*宗教団体に関する紛争の考え方 民事訴訟法の分野において、宗教に関する紛争というのは案外多いです。これは宗教というものが、意外に財産の争いを起こしやすいことの表れといえるでしょう。またその内部構造も複雑で私たちが外から見ても分かりにくいというのもあるかもしれません。 一方で、宗教に関する紛争は[[信教の自由]]という人権と直結するため、判断がしにくい部分があることも事実です。 信教の自由と紛争解決…このジレンマをめぐって、以前から民事訴訟の分野ではいろいろな判例が出され、またいろんな理論が構築されてきました。 ここでは、そういう宗教紛争に関する争いに民事訴訟はどうすべきか、それを総合的にまとめていこうかと思っています。 **宗教をめぐる紛争 そもそも、宗教をめぐる紛争として、いろいろな形態があります。 [[住職の地位を確認する訴訟(最判昭44・7・10)]] [[宗教団体の代表役員の地位を確認する訴訟(最判昭55・1・11)]] [[宗教団体による懲戒請求の無効確認訴訟(最判平4・1・23)]] [[檀徒の地位を確認する訴訟(最判平7・7・18)]] [[板まんだら事件(最判昭56・4・7)]] (板まんだらが効果なかったからその分の金返せという訴訟) [[宗教団体の法主・管長の地位の存否が争いになったケース(最判平1・9・8)]]ほか まあいろいろとあるのですが、大きく分けると、 (1)[[訴訟物]]そのものに宗教事項を掲げるもの (2)[[訴訟物]]そのものは別の争いだけど、その争いの判断として宗教の教義に関する判断が必要なもの の2つに分かれるようです。 **法律上の争訟 ではなんでこういう宗教上の争いが問題になるのでしょう。争いがあるのなら判断してもいいのでは?って思われる方も多いかもしれません。 この点裁判所法3条1項にこんなことが書かれています。 :裁判所法第3条第1項|裁判所は、日本国憲法に特別の定めのある場合を除いて&bold(){一切の法律上の争訟}を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する。 ポイントは太字にした&bold(){[[「一切の法律上の争訟」]]}です。なんとなくこの条文だけでも「法律を適用して解決できる問題じゃないとダメ」みたいなのは分かると思います。 実はこれについても判例がありまして、「法律上の争訟」とは、&bold(){法令を適用することによって解決し得べき権利義務に関する当事者間の紛争}だとしています(最判昭29・2・11)。 この判例からすると、法律を適用しないと解決できないとダメ、かつ具体的な争いじゃないとダメ、ってことになります。 上の判例を基準として考えると、宗教関係の争いのうち宗教教義に関わるものは、法律の解釈適用で解決できない以上、裁判所で扱えるものではなく「却下」という扱いになります。 **請求レベルでの考え方 そこで先ほどの(1)(2)の分類に立ち戻って考えてみたいと思います。 まずは(1)の場合。 こっちの場合、請求として宗教の問題が入り込んでいます。例えば「住職の地位」とかは、住職そのものが宗教上の地位なんですから、この判断には宗教教義の問題が出てきますし(住職になるということは、その宗教の高度な教義を修めることが前提でしょう)、また宗教団体の自律権を考えたら、ここに入り込むことは出来ないという判断になりましょう。 となると、こういう訴えは間違いなく却下されるはずです。 **攻撃防御方法レベルでの考え方 では訴えそのものは民事上の請求だけど、その判断として宗教上の教義が必要な場合になる(2)のときはどうでしょう。 例えばお札を買ったけどその効果がないから売買契約を解除する、とかいう場合。 確かに売買契約そのものは普通の契約だし、その効果がないということはお札を買った意味がないのだから、なんらかの手段を講じて契約を解除したくなるのが買った人の心情でしょう。 具体的にはお札が[[特定物]]とみなされるなら[[瑕疵担保責任]]で解除、[[不特定物]]と考えるならば不完全履行で解除、といったところでしょうか。 しかしこのお札に効果があるないなんてことは、宗教上のことですから、誰にも分からないことですよね。少なくとも法律で分かることでないです。 でもこのような訴訟でも「宗教と関わらないから…」なんて理由で訴訟を認めると、その理由中の判断で宗教教義に触れないといけなくなるわけで。 そこで最高裁は[[板まんだら事件判決>板まんだら事件(最判昭56・4・7)]]で、&bold(){請求の当否を決するうえでの前提問題が紛争の本質的争点をなし、その点に関する判断を教義、信仰のないように立ち入らずに行うことができず、しかも、その判断が訴訟の帰趨を左右する必要不可欠である場合には、当該訴訟は、実質において法令の適用による終局的判断に適さない}としています。 ただ、こっちの判断も結構面倒な問題がありまして、仮に教義に立ち入るからという理由でこの裁判を却下にしてしまった場合、本来の争いの解決が出来ないという問題につながるんですね。 例えばお札の効果がないから契約解除ならまだいいもので、例えば宗教団体の役員の地位がなくなったから寺の敷地から出て行け、とかになると、不法に占有する権限を与えかねないんですね。 その辺は自立的決定にゆだねて、その点は判断せずに判断する…ということも学界では主張されているようですが。 やはり判例としては宗教に踏み込みたくないんだなあ…ってのはあるようです。 あと、この手の争いは宗教団体における争いがよく言われますが、それだけじゃなく他の市民団体とかにおいてもありうるかも知れません。少なくとも組織内の対立というのは存在するわけで、それをどうすべきか、という論はそういう団体でも出てきます。 (それを[[部分社会の法理]]なんて言い方をします。詳しくは[[同項>部分社会の法理]]で)