三国志 (吉川英治) 第二巻 群星の巻 > 偽忠狼心

偽忠狼心(ぎちゅうろうしん)

曹操を搦(から)めよ。
布令(ふれ)は州郡諸地方へ飛んだ。
その迅速(じんそく)を競(きそ)って。
一方――
洛陽(らくよう)の都をあとに、黄馬(こうば)に鞭(むち)をつづけ、日夜をわかたず、南へ南へと風の如(ごと)く逃げて来た曹操は、早くも中牟県(ちゅうぼうけん)(河南省(かなんしょう)中牟・開封(かいほう)―鄭州(ていしゅう)の中間)――附近までかかっていた。
「待てっ」
「馬を降りろ」
関門へかかるや否(いな)、彼は関所の守備兵に引きずり降ろされた。
「先に中央から、曹操という者を見かけ次第召(め)し捕(と)れと、指令があった。其方(そのほう)の風采(ふうさい)と、容貌(ようぼう)とは人相書に甚(はなは)だ似ておる」
関(せき)の吏事(やくにん)は、そう言って曹操が何と言いのがれようとしても、耳を貸さなかった。
「とにかく、役所へ引ッ立てろ」
兵は鉄桶てっとう)の如(ごと)く、曹操を取り囲んで、吟味所(ぎんみしょ)へ拉(らっ)してしまった。
関門兵の隊長、道尉(どうい)陳宮(ちんきゅう)は、部下が引っ立てて来る者を見ると、
「あっ、曹操だ!吟味にも及ばん」と、一見して言(い)き断(き)った。
そして部下の兵を犒(ねぎら)って彼が言うには、
「自分は先年まで、洛陽に吏事おしておったから、曹操の顔も見覚えている。――幸いにも生擒(いけど)ったこの者を都へ差し立てれば、自分は万戸侯(ばんここう)という大身(たいしん)に出世しよう。お前たちにも恩賞を頒(わ)かってくれるぞ。前祝いに、今夜は大いに飲め」
そこで、曹操の身はたちまち、かねて備えてある鉄の檻車(かんしゃ)の抛(ほう)りこまれ、明日にも洛陽(らくよう)へ護送して行くばかしとなし、守備の兵や吏事(やくにん)たちは、大いに酒を飲んで祝った。
日暮れになると、酒宴もやみ、吏事も兵も関門を閉じて何処(どこ)へか散ってしまった。曹操(そうそう)はもはや、観念の眼(まなこ)を閉(と)じているもののように、檻車の中に倚(よ)りかかって、真暗(まっくら)な山谷の声や夜空の風を黙然(もくねん)と聴いていた。
すると夜半に近い頃、
「曹操、曹操」
誰か、檻車に近づいて来て、低声(こごえ)に呼ぶ者があった。
眼をひらいて見ると、昼間、自分を一目で観破(みやぶ)った関門兵の隊長なので、曹操は、
「何用か」
嘯(うそぶく)如(ごと)く答えると、
「おん身は都に在(あ)って、董相国(とうしょうこく)にも愛され、重く用いられていたと聞いていたが、何故(なにゆえ)に、こんな羽目になったのか」
「くだらぬ事を問うもの哉(かな)。燕雀(えんじゃく)なんぞ鴻鵠(こうこく)の志(こころざし)を知らんやだ。――貴様(きさま)はもうおれの身を生擒(いけど)っているんじゃないか。四の五の言わずと都へ護送して、早く恩賞にあずかれ」
「曹操。君は人を観(み)る明(めい)がないな。好漢(こうかん)惜(お)しむらく――というところか」
「なんだと」
「怒り給(たも)うな。君が徒(いたず)らに人を軽んじるから一言酬(むく)いたのだ。かくいう自分とても、沖天(ちゅうてん)の大志を抱いておる者だが、真に、国の憂(うれ)いを語る同志もない為(ため)、空(むな)しく光陰の過ぎるのを恨(うら)みとしておる。折から、君を見たので、その志を叩(たた)きに来たわけだが」
意味ありげな言葉に、曹操も初めの態度を改めて、「然(しか)らば言おう」と、檻車の中に坐(すわ)り直した。


曹操は、口を開いた。
「なるほど董卓(とうたく)は、貴公(きこう)の言われたようにこの曹操を愛していたに違いない。――しかしそれがしは、遠く相国(しょうこく)曹参(そうさん)が末孫(ばっそん)にて、四百年来、漢室(かんしつ)の禄(ろく)をいただいて来た。なんで成り上がり者の暴賊董卓ごときに、身を屈(くっ)すべいや」
と語気、熱をおびて来て――
「如(し)かず国の為、賊を刺し殺して、祖先の恩を報ずべしと、董卓の命を狙(ねら)ったが、天運いまだ我(われ)に非(あら)ず――こうして捕われの身となってしまった。なんぞ今さら、悔(く)いる事があろうか」
白面細眼(はくめんさいがん)、自若(じじゃく)としてそう言う容子(ようす)、さすがに名門の血すじをひいているだけに、争い難い落ち着きがあった。
「…………」
黙然――やや暫(しばら)くの間、檻車の外にあってその態(てい)を見ていた関門兵の隊長は、
「お待ちなさい」
言うかと思うと、檻車の鉄錠(てつじょう)を外(はず)して、扉を開き、驚く彼を中から引き出して、
「曹操どの。貴君(あなた)はどこへ行こうとしてこの関門へかかったのですか」
「故郷――」
曹操は、茫(ぼう)とした面持(おももち)で、隊長の行為を怪しみながら答えた。
「故郷の譙郡(しょうぐん)に帰って、諸国の英雄に呼びかけ、義兵を挙げて再び洛陽へ攻め上り、堂々、天下の賊を討(う)つ考えであったのだ」
「さもこそ」
隊長は、彼の手を曳(ひ)いて、密(ひそ)かに自分の室(へや)へと請(しょう)じ、酒食を供して、曹操のすがたを再拝した。
「思うに違(たが)わず、御辺(ごへん)は私の求めていた忠義の士であった。貴君(あなた)に会ったことは実に喜ばしい」
「では御身(おんみ)も董卓に恨(うら)みのある者か」
「いや、いや、私怨(しえん)ではありません。大きな公憤(こうふん)です。義憤(ぎふん)です。万民の呪(のろ)いと共に憂国(ゆうこく)の怒りをもって、彼を憎み止(や)まぬ一人です」
「それは、意外だ」
「今夜がぎり、てまえも官を棄(す)てて此関(ここ)から奔(はし)ります。共に力を協(あわ)せて、貴君(あなた)の赴(ゆ)く所まで落ちのび、天下の義兵を呼び集めましょう」
「えっ、真実ですか」
「なんで噓(うそ)を。――すでにこう言う間に、貴君(あなた)の縄目を解(と)いているではありませんか」
「ああ!」
曹操(そうそう)は初めて、回生(かいせい)の大きな歓喜を、その吐息(といき)にも、満面にも現わして、
「して、貴公はいったい、何と仰(お)っしゃる御仁(ごじん)か」
と、訊(たず)ねた。
「申しおくれました。自分は、陳宮(ちんきゅう)字(あざな)を公台(こうだい)という者です」
「御家族は」
「この近くの東郡(とうぐん)に住まっています。すぐそこへ参(まい)って、身仕度を代え、すぐさま先へ急ぎましょう」
陳宮は、馬を曳(ひ)き出して、先に立った。
夜もまだ明けないうちに、二人は又、その東郡をも後にすてて、ひた急ぎに、落ちて行った。
それから三日目――
日夜わかたず駆け通して来た二人は、成皐(せいこう)(河南省・衛輝(えいき)附近)のあたりを彷徨(さまよ)っていた。
「今日も暮れましたなあ」
「もうこの辺まで来れば大丈夫だ。――だが、今日の夕陽は、いやに黄いろッぽいじゃないか」
「又、蒙古風(もうこかぜ)ですよ」
「あ、湖北(こほく)の沙風(さふう)か」
「どこへ宿(やど)りましょう」
「部落が見えるが、この辺はなんという所だろう」
「先程の山道に、成皐路(せいこうじ)という道標が見えましたが」
「あ。それなら今夜は、訪ねて行くよい家があるよ」
と、曹操は明るい眉(まゆ)をして、馬上から行く手の林を指さした。


「ほ、こんな辺鄙(へんぴ)の地に、どういうお知り合いがいるのですか」
「父の友人だよ。呂伯奢(りょはくしゃ)という者で、父とは兄弟のような交(まじ)わりのあった人だ」
「それは好都合ですな」
「今夜はそこを訪れて一宿を頼もう」
語りながら、曹操と陳宮の二人は、林の中へ駒(こま)を乗り入れ、やがてその駒を樹(き)に繋(つな)いで、尋ね当てた呂伯奢の門をたたいた。
主(あるじ)の呂伯奢は驚いて、不意に客を迎え入れ、
「誰かと思ったら、曹家(そうけ)の御子息じゃないか」
「曹操です。どうも暫(しばら)くでした」
「まあ、お入りなさい。どうしたのですか。いったい」
「何がです」
「朝廷から各地へ、あなたの人相書が廻(まわ)っていますが」
「ああその事ですか。実は丞相(じょうしょう)董卓(とうたく)を討(う)ち損(そん)じて逃げて来た迄(まで)の事です。私を賊と呼んで人相書など廻しているらしいが、彼奴(きゃつ)こそ大逆(たいぎゃく)の暴賊です。遅かれ早かれ、天下は大乱となりましょう。曹操も、もう凝(じっ)としてはいられません」
「お連れになってる人は誰方(どなた)ですか」
「そうそう、御紹介をするのを忘れていた。これは道尉(どうい)陳宮(ちんきゅう)という者で、中牟県(ちゅうぼうけん)の関門を守備しており、私を曹操と見破って召し捕えたくらいな英傑(えいけつ)ですが、胸中の大志を語り合ってみたところ、時勢に鬱勃(うつぼつ)たる同憂(どうゆう)の士だという事がわかったので、陳宮は官を捨て、私は檻(おり)を破って、共にこれまで携(たずさ)え合(あ)って逃げ走って来たというわけです」
「ああそうですか」
呂伯奢(りょはくしゃ)は跪(ひざまず)いて、改めて陳宮のすがたを拝(はい)し、
「義人(ぎじん)。――どうかこの曹操を扶(たす)けて上げてください。もし貴方(あなた)が見捨てたら曹操の一家一門はことごとく滅んでしまう他はありません」
と、曹操の父の友人というだけに、先輩らしく慇懃(いんぎん)に将来を頼むのであった。
そして呂伯奢(りょはくしゃ)は、いそいそと、
「まあ、御(ご)ゆるりなさい。手前は隣村まで行って、酒を買ってきますから」
と、驢(ろ)に乗って出て行った。
曹操と陳宮は、旅装を解(と)いて、一室で休息していたが、主(あるじ)はなかなか帰って来ない。
そのうちに、夜も初更(しょこう)の頃、どこかで異様な物音がする。耳をすましていると、刀でも磨(と)ぐような鈍(にぶ)い響きが、壁を越えて来るのだった。
「はてな?」
曹操は、疑いの目を光らし、扉(と)を排(はい)して、又耳を欹(そばだ)てていたが、
「そうだ、……やはり刀を磨ぐ音だ。さては、主の呂伯奢は、隣村へ酒を買いに行くなどと言って出て行ったが、県吏に密訴(みっそ)して、おれ達を縛(しば)らせ、朝廷の恩賞にあずかろうという気かもしれん」
呟(つぶや)いていると、暗い厨(くりや)の方で、四、五名の男女の者が口々に――縛れとか、殺せとか――言い交(か)わしているのが、曹操の耳へ、明らかに聞こえて来た。
「さてこそ、われわれを、一室に閉じこめて、危害を加えんとする計(はかりごと)にうたがいなし。。――その分なれば、こっちから斬(き)ッてかかれ」
と、陳宮へも、事の急を告げて、にわかにそこを飛びだし、驚く家族や召使い八名までを、またたく間にみな殺しに斬ってしまった。
そして、曹操が先に、
「いざ逃げん」と、促(うなが)すと、どこかで未(ま)だ、異様な呻(うめ)き声をあげて、ばたばた騒ぐものがある。
厨の外へ出て見ると、生きている猪(いのこ)が、脚(あし)を木に吊(つる)されて、啼(な)いているのだった。
「ア、しまった!」
陳宮は甚(はなは)だ後悔した。
この家の家族たちは、猪を求めて来て、それを料理しようとしていたのだ――と、わかったからである。


曹操は、もう闇(やみ)に向かって、急ごうとしていた。
「陳宮。はやく来い」
「はっ」
「何を愚図愚図(ぐずぐず)しているのだ」
「でも……。どうも、気持が悪くてなりません。慚愧(ざんぎ)にたえません」
「なんで」
「無意味な殺生(せっしょう)をしたじゃありませんか。かわいそうに、八人の家族は、われわれの旅情をなぐさめる為(ため)に、わざわざ猪(いのこ)を求めて来て、もてなそうとしていたんです」
「そんな事を悔(く)いて、家の中へ、、掌(て)を合わせていたのか」
「せめて、念仏でも申して、科(とが)なき人たちを殺した罪を、詫(わ)びて行こうと思いまして」
「はははは。武人に似合わんことだ。してしまったものは是非(ぜひ)もない。戦場に立てば何千何万の生霊(せいれい)を、一日で葬(ほうむ)ることさえあるじゃないか。又、我が身だって、何時(いつ)そうされるか知れないのだ」
曹操には、曹操の人生観があり、陳宮には又、陳宮の道徳観がある。
それは違うおのであった。
けれど今は、一蓮托生(いちれんたくしょう)の道づれである。議論していられない。
二人は、闇へ馳(か)けた。
そして、林の中に繋(つな)いでおいた駒(こま)を解き、飛び乗るが早いか、二里あまりも逃げのびて来た。
――と、彼方(かなた)から、驢(ろ)に二箇(こ)の酒瓶(さけがめ)を結びつけて来る者があった。近づき合うにつれて、ぷーんと芳熟(ほうじゅく)した果物の佳(い)い匂(にお)いが感じられた。腕には、果物の籠(かご)も掛けているのだった。
「おや、お客人ではないか」
それはいま、隣村から帰って来た呂伯奢(りょはくしゃ)であったのである。
曹操は、まずい所で会ったと思ったが、あわてて、
「やあ、御主人か。実は、きょうの昼間、これへ来る途中に寄った茶店に、大事な品を忘れたので、急に思い出して、これから取りに行くところです」
「それなら、家の召使いをやればよいのに」
「いやいや、馬で一鞭(ひとむち)当てれば、造作(ぞうさ)もありませんから」
「では、お早く行っておいでなさい。家の者に、猪(いのこ)を屠(ほふ)って、料理しておくように言っておきましたし、酒もすてきな美酒(びしゅ)をさがして、手に入れて来ましたからね」
「は、は、すぐ戻って来ます」
曹操は、返辞もそこそこと、馬に鞭打って呂伯奢と別れた。
そして、四、五町ほど来たが、急に馬を止め、
「君!」と、陳宮を呼び止め、
「君はしばらく此処(ここ)で待っていてくれないか」
と言い残し、何を思ったか、再び道を引っ返して馳(か)けて行った。
「どこへ行ったのだろう?」と、陳宮は、彼の心を解(と)きかねて、怪しみながら待っていたところ、やがての事曹操は又戻って来て、いかにも心残りを除いて来たように、
「これでいい!さあ行こう。君、今のも殺(や)って来たよ。一突きに刺し殺して来た」
と、言った。
「えっ。呂伯奢を?」
「うん」
「なんで、無益な殺生(せっしょう)をした上にもまた、あんな善人を殺したのです」
「だって、彼が帰って、自分の妻子や雇人が、皆ごろしになったのを知れば、いくら善人でも、われわれを恨(うら)むだろう」
「それは是非(ぜひ)もありますまい」
「県吏に訴(うった)え出られたら、この曹操の一大事だ。背に腹はかえられん」
「でも、罪なき者を殺すのは、人道に反(そむ)くではありませんか」
「否(いな)」
曹操は、詩でも吟(ぎん)じるように、大声で言った。
「我(われ)をして、天下の人に反かしむるとも、天下の人をして、我に反かしむるを休(や)めよ――だ。さあ行こう。先へ急ごう!」


――怖(おそ)るべき人だ。
曹操の一言を聞いて、陳宮はふかく彼の人となりを考え直した。そして心に懼(おそ)れた。
この人も、天下の苦しみを救わんとする者ではない。真に世を憂(うれ)えるのでもない。――天下を奪わんとする野望の士であった。
「……過(あやま)った」
陳宮も、ここに至って、密(ひそ)かに悔(く)いを嚙(か)まずにはいられなかった。
男子の生涯を賭(と)して、道づれとなった事を、早計だったと思い知った。
けれど。
すでにその道は踏み出してしまったのである。官を捨て、妻子を捨てて共に荊棘(けいきょく)の道を覚悟の上で来てしまったのだ。
「悔いも及ばず……」と、彼は心を取り直した。
夜が更(ふ)けると、月が出た。深夜の月明りを頼りに十里も走った。
そして、何処(どこ)か知らぬ、古廟(こびょう)の荒れた門前で、駒(こま)を降りて一休みした。
「陳宮」
「はい」
「君も一寝入(ひとねい)りせんか。夜明けまでには間がある。寝ておかないと、あしたの道に又、疲労するからな」
「寝(やす)みましょう。けれど大事な馬を盗まれるといけませんから、どこか人目につかぬ木陰(こかげ)に繫(つな)いで来ます」
「ムム。そうか。……ああしかし惜しいことをしたなあ」
「何ですか」
「呂伯奢(りょはくしゃ)を殺しに戻ったくせにしてさ、おれとした事が、彼が携(たずさ)えていた美酒と果物を奪って来るのを、すっかり忘れていたよ。やはり幾(いく)らかあわてていたんだな」
「…………」
陳宮んは、それに返辞する勇気もなかった。
馬を隠して、暫(しばら)くの後、又そこへ戻って来てみると、曹操は、古廟(こびょう)の軒下に、月の光を浴びていかにも快(こころよ)げに熟睡していた。
「……なんという大胆不敵な人だろう」
陳宮は、その寝顔を、つくづくと見入りながら、憎みもしたし、感心もした。
憎む方の心は、
(自分は、この人物を買(か)い被(かぶ)った。この人こそ、真に憂国(ゆうこく)の大忠臣だと考えたのだ。ところがなんぞ計(はか)らん、狼虎(ろうこ)にひとしい大野心家に過ぎない)
と、思い、又敬服する方の半面では、
(――しかし、野心家であろうと姦雄(かんゆう)であろうと、とにかくこの大胆さと、情熱と、おれを買い被らせた程の弁舌とは、非凡(ひぼん)なものだ。やはり一方の英傑にちがいないなあ……)
と、自(ひと)り心のうちで思うのであった。
そして、そう二つに観(み)られる自分の心に質(ただ)して、陳宮は、
「今ならば、睡(ねむ)っている間に、この曹操を刺し殺してしまう事もできるのだ。生かしておいたら、こういう姦雄は、後に必ず天下に禍(わざわい)するだろう。……そうだ、天に代わって、今刺してしまった方がいい」と、考えた。
陳宮は、剣を抜いた。
寝顔をのぞかれているのも知らず、曹操は鼾声(いびき)をかいていた。その顔は実に端麗(たんれい)であった。陳宮は迷った。
「いや、待てよ」
寝込みを殺すのは、武人の本領でない。不義(ふぎ)である。
それに、今のような乱世に、こういう一種の姦雄を地に生まれさせたのも、天に意(こころ)あっての事かもしれない。この人の天寿(てんじゅ)を、寝ている間に奪うことは、かえって天の意に反(そむ)くかもしれない。
「噫(ああ)……。なにを今になって迷うか。おれは又煩悩(ぼんのう)すぎる。月は煌々(こうこう)と冴(さ)えている。そうだ、月でも見ながらおれも寝よう」
思い止(とど)まって、剣をそっと鞘(さや)にもどし、陳宮もやがて同じ廂(ひさし)の下に、丸くなって寝こんだ。

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最終更新:2018年03月17日 22:04