灼傷(外村繁)

 報德生命保險外交員、若山正造君は、坂口邸の玄關から出て來た。今一度あたりを見廻はしてみたい心を無理に押へながら、若山君は取り濟ました態度で、美しい粒の揃つた多摩砂利の上をザクリザクリと敬虔に歩いてゐた。眼は、紳士のやうに前の方を視てゐたし、少し大きめの口は、いつものやうにおちよぼ口に引きつぼめられてゐた。さうしてそれはその邊から、慇懃な、併し商賣柄まるで習慣のやうな微笑さへ漏れてゐるかのやうに思はれた。が、今日は持ち慣れた例の鞄を持つてゐないので彼はいかにも右手の所在に苦しんでゐるかのやうに、それをポケットの中へ入れて見たり、無闇に振つてみたり、また時には象の鼻のやうに曲げてみたりしてゐた。
 名も知らぬ種種の灌木類に混つて、澤山の楓の樹が、兩側からアーチのやうに枝を差し出してゐ、向かふ方はもうまるで綠色の煙のやうに燻つてゐた。さうして處處には躑躅や山吹の花が、赤や、白や、黄色のてん毬のやうに群ら咲きに咲いてゐた。さうかと思ふと不意に庭から、壁を打抜いて、太い松の枝が、一枝、ぐぐつと頭の上へ延び懸つてゐたり、まるで何か容貌――と言つた風なものを持つてゐるかと思はれる程古びた、途方もなく大きな自然石が、竹叢の中からぬつと突き出してゐたりした。時時、庭の方でゾーーと、いかにも奥床しい音を立てて、風が渡つて行つた。
 門を出ると、若山君は見上げるやうに振返つた。が、坂口邸はもう渠などには何の關もないと言ふ風に、森閑と靜まり返つてゐた。若山君は、一寸、自分が抓み出された犬のやうな恰好に思はれた。彼は急いで歩き出した。もう今度は樂樂と兩手をポケットに突込んだまま。
 若山君は急ににやにや獨りで笑ひ出した。さうして、――ええいいつそ、このまま此處で、ワッハッハと笑つてしまつてやらうか、とさへ思つた。
 今、若山君の頭の中は、実際もし出來ることなら、もう龜の子のやうに、せめて首だけでも何處かへ隱してしまひたいやうな恥しさで一杯であつた。何故かと言へば、今訪問して來た坂口敏氏の令夫人は、彼の靑春をただ「醜態」の二字で塗りつぶしてしまつた。彼の初戀の女(ひと)、鳥羽(とりば)淑子に相違なかつたからである。若山君は高い塀の並んでゐる屋敷街を、もう外務員の體裁など忘れて走るやうに歩いてゐた。甘い花の漂うてゐる空氣の中を通つたり、五彩の光を振り散らして、ざわりざわりと波のやうに搖れてゐる大きな椎の木の下を、魚のやうに通り拔けたりした。
  いつちくたつちく太衞門さん
  ろの音もぎいぎいもやの中……
 若山君は、いつの間にか彼の子供達の待つてゐる童謠かるたの文句などを、口早に口ずさみながら歩いて居た。急な坂の所へ來た。彼は、今度は速度の早まらないやうに口で調子を取りながら、とんとんと坂を降りて行つた。坂の下には廣い通がぶざまに横たはつてゐた。人や車が通つてゐ、河が淀みながら流れてゐた。電車も時時通つた。午後の鈍い陽をうけた、その穢れた窓には澤山の頭が並んでゐた。どうやら江戸川の通りへ出たやうである。改修工事の女土工達の地築き唄が黄色い塵埃の中から響いて來た。
 若山君は、皆がしているやうに、橋の欄干に凭れてそれをじつと見てゐる風であつた。が、彼は別に何も見てゐるのではなかつた。ただ時時、ドシンドシンと言ふ鈍重な音が、彼の頭の底に間遠に響いて來るばかりだつた。


 その結果は、もう今から判つてゐるやうにも思はれた。が、さう思つてしまふことは、彼にはどうしても堪へられなかつた。自分は、その性、確かに愚鈍ででもあらう。眉目も決して秀でてはゐない。が、小學校に入つて以來、自分は一度として友人に負けたことがあるか。一度とて怠惰と虚僞の行ひをしたことがあるか。又家は豐でこそないが、父は卑しくも國家の官吏であり、母も身分卑しき出ではないと聞いてゐる。――が、彼は知つてゐた。彼の女の名前が鳥羽淑子でありその父は鳥羽男爵であることを。さうして、さして廣大とまでは言へなくても、あの立派な石造の門と洋館のあるその邸までも知つてゐた。
男子の心血、そんな言葉が――そんな大形な言葉にも、彼は微塵の誇大さも感じない程、眞劍な悲痛さを以て――彼の心を刺した。さうしてそれh、彼の思慮の堤を決して氾流した。彼は充血した瞳に涙を湛へながら淑子への手紙を書いたのであつた。が、もしその時、誰かがそれを「戀文」とでも言はうものなら、彼は決眦して怒つたに相違ない。彼にとつては、それは実に「生命の血書!」であつたからである。
 「これを無謀と言ふのか。無分別と言ふのか」
 彼はたうとう泣いてしまつた。
 彼は、數日後、その手紙を淑子に渡した。どうした機に、どう言ふ風にそれを渡したか、また淑子がどんな態度でそれを受け取つたか、彼は何も覺えてゐない。ただ、其の一瞬の空の靑さを忘れることは出來ない。さうして、白い、雌蕊のやうな指だつた。が、それ以來淑子の姿は、もう見られなくなつた。彼は何處と言ふあてもなく、ただもう歩き廻つた。が、直ぐ、石造の門が彼の眼の前でチラチラした。學校だけは、牛のやうに眞面目な彼は、それでも休むことが出來ず、行くだけは行つてゐたが、彼の頭は風船玉のやうに宙に浮いてゐた。
 が、その結果は到底彼の思ひ煩つてゐたやうな生優しい形では現れなかつた。二三日後、彼が學校から歸つて來ると珍しく父が役所を休んでゐて、母と何か話してゐた。不意に胸がどくどく鳴つた。さうして血が頭の方へ走り上がるのを覺えた。彼は大急ぎで二階の自分の部屋に入ると、ぴたりと力を入れて戸を閉めた。さうして、彼はその頑丈な軀を縮めるやうにして、部屋の隅に坐つてしまつた。彼は背に痛みを覺えた。無心に柱を押してゐたのであつた。彼はそれを止めると、もうじつと呆けたやうに坐つてゐた。不意に何故か、このうす穢い部屋が、部屋中の物が、破れかかつた疊が、無骨な机が、さうして座蒲團の汚點までが、懷しく彼の胸に迫つて來た。ガタガタガッタンと表戸の開く音がした。彼はそつと窓から覗いてみた。すると、父が、紋付の羽織を袴に穿いた父が、すたすたと歩いて行くのが見えた。彼はほつと安心して、急いで階下に降り、母に父が何處へ行つたのかを、尋ねた。
 「それがね」と、母な言つた。
 「不思議なんだがね。先刻、鳥羽樣、そらあの男爵樣のね。鳥羽樣からお使があつてね。お父樣にすぐ來るやうにと言ふので、いらつしやつたんだが。何の御用だらうねえ」
 彼の面皰の澤山出來た黑い顔が、見る見る眞赤に脹れ上つた。軀がぶるぶる震へ出した。彼はもう一刻も此の母の前に立つてゐられなかつた。彼は二階へ驅け上つた。さうして部屋の眞中へ坐ると、急いで膝小僧を抱きかかへた。
 「神樣!たのむ。たのむぞ」
 彼はそんなことを言ひながら、力一杯膝小僧を抱き締めた。
 夜、彼は父に呼ばれ、父の前に坐つた。日頃、古武士のやうに嚴格な恐しい父である。彼は、だんだん冷たくなつて行くのを覺えた。
 「かう言ふことが一番親不孝になるのだが」
 父は、思ひまうけぬ、靜かなむしろ物寂しい聲でさう言つた。こんな父の聲を、彼は生れてから一度でも聞いたことがあるであらうか。彼は不意にさあつ!と、高い所から落下するやうな空しさを感じた。
 「が、何と言つてもお前はやつぱりわしの忰なんだ。お前なしには、わしはどうしても安んじて死ぬことも出來んのぢや。お前の心は決して惡くは取つて居らぬ。よいか。解つて呉れたか」
 さうして、明日は何處か遠くへ家を越さなければならない、と言ふことを告げた。彼はもう呆然として、阿呆のやうに默つてゐた。何故、家を越さなければならないのか。しかもそんな遠方へ。さうして、弟や妹の學校は……。彼は全身から生汗の滲み出るのを覺えた。
 失戀――彼の受けたものはそんなものではなかつた。
 恐しい者がゐるのだ。きつと此の世の中には恐しい力を持つた何物かがゐるに違ひないのだ。彼は、色の褪せた紋付の羽織を着て出て行つた、あの父の姿を忘れることは出來ない。
 住み馴れた我が家も、その懷しい思ひ出も、何も彼も、みんな、みんな、何處かへすうと消えて行つてしまつたやうに彼には思はれた。さうして、その後には唯一つ、大きな穴がぽかんと口を開いてゐるやうに思はれた。


 若山正造君は、永い間全く忘れてしまつてゐた、彼の可愛相な靑春を、ぽつと灯の點つたやうに思ひ出した。が最早、彼はそれを恥しいとは思はなかつた。却つて、何かほうと暖いものが、身體の何處かで目を醒したやうに感じられた。さうして、先刻珍しく恥しいなどと思へたことさへも、今は何だが樂しいことのやうに思はれた。實際こんなことは若山君にとつては實に珍しいことであつた。否珍しいと言ふよち、此處何十年の間絶對になかつたと言つた方が正しい。が、それは、一寸でも彼の職業について考へてみれば、直に理解出來ることであらう。苦しいとか、悲しいとか、恥しいとか言ふやうな言葉は、彼等の世界ではもうまるで外國語のやうに忘れられてしまつてゐた。
 くつと、折れるやうに、女土工達の身體が一齊に曲ると、によろによろと太い丸木棒が上つて行つた。途端に、まうで呆けたやうな地響が、ドッシン!と底の方から響いて來た。
 「なある程」
 若山君は何がともなくすうつかり合點が行つたやうに思はれた。さうしてやつと橋の欄干から離れた。すると今迄彼の側で自轉車に乘つたまま欄干に凭れてゐた男が、とんとんと左手で欄干を突くと、ぐつと上體を曲げながら、不意に彼の方を向いて一寸笑顔で會釋すると、すつと其の儘走り去つて行つた。若山君は思はず貰ひ笑ひをしながら歩き出した。若山君には今日は何だが生れて一番愉しい日のやうに思はれ、足どりまでが浮浮と浮き立つて來た。一臺の電車ががくがくと搖れながら、彼を追ひ拔いて行つた。彼は不意に其の後を一目散に追つ驅けて行きたいやうな氣持に驅られた。
 夕方、若山君は郊外の我が家へ靴を眞白にして歸つて來た。彼が玄關で靴を脱いでゐると、其處へ細君が奥からばたばたと走つて來た。
 「まあお歸りなさい。如何でした。今日は」
 細君は濡れ手をエプロンで拭きながら、さう言つた。割合に上品な顔立の、どちらかと言へば大がらな四十近い婦人であつた。若山君は細君にさう言はれて始めて、今日坂口敏氏を訪問した、否、出來た理由を思ひ出した。
 若山君は二週間程前に麻布のある坂道で坂口氏自身の運轉する自動車に跳ねとばされたのであつた。が、疵は大したこともなく、唯顔を二個所擦り剝いたのと、腰骨を强打されたので、二三日はどうしても歩行することが出來なかつた位のものであつたが、この小壯實業家坂口敏氏は運惡く丁度其の時、先日の自動車の運轉手の資格試驗に落第したばかりの口惜しまぎれに運轉手を無理遣りに助手席に追ひやつて、自ら運轉してゐたのであつた。其處で坂口氏は非常に狼狽して、若山君をK病院に擔ぎ込んだ。が、何より幸ひなことには、相手は無理難題を吹き掛けるどころか、少し善良過ぎる程善良な若山正造君であつた。坂口氏はほつと胸を撫で下すと、幾度も丁寧に頭を下げて、自分の不注意を詫びた。さして到底彼若山君の人格を、感激を以て讃え始めた。さうして彼の枕元まら、いつまでも去らうとはしなかつた。翌日、坂口氏は秘書に大きな花籠を持たせて、わざわざ若山君を見舞つた。が、次ぎの日も、また次ぎの日も、坂口氏は非常に多忙であつた。其處で、止むを得ず數日後秘書に見舞金の一封を持たせて、病院を見舞はせた。が、若山君は最早病院にはゐなかつた。その前日、若山君は醫者の留めるのもきかず足を引摺りながら退院して行つた、と言ふ話であつた。秘書は、この馬鹿な律義者のお蔭で、病院で入院料の拂戻しを受けたり、またそれから彼の大方のあまり大きくもなささうな家を探しに出かけたりしなければならぬのであつた。
 若山君が、今日坂口氏を訪問したのは、其の時の過分な見舞金のお禮かたがた、あはよくばこれを縁に一つこの大物をものにしてやらうと言ふ、商賣上の大切な用事を持つてゐたが、あの壯麗な應接室へ淑子夫人が現れた瞬間、若山君はそんなものは何もかも、商賣柄肝腎のことなどはもう眞先に、忘れてしまつたのであつた。
 「まあ、どえらいもんだぜ」
 若山君は、大切な商賣道具である一張羅の洋服を脱ぐと、シャツ一枚のまま、一寸てれ臭いものを感じながら、さう言つた。
 「まあ。さう」
 洋服を始末してゐた細君は、何かもつと吃驚するやうなことを言つてほしさうに、顔を上げた。
 「だが勿論、急つて譯にも行かないさ」
 夕食の食卓には久し振りにお銚子がのつた。若山君は、それをちびりちびり傾けながら、譯もなく機嫌が良かつた。時時辣韮などを摘みながら、チョンチョンと舌を鳴らしたりした。その前には、十三を頭に五人の子供が並んでゐた。一番上の男の子は父親に似て眞黑い、まるで眼だけが光つてゐるやうな顔をしてゐた。次の女の子も父親似で、少し大きいめの口をしてゐた。が、三番目の女の子は母親に似たのであらう。可愛いい顔立ちで、色もまた一番白かつた。四番目と、五番目の小坊主は色は黑かつたが、目もとは母親そつくりであつた。さうして、この小坊主は、まるでサイズだけ違ふ帽子のやうに、可笑しい程よく似てゐた。子供達は、久し振りに賑やかな食卓なので、すつかりはしやいで鮭のやうに饒舌りあつてゐた。若山君も、盃を重ねる毎に、もう氣味の惡い程、上機嫌になつて行つた。
 「坂口さん。どんな按配でございましたの」
 「鄭重なものさ。まあ一本は大丈夫だね」
 「まあ、大きい方」
 「勿論さ」
 若山君が、家庭でこんな商賣の話をすることは絕對と言つていい程、殆どないことであつた。細君などがうつかりそれを口に出したりすると、彼はいつも眉を寄せて實に不愉快な顔をした。が、今晩はどうしたのか、坂口邸の壯大なこと、先代坂口惣兵衞氏が如何に偉大な實業家であつたかと言ふこと、又敏氏のこと、さうして到底こんな大口をものにするには遠卷きの戰法を取らねばならないと言ふことまで、饒舌るのであつた。が、流石に淑子夫人のことについては一言も口にしなかつた。
 「よし、さあ明日から復やるぞ」
 若山君は、最後のお銚子の尻を振りながら、威勢よくさう言つた。それは丁度、發車間際の機關車のやうに頼もしい姿であつた。が、併し、それはまた何と言ふ旅情だ!丁度あの田舎の小驛に停車してゐる機關車のやうに。


 「牛」。これが若山君の渾名であつた。さうして、その名前は他の社の人達の間にまで知れ渡つてゐた。この渾名は昔は彼の魯鈍な性質を嘲つた調子を持つてゐた。が、今は、そんな意味で呼ぶ者は一人もゐなかつた。年下の連中などは、「牛さん」と敬稱をつけて呼んでゐた。
 「そいつあ君。前に牛さんがやつたんだぜ」
 さう言へば餘程の新米でもない限り、大抵の外交員達はもう諦めて二度と其の家へは足を運ばない位であつた。
 若山君はまた例の黑い鞄を提げて、渾名のやうに默默と働き出した。若山君は決して大口を狙はなかつた。さうして千圓の保險でも、一萬圓のそれと同じやうに熱心に且つ丁寧に扱つた。また彼は決して無理をさせなかつた。千圓の保險より掛けられさうにない人を煽てたり、恥しめたりして、多額の保險を掛けさせると言ふやうなことは、絕對にやらなかつた。だから、彼の成績は決して派手ではなかつたが、飽くまで着實で永續きがした。さうして、それは結果に於て却つて實績を擧げてゐた。ただ、それ故、忙しいことは人の二倍も三倍も忙しかつた。が、と言つて、彼は坂口敏氏の名を忘れてゐるのではない。ただ、彼は名將のやうに急がないだけであつた。
 學校出の若手がその秘訣を尋ねた時、彼はもぐもぐと如何にもきまりわるげにしながらも、こんな意味のことを言つた。――保險の勸誘と言ふものは、丁度、魚を捕経るやうなもので、魚の居る所へ直ぐ網を持つて行けば魚は逃げるに決つてゐる。だから遠くから、急がず、あせらず、じわじわともう逃げるに逃げられないやうに圍み上げてから捕へなければならない。――
 或る日、若山君は診査醫の來るのを待つてゐたが、まだ大分時間があるので、本屋の店頭で雑誌の立讀みをしてゐた。何氣なく、ある經濟雑誌の頁を操つてゐると、不圖「坂口敏」と言ふ活字が目に留つた。彼は其處で、今まで抱へてゐた例の鞄を臺の上に下ろすと、ゆつくりと讀み出した。「インフレ五人男」と言ふ題で、次のやうなことが書かれてゐた。
 「坂口敏――彼は人も知る我國財界の大先輩、坂口惣兵衞の御曹司であることは、今更此處で申すまでもない。川崎製鋼、昭和電工の社長であり、關係事業には日本火藥、森セメント、明治製麻、帝鑛等等がある。かう書いて來ると、よくもこれだけ非常時インフレに持つて來いの事業ばかりを集めたものだと感心させられる。が、何と言つても、一番浮き上り方の大きいのは、一時は何時潰れるかとさへ思われた川崎製鋼だ。これは論より證據、昭和五六年の川鋼の株價を見れば解る。拾三圓から拾五圓、最低は實に拾二圓貮拾錢まであつた。それが此頃はどうであらう。いや、これは讀者諸君のお樂しみに殘して置かう。夕方の經濟欄を一寸見ればすぐ判ることだ。ただ彼の持株は約二萬株であると言ふことを言つて置けば宜敷い。昭電、日本火藥、帝鑛、いやどれもこれも惡からう筈がない。以て筆者が『インフレ五人男』の筆頭に彼を拉し來つた所以である。
 坂口敏は明治二十六年生まれ、乃ち御年末だ……」
 若山君は、此處まで讀んで來た時、不圖、次の頁の「淑子」と言ふ字が、彼の眼にチラッと入つた。彼は思はず其の方へ眼を飛ばせた。
 「彼の妻女淑子さんは、誰でも知つてゐる通り、非常時政界の第一人者、鳥羽子爵の次女である。(お二人の結婚ローマンスは相當なもんですぞ)この男よくよく非常時に惠まれたものだ。が、お腕前の程は、前にも述べたやうに未だ前途遼遠である。川鋼を苦節十有餘年、今日まで持ち應へたのも決して彼の腕ではなく、大番頭西田六郎一人の力である。いい氣になつて、そろそろ浮いたをやり始めたやうだが、貞淑の譽高いお淑さんの手前もありますぞ。義父子爵に御目玉を戴かない前に、もっと修行を積むことだ」
 若山君は讀み終つて、肝腎の坂口敏氏の人物論の所を飛ばしてしまつたことに氣がついた。が、時計を見ると、最早診査醫との約束の時間が迫つてゐたので、また此の次ぎに立讀みすることにして、もう一度「お二人の結婚ローマンスは相當なものですぞ」と言ふ括弧の所へ目をやつた。さうして、二度も三度も讀み返した。が、どんなに讀み返してみても矢張りただそれだけの文句であつた。彼はこの短い文句がまるで閊へ物のやうに氣に懸つて仕方がなかつた。が、不圖「いい氣になつて……」と言ふ所から、一字一句を掬ひ取るやうにして讀んで行つた。「……お淑さんの手前もありますぞ」――若山君は、此處まで讀むと、何故か、急に閊へ物が除かれたやうに思はれた。彼は雑誌を閉ぢて、もとの所へ返すと、また例の鞄を抱へてのこのこ出て行つた。
 その日の夕方、若山君は東京驛で銅貨二枚を出して、夕刊を買つた。さうして、中央線の電車に腰を下すと、あの人を喰つた「インフレ五人男」の筆者の指圖通り、彼は早速經濟欄を擴げて、「川鋼」の二字を探した。
 若山君は、もうむしろ馬鹿らしくなつた。何もかも、かうしてちよこんと電車に乘つてゐることも、よいかと思つてこんな髭を生やしてゐることも、帽子のやうな變なものを大事さうに頭の上に載せてゐることも、鞄を提げてゐることも一切合切馬鹿馬鹿しくなつて來た。さうして到底噴き出してしまつた。全くそれは、もういつそ痛快な程馬鹿らしいことであつた。其の日の「川鋼」の株は、實に百五拾圓參拾錢であつた。
 それから、十日程すぎた或る日、若山正造君は川崎製鋼株式會社の第一應接室の椅子に獨りで腰を下してゐた。彼は先刻からもう随分待たされてゐるのであつたが、一向そんなことは感じない樣子で、普段のままのあの黑い同じ顔をして、初夏の陽差しの中にじつと坐つてゐた。さうして、窓を開けようとも、滲み出た汗を拭かうともしなかつた。
 「やあ。これは随分お待たせしました」
 さう言ひながら、其處へ坂口敏氏が入つて來た。坂口氏は實に文字通りの堂堂たる紳士であつた。色は、その眼鏡の金色がいかにも品よく似合ふ程、白かつた。脂肪の艶艶と太つてゐたが、背も高かつたので、決してそれは目立つ程ではなかつた。
 「こちらこそ、御多用のところを……」
 若山君は靜かに立ち上つて、馴れた樣子で慇懃にお辭儀をした。それは一寸第一公式と言つた風の、慇懃さであつた。
 「いや、いや」
 坂口氏はさう言ひながら、立ち上つて窓を開き、カーテンを引いた。流石にふんはりとした風が流れて來た。
 「いやどうもこれは暑い部屋でしてね。夏なんか、先づ無禮だと言つてもいい位、暑いんですからね」
 それから二人の間にはいろんな話が交された。自動車の話になると坂口氏は子供のやうに顔を赧らめ眼を輝かせて話した。
 「運轉手の奴、あれで中中教へて呉れないんでね。まあ一種の嫉妬――何か、かう優越感を侵されるとでも思ふのかね」
 若山君は主に坂口氏の事業について話した。さうしてその隆盛なることを祝つた。
 「何大したことはないんだよ」
 「何かの雑誌で、あなた樣のことを非常に激賞してをりましたやうですが」
 「そりや君。逆さまだらう」
 「いえ、私の拝見致しましたのでは、何か、かう一寸失禮でございますが、以前はその此處の御經營にも随分、御苦心遊ばしたやうに……。そして、何か、艱難汝を玉にした、とか、そのまあ一寸變な文章ではございますが……」
 かう言つた場合、若山君のこの鈍臭い顔と、この悲しいおちよぼ口から出て來るたどたどしい言葉とは大へん役に立つた。坂口氏は會心の笑と言つた風の笑ひを顔に浮かべながら、かう言つた。
 「艱難汝を、か。そりやいい。いや併しなんだ、く、し、んはしたね」
 「あなた様方にも、やはり御苦勞と言ふものはござりますんですな」
 「そりやア、君、あるさ。もつと大きい奴だよ。銀行屋には苛められる。株は下る一方と言ふんだからね。まあ、株の方はどしどし買ふには買つたがね」
 「その株が今日では……。いやもうどうも何ですなア」
 「ハッハッハ……。併し苦勞はしたよ」
 そんな調子で、坂口氏は度度快ささうに笑つた。がその笑聲は、御本人より却つて若山君に一番快く響いた。併し、若山君は肝腎の保險のことは、未だ噯にも出さなかつた。何故かと言へば、金持などと言ふものは、物欲しさうにすればする程、餘計入つて呉れるものではない。と言つて默つて居れば尚更のことではあるが。だから若山君は入り口の所をうろついてゐるばかりだつた。例へばかう言つてみた。
 「全く、其處へ參りますと、手前どもの仕事はもう……」
 「いや君。何事によらず辛抱だよ」
 「御尤で……」
 さう言つて引きさがらなければならなかつた。復かうも押してみた。
 「手前共の社長が、何かあなた樣を存じてゐるやうに申して居りましたが」
 「ほう」
 ただそれ限りであつた。が、不圖思はぬ所から巧く展けて行つた。
 「手前はこちらへは時時參りますので一寸……」
 「ほう。御用事で?」
 「は。こちらの代理店の方も手前が受持つて居りますので」
 「ああ。君は保險やさんでしたね」
 「左樣でございます」
 其處で、若山君は例のおちよぼ口を一層引きつぼめてさう言ひながら、丁寧に頷いた。さうして續いて何か言ひ出さうとした。其の時、坂口氏はそれをおつかぶせるやうに言つた。
 「どうだね。保險屋さんは。だが、君の前だが、僕等にはこいつが一番苦手、いや實に困るんだ」
 「いや御尤もで。それはもうなんでございます。全く御尤も千萬の事でございまして、大體そのあなた樣方にはそのもう保險と言ふやうなものの必要、いやもう頭から意味のないことでございまして、そのなんでございます。假に千、二千、いやその一萬、二萬と申しましてもです。それが、いやそれを御老後お受け願つたと致しましても、それがあなた樣方には、別にもうなんでもないことでございますので、いや實際、なんでございます。手前どもはまあ保險の外交と致しましては、海千山千の方でございますが、あなた樣方にお勧めするにも、もうその第一言葉がございませんので」
 「所が君、君のやうに解つて呉れるのは、ゐないんですね。君なんか矢張りその道の達人とでも言ふ可きなんだね」
 「いやもう解つて居りますんですが、それがそのまた因果なことにはあなた樣方は手前共保險屋にあ、まあ申せば金的のやうなものでございますので。つい若い人などは身の程知らずにそのまあ何するんでございまして……」
 「どうして金的かね。まとまるからかね」
 「いえ。そんな金錢上のことではもうございませんので。名譽、それでございます。そして又實際社の大名譽でございますからね。これは」
 「まあ一寸廣告になるからね」
 「もつと深い意味でございますね。唄とか、ダンスとか、まさう言ふ風な藝事の方などで御有名な方の場合はさうでございますが、此の財界の御有力な方に御加入願つたとなると、それはその社の信用上、絕大なる力を加へることになるのでございまして。でございますから從つて手前共外交員の名譽は、もうそれは申すまでもないことで、まづ金鵄勲章と言つた処でございますね。また實際若しそんなことがございますれば、まづこの道では食ひはぐれはないと申しましても過言ではございませんでせう」
 「ほう。そんなかね」
 「でつい若い人などは、その身の程知らずに、そのまあ申すのでございますよ」
 「成る程ね。所で君は一體誰のを取つたね」
 「そう致しまして、手前などは。併しまあこれも年のお蔭と申しますか、身の程と言ふことを存じて居りますので」
 「ほう。ほんとにないのかね」
 「ない方がほんとなんでございます。殊に此頃はもうそんなことは絕對にございません。ただ御有力者を御親戚とか、御姻戚に持つ若い社員などが、時時、それもほんの時時でございますね」
 「若山君。ぢや一つ僕が入つて上げようかね」
 「飛んでもない。左樣な……」
 「いや若しそれが、斯界の達人若山君の名譽の一端にでもなり得たらだね」
 かくて若山君の網は先づ鮮かに投ぜられたやうに思はれた。が、彼自身は決してさうは思つて安んじてはゐなかつた。彼はかう言ふ人達の無責任な氣紛れをよく知つてゐた。また彼の「インフレ五人男」の筆者は坂口敏氏のことを「腹にもないのに輕口を叩く惡い癖がある」と評してゐたではないか。
 其處で、若山君は愼重に幾度も策戰を繰り返した後、二十日程經つて、重ねて坂口氏を訪問した。が、坂口氏は案外氣輕にかう言つた。
 「保險の方ね。僕は一寸困ることがあるから、奥を代りに入れることにするからね。いいだらう」
 其の時、最初は、若山君はその「奥」と言ふ言葉が解らなかつた。が、不圖それは彼等の言ふ家内とか、女房とか言ふ意味、即ち淑子夫人のことだと言ふことに氣がつくと、彼は何故かどきりとした。さうして、ただもう、「はあ、はあ」と言ふばかりで、頻りに顔の汗を拭つてゐた。
 次ぎに訪問した時には、坂口氏は不在であつた。其の次ぎの時は、手離し難い用事があるからと言ふので面會出來なかつた。
 もういつの間にか、季節は夏から秋へ移つてゐた。川鋼の、あの門衞のゐる窓邊にも、紅と白のコスモスが貧しく咲き亂れてゐた。が若山君にはそんなものは何一つ眼に入らないやうであつた。彼はただ暇さへあればせつせと川鋼通ひを續けてゐた。さうして、それは次第にその度數を增して行つた。が、此頃はどうしてか、その肝腎の坂口氏に面會することは殆ど出來なかつた。また、よしたまに面會することが出來ても、それはほんの數分間にしか過ぎなかつた。其の上、坂口氏は例へばこんな言葉を無愛想にぶつつけた。
 「何か急な用事かね。今日は生憎多忙なんだが」
 「保險だつたら、君この次ぎにして呉れ給へ」
 「さう君のやうに度度來られては困るね。僕は忙しいんだから」
 が、若山君も一旦握つたものをさう易易と離さうとはしなかつた。或る日、坂口氏は、
 「保險の方はね。君、近い内に君の方へ通知するからね。それまで待つてゐて呉れ給へ。きつと近い内にするよ」
 と、いつにかく機嫌良く言つた。其處で、若山君は御機嫌に逆はないやうに辛棒强く一月以上も待つてゐた。が、坂口氏からは何の通知も來なかつた。若山君は到底待ちあぐんで久し振りに坂口氏を訪問した。すると、坂口氏は若山君の顔を見るなり呶鳴りつけた。
 「待つてゐろと言つたら、君待つてゐ給へ。十年でも百年でも待つてゐるんだ」
 「いえ、もうそれはいつまででもお待ち申しますが、ただその、氣になりまして、氣になりまして、實は昨夜もよその社の人に取られてしまつたやうな、夢まで見る始末でございまして……」
 若山君は落ちついてさう言つた。すると、坂口氏は、もうまるで憑き物でも拂ひ除けるやうに手を振り動かしながら、紳士にあるまじきこんな言葉を、きれぎれに言ふのだつた。
 「その顔を見ると、頭痛がする」
 「さもしい根性だね。あの時にもう十分にしてやつたぢやないか」
 「顔を、顔を、さう出すな。我慢が出來ん。もう歸り給へ。歸り給へ」
 若山君は、坂口敏氏と言ふ人がどんな人であるかと言ふことを、知つた。其處で、愈々最後の方法を取りことに決めた。これは、若山君にとつては、所謂「封じ手」であつた。が、これも最早止むを得ないと腹の中で思つた。保險に入つてやらうと言ひ出したのは、坂口さん自身ぢやないか。そのお蔭で今迄に随分無駄な時間を費しもした。もうかうなれば、頭痛がしようと、我慢が出來なからうと、それは他人樣のこと。豚と言はれようと、蟲けらと言はれようと、痛くも痒くもない。愈々「ごり押し」の一手である。――さう若山君は腹を決めた。

 さらさらさらと、二音、三音、幽かに落葉が鳴つた。と言ふより、何かが落葉の上を通つて行つたやうだ。――と思つた其の時、不意に、サア……と、ある消え入るやうな幽かな音が四邊から起つた。が、間もなくそれは次第に遠くの方へ走り去つて行つた。
 「時雨。ナア」
 若山君はさう思ひながら、そつと熱に暑い我が子の手を取つてみた。末子の外男が流行性感冒に罹り、高熱が去らなかつた。それで、若山君は夜は細君と交替に、看病のため外男の枕もとに坐つてゐた。
 戸外からは樣樣な音が聞こえて來た。どどんと、戸が鈍い音を立てた。がさささ……と何か大きな葉が屋根の上を走つた。とゆは、木の枝の揺れるごとに、がさこそと鳴つた。チチー、チチチーと蟲のやうな聲が絕え絕えに聞こえた。すると、またかさかさと落葉が鳴つた。また時雨が渡つて來たのだ。若山君はじつとその音に聞き入つた。軈て、時雨は去つて行つた。
 若山君は晝間の疲れからついうとうとと居眠りをした。其處へ、此夏お盆禮に坂口邸を訪問した時のことが、夢になつて現れて來た。
 若山君は淑子夫人とあの廣い庭を歩いてゐた。二羽の丹頂の鶴がその前をまるで優雅な先導役のやうに歩いて行つた。歩く度にあの白い細長い首は美しい曲線を描いてしなりしなりと動いた。都會の騒音は、何か不思議な防音装置で遮られてゐるかのやうに、その無禮な音を消してゐた。淑子夫人は殆ど物を言はなかつた。ただ途が二つに分れてゐるやうな所へ來ると、靜かに手を伸べて彼を案内した。若山君はもう顫へてゐた。さうしてまるで浦島太郎のやうに幸福であつた。
 クワァークワァー、不意に鶴が二聲空に向いて鳴いた。聲は悠悠と弧を描いて廣まつて行つた。松や、檜や、椎の大樹の枝枝を、波のやうに搖すりながら、風がゾゾゾーと渡つて行つた……。
 若山君はまた時雨の音を聞いたやうに思うひ、はつと目を醒した。が、其の時は何度目かの時雨が丁度去つてしまつた跡であつた。戸がどどんと鳴つた。風呂敷を被つた電燈の光が鈍く室内を照してゐた。
 若山君はその朝顔を洗ひながら、不圖よい考が浮かんだ。其處で、今日川鋼に行くことにした。若山君は此の間から數度川鋼へ行つてゐた。が、今度は面會どころか、門さへ入ることが出來なかつた。門衞はもう悲しくなる程古びた威嚴を振り立てて、彼を拒んだ。
 「社長の命令だよ。君。御機嫌を損じたね」
 門衞は、丁度この季節のやうに淋しい髭を捻りながらさう言つた。
 それ故今日は若山君は門の近くまで來ると歩調を緩め、覗き込むやうに心持ち上體を曲げながら、注意深く歩いた。が、矢張り門衞はゐた。窓越しに髭を弄うてゐる姿が見られた。若山君は路地の方へ一寸曲つて、暫くの間立ち止つてゐた。が、門衞は動かなかつた。若山君は靜かに歩き出した。が、その足は次第に早くなつて行つた。若山君は路地を一廻りして、元の處へ歸つて來た。門衞は前のまま椅子に腰掛けてゐた。二度、三度、四度、それを繰り返した。が、矢張り門衞は醫た。五度目。若山君ははつとした。門衞が兩手を後に組んで、まるで自分の脚の運動がいかにも珍しいやうに、首をぐつと意識的に下げたまま、あちこちと歩いてゐるのだつた。若山君はそのまま、其處に立ちつくしてしまつた。が、軈て門衞はこの奇妙な運動にも倦いたのか、また椅子に腰を下してしまつた。六度目、若山君がまた路地を一廻りして何氣らしく歸つて來ると、今度は門衞の姿は見えなかつた。若山君は流石に胸をときめかしながら、恐る恐る門に近づいて行つた。門衞はゐなかつた。若山君はつつと門を入つた。さうして、思はず器具庫とした札の掛つてゐる黑い建物の蔭に身を匿した。どんより曇つた空に工場の煙が薄黑く重つてゐ、幾筋もの黑い電線がその中に傾いてゐた。それを子供のやうに眺めながら、若山君は、どうしよう、と思つてゐた。若山君は少しづつ歩き出した。不圖、此の先が事務所の裏になつてゐることに、氣がついた。若山君はその方へ歩いて行つた。赤煉瓦の大きな建物の所へ出た。澤山の窓が並んでゐた。少し行くと、丁度中程に一際大きな窓が二つ並んでゐた。立派なカーテンの垂れてゐるのも見られた。若山君は何故か一寸覗いて見たくなつた。丁度手頃な足場があつたので、それに片足を懸けると、片手で窓の格子を摑んでひよいと覗いて見た。一人の洋服を着た男の人が何か書見をしてゐた。が、よく見るとそれは坂口氏であつた。若山君は一寸どきつとしたが、又一方、不思議なことには、何か豫想してゐたことのやうにも思はれた。坂口氏は不圖それに氣がつくと、吃驚して立上つた。さうして、瞬間、はつと見据ゑてゐたが、忽ち顔を赤ん坊のやうに顰めると、何者かを追つ拂ふやうに二三度手を振り動かした。さうして、何事か呶鳴つてゐる樣子であつた。が、それは若山君には何も聞こえなかつた。ただ、口だけが、ぱくぱくと動いてゐた。若山君は例のおちよぼ口に慇懃な微笑を浮かべながら、一寸帽子を脱いでお辭儀をした。すると、坂口氏はもうまるで駄駄つ子のやうに、足を忙しく動かしながら、一層激しく手を振り上げたり、口をぱくぱくさせたりした。若山君は、不圖、今日はこれ位にして置かう、と思つた。其處で、また一寸お辭儀をすると、ぽんと飛び降りた。さうして、どんどん歩き出した。若山君は器具庫の蔭から門の方を覗いて見た。門衞はいつものやうに椅子に腰掛けたまま、相變らず髭を弄つてゐた。若山君はどうしようと思つた。すると其處へ一人の若い社員が走つて來て、門衞の手を引張るやうにして連れて行つてしまつた。若山君は悠悠と門を出た。さうして、もう普段のままの顔付きで、若山君はどぶ臭い工場街をすたすたと歩いて行つた。
 此の場合一番氣の毒だつたんは、門衞であつた。社長には呶鳴られ、人事課長には始末書まで取られた。が、その始末書は「小便をやつとる隙に乘じ、云云」と言ふ、世にも珍しいものではあつたが。
 「わしの小便は、そりや一寸永いには永いが、これで齢の割には、たまりはええ方ぢやがなア」
 門衞はまたもとの椅子に坐つて、いつものやうに髭を弄りながら、さう思ふのだつた。
 翌日、若山君は同じ時刻に川鋼を訪ねて行つた。人は、と言つても朝早くから職場に就いてゐる人達には、此の朝の九時過ぎと言ふ頃は、得て退屈ごころの起り易い頃合である。退屈すれば、人は一寸小便でもしたくなるであらう。さう若山君は當て込んでゐた。それに第一坂口社長が若し出社してゐるとすれば、それはいつも此の時刻から正午迄と、決つてゐたからである。
 若山君はチラと門衞の姿を見ると、ふいとまた昨日の路地の方へ曲つた。すると其處に三人の男が立つてゐた。若山君の姿を見ると、その三人の男は、つかつかと彼の方へ寄つて來た。さう思つた瞬間、一人の男の手がぱつと延びた。若山君は不意に、眼ぶちにかつと熱いものを感じた。はつと片手で其處を押へた。ぱかん、と今度は鼻柱が鳴つた。若山君は思はず兩手で顔を掩うた。其處までは一一はつきり意識してゐた。が、その後はもう何も解らなかつた。毆られてゐると言ふよりは、顔中がぱつぱつと脹れ上るやうだつた。さうして頭は何かぱかぱかと、灼熱した蹄のやうなものを感じてゐた。不意に横腹を蹴られた。息が詰るやうでもう立つては居られなかつた。若山君はぐなぐなと倒れてしまつた。すると今度は、尻を、背中を、腕をばかんばかんと蹴られた。横腹へ一つ大きい奴が來た。若山君はううんと、本當に息が詰つてしまつた。が、次の瞬間、彼ははつと氣がついた。どぶの中へ落ちたのだつた。ずぶずぶずぶと、足に手に、氣味惡い感觸があつた。無數の泡が彼の鼻先でぷちぷちと彈ぜ、臭氣が一時に鼻を衝いた。彼は思はず顔を上げた。三人の男は最早其處には居なかつた。
 若山君は夢中でどぶから匐ひ上ると、其處に坐つてしまつた。もうどうしても立つことは出來なかつた。腰が、腕が、顔中が勝手勝手に呻り廻つてゐるやうだつた。右の手は一寸も上らなかつたので、左の手で、顔中を探つてみた。唇が鼻に觸程脹れ上つてゐ、鼻血や、泥が流れてゐた。若山君はそれを拭かうと半巾を取り出した。が、丁度其處へ人のやつて來る氣配がした。そこで若山君は、半巾で顔を掩ふと、眼を閉ぢ、口を歪めながら立たうとした。が、びきんと筋の切れるやうな、ぎ、ぎ、と骨の鳴るやうな痛みを覺え、またその儘坐つてしまつた。
 「どうしたんだね」
 通りかかつた、おかみさんがさう言つた。するとまた何處かでこんな聲がした。
 「借金とりなんかね」
 若甘君は、それにはわざわざ痛い首を横に振つて、應へた。
 「醫者なら、そこの二つ目を右に廻ると直ぐだよ」
 若山君はお辭儀のつもりで、丁寧に合點を一つして、やつと立ち上つた。さうして片足を、ずつーずつーと引き摺りながら歩いて行つた。が、例の鞄はもうちやんと左の脇の下に挾まれてゐた。
 その翌朝、若山君はやつぱり平日のやうに社へ出る用意を始めてゐた。それを見ると、彼の細君は、今日だけはと、無理にも押し止めようとした。が、彼はどうしても訊き入れなかつた。到頭細君はぽろぽろ泣きながら言つた。
 「後生ですから、今日だけは」
 それでも併し、若山君は訊かなかつた。右の手は、三角巾で首から吊られてゐた。右の眼の緣は靑黑く脹れ上り唇と鼻と一緒に盛り上つてゐた。さうして、頭には三つ瘤が出來てゐた。が、脚だけは幾分いいやうであつた。若山君は到頭、それでも跛足を引き引き出て行つてしまつた。
 若山君は社へ行くのではなかつた。今日も彼は性懲りもなく、川鋼へ行くのであつた。
 若山君は今日はもうどんどん門の方へ進んで行つた。例の門衞氏がゐた。が、彼は平氣で門を入つた。
 「ほう、君、それはどうしたんぢやね」
 門衞氏は眼を丸くして、立ち上りあまさう聞いた。
 「いや、もう、とんだ人違ひで……」
 「ほう、そりや、そりや災難だつたなア。飛んだ災難ぢや」
 無邪氣な此の門衞は、半ば同情と、半ば好奇心とで、此の間のことなd、もうすつかり忘れてしまつてゐた。
 「いや、歸りにいづれ……」
 若山君は例の微笑の代りに今日は慇懃な身振りでお辭儀をすると、その儘、事務所の受付の方へ歩いて行つた。
 「どうなすつたんです」
 受付の靑年も若山君の姿を一目見ると、いきないrさう言つた。
 「いや、一寸、その大將お居で?」
 「は、一寸お待ち下さい」
 受付の靑年は何か物に慴えたやうに浮腰でさう言ふと、奥の方へ行つたきり中中出て來なかつた。若山君は一寸不安なものを感じた。が、今更どうすることが出來よう。若山君は觀念して、なまなかは要心や、身構へは、何もかも止めることにした。顔や腕の疵が何かの豫感でまた疼き出したやうに思はれたが。
 「では、こちらへ」
 受付の靑年が不意に扉から首を出してさう言ふと、若山君を應接室に案内した。若山君は跛足を引きながら、其の後に從つた。若山君の頭はもう何も考へる力がなかつた。ただ、今は椅子に腰を下したい心で一杯であつた。若山君は其處で長い間待たされた。それは流石の若山君も永いと言ふことを感じた程であつた。誰も來ないで、いつまでもこのまま置き捨てにされるのではなからうか、とさへ思はれた。
 靴の音が近づいて來た。若山君は首を垂れて、それを待つた。
 「いや、お待たせしました」
 それは意外にも靜な聲であつた。其處には一人のもう初老に近い紳士が立つてゐた。紳士は一枚の名刺を取り出した。それには西田六郎と書いてあつた。若山君は狼狽てて一禮をすると、自分の名刺を取り出さうとした。が、その紳士はそれを押し止めて、かう言つた。
 「いや、お名前も、御用件も存じてゐます」
 「恐縮でございます。かやうな恰好で……」
 「直ぐ御用件に入りませう。保儉ですね。それは社長も一旦加入するやう申されたことですから、直ぐにも加入致しませう。ただ此處に一つお約束があるのですが、御承諾願へるか、どうか」
 「は」
 「何でもないことです。それは唯今後絕對に社長を訪問しない、と言ふことを約束していただければいいのですが」
 若山君はそれに何と答へていいか、一寸解らなかつた。西田氏のその靜かな語調にもかかはらず、それは非常に慘酷なものを含んでゐるやうにも思はれた。
 「一寸、これは失禮なやうですが、社長はさう申されるんです。つまり、これで出入りして頂かない、いや、全然見ず知らず、と言ふことにして頂きたいのです。いかがでせう」
 「仰せでございますれば……」
 若山君はしをしをと、さう答へてしまつた。
 「いや御承知願へれば結構です。それでは用紙を、その保儉の方の申込書ですか。一枚いただきませう」
 若山君は、もうぼんやりしてしまつた。今起つてゐることが、何のことか、はつきり意識さへ出來ないやうである。若山君はただもう言はるるままに、左の手を不自由な機械のやうに動かして、例の鞄の中から一枚の申込書を取り出した。
 「では、暫く」
 西田氏はその申込書を手にすると、さう言ひ殘してさつさと出て行つた。若山君は嬉しいのか、悲しいのか、もうそれさへ解らず、ただじつと白い繃帶の卷かれた右の手を眺めて居た。其處へ西田氏は直ぐ歸つて來た。
 「それでは、これ」
 さう言つて、西田氏はその申込書を若山君の前に出した。
 「私はあなたを紳士として申すのですが、お約束は是非とも守つていただかないと困ります。實は社長はあなたのことを言ふと、もう非常に昂奮されますので。萬一、守つていただけないやうな場合には、どんなことが起るか解らないですから」
 「私はお約束を破るやうな男ではございません」
 「いや、有難う」
 若山君は申込書を手に取つた。保儉金額は一萬圓、保儉者は坂口敏氏、被保儉者は淑子であつた。それを見ると流石に若山君の手はぶるぶると震へた。西田氏は悦明するやうに言つた。
 「社長は保儉には絕對にお入りになりませんので、ほんのお附合ひまでです。それで、明明後日の午前十時から十二時までに、御本邸の方へ伺つて下さい。時間を間違はさないやうに」
 若山君は申込書を鞄の中に入れた。さうして、痛い右の手を、せめて二三度それに觸らせてやるのだつた。
 歸途、若山君は門衞と何か立話をしてゐた。が、それは傍から見てゐてもいかにも樂しさうな、二人の恰好であつた。


 報德生命保けん株式會社の食堂は地下室にあつた。が、丁度、この壯麗な建物の臓腑のやうに穢れてゐた。卓子には土色の珈琲や紅茶が流れてゐたり、パンやライスカレーが食ひ荒されたまま殘つてゐたりした。澤山の人人が出たり入つたり、立つたり坐つたりしてゐた。丸いのや、長いのや、四角いのや、髭のあるのや、もう樣樣の顔が動いてゐた。それは皆、どれもこれも一癖二癖もありさうな顔であつた。が、また見やうによつては、それ等は一樣にもう耐へ難きものに耐へ忍んでゐる、崇高な顔でもあつた。
 「おい。押し迫つて來やがつたなア」
 「迫らしとくよ。僕は元來その主義なんだ」
 「ちえつ!何とか言つてるぜ」
 「ねえ、君。何故正月と言ふやうな馬鹿なものを拵へたんだらう。十二月、十三月、十四月でいいぢゃないか」
 「馬鹿言つてやがらア」
 こちらの卓子では、こんな馬鹿げた會話が交されてゐるかと思ふと、向かふの卓子では二人の中年の紳士が今年の大根の高い話をしてゐた。
 「いや全く。この調子ですと、來年は澤庵も中中食はれませんて」
 「一寸伺ひまずがね。インフレ景氣と言ふのは一體全體どこにございますので」
 突然、中央の卓子からこんな甲高い聲が起つた。其處には四五人の若い連中が卓子を圍んでゐた。さうして、此處には中中威勢のいい議論が卷き起つてゐた。軍需インフレ、ソーシャルダンピング等と言ふ言葉が次ぎから次ぎへと飛び出した。
 「日本製鐵を見給へ。二割の增配ぢやないか」
 「川崎製鐵、百二十割のボーナス。ヂャンヂャンヂャン。それは昨日の夕刊賣りだよ」
 「馬鹿。君は眞面目に言はないのか」
 「君のやうな空論には、僕は負けるよ」
 「いや若い人達はいつもながら、元氣ですなア」
 大根の話をしてゐた、向かふの卓子の紳士の一人がさう言つた。
 「全くです。併しお互にインフレ相場ぢやありませんね」
 「何をおつしやるんです。あなたまでが」
 外には、小糠のやうな雨が霏霏と降つてゐた。こんな日には誰も外へ出るのが億劫なのであらう。立ち上る人は少なく、無駄話の間に卓子の珈琲は濁り水のやうに冷えて行つた。外套に水玉を光らせながら、四五人の人が入つて來た。その中に、目立つて體格のいい白面の靑年紳士がゐた。彼は嘗つて、某大學の有名な野球選手だつた人である。彼の姿を見ると、一つの卓子でこんな會話が聞こえよがしに始つた。
 「ちえつ!此頃はマネキン野郎も、游いでばつかり居やがるぢやねえか」
 「あたり前だよ。彼奴らの景氣のいいのはほんのはなの間だけだよ」
 「そろそろお拂箱つてわけか。可哀想なやな氣がするね」
 「一寸女を釣るやうな譯にはいかないさ。何でも商賣つてものはな」
 「ええい。鴨でも來ないかなア」
 「ねぎも添へてよいよいよいか。畜生!」
 不意に、こんな大きな聲が何處かの卓子から起つた。が、そんなもう聞き倦きる程聞き過ぎてゐる言葉には誰一人笑ひ顔一つ向ける人もゐなかつた。其處へ、若山君が例の黑い鞄を今日は左手に抱へて、入つて來た。若山君は二三人の人と輕く挨拶を交すと、奥の方の卓子に坐つた。右の手にはもう繃帶さへしてゐなかつた。また顔の疵も注意してよく見なければ判らない程に癒つてゐた。若山君は、ボーイの運んで來た五錢の紅茶を啜つてゐた。が、何故かひどく元氣がなかつた。心のせゐか紅茶茶碗を持つてゐる左手がわなわなと慄へてゐるかに思はれた。
 「牛さん。今日は馬鹿に元氣がないね」
 「病氣ぢやないかな」
 よその卓子でこんなことが囁かれる程、じつと一と所を見据ゑてゐるその眼射しに、何か痛痛しい程の窶れが潜んでゐた。其處へ醫務副課長の高坂博士が入口の所に立つて、あたりを見廻してゐた。その姿を見ると、傍らの人達は一人一人立つて丁寧にお辭儀をひた。若山君は靜かに博士の方へ歩いて行つた。さうして二人は列んで出て行つてしまつた。若山君が大へんな大ものをものにしたらしいと言ふ噂□が此の食堂に傳つたのは、それから間もなくのことであつた。
 若山君と高坂博士の乘つてゐる自動車は坂口邸の門を入ると、多摩砂利の快い音を立てながら徐行した。すつかり葉の落ち盡した楓の枝枝には無數の水玉が浄瑠璃の珠のやうに聯つてゐた。
 若山君と高坂博士は八疊の日本間に通された。博士はそんなものに趣味があるのか、床の間や天井の板目を頻りに眺めてゐた。さうして、二度も三度もかう言つた。
 「大したものだね。これは」
 が、今若山君はそれどころではなかつた。もう先刻から暑くなつたり、寒くなつたりしてゐた。もうじりじりする程待たれるやうな、またかうして刻刻の時間の進んで行くのが怖しいやうな、さうかと思ふと、もういつそ此の儘どこかへ消えてしまひたいやうな、樣樣な氣持に襲はれた。
 今日で最後だ――その考へが、實は若山君の頭から一刻も離れないのであつた。それは何と言ふ侮辱だ。否、もうそれは侮辱などと言ふ言葉では到底言ひ現すことの出來ぬ、何か虚しい匂を持つた白い煙のやうなものであつた。が、その白い煙のやうな空しい想念の中へ、時時、淑子夫人の白い肌が、愛情の籠もつた、然し妖しい像となつて浮かび上るのだつた。
 女中がお茶を持つて來た。すると、その後から淑子夫人が入つて來た。夫人は、鼠がかつた横縞のお召の着物に、同じ色調の羽織を着てゐた。この地味な服裝は却つてこの上品な夫人の顔を一層引き立ててゐた。一順の挨拶がすんでから淑子夫人がさう言つた。
 「到頭主人が敗けましたのね」
 「いや……」と、若山君は思はず言つた。
 「大へん御熱心な方だと申して、主人も感心致して居りました」
 「そりや、奥様。此の人は保儉屋の神樣のやうな人なのです」
 高坂博士までがそんなことを言つた。若山君はもう腹が立つて來た。若山君は今日ばかりは保儉の觀誘員ではありたくなかつた。否、ないと言ふ心構えであるのである。褒められたり、同情されたりしてはたまらなかつた。若山君は何とかして一度でいい。身分と言ふものを消した淑子夫人を感じたいのであつた。
 時候の話や、世間話がいろいろ語られた。有閑夫人の話も出た。すると淑子夫人は意外にもこんなことを言つた。
 「その方方のお氣持は判るやうな氣が致しますの。つまり私などは唯その甲斐性もないのでございますわ」
 博士はその夫人の言葉が氣に入つたのか、急に饒舌になつて、それからそれへと一人で話してゐた。が、若山君は何も耳に入らない樣子であつた。時時、狼狽てて頓珍漢な返事さへするのだつた。
 「ぢや一寸診せて頂きませう。帶だけおとり下さい。寒いのに御面倒ですが」
 博士は長話の後で、やつとさう言つた。さうして、いつの間にかもうちやんと「醫者の顔」になつてゐた。
 「いいえ。今日は暖かでございますから」
 淑子夫人はさう言つて、手を後に廻して帯を解き始めた。シュッ、シュッと、帶は爽やかな音を立てて鳴つた。若山君ははつとした。何か熱いものが身體の中を走つた。が、其の時、不意にこれではいけない、もつと落ち着かなければと、思つた。若山君はううんと腹に息を詰めた。
 「さあ、こちらへ」と、高坂博士は言つた。淑子夫人は片手を疊の上にしなやかにつきながら、博士の方へいざり寄つた。が、まだ少し間が離れてゐた。すると、今度は博士が太つた洋服の膝をもぐもぐ動かせながら、近寄つて行つた。
 これはなんと言ふ不思議なことであらう。帶を解いて、じつと俯向き加減に博士の前に坐るつてゐる淑子夫人の姿には身分とか、階級とか言ふものは、いつの間にかその姿を消してしまつてゐた。さうして、それはただの「坂口淑子」と言ふ三十五歳の一人の女でしかなかつた。
 何と言ふ魔術だ――若山君は喜悦してさう思つた。さうして種種の言葉をその姿に當てはめながら、じつと眺めてゐた。が、その時、不圖「御兩親は御健在でせうか」と言ふ高坂博士との間に、淑子夫人が「いいえ、もう亡くなりまして」と答へてゐるのに氣がついた。其の上、博士は「何の御病気でございませう」と言つてゐるのである。其處で、若山君は思ひ切つて口に出した。
 「あのお里方の、御兩親でございますが」
 「まあ、私ぼんやりですこと。御尤もでございますわ。二人とも達者でございます」
 淑子夫人は少女のやうに、恥しさうに微笑した。若山君はそれでやつと落ち着きを取り戻すことが出來た。若山君は、よし、醫者のやうに上手から、淑子夫人を見てやらう、と思つた。
 「鳥羽子爵の御次女です。さうでございましたね」
 「はい、さうでございます」
 「ほう。さうですか」
 高坂博士は聽診器を取り出しながら、さう言つた。さうして、博士は一寸居住ひを直すと、淑子夫人の胸を開けた。淑子夫人は初めのうちは顔を俯向け、肩をすぼめるやうにしてゐたが、そのうちにだんだんと顔を仰向け、白い胸をずつと突き出してゐた。それを見てゐると、若山君は何だか醫者のやうな氣持ではゐられなくなつた。彼の求めてゐるものはそんな冷淡なものではなく、燈火のやうに暖いものであつた。彼は一心にそれを探し求めた。が、中中若山君の得心の行くやうなものは見つからなかつた。
 博士は淑子夫人の背中に聽診器を当てた。博士が聽診器を動かすと、眞白い肌にぽうと薄紅い輪が浮かんだ。さうしてその輪は聽診器の動くたびに、いくつもいくつも浮かんでは消えた。時にはその薄紅い輪の傍に、小さな黑子が衞星のやうに、黑く潜んでゐることもあつた。若山君はその輪を、さうしてその輪の消えて行く刹那の美しさを見てゐると、急に心の暖くなつて行くのを覺えた。それはもう愛情であつた。さうしてそれこそ彼の求め悶えてゐたものであつた。が、それはまたなんと果敢なく消えて行くのであらう。
 「は、では一寸横になつて頂きませう」
 高坂博士は淑子夫人の着物を肩に返しながら、さう言つた。夫人は寢た。
 若山君はいらいらして來た。熱いものが頭へかつ、かつと引切りなく上つて來た。腹圍と、極く簡単な觸診と、もうそれで總えは終るのだ。さうして、もう二度と訪問することは許されないのだ。
 何と言ふ屈辱だ!
 その時、博士は淑子夫人の着物を展けた。ぽつかりと、丸い晝の月のやうに白かつた。さうして、その眞中には柿の花が一つ、白く咲いてゐた。
 若山君は、不圖、これを見ると、もう無茶苦茶に腹が立つて來た。その白い腹をいきなり毆りつけたいやうな憤怒と「態見やがれ」と呶鳴りたいやうな自暴的な激情とが、彼の頭の中を嵐のやうに吹き荒れた。彼の理性はもう顔を眞赧にして、叩き落すされまいと大童になつて戰つた。金、女房、子供、そのありとあらゆる言葉を、蝌蚪のやうに頭の中へ游がせた。また頭を振り、息を詰め、腹を膨らせて、この惡魔を追拂はうとした。が、激情の嵐はぐわぐわぐわと次ぎから次ぎへと湧き起つた。
 高坂博士はこの保儉金が高額のためか、淑子夫人の足袋を脱がせて足の裏を押して見たり、裾を捲つて脚氣を檢べてみたり、特別に念を入れて診査してゐた。が、若山君にはもう何も眼に入らなかつた。否、もう保儉もへつたくれも何もなかつた。到頭、若山君は物を言はずに立上つてしまつた。
 その夜、十二時過ぎに、若山君はぐでんぐでんに醉拂つて歸つて來た。
 「糞つたれ。態見やがれ、てててめいらだつてあるぢやねいか。ざまあ見やがれてんだい。嬉しさうに一つづつ附けて貰ひやがつて、畜生、あらあたくし、それが何でい。子供もねいのにでかい乳房しやがつて。それがごけん、御健康のしるしですときやがらあ。博士がばかせで、奥が嬶アで、それから何だい。糞つたれ。嫌もへちまもあるかい。をを踊れつてつたら踊るんでい。あらちよいと出臍。ハッハッハッハッツ。ざざまア見ろてんだい」
 その物音に驚いて、細君が走り出て來た。若山君はそれを見ると、靴のまま玄關に立ち上つて、物も言はせずにまた呶鳴り出した。
 「こら女房。裸になれ。素裸になりやがれ。畜生、馬鹿、何してやがるんでい。へへ臍を出せつてんだい。出しな。遠慮なんかいるかい。同じぢやねいか。何處が違ふてんだい。比べてみろい。馬鹿野郎」
 若山君は、まだ何かむぢやむぢや言ひながら、細君の方へ突きかかつて行つた。が、その途端、ぐにやぐにやと倒れたかと思ふと、もう其のまま鼾をかいて寢入つてしまつた。


 その後暫く、人人は誰も若山正造君の姿を見なかつた。が、或る日、若山君は珍しく電車に乘つてゐた。信念の街は美しく飾られ、晴着の人人は夥しく往き來してゐた。が、若山君は外套の釦をだらしなく外し、髪も亂れ、無精髭さへ伸ばしてゐた。大方病氣なのであらう。眼には一筋赤いものが走つてゐた。
 電車が大きな建物の前で停つた。其の時、不圖若山君は三味線を彈いてゐる一人の女が眼に入つた。若山君はその女が何故こんな大きな建物の前で、あんなに一生懸命三味線を彈いてゐるのだらう、とぼんやり考へてゐた。途端に、彼は吃驚した。
 これは何と言ふ靜寂だ!唄も、三味の音も、彼の耳にはまるで聞こえないではないか。女は、唖の如く、或は操人形の如く、唯口を大きく動かし、撥を持つた手を頻りに動かしてゐるばかりだつた。それはまるで海の底のやうに寂かだつた。若山君は思はず電車から飛び降りた。すると、彼の耳へ街の騒音が凄まじい勢で一時に襲ひかかつた。彼は吃驚してまた電車の中へ逃げ込まうとした。が、其の時もう電車は動き出してゐた。若山君は一目散にその後を追つた。車掌が二三度激しく手を振つた。が、若山君はもう無茶苦茶に走つてゐた。もう少しで手が届きさうになつた。が、その時電車は急に速力を出して、だんだん彼から離れて行つた。
 樣樣な顔が面白さうにそれを見てゐた。若山君は急に走るのを止めた。さうして、その並んで居る顔を一つ一つ丁寧に眺め始めた。大きな口をした女の顔が笑つてゐた。その隣りの男の顔はあんまり長いので、顎が自然に曲つてゐた。若い女の顔に仰向いた鼻のついてゐるのは氣の毒なものである。頭の上に變な髷を、結構さうに載せてゐる女が「もう行きませうよ」と言ひながら、男の袖を引つ張つてゐた。若山君は不圖自分は何處へ行かうとしてゐたのか、忘れてしまつた。始から別に何處へと言ふあてもなく、唯電車に乘つてゐたやうにも思はれた。若山君はもうぼんやりと、そのまま其處へ立ちつくしてしまつた。
 すると、其處へ種種樣樣な顔が現れた。次ぎから次ぎへ、引切りなしに現れて來た。どの顔も、皆同じ數の目や、鼻や、口を大事さうに附けてゐた。が、不思議なことには一つとして同じ顔はないのである。若山君はそれを面白さうに眺めてゐた。何故此の人達はこんなに顔を列べてただ歩いてゐるのであらう。さうして一體此處はどこなのであらう。
 銀狐のボアをした二人の美しい婦人が歩いて來た。一人の婦人が何か言つた。すると、も一人の婦人が華奢な手を口に當てて微笑した。美しい唇の奥で白い小さな齒がチカチカと光つた。若山君は不圖眼を落した。それはまた何としたことであらう。その二人の美しい婦人の臍が出てゐるのである。そんな、馬鹿な、べら棒なことがあるものか。若山君はさう思ひ返して、も一度そつと覗いてみた。が、矢張り出てゐるのである。あの時、とまるで同じやうな白い奴が、帶の上にちよこんと出てゐるのである。若山君は叫び聲を危く手で押へながら走り出した。
 それ以來、若山君は立派な着物を着た婦人を見るとすぐ逃げ出すのであつた。若山君にとつては、彼の女達は皆臍を出してゐるのである。例へば電車に乘る。若山君は恐恐車内を見廻す。どうか居てくれなければいいが、と思ひながら。が、やつぱり居た。もう皺の見えてゐる顔を眞白に塗つた婦人が、これはまだ若い二十代の婦人と話してゐるのである。
 「あら、さうでございますの。あたくしちつとも存じませんで。奥様、それにまた此の間はホホ、それが奥樣、それがまたかうなんでございますよ」
 若山君は一生懸命にその方を見ないやうに努める。が、婦人達の齒の浮くやうな會話は聞くまいとうればする程、彼の耳に入つて來る。若山君は一體そんな馬鹿なことがあるものか、と思ふ。さうして、ええい見てやれ、と思つて見る。するとやつぱり出てゐるのである。あの時と同じやうな白い奴がちよんと帶の上に出て居るのである。若山君はもう何とも言へぬ表情を浮かべて、扉の硝子に頭をぶつつける。さうして電車が停ると、もうそのまま大急ぎで降りてしまふのであつた。
 若山君はだからもう電車に乘ることが出來ず、道さへうかうかとは歩けなかつた。さうして到頭人の顔を見るのももう我慢出來なくなつてしまつた。若山君は毎日毎日二階に閉ぢ籠つたきり、階下へも滅多に降りて來なかつた。細君は靑い顔をして、ただじつと辛抱してゐた。
 太陽が光芒を収めて、大きく西の空に落下し始める頃、凩はそろそろ樂しさうに咆哮を始め出すのだ。今まで淡淡と水のやうに澄んでゐた空は、いつの間にか灰色に濁り、凩は何處からともなく、びゆ、びゆ、びゆうと吹き出して來るのだ。さうして、夜にもなれば、ごうごうと怒濤のやうに轟くのだ。これはもう毎夜のことであつた。が、此の頃若山君は不思議にも此の凩の吹き荒む頃になると、活活と蘇つたやうに元氣づいて來るのであつた。さうして、雨戸もたてない、窓の前に坐つて、いつもその凄まじい光景をじつと眺め入つてゐるのであつた。
 或る夜、月は地平線の上に鋭く懸つてゐた。風は白い息吹きを吐いて、吹きつけた。樹樹はヒューヒューと鳴り、枝は折れ、葉は鳥のやうに飛び散つた。風はこの刺すやうな寒氣に振ひ立つて、愈々その勢を增して來た。家を搖すり、木を拂ひ、咆え、哮り、さうして轟轟と空に舞ひ上つた。風は雪を呼ばうとしてゐるのである。バリバリと、板の割れる音がした。途端、一瞬の悲鳴を殘して、何處かで硝子が碎け散つた。
 若山君は不意に立ち上つた。さうして階段を驅け降りると、折から、ぴゆ!ぴゆ!ぴゆうと吹き毆つて來た、凩の中へ、何か呻り聲を擧げて、飛び込んで行つてしまつた。

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最終更新:2017年08月21日 11:30