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物語のあらすじ - (2007/11/06 (火) 02:46:11) の編集履歴(バックアップ)


第一帖

(紅葉篇は本篇とは区別し、記載しておりません。)

畿内、四国を支配下に置き、日ノ本の副王と称された三好長慶の薨去からまもなくの事。
長慶および主筋を相次いで毒殺した張本人であり、主家の簒奪を企てる松永久秀は、
嫡子の久通に命じて将軍・足利義輝を弑逆し、山城を制圧した。
その一方、長慶の実弟・義賢は久秀の専横に対し、三好一門を糾合して決起する。
かつての長慶の版図は二分され、山城、大和、丹波を治める松永家と
和泉、讃岐、阿波、淡路を治める三好家は一触即発の様を呈していた。

内政を徹底して国力の充実をはかる三好家に対し、松永家は先手を打って計略を仕掛ける。
堺衆の出身の切支丹武将・小西行長を、埋伏の毒として三好家に偽降させたのである。
また、両者の対立のさ中、一向一揆の指導者・本願寺顕如は「仏敵」松永久秀の打倒を決意。
石山御坊を拠点に松永家との抗争の準備に取りかかった。

その折、松永家に対する戦略的優位を獲得するため、三好義賢は本願寺に接近。
同盟を締結して松永家打倒のための共同戦線を構築する。
対する松永久秀は三好家当主・義興の籠絡を試みるが、義興はこれを拒否した。
かつて松永家によって大和を逐われた筒井順慶、浪人の長束正家も反松永を表明し、
この五者によって松永包囲網が形成された。

松永家と松永包囲網の戦端は、松永家の先制攻撃によって開かれた。
松永軍は当初、12,400の兵をもって摂津大坂の攻略を試みるが、
三好軍14,000が尼崎に進出したのを契機に作戦を変更。26,750の兵を尼崎に向けた。
三好軍は寡兵ながら奮闘し、内藤恕安隊を敗走させるも多勢に無勢で撤退を余儀なくされる。
松永久通は摂津の芥川山城に入り、松永久秀に従属した大名として独立した。
また、備前の宇喜多直家は反一向宗の立場から松永家と同盟、伊勢の北畠具教もこれに同調。
松永家、宇喜多家、北畠家の三国同盟が成立した。

これに危機感を募らせる三好家の下に、浪人の石田三成が訪れ三好義賢と接近。
三成は義賢に認められ、松永包囲網参加者と同等の地位を得るが、
これに不満を持った長束正家は松永久秀と内応の密約を結んだ。
一方、松永家の嫡子である松永久通は父の振る舞いに疑問を抱き、上京して父と会見。
必死の諫言をするが、親子間の亀裂を埋めることはできず、ついに出奔した。
このとき、久秀は出奔した久通を見つけ次第殺すようにと布告した。

中央の混乱を尻目に、奥州の雄である伊達家は若き当主・政宗のもとで邁進していた。
政宗は中央の二大勢力のどちらにも与せず、両者の疲弊を虎視眈々と待つ方針を固めた。
政宗の思惑通り、松永久秀は余興と称し6,000の兵を率いて和泉に侵攻する。
対する三好義賢は一門の兵を糾合、総じて20,000を越える軍勢でこれを迎撃。
囲魏救趙の計をもって松永軍を包囲し、戦の間隙を突いて河内を勢力下に収めた。
松永軍は圧倒的不利な状況の中で善戦するが、多勢に無勢で敗走。
総大将・久秀自身も負傷する大敗北を喫した。

和泉の戦いの後、久秀は戦後処理のために三好家に和睦を打診。三好三人衆の好感を得るが、
両者の提携を嫌った伊達政宗は不意を狙い、10,000の兵で山城を急襲した。
対する松永家はやはり10,000の兵を率いて単独でこれを迎撃するが、
洛外の戦いは伊達軍の勝利に幕を下ろし、伊達家はこの勝利をもって、勇名をさらに馳せた。

和泉、洛外で敗北した松永久秀は、基盤強化のために三好家との和睦を急ぐ。
三好三人衆の尽力もあり、堺で両家の君主による会談が実現した。
互いの陰謀が渦巻き、始終緊迫した雰囲気の中ではあったが、両家は同盟を成立させる。
これにより、松永包囲網はその存在意義を失い解消された。
一方、足利義昭を擁する越前の朝倉義景が、近江の六角義賢に接近。
有名無実の幕府を守ることで権力の掌握を狙う義景は、近江の南半を領する義賢に
「近江全土を領地とできるよう義昭に進言する」との条件を提示。
義賢はその条件を受け入れ、朝倉・六角両家は反松永・三好を掲げて同盟を締結した。