「徳川家康」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
徳川家康 - (2008/04/23 (水) 01:24:54) の1つ前との変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
http://www6.uploader.jp/sam/thumbnail/tukau_uljp00333.jpg
名前:徳川次郎三郎家康
身分:大名
居城:駿府城
領地:駿河・遠江・三河
官位:従二位 内大臣
役職:―
兵数:25850
徳川家康
今川義元の人質として幼少期を過ごす。
義元の死後に独立し、徳川家康を名乗った。
幼年期を人質として過ごした駿府に大名として入り、そこで乱世とは思えぬ平穏さを目の当たりにし、徐々に厭戦的な思想に傾倒していった。
その結果、内大臣としての身分を利用して全国に惣無事令を発布するが…。
http://www6.uploader.jp/sam/thumbnail/tukau_uljp00333.jpg
名前:徳川次郎三郎家康
身分:大名
居城:駿府城
領地:駿河・遠江・三河
官位:従二位 内大臣
役職:―
兵数:25850
徳川家康
今川義元の人質として幼少期を過ごす。
義元の死後に独立し、徳川家康を名乗った。
幼年期を人質として過ごした駿府に大名として入り、そこで乱世とは思えぬ平穏さを目の当たりにし、徐々に厭戦的な思想に傾倒していった。
その結果、内大臣としての身分を利用して全国に惣無事令を発布するが、諸大名の賛同を得る事はできなかった。
直後、美濃を平定し急成長を遂げた織田信長と清洲同盟を締結、信長の野心に付き合わされることとなる。
足利義昭という大義を手に入れた信長は上洛を決行し、近江に侵攻、山城を窺っていた。
これに従い家康もまた、家臣を引き連れ近江国大津に駐屯するが、信長が二条幕府の管領にして梟雄として名高い松永久秀と会談をもったことに強い拒否反応を示す。
この二強の会談を破談にせんと瀬田まで兵を進めたが、時すでに遅く両者は会談を終えた後だった。
その後、今度は近江の織田軍陣中を久秀が訪問したが、織田軍陣中での会談にはさすがに手を出せず、苦々しい気持ちで両者を見守ることしかできず…。