神神しい馬鹿(外村繁)

店は客で忙しかつた。誰かが『惣どん、惣どん』と呼んでゐる。が惣太はなかなか出て來なかつた。大方また鏡の前に立つてゐるのであらう。
亮一は餘ほど以前から惣太の様子が少し變だと氣づいてゐた。惣太は日に何囘となく洗面所に入つた。頭髪は油でてかてかに光り、面皰だらけの顔はいつも美顔水で濡れてゐるかのやうに思はれた。時には鼻先にクリームを白く残してゐることもあつた。亮一はそんな惣太を見、嚴しく注意を與へたことがあつた。その時惣太は流石に氣まりが惡さうに頭を掻いてこそこそと逃げて行つた。
勿論こんなことは小僧から番頭になつたばかりの若い連中には有勝のことで、亮一もそれだけなら別に氣にとめるほどのことではなかつた。が、今迄、生得魯鈍の性質ではあつたが、それを償つて餘りあるほどの努力家だつた惣太が、此頃目に見えて惰け出した。以前は自分の受持の得意先の註文とあれば、夜の何時であらうと駈け出して行つたのであつたが、此頃は碌碌得意先へ顔出しさへもしてゐない樣子であつた。さうして不思議なことには、口癖のやうに『學問だ。學問だ』と言ひながら、暇さへあれば何か本を讀んでゐるのであつた。或る時それを支配人の山本が無茶苦茶な暴言で叱りつけた。が惣太は最後まで頑固に口を噤んで言ふことをきかなかつた。
或る夜、こんなことがあつた。亮一が何心なく臺所へ行くと、惣太がただ一人机を持出して何かを一心に寫してゐるのであつた。亮一は不圖その机の上に眼をやつた。すると驚いたことに、惣太は英語のリーダーを開き、その活字體を一字一字丹念に見比べながら寫してゐるのであつた。
「ほう英語か。えらいね」
亮一がさう言ふと、惣太は亮一を見上げながら、いかにも嬉しさうににこつと頰笑んだ。
「君。さうしてそれ讀めるの」
「いいえ」
「しかし君、今書いたそれその字は何といふ字がそれは知つてゐるんだらう?」
「知りませんねん」
亮一は危く噴き出すところであつた。が、あまりにも眞劍に嬉しさうな惣太の顔を見ると、よう笑ふことが出來なかつた。亮一は昂ぶつた自分の心を『まあいい、まあいい』と押へてから、
「まあきばつてやれよ」と言つた。
「おほきに。ねえ大將、そらべらべらとでけたらよろしいけんどね」
惣太はさう言つて、またにこつと子供のやうに笑ふのであつた。
それから二三日過ぎた或る日、惣太は何と思つたのか、今度は立派な六法全書を買つて來た。亮一は呆れ、早速惣太を呼んで、勉强するのもいいがもつと順序を立ててやらなければいけない、と言ふことを丁寧に教へた。が惣太は何も聽いてゐなかつたのであらう。突然變なことを言ひ出した。
「ねえ、大將、法律學は男らしいでせう。第一女がやりません。ほんで僕やろと決心したんです」
亮一はこんな連中には最早これ以上何を言つても無駄であることを知つてゐた。ただ嚴しく呶鳴りつけるより他に方法がない。が亮一にはそれが出來ないのである。亮一は苦笑しながら言つた。
「高かつたらうが。そんな立派なものを買つて。六法全書だけでは法律の勉强は出來ぬ」
「流石大將や。ほんま言ふと五圓の上です。こりや今月はもうぴいぴいやぞ」
惣太はさう言つて、首を縮めて頭を掻いた。亮一は此の色の黑い、蟇のやうに無邪氣な惣太を見てゐると、急に痛痛しい思ひで胸が一杯になつて來た。店なかの噂□によれば、惣太は戀をしてゐると言ふことである。どうか變な女に關り合つてくれなければいいが……亮一は昨年亡くなつた惣太の父親のことを思ひ出した。惣太の父親は昨年の春、永い間望んでゐた東京見物に來、鮪の刺身をなまだと言つて嘲笑はれたり、百貨店の食堂で股引を脱いで案内の者を恥しがらせたりして、くれぐれも惣太のことを頼み頼んで安心して歸つて行つた。さうしてその年の秋、生涯の念願であつた家屋敷を自分のものにすることが出來ず、二圓五十銭の借家で突然亡くなつたのであつた。
ともかく、どうかして惣太のこの馬鹿らしい學問熱を醒ましてやらなければならない。がどうすればいいのか。亮一はそれがいかに難しいことであるかを、今までの度度の經驗で知つてゐた。亮一は大學を出た年、父に死なれ、嫌惡もなく家業の木綿問屋を繼がされてゐるのであつた。が何程努力をしてみても、どうしても商賣の道に入つて行くことが出來ず、毎日他人のやうな顔をして金庫の前に坐つてゐた。さうして店が儲らうが、損をしようが、嬉しいとも悲しいとも思はなかつた。勿論此頃のやうなひどい不景氣では儲かるはずがなかつたが、亮一にはそんなどうすることも出來ない不景氣といふやうなものと組打をしようなどといふ馬鹿げた氣は微塵も起らなかつた。
そのやうに店のことには殆ど無關心である亮一にも重重しく心に懸ることがあつた。その第一は若い店員達の病氣である。殊にその結核性の病氣であつた。激しい勞働の小僧生活から、急に羽織を着せられ、袖口の破れをさへ氣にしなければならないやうな番頭の生活に入つた若い店員達は結核菌の恰好の餌食であつた。亮一の店でも現に今由藏、伊太郎、久夫の三人が此の病氣で田舎へ療養に歸つてゐる。父の代から數へればりょういちの知つてゐる限りでも結核で斃れた人は何人となくゐた。彼と同年だつた元造も此の病氣で死んだのだ。彼の墓は湖岸の小高い丘に立つてゐる。四時白い影を湖面に寫してゐた。藤次郎もさうであつた。彼の墓は山の中腹にあつた。白い雲が煙のやうに降りて來、野猿が樹樹の枝を鳴らして走つた。亮一も、千代吉も矢張りさうだ。亮一の眼の底にはこれらの人人の墓がいつも白白と浮かんでゐるのであつた。
此の恐しい病氣についで、絶えず亮一の心に懸つてゐることは、矢張り若い店員達の女關係であつた。問屋といふ封建的な制度――否もつと實際的な原因から、つまり永い間の不景氣で店員達にそれに十分な給料も賞與も與へることが出來ないため、彼等の結婚期は非常に遅れてゐた。そのため、それを待つて居られない番頭はついカッフェーや喫茶店の女達と關係を結んでしまふのであつた。がもとよりそのやうなことは重寶な店側が許すことではなかつた。彼等はまるで待つてゐたやうに速に店を追はれてしまふ。さうして二階間借の樂しい生活が始まるのだ。おそらくこの一瞬こそ、彼等にとつては生れて初めて知る幸福な時であらう。がそれは同時にまた最後のものででもあらう。事實、そのやうな生活は一年と續ける者はなかつた。かくて彼等は、問屋といふ特殊な世界から、初めて近代經濟組織の缺くべからざる一員となつて、つまり失業者となつて騒音の街の中へ放り出されるのであつた。亮一の店にもそんな店員は澤山ゐた。その中でたつた一人成功者がゐた。それは「女形」と言はれてゐた要市で、彼は今ある藝者屋の女將と一緒になり、毎日のやうに痴話喧嘩をしてゐるが、物質的には大成功者だと言はれてゐた。店一番の力自慢だつた助藏は仲仕人夫に、信之助は夜店の叩き賣屋になつてゐる。その他の人達はその後の消息さへも判らない……
到頭惣太の番が來たか。……亮一はさう思つた。此の人一倍鈍臭い惣太のことであるから、どのやうな不始末をするか判らない。亮一はどうかして此の神のやうに善良な若者を救けたいと、心ばかりを揉んでゐた。が一體惣太が戀してゐるといふ女はどんな人であらうか。大方眞紅な口臙でもさした喫茶店の女ででもあらう。がそれにしても惣太のあの馬鹿げた學問熱はどうしたのであらう。その女の人と何か關係でもあるのであらうか。


晩春の物憂い曇り日のことであつた。晝食を終り、亮一が臺所から出て來ると、店先で五六人の店員達が頭を寄せ集めて大騒ぎをしてゐた。亮一は別に何心もなくその方へ歩いて行つた。
「大將や、大將や」
誰かがさう言ふと、皆一齊に亮一の方を振向き、どつと一度に大聲を擧げて笑ひ出した。その時、亮一はその中の一人が手紙のやうなものを隱したのを見た。亮一は笑ひながら、
「おい何だい、見せて御覧」と言つた。が亮一はそんなものを見たいとは思はなかつた。否、そんなものを讀されることは面倒至極であつた。亮一はそのまま歩き去らうとした。すると今迄手紙を隱してゐた番頭が突然分別臭い顔で言つた。
「まあ大將、一遍これ讀んでみてやつとくなはれ。どうかしてまつせ。阿保たらしい。ほんまに笑はんとこ思ても笑へまんが」
それは案の定薔薇の美しい模樣のあるレターペーパーに細い字で書かれた。戀文のやうであつた。


綾子樣。僕は山上惣太です。日本橋のお店にゐる惣太です。この手紙を讀んでも笑はないで下さい。僕は今しんけんです。僕は去年の夏のことを忘れません。あの詩的な保田の海!さうしてあの日樂しかつたボート乘り!僕はそれからあなたの顔が忘れられないのです。僕は毎日毎日綾子樣のことばかり思つてゐます。笑はないで下さい。そらあなたと僕とは身分が違ひます。あなたは立派な金持のお嬢樣です。僕は貧乏百姓の子です。けれどそれがなんでせう。百姓は國の寶です。またあなたは女學校とまだその上の學校を出てゐます。僕は小學校だけで、成績もよく出來なんだ。正直に云言ひます。甲は操行だけです。けれどそれは僕が勉强せなんだのではない。僕は毎日小さい弟をおぶつて學校へ行きました。小さい弟は教室の中でもギャーギャーと泣きます。皆やかましいと言うておこります。それで僕は教室の外い出て窓から先生のお話を聞いてゐたのです。あなたはまたビューティフルです。綾子樣、あなたはなんといふビューティフルでせう。しかし惣太は色も黒いし男前ではありません。けれど僕は丈夫です。生れてから一度もお醫者にかかつたことはありません。綾子樣。人生は先づ健康ではありませんか。それに僕はどんなことにでも一生けんめいきばります。きばることでは誰にも負けません。うそだと思つたらうちの大將に聞いて下さい。僕はあなたのために法律學を勉强してゐます。法律學は男子たるもののする學問です。そしてこれからの時勢は學問です。學問がなければ何事も出來ません。僕は一生けんめい學問をしてゐます。毎日毎晩あなたのことを思つては死ぬやうなむつかしい學問をしてゐます。あなたは英語もフランス語も出來るのです。
綾子樣。どうか僕の願をきいて下さい。男一匹を助けて下さい。をがみます。嗚呼、去年の夏あなたの美しい顔を見てからは朝は神に祈り日暮になると涙が出るのであつた。どうしても僕はあなたのあの眼あの口がわすらりようか。ああ!麻布や保田に花は咲けども僕の胸には花ならぬ花も咲かぬのであつた。(此の手紙は僕が法律學を勉强してしまはなければ出しません)


亮一は手紙を讀み出し、それが惣太のことであることを知ると、急いで自分の席へ歸つて讀んだ。さうして讀み終つた。何か寒寒とした恐しい豫感が頭の中を走つた。何といふ可哀さうな男であらう。が何といふ馬鹿な男であらう。亮一は惣太のことが到底自分の手に負ひきれないことを知つた。惣太はどうなるであらう。
綾子といふのは亮一の姪で、麻布の姉の娘である。今思ひ出せば、去年の夏、亮一は姉や綾子の行つてゐる千葉縣の保田で數日間過したことがあつた。或る日、その亮一を訪ねて店の番頭達が寫眞機などを提げて遊びに來たことがあつた。その中に惣太も交つてゐたのである。番頭達は海に入つたり、ボートに乘つたり、樂しく一日を遊んで歸つて行つた。其の時、綾子は番頭達が珍しく、彼等のすることなすことを笑つたり、揶つたりし、お轉婆に振舞つてゐた。さう言へば、その後綾子がこんなことを言つたことがあつた。
「亮さん。惣太君とてもモダーンよ」
「どうして」
「だつてボク、ボクつて言ふわよ。かはいいのよ」
綾子はダンスと映畫とフランス語の好きな、快活で驕慢な娘である。
亮一は席を立つて、二階へ上つて行つた。二階には誰もゐなかつた。亮一はそつと店員達の部屋に入り、押入れを開いて惣太の手文庫の中へ手紙を返した。亮一が階下に降りて來ると、店には二三人の客と大阪の染屋が來てゐた。亮一は暫く染屋の相手に坐つた。
「どうだす、大將、この上(あが)りは、あんさんら東京東京いはるけんど、けふびあんた西やてほら負けやしまへん」
浴衣のことである。昔から浴衣の染は東京にかぎるやうに言はれてゐたが、近年關西の品が東京の市場にも進出して來た。價格の點で東京のものは到底關西のものと競争出來なかつた。近年、染の工合などを吟味する客は少なく、値段ばかりの客が多くなつた。其處へ惣太がぶらりと歸るて來た。
「よう山上はん、今日は。こらえろう男前にはらはつたなア。どうだす」
染屋は揶揄半分にさう言つた。すると惣太は何とも言へぬ無邪氣な微笑を浮かべながら言ふのであつた。
「色男、金と力はなかりけりや」
「いやおほきに。言はれてけつかりまんな」
亮一は默つて立ち上つた。


綠の一本もない問屋街の夏の暑さは格別である。道路のアスファルトは熔けて流れ、車輪は丁度膏薬の紙を剝ぐやうな音を立てて走つた。夜になればそれはまた暑い息を吐いて、人人を苦しめた。が、その頃の惣太の勉强振りは空恐しいほどであつた。毎夜皆が夕涼みの馬鹿話に耽つてゐる頃、彼は一人部屋の中で机に向つて一心に本を開いてゐるのであつた。さうしてそれはいつも二時三時まで續いた。時には手拭で鉢卷をし、兩腕を捲くり上げて、うんうん唸つてゐることもあつた。
亮一は最早同情的な氣持ではゐられなくなつた。何か慘酷な氣がし、そんな惣太を見てゐると腹が立つて來た。亮一は幾度となく注意を與へた。時にはわれにもなく聲を激して叱つた。が何を言つても、惣太の耳には入らなかつた。或る夜、亮一は珍しく窓からぽかんと外を眺めてゐる惣太を見つけた。亮一は急いで部屋に入り、惣太に言つた。
「ねえ、惣太。君は線路工夫が仕事をしてゐるのを見ただらう。見てゐると何だかのろのろして齒痒い位だが、あれでなければ永くは續かないんだ。學問だつてあの調子でなくつちや駄目なんだ。ねえ判つたかい」
「僕は少し急ぐ理由があるんです」
「馬鹿!惣太、まだ麻布のことを言つてゐるのか」
「言つてはいけないですか」
「いけない!それはお前のためにだ」
惣太は頭を垂れ、永い間默つてゐた。がやつと言つた。
「判りました。大將、僕はだまつて法律學を勉强します。あれは勉强出來たその暁です。ねえ大將」
惣太はさう言ひ、何を思つてか、亮一の顔を見上げて莞爾と頰笑んだ。嗚呼!何と言ふ神神しい微笑だ。今の世にこのやうな美しい微笑を浮かべることの出來る人が何人あるであらうか。亮一は打たれたやうに立ち上り、默つてその部屋を出た。
九月に入り、流石に涼しい風が問屋街にも吹くやうになつた。店は冬物の一期戰で引つくり返つてゐた。此の頃、惣太は毎日自轉車に乘て何處へか出かけて行つた。さうして夕方ひよつこり歸つて來た。が、得意先廻りに行つてゐるのではなかつた。支配人は愈々最後の處置をとる決心をした様子である。亮一は惣太が毎日何をしてゐるのか少し不安になり出したので、小僧に言ひつけて惣太の後を随けさせた。さうして惣太が毎日神田の圖書館に通つてゐることが判つた。が、亮一はもう何も言はなかつた。何を言つても無駄である。
或る朝、亮一が朝食をしてゐると、其處へ惣太も入つて來た。
「頂きます」
曽田はさう言つて、茶碗に御飯をよそつた。が、惣太はいつまでたつてもそれを喰べようとしないのであつた。見てゐると、茶碗を口の所へ持つて來ては止め、持つて來ては止め、何かまぶしさうに顔を歪めたりしてゐるのであつた。亮一は不思議に思ひ、
「惣太、どうした」と訊いた。
「兎がゐましてね」
「兎?兎てなんだい」
「兎ですよ。白い兎ですよ。御飯をね、喰べようとするでせう。するとね白い兎がね、茶碗の中で仰山踊り出しましてね。喰べれませんよ。大將のにもゐるでせう」
「馬鹿、茶碗の中に兎なんかゐるか」
「ゐますよ。お櫃の中はね、兎で一杯ですから」
「惣太。お前今日はどうかしてゐるね」
「さうですかね」
亮一は此の時始めて惣太が精神に異狀を來たしてゐることを知つた。亮一は支配人と相談し、醫者に診せた上、暫く田舎で靜養させることにした。今のうちならば癒らないこともないであらう。否癒らなくともさうするより他に方法はなかつた。嗚呼!また一人田舎へ歸さなければならない。其の日の夜、惣太は支配人に附添はれ、平然とした顔で、
「一寸行つて來ますよ」と言つて歸つてしまつた。
が、それから二日目の夕方、惣太はまたひよつこり歸つて來た。
「もういいですよ」
惣太はさう言ひ、にやにや笑ひながら、紙片を火鉢の中へ投げ入れた。さうしてそれの燃えるのを見て、またへらへらと薄氣味の惡い聲を立てて笑つた。
「もつとゆつくり養生して來いと言つたのに……」
「田舎は嫌ですよ」
「何故」
「烏がゐましてね。惣太、惣太と言ひますよ」
こんな馬鹿らしい惣太の話の間にも、亮一には惣太の兄なる人の逼迫した生活の様子が窺はれ、兄夫婦が氣の狂つた弟を快く迎へなかつたのを當然であると思つた。が亮一はやはり田舎へ歸すより他に方法はないと思つた。惣太は今度はどうしても田舎へ歸るとは言はなかつた。支配人は今一度田舎へ懸け合つてみて、田舎の方が承知しなかつた場合には、首玉を摑んでも引摺り出してしまはねばならぬと主張した。
惣太は二三日店の中にごろごろしてゐた。がいつの間にかふつと消えたやうに何處へか行つてしまつた。亮一は驚いて警察へ保護願を出させたりした。がいつまで待つても歸つて來なかつた。
到頭惣太もこんなになつてしまつた。――亮一は暗然とさう思つた。浮浪人ではないか。さうしてそれを見てゐながら自分はどうすることも出來ないのだ。否、出來ないことはない。しないのだ。亮一はすつかり小資本家的根性になりきつた自分の生活に唾したいやうな嫌惡の情に驅られた。が一方の聲はかう言つた。馬鹿!惣太だけではないのだぞ。由藏をどうする。伊太郎を、久夫をどうする。否、何千何萬人の由藏をどうするか。卑怯者!お前などにはくよくよ思ふ資格さへもないのだ。白痴のやうに默つて居れ!
翌日の夕方、惣太はまた何處からともなく歸つて來た。さうしていきなり亮一の前に坐り、暫くごそごそと袂の中から紙屑を取り出してゐたが、やつと一枚の名刺を見附けると、それを差出しながら言つた。
「僕、ここへ下宿をとりましたよ。大將もね、暇な時はまた遊びに來て下さい」
名刺には鉛筆で神田三崎町松翠館方と書いてあつた。亮一は呆れて惣太の顔を見た。がその時惣太は知らぬ顔で立上り、二階へ上つて行つた。ふと見ると、その跡に一枚の小さく折疊まれた紙が落ちてゐた。亮一はそれを拾ひ何心なく開いて見た。中には男と女が裸體で立つてゐる淫らな繪が書いてあつた。さうして男の方には、「山上惣太ナリ」、女の方には「原綾子ナリ」と書いてあつた。眞中には後光のある太陽が輝いてゐた。
亮一は突然惣太にからからと嘲笑はれたやうに思つた。嗚呼。何と言ふ神神しい馬鹿だ!さうして何と言ふ幸福な馬鹿だ!お前には神神の守護があらう。さうだ。惣太よ嘲笑へ!この小悧しき卑怯者を。もつと嘲笑へ!この憐れな男を。俺こそ白痴であれと神神に命ぜられた憐れな男なのだ!
夜、亮一は、
「惣太は何處にゐる」と聞いた。すると一人の小僧が、
「二階で眠てやはります。なんの大鼾で眠てやはります」と言つた。

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最終更新:2017年09月02日 18:50