兇器(武田麟太郎)

兇器

―― 一九二八年、秋から冬へ

1

人々は寒げだつた。しかし、何かしらに昂奮したかった。この不景気を打ち破る方法は?と云った顔をしていた。だから、子供も妻もつれて活動だ、すき鍋だ、少しばかりの酒だ、そして花電車でも見ることだ。――浅草の店先きの、風に揺れる色旗も提燈も、町かどの杉で作った祝塔(アーチ)も、――小商人(こあきんど)たちが、何とかして、この不景気から逃れたいの気持が、しっつかりとこめられてあるのを忘れてはならなかった。
混雑の中に、人々は花電車のやって来るのを待っていた。だが、なかなか来なかった。
橋があって、河はあいかわらず鈍く流れていた。古い巡航船が走った。ビール会社の影はいやに大きく見えた。その向うが江東地方だ。空は黒い。唯一の広告燈だけが、空に向って、突立っている。遠くの方には、白い煙が流れていた。それはまるで汚い臭いものでも立ち登っているように見えた。
待っていた花電車は来た。人々はもっと愉快になりたがった。だが、それらは何の変りもなく、五六台立ち並んでやって来ただけだ。こしらえ人形の古い姿は、少しく滑稽であっただけだ。そして、彼らの前をゆるゆるすぎると、鈍い河は渡らずに、すぐに南へと折れて了った。あちら――労働者と、パラックと、煙突と、悪臭ある溝と、泥濘と、子供と売春婦と、反抗と、サアベルで丁寧に剝ぎとられた電柱の×××のポスタアと、それらを含んだ街を避けるように。
三人の酔払いが突然、万歳!と叫んだ。これは何の反響もひき起さなかつた。そして人々の列はくずれ、また、もとのように、寒げに、その子や妻の手をひいて歩きだした。


2

主任は彼の椅子に腰かけて、胯火をしながら、手下たちは、立ちはだかったまま、警察医の診断を待っていた。午後四時頃の、ポツンと点(つ)いた電燈が、としとった、だが血色のいい、警察医の頭の上にあった、彼はなかなか骨が折れた。当の患者が静かにしなかったからだ。彼の手に持たれた反射鏡がとうわくしたように振り廻されて、キラキラした。患者の山本はあばれていた。
「さあ、もとの眼にして返えせ。さあ、もとの眼にして返せ!」
猫のように白くキラキラした瞳を見はりながら、山本は呶鳴(どな)りたてた。もう三十五にもなった、身体の大きな彼が、このように、子供のように、喚いたり、地団駄ふんでいる有様は、もし誰かが、突然この部屋にはいって来たならば少し滑稽に感じたにちがいない。そして、彼はきっと笑い出すだろう。ここに立ち列んだスパイたちは、少しばかり顔をしかめていた。困ったな、と云う表情をしている。三重や大阪の同僚たちが、山本のように逞(たくま)しい×××××××××××が、あの地方の大衆の憤激をバクハツさせ、ブルジョア新聞さえも、その報導しなければならなくなっているのを、彼らは期せずshて、思い出していたからだ。
「どうも、これは」
警察医は眼鏡ごしに、主任に訴えるように見た。主任はつまみ食いしていた塩豆を手離して、手下たちに「おい」と相図して、自分も立ちあがった。
「まあ、きみ、そうあばれても仕方がないじゃないか。まあ、医者に見せることだけは、見せたまえ。」
「さあ、××××××××××!」
四方からのびた手が彼を押さえつけた。彼はそれでもまだ亀のように手足をばたばたさせた。――医者はやっとのことで、その眼の診断を終ることができた。
「こいつは」ひどい――と云いかけたが、すぐに自分が警察医であることを思い出した。で、あらためて云った。
「こいつは、なあに、×××××××××大きくなっただけですよ。」
山本は再び豚箱へほうりこまれた。そして、スパイたちあ、医者を中心にして、頭を寄せた。
「ひどい白内障です。」
スパイたちは黙ったまま顔を見あわせた。すぐ出した方がいいだろう。そうでなければこちらの手落ちになるぞ、とお互いの眼は語りながら。


翌朝早く、女房のお清(きよ)が呼び出された。連れて帰るためだ。彼女はいつものように、和服の上に、黄色いレーンコオトを着て、眉をしかめながらやって来た。
「××××そちらで出してくれるんでしょうね。」
主任はよほど、この眼ばかり光った女を殴りつけてやろうか、と思った。だが、この場合、それは損になるだろう。
「別に伝染病じゃなし、こちらに責任はないのだ。不運だとあきらめてくれ。」
「あきらめても、××××××××は同じですよ。」
「×××ないさ。」
それきりだった。お清は、
「山本をうけとって帰れません。連れて行った時と×××××××下さい。」と云ってきかなかった。
だが、とうとう、この手こずらせの夫婦は、白神と云うスパイに附き添われて帰ることになった。小さい、しかし、口もとには愛嬌のあるひげをのばしたこのスパイは「××とも相談して、××××××××、これだけ貰いました。」
と云って、お清に跋×××××握らせた。
途中で、彼は
「山本さん、眼に病気してよかったですよ。あとの人たちは、今年中はちとムズカシイですよ。」とつい口を辷らせた。
「莫迦(ばか)野郎。出さなくたって、外にはうようよ代りがいて、働いているんだ。」
山本は元気にどなった。しかし、彼がそれが少し虚勢があったことを、寂しく思った。ほんの少しの手ちがいから、×××を口実にした勾留の網にうまうまと、ひっかかった同志たちのことを思うと。
その時、突然、頭の上で、唸り声がした。プロペラの音だ。それが迫って来た。三人は思わず、頭をあげた。しかし、山本の眼にはいって来たのは、少しくキラキラと眩しい、薄い光線だけだった。それが、ムズ掻ゆさを、瞳に与えた。
「飛行機だな。」
子供たちは、わいわいと騒いでいた。土砂を運んでいた朝鮮人たちも、お神さんたちも驚いたような顔で、ひとかたまりになって、空を見あげていた。渡り鳥のような飛行機の群れは、何故(なぜ)とはなしに、彼らを恐怖させた。
「百台だあ!」
子供たちは叫んだ。
「百十台だあ。」
「百二十台だあ。」
「百三十台だあ!」
山本は唸り出した。
「××××。××、×××××××××!」
「観兵式なんです。」とスパイは教えた。
「×××。××××××」


山本の家では、小さな鋲打出機が、庭の片隅に錆びていた。彼はそれによって、一日に二千の鋲を作ることができた。だがそんな古くさい手工業が、どうして大きな鋲会社と競争できよう。会社では一台の自動機で、一時間に二千個を打出すことができたから。
彼はこちらの地域班の責任者であったが、純粋の労働者でないことを、いつも口惜しがっていた。何かの本で、近代労働者だけが、唯一の、×××××××××××××、云うことを読んだことがあった。彼は、そりゃそれにちがいない、だが、なんでえ、俺のような手工業者だっって、負けてはいないんだから、と単純に、残念がった。
こんどの眼のことも、実は彼一流の無雑作からすてておいたため、こんなになったのだと、云ってよかった。大分前から、眼の白い星が大きくなって来ていた。夜更けて、相談に寄って来た仲間の顔が、ふと見分けられずに、名前をまちがえたりして、笑われたことが、二三度もあった。
「お治しよ。」とお清はうるさい程を云った。彼をすすめ、労働者の診療所へ行かせようとした。
「時間が惜しいや。」と云って、動かなかった。本当に、そんな時間もない日が多かったのだ。
「労働者の道を照らす星が大きくなるんだ。」などと威張っていた。学生あがりの吉田は、くせの強い声で、
「洒落(しゃれ)を云っている場合ではないよ。眼の病気は本当に恐ろしいんだから。」と忠告したことがあった。だが、ダメだったのだ。


家の中は、いつかスパイの一人が「きれいですね」と感心した程、張りめぐらされたポスタアが、家宅ソーサクの時に、引き破られたままになっていた。白神は少しくおしゃべりをしてから帰って行った。お清は疲れた山本のために床をのべた。そして、あたりを暫くうかがってから、彼の耳の側で何かを囁きだした。


3

私娼窟ももうすっかり眠って了った。ほんの時々、遠くから帰って来る夜店商人が寂しそうに、車をひいて通った。三時が近い。星だけが見ている。暗い。その時、N工場(こうば)の裏門が静かに開かれた。そして五台ばかりのトラックが、爆音を立てながら走り出て来た。黒い群れの人影がそれを守っている。彼らはこの地方の憲兵隊からやって来た私服たちであった。
毎夜、秘密に作られ、秘密に運び去られる。これらの所謂(いわゆる)「部分品」が何であるかは、職工たちはうすうす感づいていた。以前からあらゆる組合の手がのびないように堅めていた、この工場の警備は、この「部分品」の制作にとりかゝって以来、一層きびしくなった。永い間、この会社につとめて、今は犬のように従順に馴らされた、年をとった職工たちだけが選ばれて、この「残業」をやらされていた。残業手当も、いつもよりは倍ほど分のよい、四割増しであった。
彼ら、老職工たちも、こんな軍需品の急激な制作が、ここだけではないことを知っていた。B化学工場では「毒ガス」が、こっそり作られていることも、洩れきいていた。そして、役場の方からしきりに青年の状態を調べていることや、東京市中を埋めているカーキ色の洋服、また新聞の支那との交渉が決裂しそうだとの記事に逢うと、胸に刃物をあてがわれたようにドキリとするのであった。


4

山本は久しぶりに身体を休ませたので、すっかり退屈して了った。機械も動かさずにいると、錆びついて了うものだ。彼は朝のうちに、隣りの子供に手をひかれて、診療所へ通った。それから、あとの一日が永かった。本を読んでくれるものでもあればよかった。だが、お清(きよ)も忙(せわ)しかった。近頃の彼女はまるで男のように思われた。髪は無雑作にひきつめていた。そして、れいのレーンコオトに長靴をはいて出て、夜晩くまで、帰っては来なかった。
その間、山本は独りで部屋の中で色んなことを考え、又一人で憤慨していた。留置場にいる同志のこと。一日に三度、××××××××××××××××××××人(じん)のこと。それから、今朝、診療所の待合室で、足首を焼き爛(ただ)らして、跛(びっこ)になりかけている鋳物工から聞いた診療所おやじの二人の妾のこと。又、学校の火事で、このおめでたい時に不謹慎な、と罰金二百円を云い渡されて、払えず娘を売った小使のこと、それらが彼の頭の中に行ったり来たりした。


――誰かがはいって来た。スパイの白神かと思ったので、
「犬か。」とどなった。
「電気もつけずに、何をしているのだ。」と客は答えた。それは、学生あがりの吉田の声だ。山本はほっとして嬉しくなった。
「う、来たか。」と何故か小さい声しか出なかった。
スイッチをパチンと捻る音がする。
「眼をすっかりやられてな。」
「そうか、だから云わないことではなかったのだ。」と吉田は静かに云った。そして、山本の黒眼鏡を外して、その開かれた眼の前で、掌を二三度動かして見せた。
「見えないのか。」--
だが、吉田は、それにばかり拘泥してはいられなかった。彼は彼の用事を、せっせと始めた。山本は、その横で、吉田の姿を思い浮べながら、独りで微笑していた。けれども、その姿は、今の吉田のとは大へんちがっていた。何故なら、今日の吉田は、きれいに髪を刈り込み、いつものびていたひげは剃られ、しかも折目正しい新しい洋服を着て、口にはマスクをかけていたから。もし、山本の眼が自由であったら、彼は吉田だとは思わなかったにちがいなかった。
暫くの沈黙の後、とうとう山本は口をきった。
「どうした。」
その意味は、近頃彼のことが、新聞に、退営と入営を期として、×××××「×××××××××」×××しようとした一団の中心人物として書かれてあったことについてであった。彼の関係している、戦争××同盟についてであった。
「しごとは進んでいる。段々大衆的になって来た。」
そして、一通り吉田は彼の用事をすませた。そして空腹を訴えはじめた。
「もうお清が帰って来るだろう。」
だが、吉田は飯櫃(めしびつ)を勝手にさがし出して来た。そしてガツガツ食い始めた。食いながら彼は山本に、労働者街で、労働者によって作られた×××、×××××××××××××××××いることについて、詳しく語った。
「こう、逆手(ぎゃくて)に握って迫って来やがったんだな。」と山本は自分の言葉に感心しながら云った。
「そうだ、それを奪い返すことが問題なのだ。」


5

おしのが東京へ来たのは、この夏であった。彼女は、それまで福島県の山と山との間の傾斜地で百姓をしていた。小さな黒い父親と同じ程、彼女の筋肉も骨体も、かたかった。
彼女は都会から来た人買いに売られた。村の多くの娘たちと同じように。父はだまりこくったまま、百二十円を受け取って、先方の書いて来た証書に大きな実印を押した。おしのは、父が大金持になったのと、自分が東京に行けるので、すっかり浮々した気持ちになった。唯、出発の時、すぐ次の弟の健太郎が泣きだしたので、彼女も少し悲しくなり、弟を抱いてやった。
それから汽車に乗った。汽車に乗ってから、彼女は心配になった。で、人買いにくりかえし、くりかえしたずねた。
「めしや(飯屋)だね、みしや(銘酒屋)じゃねえんだね。」
それは彼女の奉公先きについてであった。彼女は、多くの村の娘が、飯屋に売られたつもりだったのに、銘酒屋の女にならなければならなかったのを思い出したのだ。都会の人買いは、こうまぎらわしく云って、娘をつれて行く慣しだったから。
「めしやだあね。めいしやじゃねえんだね。」
人買いはとうとう憤慨した。
「うるさいやい!てめえのようなお多福を銘酒屋へ売りこめるかい!」
そして、東京についた晩、彼女は本当に安心した。行きついた家には、大きな飯を食う場所もあったし、五升も一度にたけそうな大釜が三つもあったから。そして、彼女の先輩たちの間に、小さくなって、寝ぐるしい一夜をあかした。
それから蚊の多い夏が来た。そして蚊がまだ、台所の隅で、太った女たちの腕に食いつくのをやめなかったうちに、冬が来ていた。
山にいた時とは、すっかり生活がちがっていた。それが、何より苦痛であった。眠いのだ。朝は二時半に、いぎたない同輩たちと一緒に、枕もとの眼ざまし時計に叩き起された。それから、白米の山だ。一日に一石五斗の米を洗った。手はしびれる。朝飯の用意がすむと、六時半頃から八時半まで、敷きっ放なしの蒲団の中へもぐりこんで、ぐっしり何も彼(か)も忘れて、眠った。


冬が来てから、おしのは恋愛をした。彼女は、毎日きまって十五銭の昼めしを食いに来る青年のことを思い出したのだ。彼を見ると何故か青々とした木が思い出されるのであった。彼女は十七歳である。青年のことを平気で、他の飯たきにしゃべった。すると、ひやかされた。だが、本当に彼と結婚できるように思えてならなかった。
ある夜、寒さが身にしみて来たので、彼のために、首巻きを作ってやろうと決心した。しかし、その時間もなかったし、肝腎なことには、編み方なぞはちっとも知らなかった。で、家から持って来た「胴巻き」の中から五十銭を持ち出して、露店へ買いに出かけた。しかし、首巻きは高かった。少し考えた後、手袋にした。そして、それを枕もとに置いてあしたあの人に渡せますようにと、祈りながら寝た。


6

N工場で、職工を三十名募集した。吉田はこの中へはいりこもうと思った。応募した。
朝の五時に、受付けはもう百五十人を突破していた。守衛たちはこの混雑にまぎれて、組合のビラなぞを工場の中へ持ちこみはしまいかと、行ったり来たりして、警戒していた。七時半に締切られた。応募人員数はそれでも五時からは余り増してはいなかった。二百十七人である。
午後二時頃に、吉田は「試験」された。最初は体格検査があった。これは余り問題にならなかった。身体には自信があったから。
次に係りの者が彼に色んなことをきいた。履歴。
「すると、今まで、長野県にいたんだね。いつ頃上京した。」
「先月の二十日(か)です。」と吉田は嘘をついた。何故なら、ここでは永く東京にいたものは採用しなかったからだ。永く東京にいることは、危険思想にかぶれることを意味していた。
突然係りのものは質問した。
「イギリスの首府は?」
「ロンドン。」
吉田は反射的にすぐそう答えて、しまった、と思った。ここでは、イギリスの首府なぞは知らない、知っていてもすぐテキパキと答えることができないのを選び出すからだ。鈍重なものを職工に使うことは、政府から特秘な御用を申付けられる工場のために悦ばしいからだ。
――何れ採用か否かは通知する、と云う言葉をきいて、吉田は、わざとぽかんとさせた顔を、二度も三度もさげて「試験室」から出た。すると、空腹が急に意識されて来た。昼めしを食ってはいなかった。
ぶらぶら歩いて行くと、行きつけの飯屋では、もう夜の「定食」を出してくれた。自由労働者が四五人一ところでしゃべりながら煮魚をうまそうに食っていた。
終って表へ出ると、風が烈しくなっていた。そしてどっと砂が顔に吹きつけられた。口の中までジャリジャリした。と、うしろから追いかけて来る女の声があった。ふりむくと四角な肩をした、みにくい女だ。おしのである。
「待っておくれよ。これあげよと思って、買ったんだから――ひる待ってたに――」
そしてあっけにとられた吉田に白紙に包んだ手袋を渡して、さっさと駆けもどった。白紙には「あんたへ、おしの」と書いてあった。


7

街は暗かった。長い間の、ゴミゴミしたバラックは取りこわされていた。そして、大きな改正道路がつけられねばならなかった。こんな明かに通行のためにのみではない大きな道路が何のためであるかを、人々はあやしんだ。だが、バラックの住民たちは、強制立退命令で、どんどん場末へ場末へと押し出されて行った。
バラック街(まち)と云うものは(役人たちはこれを不良住宅と云っている)何と不気味なものであろう。それは迷宮だ。何がひそんでいるか分らない。乾してあるおしめの間をくゞて行くと突然、何の戸閉りもない人の家の中に入っていたり、沼nような水溜りへ出るのであった。表通りから予想できるより以上の軒数が奇妙な構成をなしながら、建っている。一度この中へ逃げこむと、もうその姿は、どこへ吸いこまれたか分らないだろう。そして人間は見えずに、四方から礫(つぶて)は投げられるだろう。――これは「家」によって出来あがったバリケードだ!
役人は、どんどん、そんな危険なバラックのかたまりを潰した。するおt、その取り払われたあとにはきまったように、黒い泡立った汚水が溜っていた。この沼地の上に立てられた、不衛生な住居に、よくも人間が生きて、労働をやって行けたものだ!そして、その水溜りの中には、時とすると、小さい浮草が色悪く生えていたり、震災当時の焼け残りの木片(きぎれ)が浮いているのが見られた。
再建築のために、街は以前より一層暗くなった。もっと場末へひっこさない家族たちは、この建築中の壁もない家の中で寝ていた。四方に蓆を立てて、そして、火は許されなかった。
その暗い街の中を、二人の青年が、こねかえされた道に苦しみながら、歩いていた。そこを通り抜けると、交番の前に出た。交番に守られて、そのうしろには、三つの工場が、夜業の煙を吐いていた。


青年たちは、その工場の塀に密着した。そして「はり紙厳禁」と云う木札のかゝっているその塀に沿って、伝票が手ばやくはりめぐらされた。まるで機械のように早かった。
その時、二人の通行人の姿が、彼らの眼にうつった。彼らは、すばしこく溝の中に身をひそめた。だが、安心したことには、それらは作業服をきた労働者であった。で、再び、伝票張りはつづけられた。すると突然、労働者姿の通行人は、懐中電燈でその伝票を照らした。それは黄紙に次のような文字が読まれた。
「×××、×××××××ため×××××××××××だ!」
読み終った二人の労働者たちは、青年に飛びかかって行った。四つの影が、薄暗い工場からの光りの中に縺(もつ)れた。彼らは「糞」とか「野郎!」とか、短く叫びながら、獣たちのように戦った。洋服とゴム靴の裂ける音と、筋肉のぶつかる音とが入りみだれた。二人の労働者姿はスパイどもだったのだ。労働者はすぐだまされる。味方づらした中に、たくさん敵の手先がいることを、青年たちはすつかり忘れていたのだ!
やがて、工場の中から守衛と、ガチャガチャとやかましい制服とが駈けつけて来た。

二十八年、十二月。

これは今書いている「江東」と云う長編のほんの最初の部分です

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最終更新:2019年02月06日 13:04