赤兎馬(せきとば)
一
- その日の戦いは、董卓(とうたく)の大敗に帰してしまった。
- 呂布(りょふ)の勇猛には、それに当たる者もなかった。丁原(ていげん)も、十万に馬を躍(おど)らせて、董卓軍を蹴(け)ちらし、大将董卓のすがたを乱軍の仲に見かけると、
- 「簒逆(さんぎゃく)の賊、これにありしか」と、馳(か)け迫(せま)って、
- 「漢の天下、内官の弊悪(へいあく)に紊(みだ)れ、万民みな塗炭(とたん)の苦しみをうく。然(しか)るに、汝(なんじ)は涼州(りょうしゅう)の一刺史(しし)、国家に一寸の功なく、ただ乱隙(らんげき)を窺(うかが)って、野望を遂(と)げんとし、妄(みだり)に帝位の廃立(はいりつ)を議するなど、身の程知らずな逆賊というべきである。いでその素頭(すこうべ)を刎(は)ねて、巷(ちまた)に梟(か)け、洛陽(らくよう)の民の祭りに供(きょう)せん」
- と討(う)ってかかった。
- 董卓は、一言もなく、敵の優勢に怖(おそ)れ、自身の恥ずる心に怯(ひる)んで、あわてて味方の楯(たて)の内に逃げこんでしまった。
- そんなわけで董卓(とうたく)の軍は、その日、士気の揚(あ)がならないこと夥(おびただ)しく、董卓も腐りきった態(てい)で、遠くから陣を退(ひ)いてしまった。
- 夜――
- 本陣の燈下に、彼は諸将を呼んで嘆息した。
- 「敵の丁原(ていげん)はともかく、養子の呂布(りょふ)のいるうちは勝ち目がない。呂布さえおれの配下にすれば、天下は我が掌(たなごころ)のものだが――」
- すると、諸将のうちから、
- 「将軍。嘆ずるには及びません」と、言った者がある。
- 人々が顧(かえり)みると、虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)の李粛(りしゅく)であった。
- 「李粛か。なんの策がある?」
- 「あります。私に、将軍の愛馬赤兎(せきと)と一嚢(ひとふくろ)の金銀珠玉(しゅぎょく)をお託し下さい」
- 「それをどうするのか」
- 「幸いにも、私は、呂布と同郷の生まれです。彼は勇猛ですが賢才(けんさい)えはありません。以上の二品に、私の持っている三寸不爛(さんずんふらん)の舌をもって、呂布を訪れ、将軍のお望みを、きっとかなえてみせましょう」
- 「ふム。成功するかな?」
- 「まず、おまかせ下さい」
- でもまだ迷っている顔つきで、董卓は、側にいる李儒(りじゅ)の意見を訊(き)いた。
- 「どうしよう。李粛はあのように申すが」
- すると李儒は、
- 「天下を得るために、なんで一匹の馬をお惜(お)しみになるんです」と、言った。
- 「なるほど」
- 董卓は大きく頷(うなず)いて、李粛の献策(けんさく)を容(い)れることにし、秘蔵の名馬赤兎と、一嚢の金銀珠玉とぉ彼に託した。
- 赤兎(せきと)は希代(きだい)の名馬で、一日よく千里を走るといわれ、馬体は真っ赤で、風を衝(つ)いて奔馳(ほんち)する時は、その鬣(たてがみ)が炎の流るるように見え、将軍の赤兎といえば、知らない者はないくらいだった。
- 李粛は、二人の従者にその名馬を曳(ひ)かせ、金銀珠玉を携(たずさ)えて、その翌晩、密(ひそ)かに呂布の陣営を訪問した。
- 呂布は彼を見ると、
- 「やあ、貴公(きこう)か」と、手を打って欣(よろこ)び、「君と予(よ)とは、同郷の友だが、その後お互いに消息も聞かない。いったい今はどうしているのか」と、帳中(ちょうちゅう)へ迎え入れた。
- 李粛も、久闊(きゅうかつ)を叙(じょ)して。
- 「自分は漢朝に仕えて、今では虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)の職を奉じておる。君も、社稷(しゃしょく)を扶(たす)けて大いに国事に尽くしていると聞いて、実は今夜、祝いに来たわけだ」
- と、言った。
二
- その時、呂布はふと耳を欹(そばだ)てて、李粛へ訊(き)いた。
- 「今、陣外に嘶(いなな)いたのは、君の乗馬か。啼(な)き声だけでもわかるが、すばらしい名馬を持っているじゃないか」
- 「いや、外に繫(つな)いであるのは、自分の乗用ではない。足下(そっか)に進上する為に、わざわざ従者に曳かせて来たのだ。気に入るかどうか、見てくれ給(たま)え」と、外へ誘った。
- 呂布は、赤兎馬(せきとば)を一見すると、
- 「これは希代の逸駿(いつしゅん)だ」と驚嘆して
- 「こんな贈り物を受けても、おれは何も酬(むく)いるものがないが」
- と、陣中ながら酒宴を設(もう)けて歓待に努める容子(ようす)は、心の底から欣(よろこ)んでいるふうだった。
- 酒、酣(たけなわ)の頃を計って、
- 「だが呂布君。せっかく、君に贈った馬だが、赤兎馬の事は、足下(そっか)の父がよく知っておるから、必ず君の手から取(と)り上(あ)げてしまうだろう。それが残念だな」
- 李粛(りしゅく)が言うと、
- 「は……。何を言うのか。君はだいぶ酔って来たな」
- 「どうして」
- 「吾輩(わがはい)の父は、もう世を去ってこの世に亡(な)い人じゃないか。なんでおれの馬を奪おう」
- 「いやいや。わしが言うのは率か(そっか)の実父ではない。養父の丁原(ていげん)の事だ」
- 「あ、養父のことか」
- 「思えば、足下ほどな武勇才略を備えながら、墻(かき)の内の羊みたいに飼われているのは、実に惜しいものだ」
- 「けれど、父亡き後、久しく丁原の邸(やしき)に養われて来た身だから、今さら、どうにもならん」
- 「ならん?……そうかなあ」
- 「おれだって、若いし、大いに雄才を伸ばしてみたい気もするが」
- 「そこだ、呂布(りょふ)君。良禽(りょうきん)は木を選んで棲(す)むという。日月(じっげつ)は遷(うつ)りやすし。空(むな)しく青春の時を過ごすのは愚(ぐ)ではないか」
- 「む。む。……では李君。貴公の観(み)るとことでは、今の朝臣の中で、英雄とゆるしてよい人は、いったい誰だと思うか」
- 李粛は一言の下に、
- 「それやあ、董卓(とうたく)将軍さ」と、言った。
- 「賢(けん)を敬(うやま)い、士に篤(あつ)く、寛仁(かんじん)徳望を兼備している英傑といえば董卓を措(お)いては、他に人物はない。必ずや将来大業(たいぎょう)を成(な)す人はまずあの将軍だろうな」
- 「そうかなあ。……やはり」
- 「足下はどう思う」
- 「いや、実はこの呂布も、日頃そう考えているが、なにしろ丁原と仲が悪いし、それに縁もないので――」
- 聞きもあえず李粛は、携(たずさ)えて来た金銀珠玉をそれに取り出して、
- 「これこそ、その董卓公から、貴公(きこう)へ礼物として送られた物だ。実は予(よ)はその使いとして来たわけだ」
- 「えっ。これを」
- 「赤兎馬(せきとば)も御自身の愛馬で、一城とも取り換えられぬ――と言っておられるほど秘蔵していた馬だが、御辺(ごへん)の武勇を慕(した)って、どうか上げてくれというおお言葉じゃ」
- 「ああ。それ迄(まで)この呂布を愛し給うか。何をもって、俺は知己の篤(あつ)い志に酬(むく)いたらいいのか」
- 「いや、それは易(やす)い事だ。耳を貸し給え」と、李粛は摺(す)り寄(よ)った。
- 陣帳(じんちょう)風暗く、夜は更(ふ)けかけていた。兵はみな睡(ねむ)りに落ち、時折、馴(な)れぬ厩(うまや)に繫(つな)がれた赤兎馬が、静寂(しじま)を破って、蹄(ひづめ)の音をさせているだけだった。
三
- 「……よしっ」
- 呂布は大きく頷(うなず)いた。
- 何事かを、その耳へ囁(ささや)いた李粛は、彼の怪しくかがやく眼を見つめながら、側(そば)を離れて、
- 「善は急げという。御決心がついたならすぐやり給え。予(よ)は、ここで酒を酌(く)んで、吉左右(きっそう)を待っていよう」
- と、煽動(せんどう)した。
- 呂布は、直ちに、出て行った。
- そして営の中軍(ちゅうぐん)に入って、丁原の幕中を窺(うかが)った。
- 丁原は、燈火(ともしび)をかかげて、書物を見ていたが、何者か入って来た様子に、
- 「誰だっ」と、振り向いた。
- 血相(けっそう)の変わった呂布が剣を抜いて突っ立っているので、愕然(がくぜん)と立ち、
- 「呂布ではないか。何事だ、その血相は」
- 「何事でもない。大丈夫たるもの何で汝(なんじ)が如き凡爺(ぼんや)の子となって朽(く)ちん」
- 「ばッ、ばかっ。もう一度言ってみい」
- 「何を」
- 呂布は、躍(おど)りかかるや否(いな)や、一刀の下に、丁原を斬り伏せ、その首を落とした。
- 黒血は燈火(ともしび)を消し、夜は惨(さん)として暗澹(あんたん)であった。
- 呂布(りょふ)は、狂える如く、中軍(ちゅうぐん)に立って、
- 「丁原(ていげん)を斬った。丁原は不仁(ふじん)なる故に、是(これ)を斬った。志ある者はわれに従(つ)け。不服な者は、我を去れっ」
- と、大呼(たいこ)して馳(か)けた。
- 中軍は騒ぎ立った。去る者、従う者、混乱を極めたが、半ばは、ぜひもなく呂布について止(とど)まった。
- この騒ぎが揚(あ)がると、
- 「大事成(な)れり」と、李粛(りしゅく)は手を打っていた。
- やがて直ちに、呂布を伴い、董卓(とうたく)の陣へ帰って来て、事の次第を報告すると、
- 「でかしたり李粛」と、董卓のよろこびもまた、非常なものであった。
- 翌日、特に、呂布の為に盛宴をひらいて、董卓自身が出迎えるというほどの歓待ぶりであった。
- 呂布は、贈られたところの赤兎馬に跨(またあ)がって来たが、鞍(くら)を下りて、
- 「士はおのれを知る者の為に死すと言います。今、暗きを捨てて明らかなるに仕(つか)う日に会い、こんな欣(うれ)しい事はありません」と、拝跪(はいき)していった。
- 董卓もまた、
- 「今、大業の途に、足下のごとき俊猛(しゅんもう)を我が軍に迎えて、旱苗(かんびょう)に雨を見るような気がする」
- と、手を打って、酒宴の席へ迎え入れた。
- 呂布は、有頂天(うちょうてん)になった。
- しかもまた、黄金の甲(よろい)と錦袍(きんぽう)とをその日の引出物(ひきでもの)として貰(もら)った。恐るべき毒にまわされて、呂布は有頂天に酔った。好漢(こうかん)、惜(お)しむらくは眼前の慾望(よくぼう)に眩(くら)んで、遂に、青雲の大志を踏み誤ってしまった。
- × × ×
- 呂布は、檻(おり)に入った。
- 董卓はもう怖(おそ)ろしい者あるを知らない。その威勢は、旭日(きょくじつ)のように旺(さかん)だった。
- 自分は、前将軍を領(りょう)し、弟の董旻(とうびん)を、左将軍に任じ、呂布を騎都尉中郎将(きといちゅうろうしょう)の都亭侯(とていこう)に封(ほう)じた。
- 思う事ができない事はない。
- ――が、まだ一つ、残っている問題がある。帝位の廃立である。李儒(りじゅ)は又、側(そば)にあって、頻(しき)りにその実現を彼にすすめた。
- 「よろしい。今度は断行しよう」
- 董卓は、省中に大饗宴を催して再び百官を一堂に招いた。
四
- 洛陽の都会人は、宴楽(えんらく)が好きである。わけて朝廷の百官は皆、舞楽をたしなみ、酒を愛し、長夜に亙(わた)るも辞さない酔客が多かった。
- (――今日は、この間の饗宴の時よりも、だいぶ和(なご)やかに浮いているな)
- 董卓は、大会場の空気を見まわして、そう察していた。
- 時分(じぶん)は好(よ)し――と、
- 「諸卿(しょきょう)!」
- 董卓は卓から起(た)って、一場の挨拶(あいさつ)を試みた。
- 初めの演舌(えんぜつ)は、至極、主人側としてのお座なりなものであったから、人々はみな一斉に酒盞(しゅさん)を挙げて、「謝(しゃ)す。謝す」と声を和し、拍手の音も、暫(しば)し鳴(な)りも止(や)まなかった。
- 董卓は、その沸騰(ふっとう)ぶりを、自分への人気と見て、
- 「さて。――いつぞやは遂に諸公の御明判(ごめいはん)を仰(あお)いで議決するまでに至らなかったが、きょうはこの盛会と吉日を卜(ぼく)して、過日、未解決に了(おわ)った大問題をぜひ一決して、さらに盞(さん)を重ねたいと思うのであるが、諸公のお考えは如何(いかが)であるか」
- と、現皇帝の廃位と陳留王の即位(そくい)推戴(すいたい)の事を、突然言い出した。
- 熱湯が冷めたように、饗宴の席は、一時にしんとしてしまった。
- 「…………」
- 「…………」
- 誰も彼も、この重大問題となると唖(おし)のように黙ってしまった。
- すると、一つの席から、
- 「否(いな)!否」と、叫んだ者がある。
- 中軍の校尉(こうい)袁紹(えんしょう)であった。
- 袁紹は、敢然(かんぜん)、反対の口火を切って言った。
- 「借問(しゃもん)する!董(とう)将軍。――あなたは何が為に、好んで平地に波瀾(はらん)を招くか。一度ならず二度までも、現皇帝を廃して、陳留王をして御位に代わらしめんなどと、陰謀めいた事を定義されるのか」
- 董卓は、剣に手をかけて、
- 「だまれっ。陰謀とは何か」
- 「廃帝の議を密(ひそ)かに計るのが陰謀でなくてなんだ」
- 袁紹も負けずに呶鳴(どな)った。
- 董卓はまッ青になって。
- 「いつ密議したか。朝廷の百官を前において自分は信ずるところを言っておるのだ」
- 「この宴は私席である。朝議を議するならば、なぜ帝の玉座(ぎょくざ)の前で、なお多くの重臣や、太后(たいごう)の御出座をも仰(あお)いでせんか」
- 「えいっ、喧(やかま)しいっ。私席で嫌なら、汝(なんじ)よりまず去れ」
- 「去らん。おれは、陰謀の宴に頑張(がんば)って、誰が賛成するか、監視してやる」
- 「言ったな。貴様はこの董卓の剣は切れないと思っておるのか」
- 「暴言だっ。――諸君っ、今の声を、なんと聞くか」
- 「天下の権は、予(よ)の自由だ。予の説に不満な輩(やから)は、袁紹と共に、席を出て行けっ」
- 「ああ。妖雷(ようらい)声をなす、天日(てんじつ)も真(ま)っ悔(くら)だ」
- 「世(よ)まい言(ごと)を申しておると、一刀両断だぞ。去れっ、去れっ、異端者め」
- 「誰が居(い)りか、こんな所に」
- 袁紹は、身を慄(ふる)わせながら、席を蹴って飛び出した。
- その夜のうち、彼は、官へ辞表を出して、遠く冀州(きしゅう)の地へ奔(はし)ってしまった。
五
- 席を蹴って、袁紹が出て行ってしまうと、董卓は、やにわに、客席の一方を強く指して、
- 「太傅(たいふ)袁隗(えんかい)!袁隗をこれへ引っ張って来い」
- と、左右の武士に命じた。
- 袁隗はまッ蒼(さお)な顔をして、董卓の前へ引きずられて来た。彼は、袁紹の伯父(おじ)にあたる者だった。
- 「こら、汝(なんじ)の甥(おい)が、予(よ)を恥ずかしめた上、無礼を極めて出ていった態(てい)は、その眼で慥(しか)と見ていたであろうが。――ここで汝の首を斬る事を事を予(よ)は知っているが、その前に、一言訊(き)いてつかわす。此世(このよ)と冥途(めいど)の辻(つじ)に立ったと心得て、肚(はら)をすえて返答をせい」
- 「はっ……はいっ」
- 「汝は、この董卓が宣言した帝位廃立をどう思う?賛同するか、それとも、甥の奴(やつ)と同じ考えか」
- 「尊命の如し――であります」
- 「尊命の如しとは?」
- 「あなたの御宣言が正しいと存じます」
- 「よしっ。然(しか)らばその首をつなぎ止めてやろう。他の者はどうだ。我すれに大事を宣(せん)せり。背(そむ)く者は、軍法をもって問わん」
- 剣を挙げて、雷(らい)の如く言った。
- 並居(なみい)る百官も、慴伏(しょうふく)して、もう誰ひとり反対をさけぶ者もなかった。
- 董卓は、かくて、威圧的に百官に宣誓させて、又、
- 「侍中(じちゅう)周毖(しゅうひ)!校尉(こうい)伍瓊(ごけい)!義郎(ぎろう)何顒(かぎょう)!――」
- と、いちいち役名と名を呼びあげて、その起立を見ながら厳命を発した。
- 我に背(そむ)いた袁紹は、必ずや夜のうちに、本国冀州へさして逃げ帰る心にちがいない。彼にも兵力があるから油断はするな。すぐ精兵を率いて追い討ちに打って取れ」
- 「はっ」
- 三将のうち、二人は命を奉じて、すぐ去りかけたが、侍中周毖(しゅうひ)のみは、
- 「あいや、怖(おそ)れながら、仰(おお)せは御短慮(ごたんりょ)かと存じます。上策とは思われません」
- 「周毖っ。汝(なんじ)も背(そむ)く者か」
- 「いえ、袁紹(えんしょう)の首一つ獲(と)るために、大乱の生じるのを怖れるからです。彼は平常、恩徳を布(し)き、門下には吏人(りにん)も多く、国には財があります。袁紹叛旗(はんき)を立てたりと聞こえれば、山東の国々ことごとく騒いで、それらが、一時にものを言いますぞ」
- 「ぜひもない。予(よ)に背く者は討(う)つあるのみだ」
- 「ですが、元来、袁紹という人物は、思慮はあるようでも、決断のない男です。それに天下の大勢を知らず、ただ憤怒(ふんど)に駆られてこの席をでたものの、あれは一種の恐怖です。なんであなたの覇業(はぎょう)を妨(さまた)げる程な害をなし得ましょうや。むしろ喰(く)らわすに利をもってし、彼を一郡の太守(たいしゅ)に封(ほう)じ、そっとして置くに限ります」
- 「そうかなあ?」
- 座右を顧(かえり)みて呟(つぶや)くと、蔡邕(さいよう)も大きに道理であると、それに賛意を表(ひょう)した。
- 「では、袁紹を追い討ちにするのは、見あわせとしよう」
- 「それがいいです。上策と申すものです」
- 口々から出る賛礼(さんらい)の声を聞くと、董卓はにわかに気が変わって、
- 「使いを立てて、袁紹を渤海郡(ぼっかいぐん)の太守に任命すると伝えろ」
- と、厳命を変更した。
- その後。
- 九月朔日(ついたち)のことである。
- 董卓は、帝を嘉徳殿(かとくでん)に請(しょう))じて、その日、文武の百官に、
- ――今日出仕せぬ者は、斬首(ざんしゅ)に処(しょ)せん。
- という布告を発した。そして殿上に抜剣して、玉座(ぎょくざ)をもしり目に、
- 「李儒(りじゅ)、宣文(せんぶん)を読め」
- と股肱(ここう)の彼にいいつけた。
六
- 予定の計画である。李儒は、はっと答えるなり、用意の宣言文を披(ひら)いて、
- 「策文(さくもん)っ――」
- と高らかに読み始めた。
- 孝霊皇帝(コウレイコウテイ)
- 眉寿ノ祚(サイワイ)ヲ究(キワ)メズ
- 早(ハヤ)ク臣子(シンシ)ヲ棄(ス)テ給(タマ)ウ
- 皇帝承(ウ)ケ紹(ツイ)デ
- 海内側望(カイダイソクボウ)ス
- 而(シカ)シテ天資軽佻(テンシケイチョウ)
- 威儀(イギ)恪(ツツシ)マズシテ慢惰(マンダ)
- 凶徳(キョウトク)スデニ兆(アラワ)レ
- 神器(シンキ)ヲ損(ソコナ)イ辱(ハズカシ)メ宗廟(ソウビョウ)汚(ケガ)ル
- 太后(タイゴウ)亦(マタ)教(オシ)エニ母儀(ボギ)ナク
- 政治(マツリゴト)統(スベ)テ荒乱(コウラン)
- 衆論(シュウラン)爰(ココ)ニ起(オ)コル大革(タイカク)ノ道(ミチ)
- 李儒は、更に声を大にして読みつづけていた。
- 百官の面(おもて)は色を失い、玉座の帝はおののき慄(ふる)え、嘉徳殿上寂(せき)として墓場のようになってしまった。
- すると突然、
- 「噫(ああ)、噫……」
- と、嗚咽(おえつ)して泣く声が流れた。帝の側(そば)にいた何太后(かたいごう)であった。
- 太后は涙に咽(むせ)ぶの余り、遂に椅子から坐りくずれ、帝のすそにすがりついて、
- 「誰がなんと言っても、あなたは漢の皇帝です。うごいては不可(いけ)ませんよ。玉座から降(くだ)ってはなりませんよ」と、言った。
- 董卓は剣を片手に、
- 「今、李儒が読み上げたとおり、帝は暗愚(あんぐ)にして威儀(いぎ)なく、太后は教えに晦(くら)く母儀(ぼぎ)の賢(けん)がない。――依(よ)っつて、現帝を弘農王(こうのうおう)とし、何太后は永安宮(えいあんきゅう)に押(お)し籠(こ)め、代わるに陳留王(ちんりゅうおう)をもって、われらの皇帝として奉戴(ほうたい)する」
- 言いながら、帝を玉座から引き降ろして、その璽綬(じじゅ)を解(と)き、北面(ほくめん)して臣下の列の中へ無理に立たせた。
- そして、泣き狂う何太后(かたいごう)をも、即座にその后衣(こうい)を剝(は)いで、平衣(へいい)とさせ、後列へ退(しりぞ)けたので、群臣も思わず眼を掩(おお)うた。
- 時に。
- ただ一人、大音(だいおん)をあげて、
- 「待てっ逆臣っ。汝(なんじ)董卓、そも誰(たれ)から大権を享(う)けて、天を欺(あざむ)き、聖明(せいめい)の天子を、強(し)いて私(ひそ)かに廃せんとするか。――如(し)かず!汝と共に刺(さ)し交(ちが)えて死のう」
- 言うや否(いな)や、群臣のうちから騒ぎ出して、董卓を目がけて短剣を突きかけて来た者があった。
- 尚書(しょうしょ)丁管(ていかん)と言う若い純真な宮内官(くないかん)であった。
- 董卓は、愕(おどろ)いて身を交(かわ)しながら、醜い声をあげて救(たす)けを叫んだ。
- 刹那(せつな)――
- 「うぬっ、何するかっ」
- 横から跳びついた李儒(りじゅ)が、抜き打ちに丁管(ていかん)の首を斬った。同時に、武士等の刃(やいば)もいちどに丁管の五体に集まり、殿上はこの若い一義人の鮮血で彩(いろど)られた。
- さはあれ、ここに。
- 董卓は遂にその目的を達し、陳留王を天子の位に即(つ)け奉(たてまつ)り、百官もまた彼の暴威(ぼうい)に怖れて、万歳を唱和した。
- そして、新しき皇帝を献帝(けんてい)と申し上げることになった。
- だが、献帝はまだ年少である。何事も董卓の意のままだった。
- 即位の式がすむと、董卓は自分を相国(しょうこく)に封(ほう)じ、楊彪(ようひょう)を司徒とし、黄琬(こうえん)を太尉(たいい)に、荀爽(じゅんそう)を司空(しくう)に、韓馥(かんふく)を冀州の牧(ぼく)に、張資(ちょうし)を南陽の太守(たいしゅ)に――と言ったように、地方官の任命も輦下(れんか)の朝臣の登用(とうよう)も、みな自分の腹心をもって当て、自分は相国として、宮中にも沓(くつ)を穿(は)き、剣を佩(は)いて、その肥大した体驅(たいく)を反(そ)らして、わが物顔に殿上に横行していた。
- 同時に。
- 年号も初平(しょへい)元年と改められた。
最終更新:2018年01月30日 18:58