰った。董卓はなお、丁原(ていげん)の反対に根をもって、轅門(えんもん)に待ちうけて、彼を斬って捨てんと、剣を按(あん)じていた。
- ところが、
- 最前から轅門の外に、黒馬に踏(ふ)み跨(またが)って、手に方天戟(ほうてんげき)を提(ひっさ)げ、頻(しき)りと帰る客を物色したり、門内を窺(うかが)ったりしている風貌非凡(ふうぼうひぼん)な若者がある。
- ちらと、董卓の眼に止まったので、彼は李儒を呼んで訊(たず)ねた。李は外を覗(のぞ)いて、
- 「あれですよ、最前、丁原のうしろに突っ立っていた男は」
- 「あれか。はてな、身装(みなり)が違うが」
- 「武装して出直して来たんでしょう。怖(おそ)ろしい奴(やつ)です。丁原の養子で、呂布(りょふ)という人間です。五原郡(ごげんぐん)(山西省(さんせいしょう)・北部)の生まれで、字は奉先(ほうせん)、弓馬(きゅうば)の達者(たっしゃ)で天下無双(てんかむそう)と聞こえています。あんな奴に関(かかわ)ったら大事(おおごと)ですよ。避けるに如(し)くはなし。見ぬ振りをしているに限ります」
- 聞いていた董卓は、にわかに恐れを覚え、あわてて園内の一亭へ隠れこんでしまった。
- 重ね重ね彼は呂布のために丁原を討(う)ち損(そん)じたので、呂布の姿を、夢の中まで大きく見た。どうも忘れ得なかった。
- するとその翌日。
- ことも俄(にわか)に、丁原が兵を率いて、董卓の陣を急に襲ってきた。彼は聞くや否や、大いに怒って、たちまち身を鎧(よろ)い、陣頭へ出て見ていると、たしかに昨日(きのう)の呂布、黄金の盔(かぶと)をいただき、百花戦袍(ひゃっかせんぽう)を着、唐猊(からしし)の鎧(よろい)に、獅蛮(しばん)の宝帯(ほうたい)をかけ、方天戟(ほうてんげき)を提(ひっさ)げて、縦横無尽の馬上から斬(き)り捲(ま)くっている有様(ありさま)に――董卓は敵ながら見とれてしまい、又内心ふかく怖(おそ)れおののいた。
最終更新:2018年01月16日 21:42