本文
一
- 庭の隅隅には早薄い煙のやうな靄が靜かに漂ひ始めてゐたが、樹樹の梢にはまだ春の夕陽が赫赫と照り映えてゐた。あちらこちらに番つた蝶らが何の故かただ心忙しく舞ひ亂れ老茂つた松の木木が時時白い花粉を吹き散らしてゐるばかり、庭は人氣もなく森閑と鎭まつてゐた。其の時不意に築山の大きな岩の蔭から、六つばかりの一人の少年がちよこちよこと一心に築山を驅け下りて行つた。その少年はこの藤村家の一人息子の晉であつた。
- 晉は飛石を傳ひ、冠木門を潛り、白い小砂の敷いてある梅林を通り拔けて、裏の小門の前に立停つた。さうして暫くじつと門の方を見上げてゐた。が軈て小門の棧に足を懸けやつと樞を外すとそつと門を開けて外に出た。其處には大きな川が滿滿と水を湛へて流れてゐた。晉は堤の上に蹲つて川の面に目をやつた。長く伸びた川藻が流の中でゆらりゆらりと搖れてゐる。その上には澤山の黑と赤のおはぐろ蜻蛉が花のやうに並んでゐて、藻が大きく搖れるたびになよなよと舞上つた。水馬(みずすまし)が何匹も水の上を渡つてゐる。一匹の大きな水馬が流のままに脚を休めて下りて來た。が急にきつと身構へると、銀色の腹をぱつと翻して飛上つた。小蟲を捕へたのであらう。暫く首を動かしてゐたが、軈てまたすいすいと美しい線を引いて上つて行つた。いろいろのものが流れて來た。古下駄や、木の枝や、萎れた草花などが緩く廻りながら流れて來た。晉は何を見てゐるのか自分にも解らなかつた。が何か捉へやうもない不思議な思でじつと水の流れるのを見詰めてゐた。また一片の細長い木ぎれが流れて來た。不圖見ると、其の上には一匹の蛙がきよとんと坐つてゐるではないか。一瞬、晉はもう堪へることの出來ない雲のやうな悲しみに襲はれた。
- 「美代。美代。美代はどうしたのであらう!」
- 晉の黑い睫の間に見る見る大きな涙が湧上り、露玉のやうにぽろぽろと零れ落ちた。晉は到頭兩手で顔を覆ひ、膝の上に泣伏してしまつた。
- それは昨日のことであつた。晉が祖母の部屋で菓子を喰べてゐると、不意に廊下の方で亂れたあ足音がし、何か大きな叫聲がしたかと思ふと、荒荒しく障子が開かれ、女中の梅が飛込んで來た。梅は激しく氣息が切れて暫くは物を言ふことが出來ず、中腰になつたままただ後の方を指差すばかりであつた。
- 「ほれ、なんや、行儀の惡い」
- 祖母はいつもの嚴しい聲で叱つた。
- 「へえ、御免やす」
- 反射的に、梅は口癖の言葉を言つて、ぺたりと其の場に坐つた。が梅はもうすつかり氣が顚倒してしまつたかのやうにふうふうと氣息をはずませながら、何か猫のやうな奇妙な手つきで頻に後の方を差し示すのであつた。祖母の顔は見る見るぎりぎり筋立つて行つた。梅はそれを見ると、まるで何か呑込むやうに首を大きく振つてから、やつと途切れ途切れに言つた。
- 「あの美代どんが……お美代どんが……裏で……裏の……」
- 「何、美代が……」
- さう言ったかと思ふと、祖母はもう立上つてゐた。さうして梅の肩口を取つて引立てると、荒荒しく足を踏鳴らして出て行つた。晉は暫時は呆氣に取られてそれを見てゐた。が不圖美代の名を思ふと吃驚して立上つた。
- 晉が内玄關まで來てみると、男衆や女子衆や日傭達の裏の方へ裏の方へ走つて行く姿が見られた。晉は思はず跣足のまま飛び降りてその後を追つた。古風な茶部屋や大工小屋や炭小屋や農具庫の森閑と立並んでゐる裏庭を走つて行くと、向かふの納屋の入口に大勢の人がただならぬ氣配で揉合つてゐた。
- 晉が急いで其の方へ走寄つて行くと、甲高い祖母の聲が聞こえて來た。
- 「さあ、皆向かふへ行きなはい。はよ行き、行き。これ、行きと言うたら行きなはい」
- が晉はひたむきな心で、躊躇なく人人の間を潛つて祖母の方へ進んで行つた。祖母は不圖その晉の姿を見ると、急に眼を吊上げ、齒を剝出しにして、皺だらけの手を押遣るやうに振動かしながら、一層激しい聲で言つた。
- 「晉、いかん、いかん。晉、晉來てはいかん」
- 晉はこの恐しい祖母の顔を精一杯の力で受留めながら言つた。
- 「どうしたん?どうしたん?美代どうしたんや」
- 「いかん、いかん。おい晉を向かふへ連れていき」
- さう言ひながら、祖母は傍にゐた一人の女中の肩を突き飛ばした。
- 「みんなも、さあ行きと言うたら行きなはい」
- 晉はもうそれ以上その場にゐることが出來なかつた。晉は半ば泣きながら小走に走り出した。敷石の冷さが一入物悲しく素跣足に沁入つた。
- 家の中には、一番番頭の仁平がただ一人店の間に端然と坐つてゐた。さうして灰吹を叩く煙管の音を緩りと響かせてゐた。晉は今にも涙が零れさうだつた。美代の身に何か大へんな事が起つたのに相違ないのだ。晉はまたふらふらと裏の方へ歩き出した。其處へ男衆や女子衆達がぞろぞろ歸つて來た。皆はそれぞれに激しい好奇と驚きの表情を浮かべながら上ずつた聲で話合つてゐた。女子衆達は二三人寄合つて互に殊更な顰め顔を造合ひ男衆達は内庭の牀机に並んで煙草を吸ひながら大聲で言合つてゐた。
- 「誰やろ。ほんまにひどい奴やな」
- 久助が頰被りも取らないで小さな眼を屢叩きながら口を尖らせて言つた。
- 「ほら久さんまでえらい御心配やがな。ほんまにどいつやい。うまいこといきやがつたの。大方方方で御落膽やろ」
- 日傭の卯吉は煙草の火を掌の上でころころ廻しながら言つた。
- 「ほうよな。ここら邊にもござるほん」
- 「けんどあのお美代がなあ。判らんもんやな」
- 「ほら、ここでは感心してござるが。ほんな、阿呆な、あればつかりは別嬪やろと何やろと變るもんかいな」
- 「違ひない。けど一體誰やろ、皆目見當つかん」
- 「みんな鈍臭いこと言うてな。きまつたあるがな。無理は上からよ」
- 若い男衆の治作はさう言つて立上つた。が皆は頓著なくわいわいと言合ひながら、時時女子衆の方へ一齊に顔を向けて、、どつと意味あり氣な卑しい笑聲を立ててゐた。
- 何時、何處から來てゐたのか、村の岩本醫師が祖母と一緒に裏の方から歸つて來た。それを見ると、男衆や女子衆達は殘惜し氣に澁澁立上つて、それぞれ元の仕事をやり始めた。さうして座敷で何か相談してゐた岩本醫師も軈て歸つてしまふと、家の中はまるで何事もなかつたやうに次第に鎭つて行つた。ただ祖母は臺所の眞中に坐つて洗濯物の始末を手傳ひながら、恐しい顔を振廻してゐた。
- 晉は美代のことが心配で心配で堪へられなかつた。晉はそつと店の間を覗いてみた。が其處には仁平の姿はなかつた。晉は内庭の方を廻り、ただ一人で干物を片付けてゐる梅を見つけると、走寄つて尋ねた。が梅はかう言うだえkであつた。
- 「あんなお美代どんのこと、知りません」
- 晉は到頭思切つて祖母に尋ねてみた。すると祖母は激しく首を振りながら言つた。
- 「なんの、なんの。あんな女子衆のこと、どうでもよろし!」
- 晉は悲しかつた。晉はただ一人中庭の楝(せんだん)の木に凭れ、美代のことを考へてゐた。美代は一體どうしたのであらう。病氣であらうか。きつとさうではないのだ。すれば昨日まであれほど優しかつた美代が何か惡いことでもしたのであらうか!
- 「美代が、美代が」
- 晉は不圖彼がいつも美代のことを「美代公」と呼ぶと、零れるやうな優しい笑顔で「晉公さん」と言ふ時のあの美代の顔をありありと思出し、もう無茶苦茶に悲しくなってしまった。晉は孤兒のやうに忍び泣いた。
- 晉の兩親は一年中六甲の別莊の方にゐて、殆どこの江州の本宅へは歸らなかつた。それでも父は時時村の用事などで歸rこともあつたが、家にゐることは稀であつた。其の上、その僅かに家にゐる間さへも、父は絶間なく何の故もない小言ばかり言續けてゐた。さうして最後にはきまつて狂氣のやうな癇癪を起した。それは自分でもどうすることも出來ない一種の病的な發作のやうなものであつた。仁平はその都度、もう何十年來同じ言葉を繰返した。
- 「あの病も癒らんのう。ぼんの頃からあれぢやつたで、靈仙山の赤蛙、仰山飲ましたんたが……」
- 晉の母は美しい女(ひと)であるが、この藤村家に嫁して以來殆ど笑つたことがないとまで言はれてゐた。それほどであるからこの煩しい、その上まるで藤村家の主のような姑のゐるこの本宅へは殆ど歸ることはなかつたのである。祖母は勿論晉を愛してゐた。が、この頑固一徹な老婦人には晉よりも誰よりももつと大切なものがあつた。それは「家」である。御先祖代代の御位牌のある、この「家」を護るためには、子も、孫も、場合によっては用捨なく振捨てなければならなかつた。
- 「勿體ない。まだこの齡で孫も守はしてられんわいな」
- 祖母は常常そう言つてゐた。だから晉は祖母に離れてからは美代一人に育てられて來たのである。よちよちと一人歩きの出來る頃から、晉は片時も美代の手を離さうとはしなかつたのだ。さうして夜は美代の懷に抱かれて、優しく哀しい子守歌を聞きながら眠つたのであつた……
- その夜、それは何時頃であつたであらう。子供心には餘程夜が更けてゐたやうに思はれた。晉が不圖目を覺ますと家の中が騒騒しく、强く押殺したやうな低い人聲が聽こえて來た。晉ははつと起き上つた。側には祖母の床だけが敷かれ枕もとの行燈の灯がじいじいと鳴いていた。晉はふらふらと聲のする方へ歩いて行つた。人人の聲は水屋の方でしてゐたが不思議なことには祖母も女子衆達もその邊にはゐなかつたので、晉は格子戸の蔭に隱くれ、その有樣を盗見ることが出來た。
- 「よいしょ!大丈夫か」
- 草鞋裝束の男衆の政吉が何かの先棒を擔ぎながら女中部屋からよちよち出て來た。それは黑塗の大長持であつた。後棒は同じ裝束の久助で、身體を海老のやうに曲げながら出て來た。
- 「よしや。大丈夫」
- 久助はさう言つて、ぬくぬくと身體を起しながら土間に降りた。二人の小僧が無地提灯を提げて並んでゐた。仁平が立つてゐた。仁平は木彫の面(めん)のやうな深い皺のある願を心もち俯向けて、じつと一ところを見詰めてゐた。
- 「ぢや御苦勞ぢやが、氣を付けて賴むぞな」
- 軈て仁平がさう言ふと、長持は動出した。さうして裏門の方へ消えて行つた。仁平はその後を見送りながら、以前のままの姿でいつまでも動かうとしなかつた。その横顏に吊洋燈の黄色い光がぼうと流れてゐた。
- 晉は大河の堤の上で涙を拭きながら、不圖と作者の仁平の姿を思出した。不意に疼くやうな悔恨の情が晉の胸を締めつけた。晉は誰かが――それは誰であらうと惡い奴だ!――美代をひどい目に遇はせたのに相違ないと信じた。が併し、さういふ自分は一度も美代にひどいことはしなかつたであらうか。否、晉は美代を打つたこともある。無理を言つて泣かせたことさへ何度となくあつたのだ。晉は覺えてゐる。それが彼岸會の時のことであつた。お寺のお堂には地獄極樂の御繪(ごゑ)が掛つてゐた。さうして其處には村の子供達が大勢集つて遊んでゐた。晉もお寺へ行きたかつた。が、晉はあの地獄の御繪が恐しいのであつた。沸き滾る大釜の中へ眞逆様に落ちて行く亡者達、眞紅に彩られた血の池へ鬼に追はれて入つて行く白い裸身の女亡者達、或はまた劍の山を血どろみになつて登つて行く男亡者達、此處にはまた一人の女亡者が手に一本の燈心を持つて竹を掘起してゐるではないか。鬼の來るまでにそれを掘起さなければ焦熱の苦報を逃れることが出來ないのだと聞いてゐる。鬼は鐵の棒を振上げてもう其處まで迫つてゐるではないか。ああその愼ましやかに合わされた二つの膝――知つてゐる。知つてゐる。晉はその膝を知つてゐるのだ。晉は最早正視することが出來なかつた。罰とはこんな恐いものか。惡いことをしなければよいと言ふ。然し惡いこととは、惡いこととは……ああ、どうか惡いことをしませぬやうに。どうか地獄へ落ちませぬやうに……晋(ママ)は慄へ、戰き、もう動くことも出來なかつたのであつた。此方の壁には光明紫雲に棚曳き、蓮華瑛芳と咲匂ふ極樂の御繪が掛つてゐた。が悲しいことには、晉にはそれはただの繪空事としか思はれなかつた。さうして此の地獄の御繪のみが恐しい眞實の姿となつて押迫つて來るのであつた。が何故、自分のみがこんなに恐れ戰くのであらう。それは晉にとつて一層に悲しく、恐しいことであつた。見よ!百姓の子等は御繪の前であのやうに嘻嘻として戲れ合つてゐるではないか。晉は美代の背中の上で泣きながら、
- 「行きたあい」と言つた。が美代が一足歩出すやいなや、晉は一層激しく聲を振絞つて泣いた。
- 「行くん、いや。恐い、恐いもん」
- 美代が仕方なく立停ると、晉はまた、
- 「行くんや、行くんやあ」と言續けた。さうして到頭ふんぞり返つて泣き喚いた。美代が危く引起すと、今度は美代の髪を引摑んで、ごうごうと喉を鳴らして泣いてゐた。其處へ不意に父が現れた。父はそれを見ると、物も言はずに晉の顏を毆りつけた。さうしてまるで正氣を失つてしまつたかのやうに、続けざまに手を振下した。美代は片手でそれを受留めようとしたが、それは激しく美代の眼を打つた。
- 「旦那様。御免やす。御免やす」
- 美代は泣きながら、片手で拜むやうにして振上げた父の手を一心に防いでゐる。父は唇まで眞靑にしてぶるぶると打顫へてゐた。
- 「美代。美代。あの優しかつた美代は今頃どうしてゐるであらう!」
- 晉はそのまま美代の在所へ飛んで行きたいと思つた。さうしてあの懷しい手を取つて思切り泣くことが出來たならば……嗚呼、美代の在所はどの邊であらうか。美代の在所には金毛の兎が跳ね、野猿が木の上で眠つてゐると言ふ。
- 遠く山山の麓はもう藍色に翳り、彼方此方の村村から立上る夕煙が霞のやうに棚曳いてゐた。紫色に澄んだ夕空には、いろいろな形をした雲がその緣を金色に輝かせながら緩かに浮んでゐた。大きな鷄のやうな雲、人の顏のやうな雲、大頭の小僧が股を擴げてゐるやうな雲。さうしてこれらの雲雲は、少年の可憐な願いに叛いて、次第に恐ろしいものの姿に崩れて行つた。遽然、晋(ママ)は言ひやうのない恐しさに襲はれた。それは突然何者かに抱きかかへられたやうな、茫漠とした正體のない、然し底知れぬ恐しさであつた。晉は思はず手を抱緊め、放心したやうに立竦んだ。
- 恐しいことがあるのだ!
- 河は音もなく流れてゐた。見ずは緩かに流來り、緩に淀み、緩かに迀り、また緩かに流去つて行つた。白い雲がふはふはと浮んでゐた。其の時向かふ土橋の方から、一人の靑年が晉の方へ歩いて來た。それは叔父の眞吾であつた。眞吾はだんだん晉の方へ近寄つて來た。見ると眞吾は手に二匹の蛙をぶら提げてゐた。眞吾は不圖其處に晉の姿を見留めると默つて立停つた。さうして暫時じつと晉を凝視めてゐた。
- 「來い!晉。良いものを見せてやらう」
- 眞吾は不意にさう言ふと、さつさと歩き出した。さうしてどおんと裏門を突開けると、一寸晉の方を振返つて言つた。
- 「來い!」
- 晉は仕方なく叔父の後に從つた。眞吾はどんどん先に立つて歩いて行つた。逆様に吊下げられた蛙は時時ひくひくと前脚を動かして踠いてゐた。眞吾は昨日の納屋の前を通つて北の裏の方へ歩いて行つた。が、晋がその納屋の前を小走に走り過ぎようとした時、不意に晋の方を振向くと眞吾は其のまま足を停めた。晉は思はず立停つた。眞吾は一歩一歩晉の方へ近寄つて來た。眞吾はじつと晉を見下しながら、顎で納屋の方を示した。さうして太い押へるやうな聲で言つた。
- 「知つとるか。昨日のこと」
- 「ううん。美代どうしたん?」
- 「子産みよつたんや。死んだ子産よつたんや」
- 晉は眞吾の言葉の意味がはつきり判らなかつた。晉は懐手をしたまま默つて叔父の顏を見上げてゐた。その長い顏には澤山の面皰が出來てゐた。が、大人のやうだと言はれてゐるその冷靜な瞳は、恐しいほど光つてゐた。
- 「晉!お前のお父つあんやぞ。お前のお父つあんが、美代に子産ませよつたんやぞ。宜いか、覺えとけ」
- 晉は何の事か一層譯が解らなくなつてしまつた。美代は何故赤ん坊を産んだのであらう。一體女の人と言ふものは、誰でもさうしていつでも赤ん坊を産むことが出來るのであらうか。其の上また叔父は何故父のことを言つたのであらう。家にもゐない父に何の關係があるのであらうか。父は男ではないか。晉はただぽかんと眞吾の願を見てゐた。
- 「さあ來い。よい物を見せてやろ」
- さう言つて眞吾は北の裏の方へ歩いて行つた。晉はどんなに考へてみても不思議で仕方がなかつた。赤ん坊はどうして生まれて來るのであらう。赤ん坊は勿論お母さんのお腹から生れて來るのだ。すると、嗚呼、美代はお母さんではない!晉は其處ではたと行當つてしまつた。さうしてそれからはどう考へても考へることが出來なかつた。が、其處に何かきつと凶いことがあつたのだ。晉の頭の中には昨夜のことがはつきりと殘つてゐた。あの長持に乘せられて歸つて行つたであらう美代のことを思ふと、晉はまた堪へられない悲しさに襲はれた。
- 「美代。美代。あの優しかつた美代……」
- 晉はただもう胸の中で美代の名を繰り返し呼ぶばかりであつた。
- 「おい!晉、こつちへ來い」
- 眞吾は隅の物置小屋の前に踞んで、名允可を一心に凝視してゐた。杉木立に圍はれた、此の裏屋敷はもう薄暗くなつてゐた。老杉の梢の邊を一羽の鳥がばさばさ飛廻つてゐた。
- 「鳥、何してよんのやろ」
- 晉は眞吾の傍へ來ると、さう言つた。
- 「巢しときよるのや。子産んどくぞ。言ふな、誰にも、それよか、晋此處見とれ」
- さう言ひながら、真吾は小屋の中を指した。さうして、チーチーチーと口を鳴らした。小屋の隅には藁が堆高く積んであり、その上の方に打藁が圓く敷いてあつた。何かがゐるやうな氣はいであつた。が、晉には何も見えなかつた。チーチーチー、チーチーチー、真吾は頻に口を鳴らした。すると不意に奥の方で何か物を引摺るやうな音がし、軈て、ざざと藁が鳴つたかと思ふと、一匹の大きな蛇がぬうと首を突き出した。眞吾は尚、口を鳴らし續けてゐた。見ると、奥の方にもまた一匹の蛇が目を光らせながら、じつと此方を窺つてゐた。其の時、眞吾は持つて醫た二匹の蛙を藁の上に投げた。蛇は見る見る鎌首を持ち上げ二又の舌を動かしながら、ぐいと蛙の方を向いた。蛙は不意にキューと鳴いた。さうしてそのままじみじみ眼を閉ぢてしまつた。
- 晉は眞吾に腕を捩子ぢ上げられてゐた。晉は藁を足で蹴飛ばしたのである。さうして眞吾の手に嚙付いたのであつた。二三度毆られ、二三度地面の上に突倒されたことは覺えてゐた。が、それからは何がどうなつたのか解らなかつた。
- 「もうせんか」
- 眞吾は晉の腕を一層締上げながら言つた。腕が今にも折れさうなほど痛かつた。が、晉は齒を喰縛つて答へなかつた。その眼の前を二匹の蛙がひよこひよことまるで腰が拔けたやうに跳んでゐた。此の叔父の手は、自分の腕を離せば、すぐまた蛙をふん摑むであらう。
- 「する、なんぼでもする」
- さう言つた途端、晉は不意に目が眩んでしまつた。
- それから數分間の後、晉はただ一人で倒れてゐる自分に氣がついた。が、それは晉には餘程永い時間のやうに思はれた。晉は急いで立上らうとした。すると不意に杉や塀や小屋がぐらつと一時に倒れさうになつた。晉は思はず手を突いた。左の手が痺れたやうに動かなかつた。ぼろぼろと涙が零れ落ちた。が、晉は泣きながらも勇ましく頰笑んだ。
最終更新:2018年11月23日 20:02