- 底本:昭和37年7月20日講談社発行 外村繁全集第四巻
本文
一
- 「一寸、どうしたんでせう」
- 朝、新聞を讀んでゐた省三に、妻の保子が聲を掛けた。省三が顔を上げると、保子は體だけ省三の方に向けた姿勢を殘して、窓の外の何かを見詰めてゐる。
- 「どうしたんだ」
- 「そら、ね」
- 見ると、窓越しに、道を隔てた谷村家の門の中へ、蒲團を積んだ擔架が入つて行かうとするところだつた。背廣姿の若い人が振り返つて、何か物を言つてゐるやうであつたが、窓ガラスには、口が動いてゐるばかりで、省三達にはもちろん何も聞こえなかつた。擔架は木の間隠れに、家の中へ入つて行つてしまつた。
- 毎朝、用水桶には厚い氷が張つたけれど、ここ數日、美しい冬日和が續いた。空には雲一つなく、靑一色で、思はずじつと見上げてゐると、意外なほど、深深と光を含んだその青色は、冬枯れの風景を包んで、新鮮でひどく豊かな感じでもあつた。
- 今朝も、窓の一郭を靑く染め、その空の中に枝を伸ばしてゐる辛夷(こぶし)の梢には、薄く朝日が差し添へてゐるのも、はつきり見えた。省三はいつか擔架のことも忘れてしまつたやうに、冷水で顔を洗つてゐた。
- 書齋の南面した障子にも、明るく陽が當つてゐた。朝の間は、庭の東南隅にある木犀の茂みを通して、陽が差して來る故か、障子の上には、丁度圓い果實が鈴生(な)りに生つてゐるやうに、橢圓形の日影がいくつも重なり合つてゐる。或は風船玉のやうでもあり、いかにも朝の陽の、初初しい感じである。
- 圓味がかかつた、柔かい、そんな陽差しの故であらうか、机の上に片肘を突いて、ぼんやり眺めてゐた省三に、ふと、女の體の一部分を聯想させた。あのお皿の丸い、膝頭のやうであつたり、白い項のやうであつたり、或は太い大腿部のトルソーのやうであつたりした。外には少し風があるらしく、木の葉の搖れる度に、日影の形も亂れて、それがまたひどく艶かしい。
- 少年の頃、朝夕の空に浮かんでゐる雲の形に、省三はいろんな動物の姿を聯想したことはあつたが、障子に映る日影に、このやうなみだらな想像を追ふやうな年齢になつたのか、しかも、若かつた頃のやうに、あの悔恨にも似た感情は更になく、むしろ心窃かに、仄かな思ひ出を懷しがつてゐるやうでもある。厭らしいと言へばこれほど厭らしいものはないかも知れない。
- 省三は老年といふものが、こんなに厭らしい年齢であらうとは、知らなかつた。が、さう言へば、子供の頃、繪画で見た、「舌切り雀」の雀は女の姿ではなかつたか、そんな雀を訪ねて行く、老爺の姿は哀れと言へば、哀れとも言はれようが、見果てぬ夢の妄執と言はれないでもない。
- 障子の上の日光の橢圓は、いつか葡萄の房の實のやうに小さくなり、最早、妄想のよすがもない、午後になると、太陽は木犀の茂みを離れ、陽差しも鈍く擴散する。三時、四時、障子もすつかり翳つてしまふ。そんな瞬間、煌めくやうな光線が、不意に斜に差し入つて、省三は思はず深い歎息を漏らさせるやうなこともあるが……。
- 「大へんなことが出來ました」
- さう言つて、保子が入つて來ると、いつものやうに省三の机から少し離れた所に坐つた。
- 「谷村さんの奥さまが、お亡くなりになりました」
- 「谷村さんの奥さんが亡くなつたつて」
- 省三は體ごと保子の方に向けたが、二人とも暫くは次ぎの言葉が出ないやうであつた。省三はやつと怒つたやうに言つた。
- 「三十には、まだなつてをられまい」
- 「滿で、二十八とか」
- 咄嗟に、何かひどく慘酷なことが行はれたやうに思はれ、省三は本氣で腹が立つた。
- 「腸捻轉で、一昨日入院なさつたのださうですが、閉塞を起して、たうとういけなくおなりだつたのですつて。ちつとも存じませんでした」
- 「さうか、さう言へば、今朝の擔架……」
- 「さうだつたんですわね」
- 「夜具だけを乗せた擔架が、歸つて來るつて、考へてみれば、確かに變だつた」
- 「私も、何だが、どきつとして、あなたをお呼びしたのでしたけれど」
- 谷村夫人は非常に美しい女(ひと)であつた。單に容貌が勝れてゐるばかりでなく、ひどく綺麗な姿勢と清潔な服裝の女であつた。夫人には、五歳と三歳の女兒と、當歳の男兒の三兒があつたけれど、家庭の婦人としては珍しく、少しも世間に着かれた風は見えなかつた。
- 外出の時には、夫人は多く和服のやうで、その服飾は決して派手なものではなかつたが、所謂きりつとした着こなしで、しかも腰のあたり、勁く張つて、豊かな線を描き、恰好のよいその足に密着したやうな足袋の白さが、格別に美しいやうな女だつた。また、夏の朝など、夫人がワンピースの裸足に、赤い鼻緒の下駄を突つかけて、門前の路上を掃いてゐるのを、あの臺所の窓から見かけたこともあつたが、蟲の刺し痕一つない、固く締つたその脚には、夫人の生活そのものの清潔さを思はせたりもしたものだつた。
- 「二三日前まであんなに元氣にしてゐた人が、急に亡くなるなんて、何だが、ひどく口惜しい」
- 「殊に、あんなに若い方がお亡くなりになるのは、いけないものですわ」
- 「何だが、腹が立つてしやうがない。綺麗な方だつたね」
- 「ほんと、お顔も綺麗でしたけど、三人のお子さまがおありになりながら、あんなにお體つきの美しい方も、珍しかつたですわ」
- 「さうだ、體つきが、綺麗だつたね。一寸も崩れたことろがなかつた」
- 「女の體つて、結婚すると一應美しくもなりますが、子供が出來たりしますと、直ぐにも崩れ易いものですけれど、その點、亡くなつた方は、よほど御健康だつたのでせうにね」
- 「つまり、どんな生活の汚れも、例へ毒素のやうなものでもね、みんな綺麗に吸収してしまふ、そんな健康さ」
- 「ええ、女の體は男の方に比べて、例へば出血に對しても强いとも申しますが、そんな女の生命力の强さのやうなものだつたかも知れませんのに」
- さう言へば、谷村夫人は直ぐ顔を赤らめるやうな性の人だつた。往來などで行き合つたやうな折、夫人はひどく生眞面目な目差しで、相手の顔を見詰めながら、一禮するのであるが、その瞬間、さつと血の色がさし、血の色は染まつては消え、消えては、また忽ち赤く染まるつた。一滴の紅が水面に擴がつて行くやうに、夫人の白い顔が、一瞬、ぱあつと赤く染まつては、消えて行くのは、まるで女の生命が息づいてでもゐるかのやうで、これも夫人の美しさの一つだつたと、省三は思ひ返したりもした。
- 「御主人や、お子さま達、どんなお気持ちでせう」
- 「滿五つと言へば、もう解るだらうね。哀しみも、解るだらう」
- 「禮子ちやんだつて解りますわ。ただ、何となく、解るものですわ」
- 「祖父の死んだとき、さう言へば、僕は數へ年五つだつた。白い提燈を持つてゐたのを覺えてゐるが、直ぐ乳母の背中で眠つてしまつたらしい」
- 「明日、告別式ださうでございますわ」
- 「さうか。すると、今日は柳君、お葬ひが二日續くことになるね」
二
- 「どうも正月が過ぎると、急に人が死ぬやうだね」
- 省三は袴に足を通しながら、彼の着換へを手傳つてゐる保子に言つた。
- 「そんなこともございませんでせうが」
- 「だつて、去年は謙一君、加賀谷君、矢守のおすみさん、みんなこの頃だつたやうだが」
- 「さうおつしやれば、さうでしたか。お正月と何か關係があるんでせうか」
- 「別に、關係などないだらうが。それとも油斷するのかな。一年、一年、無限の梯子を上つて行くやうなものだから、一寸油斷すれば、ばたりばたりと落ちる」
- どうか、あなたも、油斷なさらないで」
- 「いや、柳君のやうな、つまり僕等のやうな年齢の者の場合は、いかにも命數盡きた感じだが……」
- 不意に、得體の知れぬ悔しさが込み上げて來て、省三はそれ以上言葉を續けることが出來なかつた。が、どこからそんな悔しさが湧くのか、省三は少し恐しいことのやうにも思はれた。
- 「ぢや、行つて來ます」
- 「お氣をおつけになつて」
- 彼の中學時代の同級生、柳正義の告別式に列するため、省三は保子に見送られて、家を出た。
- 谷村家の門内には、新しい莚が敷かれてあつたが、邸内はひつそりと靜まり返つてゐた。夫人の亡骸はもう病院から歸つたであらうか。あまりにも美しい、まつ靑な空を仰いで、省三は何者かに騙されてゐるやうでもあつた。が、道の向かふから歩いて來る男の顔が、店頭でよく見る葬儀屋の主人であることを知ると、省三は心中苦笑を浮かべて、通り過ぎて行つた。
- 省三は電車に搖られながら、柳正義のことを思ひ出してゐた。最早、四十年にも近い昔のことになる。
- 四月の新學期、柳正義が省三等の組に落ちて來たのは、省三の何年生の時のことであつたらうか。柳はいつも胸を張り、姿勢を正して、壇上の狂死を睨みつけてゐる風であつた。
- 柳はその頃から既に硬派の生徒として、學校内でも目立つた存在で、辯論部に属し、ボートの學年選手でもあつたが、數學かひどく不得手だつた。ある數學の試驗の時、一枚の白紙を前にして、一時間中、腕組をしたまま端座してゐた柳の姿を、省三は居間も覺えてゐる。また、數學嫌ひな柳は、同じやうな仲間とともに、「鳶(とんび)」という渾名の數學教師の許に預けられてゐたが、彼は「鳶巢塾の歌」といふやうなものを自作して、高吟したりしてゐた。
- 臆病なまでに内氣であつた省三が、どうしてそんな柳と親しく交はるやうになつたか、省三にははつきりした記憶はない。多分、柳の在野的な正義感とでも言つたものに、少年期を過ぎ、漸く靑年にならうとする省三の、男性的な目覺めが、近づけられて行つたのかも知れない。
- 省三は柳達と、度々遠い散歩に出た。夕方、落日の道を、校歌などを放吟しながら、歸つて行つた、そんな姿を、省三は何故かよく思ひ出した。彼等はまた校庭のポプラの木の下で、「哲學」を論じ、「文學」を語り、「政治」を論じたりもした。にきび面の田舎中學生達は、彼等を「高慢」な連中とも呼んだが、省三は窃かに驕慢の誇りをさへ感じてゐたものだつた。今思つても、頰の赤らむやうな話でもあるが、櫻に「中」の徽章をつけ、小倉の洋服を着、白い、海軍式のゲートルを履いてゐた、遠い日のことである。
- 中學校を卒業してからは、省三と柳の交際は絶えた。二人とも東京の上級學校に進んだのであつたが、一度も行き會ふことはなかつた。
- それから間もなく、省三が、柳が學校を卒へ、郷里から美しい夫人を迎へた由を聞いた。夫人があまり可憐だつたので、柳は暫くは夫婦の交りを結ぶことが出來なかつた、とも聞いた。もとよりありふれたデマであらうが、柳の場合、いかにも柳らしいと、省三には思はれたりもした。
- 以來、十年、或は二十年近くも經つてゐたかも知れない。ある時、(思ひ出された。滿洲へ行く友人の壯行會の席上、滿洲から歸つて來た人から聞いた)柳が滿洲で、事業に成功し、活躍してゐることを、省三は聞いたことがあつた。が、それ以來、戰爭にもなり、省三は再び柳の消息を聞かなかつた。
- 戰後、中學校の在京の同窓生が集つた時、省三は意外にも初めて柳に出會ふことが出來たのである。
- 「大分白くなりましたね」
- 「いや、もうあきませんわ。この通りすつかり薄くなりよりましたよ」
- 歯ブラッシ問屋の主人、都廳勤務の役人、紙芝居製作所の專務等、數人の奮友達が、互に變り果てた顔を、照れ臭ささうに見合はせてゐた時、「通知だけは出しておいた」といふ柳が、黑い鼻下髭を蓄へて、自動車で乗りつけて來たのであつた。
- 「これは若い」
- 「全く、柳君は一寸も變らんな」
- 奮友達に、まだ一本の白髪も交へぬらしい頭髪などを、見上げられながら、柳は激しく手を振つて言つた。
- 「何言つてるんだ。全く、僕ほど、今度の戰爭で、散散な目に會つたものはなからうぜ」
- 柳の語るところによると、いつか省三が聞いたやうに、柳は滿洲で相當盛大に事業を營んでゐたが、負戰で一切駄目、漸く内地へ引き揚げて來たが、先きに長男を南支の戰線で失ひ、二男もフィリッピンで戰死したことを知つたのだつた。
- 「一切が零。僕の半生は、全くの徒勞、何をしてゐたのか、判らなくなつてしまつたよ」と、柳は言ひ、重ねて、
- 「と言つて、ぼんやり遊んで居るわけにも行かず、向かふでやつてゐた關係で、また小つぽけな鐵屋を始めたんだが、何しろ無一物からの蒔き直しだらう。一つも製品が出來ない中に、資金がなくなつてしまつたりしてね。つまり未製品のまま、生産工程の中で、宙ぶらりんつてわけさ。まるで頭を半分だけ刈られて、放り出されたやうなもので、どうにもなりませんが」
- 柳は柳らしく、話を愚痴に落さず、元氣よく笑った。
- 「しかし、仕事なんていふものは、頑張りやうによつて、またどうにだつて、取り返すことも出來るけれど、子供ばつかりは、さういふわけにはいかんからね」
- 「ほら、ほうはいきまへんな」と、歯ブラッシ問屋の主人が、弱い國訛りで言つた。
- 「仕方がないから、娘の子供を貰つて、育てようかとも思つてるんだが、何しろ、まだ五つだからね」
- 「ほいつは、お氣の毒やな。全く、子といふもんは、親の子でしてな。自家の大學へ行つとる奴も、やつぱり辯論部でしてな」
- 「源さんも、やつぱり辯論部だつたかな」
- 「そりや、わたしや、辯論部でしたがな」
- 「さうさう、源さんは背が低いで、いつも、かう天井向いて、演説ぶつてござつてたやうだつたな」
- 奮友達の間で、そんな會話が交はされ始めた時、柳は省三の方へ體を向けて、言つた。
- 「宮下君、久し振りだつたね。三十年、いやもつとになるか」
- 「卒業して以來だからね。しかし、出會つた瞬間は、お互に途方に迷つたやうな感じだが、かうして話してゐると、三十何年昔と、ちつとも變りやしないぢやないか」
- 「全くだ。生きてれば、またかうして會ふことも出來るんだからね」
- 終りの方を、獨語のやうに呟いて、言葉を切つた柳の目に、ふと、涙が光つてゐるのを見て、省三は自らあわてて、顔を外した。
- 省三はこの奮友達の集りで、その後、二三度柳に出會つた。その度、柳は非常に多忙さうに見えた。
- 「キャッシュは、例へば汽車や電車のやうに、地上を走るのだからいいがね」
- 酒も節してゐるらしく、柳は昔のままの端然とした姿勢で言つた。
- 「手形といふ奴は、飛行機のやうに、絶えず飛び續けてゐなければならないんでね。人間までそれと一緒にくるくる廻りさ。全くやりきれんよ。宮下なんか、そんな苦勞は知るまいが」
- 省三は、一寸意地惡なことを言つてみた。
- 「しかし、そりや手形にもよりけりで、着陸場のない奴だらう」
- 「いや、これはどうも、恐縮したね」
- さう言つて、柳はむしろ愉快さうに大笑したものだつたが……。
- 空には少し薄雲が出、午後の陽射しも幾分弱まつたやうで、告別式の式場である寺院の境内は、流石に寒寒と翳つてゐて、その冬ざされた影の中に、會葬者の群れが行き交つてゐた。式場の兩側には、いろいろの會社の名札のついた、大きな花輪が立ち並んでゐて、漸く會はない中に、柳の事業も順調に運んでゐたやうに思はれた。
- 省三は會葬者の列に並んで、燒香をした。棺側には遺族の人人が控へてゐた。生前、柳は省三を自宅に招きたいと言つてゐたが、その柳自身も多忙で、機會を得ず、省三は美しかつたといふ夫人の顔を知らなかつた。が、黑紋附を着けた、痛痛しいまでに老い込んだ一老婦人の姿に、直ぐそれと察しられた。その傍に、十ばかりの、髪の濃い、色白の少女が坐つてゐた。次ぎの瞬間、(といふよりは、これらのことは、殆どはつとするやうな一瞬間に、彼の目に映つたことであるが)その少女の横に、目を赤く泣き脹らして坐つてゐる、一人の若い婦人の上に、省三の目は止つたが、その美しい顔立があまりにも少女に似通つてゐたので、その少女こそ、いつか柳が語つてゐた、柳の娘の子、つまり柳の孫に當る養女ではなからうか、さう言へば、その若い婦人の美貌にも、どこか柳の面影を宿してゐる、と思はれた。
- 柳は中學生の頃、「誰がやつても、同じ答へより出ないやうな、數學なんか面白くもない」などと、生意氣なことを言つてゐたが、「柳こそ、誰ともちつとも違はぬ答へを出してしまひやがつたぢやないか」と、省三は自分にも窃かに苦笑して、燒香を終へた。
- 中學時代の奮友達の姿も見當らず、他に知つた人のゐるはずもなかつたので、省三は花輪の名札などを見上げながら、境内を出ると、そのまま歩き去つて行つた。
- とある骨董店の飾り窓の前に立つて、省三は厚いガラスの中を見入つてゐた。窓の中には、大小の佛像や、石像が陳べられてゐたが、省三は先刻からその中の若い女の彫像を眺めてゐたのである。
- 南方民族の神事の舞踊の姿でもあらうか、半裸の像で、縮れた頭髪は逆立ち、伏せた目の眦は美しく吊り上り、左手は胸のあたりに腕を曲げ、右手は輕く伸ばし、腰に纏つた布の間から、右足をさつと斜に伸ばしてゐる。勿論、それほど勝れたものではなかつたが、省三は何故かその場を立ち去り難かつた。
- その乳房の形からも、處女を寫したもので、目を伏せ、眦を吊つた、ひどく眞劍な表情には、一種の悲願にも似て、性を越えた、清浄な「力」といつたものさへ感じさせたが、既に圓味を帶びた肩や腹のあたりには、はつきりと女の運命を宿してゐて、若い女の持つ、そんなアンバランスが、省三の心を引いたのかも知れない。その左右の乳房の、形といふよりは、體の動搖による相似形の亂れた格好の相違も、何か魅惑的で、そつとその乳房を撮まんでみたいやうな興味さへも、省三は感じた。が、それは奮い友人の告別式に参加した老人の、みだらな衝動ではない。そんな女の受命の誘ひかも知れない――窓ガラスに映つてゐる、ところどころに醜い染みの出來てゐる自分の顔を、省三はぼんやり眺め續けてゐた。
三
- 鉛色の自動車が走り寄つて來て、急に停車し、その扉の開くのが、若い女の半裸の像を映してゐる窓ガラスに重なり映つた。省三が振り返つてみると、意外にも、高等學校時代の友人である高松が、自動車の中から首を伸ばしてゐた。
- 「宮下君ぢやないか。何か氣に入つたものでもあるかね」
- 高松は大學は法學部の出で、時時の同窓會に顔を合はす以外には、省三とはさしたる交際はない。が、人間といふものは、ある年齢に達すると、理由もなく、人懷しくなるものかも知れない。
- 「いや、別に、唯なんとなく、ぼんやりしてゐたんだ」
- 「どうだね、久し振りに、お茶でも飲まないか。もしお暇だつたら」
- 「別に、忙しいといふこともないが」
- 「ぢや、暫く時間を拝借しよう」
- 省三は袴の裾を持ち上げて、自動車に乗つた。見ると、高松の腕にも、黒い喪章が附いてゐる。
- 「君も、柳君の」
- 「さう、柳さんの告別式に行つて、歸らうとすると、君らしい男がこんな所に立つてゐるだらう。驚いて、呼び止めたわけなんだが」
- 「僕も柳君の告別式の歸りなんだが」
- 「君と柳君とは、どうした知り合ひなのかね」
- 「いや、中學時代の友人なんだよ」
- 「ああさうか。Z中學だつたか」
- 「しかし、君はまたどうして」
- 「僕のは商賣關係さ」
- 高松がD銀行の重役であることは、省三も彼の所へ送つて來るクラス會の名簿で知つてゐた。すると、一時はかなり苦しい狀態のやうに思はれた柳の事業も、いつかそれ程の順境を辿つてゐたのかと、柳の死が、といふより、あの不撓不屈式な柳の生そのものも、ひどく空しいやうに、省三には思はれたりもした。
- それから暫くの後、省三は高松とある喫茶店の豪奢な椅子の中に腰を落してゐた。
- 「君、軽くならいいだらう」と、高松は言つて、ビールを註文したりした。
- 西に傾いた太陽は赤いボールのやうに輝き、喫茶店の大きな窓には、西日が生暖かく差してゐた。幾分夕色を帶びて、汚れたやうな靑い空の中に、逆に光線を受けた、黑いゴム風船が一つ緩い速度で流れて行く。
- 「柳さんも氣の毒なことをしたよ。折角、sh事もやつと軌道に乗つて、こちらも大いに腰を入れようと思つてゐたところだつたんだからね」
- 「何だか、鐵屋とか言つてゐたが」
- 「鐵屋さんは、鐵屋さんだつたんだが、最近、兵器を始めてね。マーチャント・オブ・デスさ。つまりザ・デス・オブ・ア・マーチャント・オブ・デス、と言つたところだね」
- 「えつ」
- 省三は思はず驚きの聲を上げた。省三の驚きは、二人の男の子を戰爭で失つた柳が、兵器の製造を始めたといふやうなことでは決してなかつた。
- 「それで、君のところ、柳君の事業に、融資でもしてゐると言ふのかい」
- 「何も、商賣だからね」
- 「いや、商賣になるのか、つて、意味なんだ」
- 省三は思はず聲の鋭くなるのに氣づき、聲を落して言つた。
- 「もうそんな狀態にまで、なつてゐるのかね」
- 「いやいや、あちらさんの教育註文とも言つてね、まだまだお手習ひのやうなものだがね」
- 「しかし……」
- 省三はさう言つたが、直ぐ口を噤んでしまつた。萬事無駄と思つたからだ。しかし、一つの事業に銀行が融資する以上、その事業がどんな見通しの下にあるかは、明らかである。といふよりも、一度、資本といふものが動いた以上、見通しなどといふことは問題でなく、その好むと好まないとに關りなく、丁度雪ダルマが轉がつて行くやうに、最早、止まることを許さないだらう。資本の好むままに動いて行く。
- 「しかし、人間が人間を殺す道具を作るなんて、考へるまでもなく、不合理極まることだが、人間が生きるといふことは理窟も何もない、もつとひどいことなんだらうね。この年になつて、つくづくさう思ふやうになつたよ」
- 高松は純白にも近い白髪で、幾分肥り加減で、いかにも銀行家らしいタイプだつた。高松はチーズの一片を爪楊枝にさし、それを手にしたまま、言葉を繼いだ。
- 「柳さんだつて、社員や、工員達を、それにはそれぞれ家族があるだらうしね、養つて行かなくつちやならなかつたんだからね。工員達だつて、仕上には若い女工員もゐるが、その一人一人、一人の人間としては、もちろん戰爭否定者だらうがね。生きるといふことは、全く、そんな生優しいことぢやないんだね」
- 「つまり、人間が造るんぢやない。資本が造らせるんだよ」
- 「そいつは手きびしいね。しかし、かく言ふ銀行屋さんだつて、喰つて行かねばならないんだからね」
- 「とにかく、商品といふものは、消費されねばならないんだから」
- 「しかし、それは必しもさうとは限らんだらう。平和のための軍備といふことも考へられないこともない」
- 「そりや甘い、いや銀行屋さんのことだから、先刻承知の上の空念仏かも知れないが、資本といふものが、そんなことで承知するもんですか。それこそ、そんな生優しいものぢやない」
- 「こりゃ、益々手きびしい。しかしもうこの話は止さうぢやないか」
- 高松は心に一種の苦痛を感じるかのやうに、(或はこの上品な紳士はまだそれだけの良心を失つてゐないことを示すためにか)さう言つた。省三も同じやうな思ひで言つた。
- 「うん、止さう。まるでビールの泡のやうな話だからね」
- 「しかし、柳さんは君と同級だつたのかね。随分若く見えたが」
- 「年は一つ上だ。庚寅の生れだ」
- 「さうか。どうもいけないものだね、同じ年輩の人が死ぬといふことは。この頃、益々應へる」
- 「しかしね。考へやうによつては、柳なんかも、僕等にとつての善智識かも知れない。僕等、もうどんなに焦つてみても、どうにもなるものではないからね」
- 「ひどく覺つたね」
- 「いや、抵抗がなくなつたのかも知れない。それでゐて、若い人などが死ぬと、馬鹿に腹が立つたりするんだがね」
- 「若い人ね。おにかく、何だが、この頃はよく死ぬぢやないか。明日も告別式が二つなんだ。さう言へば、君はMだつたね。谷村つて、知るまいね、Mだつて廣いものね」
- 「谷村つて」
- 「知つてるのか」
- 「若い奥さんの亡くなつた」
- 「君、知つてるのか」
- 「僕の家の、直ぐ前だ」
- 「さうか。谷村は僕の直ぐ下に使つてゐる男なんだよ。今日なんかも、普通だつたら、彼が來るところなんだが。明日の告別式には代理をやらう」
- 「どうして」
- 「何だが、氣味が惡くなつた」
四
- 猿や、犬の類は、例へば動物實驗のやうな場合、同類の悲鳴を聞くと、悲哀、恐怖の表情を示すが、鼠や、兎のやうな齧齒類は全く何の感情も現さないといふ。さう言へば、鷄屋の店先などで一羽の鳥が斷末魔の聲を上げてゐても、籠の中の鳥は落ち餌を啄んでゐるやうなことも見かけるし、昆蟲類の中では慧いと言はれる蟻なども、仲間の死體に行き會つても、流石に巢の中へ引き入れようとはしないが、一寸怪訝さうに立ち停つたきり、そのまま行き過ぎてしまふことも、よく庭隅見られることである。が、人間といふものは、隣家の夫人の死に、あのやうな得體の知れぬ憤りを感じながらも、同じ人間が、人間を殺す道具を、爭ひ造つてゐるものなのであらうか。
- 電車は絶えず激しい音響を立てて走り續けてゐる。どんな喧噪な音でも、幾つかの音の繰り返しは、いつか一つのリズムを歌ひ出すことを知つてゐた。が、今日の彼の耳には、どうかすると、あのひどく厭な響きが聞こえようとする。
- 「ザ・デス・オブ・ア・マーチャント・オブ・デス」
- こんな不吉な、きざな、無責任な、あの銀行家の言葉を、電車の車輪どもが歌ひたがつてゐるのだといふことは、省三も先刻から氣がついてゐた。が、省三がそれを警戒すればするほど、あの厭らしい言葉は、彼の耳から離れようとしないのである。
- 窓の外はもうすつかり夕暮の景色で、西の空には、濃い樺色の夕燒が、鮮明な淺黄色の空に照り映えてゐる。中天から、東の空へかけて、空は暮色の中に澄み渡つてゐたが、藍色のガラスを張つたやうな寒冷さで、晝間のやうな和色は更にない。
- その空の下には、家々の家根が黑い波のやうに果しもなく續き、窓には鈍い燈が點つてゐた。あの窓の中には、人が住んでゐる。役人が、銀行家が、保險屋が、魚屋が、菓子屋が、便所清掃人が、職安の日傭人が、さうして兵器製造人も住んでゐるだらう。それぞれの窓の中には、それぞれの「お父ちやん」と「お母ちやん」と、それによく似た、何人かの子供とがゐるだらう。或は、「お祖父ちやん」と「お祖母ちやん」もゐるかも知れない。さうして、時々の爭ひと、愚痴や、嘆息もあらうけれど、一應の平安は保たれてゐるだらう。どんなに小さくて、けちつぽくて、他愛のないものかも知れないが、そこにはきつと愛と喜びさへあるに相違ない。
- が、こちらの窓の中では、人が死なうとしてゐても、あちらの窓の中の人は知らない。あちらの窓の中では、人が生れようとしてゐても、こちらの窓の中の人は知らない。ましてあんな窓の外で、どんなことが行はれてゐようとも、誰も知らない。
- 鈍いドアの締まる音がして、電車がどこかの驛を發車した。うと、省三はH驛かと思ひ、急いで窓の方へ顔を向けた。果して、その窓ガラスに、逆に光線を受けた黑い富士の姿が映りながら、走り去つて行つた。明るい、樺色の夕映の空に、まつ黑い三角の切り紙を貼りつけたやうな富士だつた。
最終更新:2017年06月28日 17:51