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物語のあらすじ - (2007/11/04 (日) 21:27:33) のソース

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畿内、四国をその支配下に置き、日ノ本の副王と称された三好長慶の薨去からまもなくの事。
長慶と三好一門を相次いで毒殺した張本人であり、主家の簒奪を企てる松永久秀は、
嫡子の久通に命じて将軍・足利義輝を弑逆し、山城を制圧した。
一方、長慶の実弟・義賢は久秀の専横に反発し、三好家旧領を糾合してこれと対峙する。
かつて長慶が纏め上げた版図は二分され、山城、大和、丹波を治める松永家と
和泉、讃岐、阿波、淡路を治める三好家は一触即発の様を呈していた。

内政を徹底し、国力の充実をはかる三好家に対し、松永家は先手を打って計略を仕掛ける。
埋伏の毒として、堺衆の出身の切支丹武将・小西行長を三好家に偽降させたのである。
また、二者の対立の中、一向一揆の指導者・本願寺顕如は「仏敵」松永久秀の打倒を決意。
石山御坊を拠点に松永家との抗争の準備に取り掛かった。

その折、松永家に対する戦略的優位を獲得するため三好義賢は本願寺に接近。
同盟を締結し、松永家打倒のための共同戦線を構築する。
対する久秀は三好家当主・三好義興の籠絡を試みるが、義興はこれを拒否。
かつて松永家によって大和を逐われた筒井順慶、浪人の長束正家も反松永を表明し、
この五者によって松永包囲網が形成された。

松永家と松永包囲網の戦端は松永家の先制攻撃によって開かれた。
松永軍は当初12400の兵をもって摂津大坂の攻略を試みるが、
三好軍14000が尼崎に進出したとの報を得て作戦を変更。26750の兵を尼崎に向けた。
三好軍は寡兵ながら奮闘し、松永家先鋒の内藤恕安隊を敗走させるも圧倒的兵力の前に撤退を余儀なくされる。
松永久通は摂津に入り、松永久秀に従属した大名として独立。
また、備前の梟雄・宇喜多直家は反本願寺の立場から松永家と同盟、北畠具教もこれに同調。松永・宇喜多・北畠の三国同盟が成立した。

危機感を募らせる三好家の下に、一人の浪人が現れる。彼の名は石田三成。
三成は三好義賢に認められ、松永包囲網参加者と同等の地位を得る。
が、これに不満を持った長束正家は内応し、松永久秀と密約を結んだ。
一方、松永家嫡子・久通は父の振る舞いに疑問を持ち、京に上って父と面会。
しかし、親子間の亀裂を埋める事は出来ず、久通は遂に出奔。
松永久秀は久通を見つけ次第八つ裂きにするよう布告するのであった。

中央の混乱のさなか、陸奥・出羽で頭一つ抜きん出た大名がいた。
若き当主・伊達政宗の下で奥州統一に邁進する伊達家である。
当主政宗は中央の二大勢力のどちらにも与せず、両者の疲弊を虎視眈々と待つ方針を固めた。

政宗の思惑通り、松永久秀は余興と称し自ら6,000の兵を率いて和泉に侵攻する。
対する三好義賢は三好一門の兵を糾合、総して20,000を越える軍勢でこれを迎撃。
囲魏救趙の計をもって松永軍を包囲し、戦の間隙を突いて河内国に進出した。
松永軍は圧倒的不利な状況の中、受けた被害以上の損害を三好軍に与えるが、多勢に無勢で敗走。
総大将松永久秀も負傷する大敗北を喫した。

和泉の戦い後、久秀は戦後処理のために三好家に和睦を打診。三好三人衆の好感を得るが、
このことは奥州の伊達政宗の知るところとなる。両家の不意を打つべく、
政宗は10,000の兵を率いて山城を急襲した。一方の松永家はこれを単独で迎撃、
同じく10,000の軍勢を動かすが、洛外の戦いは伊達家の勝利に幕を閉じた。
この勝利をもって、伊達家はさらに勇名を馳せることとなる。

伊達政宗との戦いで敗北した松永久秀は、基盤強化のために和睦を急ぐ。
三好三人衆の尽力もあり、松永家と三好家の同盟が成立する。
一方、足利義昭を擁する越前の朝倉義景が、近江の六角義賢に接近。
有名無実の幕府を守ることで権力を掌握せんとする義景は、近江の半分を領土と
している義賢に「近江全土を領地とできるよう義昭に進言する」との条件を提示。
義賢はその条件を受け入れ、朝倉家と六角家の間にも同盟が成立した。