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- 私は大へん茶が好きである。朝食の後、熱い茶を口にした時など、よくぞ日本人に生まれたものだ、と思うほどである。少し大袈裟のようであるが、それほど茶の味というものが、日本の風土から生れた、特有のものであるからではなかろうか。
- しかし私はいわゆる「茶の湯」のお茶はあまり好まない。野人である私には「茶の湯」の方式が面倒臭いからではあるが、一言でいえば、茶の席に列している人々の顔が、多くの場合、田の畦に腰をおろして、番茶を飲んでいるお百姓のそれのように愉しそうでないからである。
- 人間のすることには自然に一定の形式が生じるものである。形式というものは、宗教と言わず、芸術といわず、日常生活の中にも欠くことの出来ないもので、長い間に自ら作られた、最も合理的で、便利な約束であると言えるかも知れない。しかし定まった行為を繰り返し行うということは、精神の固定化、つまり形式化する危険を多分に持っている。もっと委しく言えば、勝れた信仰者や、芸術家は、一つの定形の中に自己を置くことによつて、却って謙虚に、よりデリケートに自己を現すことも出来るのであるが、安易な精神を形式の中に置くと、類型化し、俗にいう型にはまってしまうのである。類型化とは、極端に言えば、自己の喪失であり、精神活動の停止を意味する。どんな場合にも、形式だけあって、精神の伴わない、人間の行為ほど無意味なものはないであろう。例えば、相手に敬意を表する場合、日本人は「お辞儀」という形式をとる。しかし「お辞儀」だけがあって、「敬意」という精神が伴わなかつたら、こんな馬鹿らしいことはない。
- 「脱帽、礼。」と、「敬意」を強要した時もあったほどであるから世間はそれでも「正しい礼儀」をするかも知れないが、信仰や、芸術の立場から言えば、赦されない。
- 茶道が芸術の道であるか、人間修養の道であるか、或はその他のものであるのか、門外漢の私には語る資格はないが、「道」といわれる以上、「茶の湯」という形式を通じて、「茶の心」ともいわれるべき、人間の精神活動が現されなければならないはずである。ところが、例えば和歌が万葉から、古今、新古今へと形が整って行くにつれ、却って和歌の生命力ともいうべき、作者の精神活動が失われて行ったように、今日の「茶道」は形式は一応美しいかも知れないが、私は残念ながら、この形式を裏打ちする強い精神力(強い精神力は必ずしも強い表現をとるものとは限らない。)を感じることが少ないのである。もっとも今日のこの現象は茶道に限ったことではないが、精神活動の喪失した形式は虚飾に過ぎない。
- 茶道において、最も強烈な精神活動を示したのは、私などが今更口にするまでもなく、利休であろう。利休の場合には、形式は自己の精神が活動するにつれて、自由に破られ、創られていったかに見える。誠に一道の第一人者というべきであろう。
- ところが、これほどの偉大な人間――偉大な芸術家といってよい。――が、何故、切腹しなければならなかったか。秀吉が自分の茶の師匠である、従って当時では心の師であった利休に、何故死罪を命じねばならなかったか。私は長い間疑問に思っていたのであるが、まだ何人も十分にこの疑を解いてくれなかったように思われる。
- 秀吉が利休の娘を求めて退けられたためであるとする説をとるには、秀吉があまりに小人物に過ぎる。利休が家康と内通していた故であるとする説明には、確実な証拠はない。茶道具の目利き売買に際して、利休に不正があったとする説は、秀吉が黙認していたと思われる節もあり、秀吉ほどの人物であってみれば、多少心証を害した程度に過ぎなかろう。最後に、大徳寺の山門に自分の木像を立てた件はどうか。後に、秀吉がその木像を磔にしたところをみれば、これを無視するわけにはいかないが、秀吉を怒らせた動機となったとしても、これが真の原因であったとするには、些か物足りぬ感じである。
- 土岐善麿氏の「摂取の能面」という書物の中に次ぎのような文章がある。
- 「いや、能面は、顔にあてるとか、つけるとかいうよりも、その面の中へ、こちらのからだ全体を、たましい諸共におし込めるものだと教えられているとおり、その心になった途端に、鏡の光を浮ぶ天女としてのシテの姿体は、もはや一個肉体的なものではなく、何の某でもなく、大きくいえば古典的、象徴的な存在となってしまうのである。能面の不思議さ、その霊妙な作用と効果は『聖なるもの』として、ここに一切を摂取してしまうのではあるまいか。」
- 私はこの一文を読んだ時、はたと利休の姿が思い浮かんだのである。両の掌にしっかりと茶碗を抱いた利休の姿であった。しかし、その利休の姿は「聖なるもの」に摂取された象徴的なものではなくいよいよ個性的な、岩のような姿であった。
- このようなことを言えば、「茶の心」を知らぬ人間の独断と笑われるかも知れない。しかし人間利休が他力的というよりは、多分に自力的な人であったことは、大徳寺の古溪と親交があったということばかりでなく、辞世の句の痛烈なことあ、「銀子を筆に添へて下されたならば、なお更結構で御座つた。」というような不敵な手紙を後世に残していることなどからも察しられよう。
- 利休は度々金銭を求める手紙を書いているが、その事は決して彼の芸術家としての偉大さを減じるものではない。むしろ自己の個性に対する確信の強さがそれをさせたのであって、逆に言えば、仮りに内心強く金銭を欲したとしても、何人がこのような卒直さでそれを筆にすることが出来るであろうか。自己の偉大を信じる人だけのなし得ることであって、自己の悟りであると言い得よう。従って、悟りをもって「私」のほからいであり、一種の限定となることを恐れる、他力信仰的なものが、利休の言動から少しも感じられないのは当然のことであろう。
- 利休が堺へ追放せられた時、助命を乞うことを勧める者があったが、利休は、天下に名を顕わした我らが命おしきとて御女中方へ頼んでは無念である旨を述べ、次ぎの辞世を残して、従容と死に就いた、という。
- 人世七十 力囲希咄
- 吾道宝剣 祖仏共殺
- 提ぐる我得具足の一太刀今此の時ぞ天に抛つ
- 和敬清寂をもって「茶の心」としているかに思われる利休の言動に、何故このような強烈な面ばかりが多く現れるのかと、私は長く不審に思っていたのであるが、こう考えて来るとやはり利休の自己の信仰の故ではないかと思われる。
- 他力信仰はいわば人間実存の不安定、自分というものの無力の告白から発している。従って、「私」の得た信仰というものはない。もし「私」の信仰があるならば、そこに必ず信仰の私有化ば生じ、固定化する恐れがある、しかし他力信仰は常に固定化することを恐れるから、そこに彼と我と対立することはないのえある。
- 利休は希代の天才人であった。若しも他力信仰のいうように、利休の天才が「たまわりたる天才」であるとするならば、「聖なるもの」の中に等しく摂取されてしまって、恐らく利休のような自己への確信は生じなかったであろう。
- しかし私はここで芸術家にとっての、自力信仰と他力信仰との優劣を論じるつもりは毛頭ない。唯、私の言いたいことは、彼を死に追いやったものは、彼の偉大な自我と、それに対する自力的な確信ではなかったか、といううことである。
- 秀吉も偉大な自我を持った人物であったろう。まして、人を殺すことを職業としていちょうな人間が自分の無力を思うはずのないことは確かである。すると、一人の偉大な自分を確信するん人間にとって、より偉大な自分を確信する人間の存在が、常に、ひどく鬱陶しかったのではなかったか。こう考えて来ると、利休に助命を乞うことを進めた人達が、秀吉の側近の者であるところよりしても、少なくとも既に秀吉の了解が得られていたものと考えられなくもない。しかし、もしそうだとすれば、利休にとっては、死を望むより他なく辞世の句の激烈を極めたことと共に、併せて理解出来るように思うのであるが、如何なるものであろうか。
- 私の頭に、再び利休の姿が粛然と思い浮かぶ。しかしその両の掌にしっかりと抱いた茶碗が、果して「摂取の茶碗」であったか、どうか。そればかりは、永久の謎としておくより他はないであろう。
最終更新:2018年11月30日 15:57