新地下「22歳問題」会談 その1

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新地下「22歳問題」会談 その1 - (2010/09/07 (火) 00:46:43) の編集履歴(バックアップ)



22サイ モンダイ カイダン p1

出席者:        
  miyu :20代、会社員
  加藤亮太 :20代、映画学校在学
  TK :20代、会社員

進行(編集員):    
  齋藤蘆琴 :20代、学生
  大津英太 :20代、学生


はじめに

ハジメニ

 乾杯、よろしくおねがいしまーす。

——大津(以下O) ではまずmiyuさんの22歳問題自体の説明からしてもらっていいですか?

miyu(M) 22歳問題ということで、一般的な大学生は22歳に、就職活動をして就職をする年齢ということで、22歳にしたんですけど。自分らもそうですし、何か表現したい人はその就職、仕事というのがネックになって、表現を続けられない、という状況が日本にはあるのかなと思って。そこを問題視しまして。その22歳を越えても、仕事と表現を両立させていく方法は無いのかなと、ちょっと考えていきたいと思ってこの企画を作りました。まあそんな感じです。

加藤(R) なるほど。22歳っていうと、トシゴロだっつー……

TK(T) でもそもそも22歳の前に、自己表現してたのか?

—— O 前提として、今ココにいるのは、同じ大学、同じサークルにかつて所属していた人です。で、バンドをやっていた経験もある、しかもサークルの外でもバンドをやっていた経験もある人たちが集まっているんです。皆、音楽というカタチで自己表現をしてたんですね。

T まあ、それは共通しているね。

—— O そこが共通しているからこそ、僕らがかつて経験した22歳という時期について語ろうと。シュウカツを境に、卒業を境に、大学生は価値観が変わる。周りを見ても卒業した後で、バンドを辞めちゃうっていう人がほとんどですね。社会人になると表現じゃなくて仕事にどうしても向かわざるをえないという事があって、その理由には忙しさとか、色々あると思うんですけど。それまでずっと4年間近く表現をやっていた人が、その道を閉ざす、あるいはちょっと折り合いをつけて違うカタチにする、っていう様な状況群を22歳問題と、ここではそう呼びます。

R あるいは、マジでストレートに表現の道に行く場合も?

—— O そうです。学生と社会人の間にはやっぱり段階がある、人間としての段階が変わるというか。その区切りが22歳。ということで、22歳問題とする。

R 23歳以上の人もいるだろうけど、あえて22歳、ということにした。キーワードですね。

M キーワード的にまとめたかった。

R そういうことでございます。

T 加藤はいらない。

R 加藤はいらない。


表現とは?

ヒョウゲン トハ?

—— O まず、表現っていう言葉自体どこか曖昧なので、ここにいる人たちの中での自分にとっての表現というものを表明しつつ、自己紹介をしていただきたい。

T 自己表現っていうものを一人ひとり定義していこう。まず加藤君から。

—— O 加藤さんは大学3年の時に、シュウカツ(就職活動)を始めたんですよね?

R そうですね。シュウカツを僕も22歳のときにして。現役で大学に入って、ふつうに現役で就職して。で、スムーズに、会社に入ったけど、まあ、半年ちょいで辞めて。いま映画の専門学校に通っているわけです。映画学校に通って、映画という表現を勉強している者でございます!映画監督になること、で喰っていくっていうのを目標にしてます。表現イコール生業にする、ということを目指して頑張ってます。加藤です。

—— O ではmiyuさん。

M どうも。シュウカツは、加藤君と同じ様に大学三年生から始めて。まあイメージだけで出版社に入ったんですけど。自分の時間が全く無いような労働環境で。最終的には身体を壊し、病み、その後、保険会社に転職して、ほぼ定時で帰れるような環境の職場を見つけた。ので、定時以降とか、週末を使って、自分のやりたいこと…去年はちょっとバンドをやったりとか、ブログだの文章だのを書いたり、あとホント趣味でサッカー観に行ったり。プライベートと仕事を分けつつ、生活をしてます。以上です。……なんか堅苦しくない?

R 堅苦しいよね! ざっくばらんにいこう。だから責めないようにしよう。人をね。俺みたいにね。責めないようにしようぜ。

T きゃははははは。

R じゃあTK。

T はい。ふつう22歳でシュウカツして出版社に就職して、並行してバトルマシーンというバンドをやっていて。そうだね。それくらいかな。……これ自己表現に対して、何も定義しなくていいの?

—— O こう、表現とは自分にとってどういうことかとかそういうのあったら。

T 自己表現っていうのは、やっぱり、才能だと思うんだよね。人から、とか、なんかこう、自分では収まりきらない……表現って言うのは、人に乞われることが必要で。でも俺らがやってるのは、あと好きなバンドも、やっぱり、なんだろうな、趣味の延長みたいなのでやってるのが好きだったり。自分達がブドーカンだったり、そういう所でやることは一回も考えたことはなくて。そういう趣味の延長みたいな小さなコミュニティでずっと続けていければ、それはそれで自己表現は完結するかなあ、と。それはずっと考えてたんだけど。

—— O 大切なことは、ずっと続けていくこと?

T 続けていくことの方がね。本当に好きだったらさ、やり続けるしさ。それでお金儲けしたいとか、女にモテたいとかは二の次で。本当に音楽が好きだからやってきたわけで。自己表現ってゆーのはそういうもんだと思ってた。生活とは全く分けても、本当に好きだったら、それは働いていてもやるものだし。基本的には生活に追われるわけだけれども。なんだろな。……表現者はやっぱり天才だと思う。人に乞われてやれるものだから。でも、俺らは多分才能は無いから。好きこそ物の上手あれ、な感じで。やり続けられたら良いな、と思ってて。インディーズの感じかな。それが好きなバンドから教わったことだと思うし。皆そういうバンドが好きだったし。好きなバンドが皆、世界的に売れてたわけじゃないし。

R しっかりと言ってくれたね。

T 俺はしっかりしている。

R (笑)さすが。


「表現」をどう捉えるか?

「ヒョウゲン」 ヲ ドウ トラエルカ?

—— O まず、仕事と表現は全く分離していてもいい、っていうのが、今のTKさんの意見ですけど、それは実際分かれているモノなのか、分けるべきとモノなのか。仕事は仕事でしかないのか、あるいは仕事の中で表現できることもあるのか。

T みんな、何かしら仕事で表現はしていると思うんだけど。表現をどう捉える?芸術的なモノだけを表現と捉えるのか?

M そこで一つ思うのは、表現っていうのは、自分自身が誰かと繋がるための手段、っていうのが自分の定義なんです。自分の言葉で、自分のメロディで音楽を作れば、それを好きな人が反応してくれるわけで、それを通じて自分と誰かの接点が見つかる、ってところで、ブログでも、例えば自分の気持ちにあることを書いて、それに反応があれば、何かしら繋がりが、小さいかもしれないけど、生まれるわけで。

T じゃあさ、例えば、営業でさ、知らない人と誰かと知り合いになるのは?

M それは、会社のブランドの上で成り立つ表現なんで、自分自身が言いたいことを必ずしも言ってるわけではなくて会社の利益を考えてコミュニケーションせざるを得ないわけで。例えば、音楽のような純粋な繋がりとは別なんで。

T 自分の本当の作った、なんだろうな、才能、だけで人と繋がるという……

M 才能とか、本当に自分の表現したいこと、という。それがたまたま会社と一致したら、それは別かもしれないし。自分自身が起こした会社ならそれも別かもしれないけど。一社員として普通に就職するとなると、やっぱり自分の理想的なカタチで繋がれるのは自分から発した表現だと思うので。

T そっかー。でもさ、そのブログでカウント数が多いだけで満足しないわけじゃん?目に見える数字だけで。そこらへんがなあ……もっと詳しく感じることは無いの?

M ああ、ブログとかを見ててもかなり真剣にやってる人はいますね。路上ライブやりながら、その予定とかをブログに書くことで、継続的に見に来てくれるお客さんを集めたりとか。現場とブログの連動性。ネットで完結せず、現場に回帰されるようなコミュニケーションの仕方をしていると、本当に、点の繋がりが線になっていくんです。

T miyu君は、結局は音楽をやりたいのであって。ブログは、その音楽を拡げるための二次的表現なのね?

M そうそう。

T 好きなモノで認められたい。

M TKさんのインディースの話じゃないけど、自分の気の合うコミュニティみたいなものが、表現することで出来れば、それでいいんじゃないかな、と。

T ……君は!?

R 俺?俺は、まだ出てこなくていいと思う。

M なんで?

R いま、何の話をしているのか、あんまりよくわかんない。

T きゃははははは。


仕事の辞めどころ、音楽の諦めどころ

シゴト ノ ヤメドコロ オンガク ノ アキラメドコロ

—— O 人によっては、仕事にかかりきりになった時に、そこで仕事が面白いと思える人と、辛いなあと思いながらやっていく人と、折り合いのつけ方にも2パターンありますよね。加藤さんは、まあ表現のために仕事を辞めたわけですよ。それで、プロになる道を選んだ。映画とバンドとは違いますけど。それがどうしてだったか、ってことから、伺いたい。

R どうしてだったか?うーん。

—— O 仕事がつまらなかったのか、他にやりたいのがあったのか?

T そこだ!映画という表現になんで行き着いたのか。

R はいはい。僕は元々映画はそんなに好きじゃなくて。むしろ嫌いだったんですけど。映画館で2時間束縛されるじゃん。時間とられるし。まあそれは置いておいて。で、出版社に入ってたわけですよ。その出版社でやってた仕事は、いわゆる編集部。まあ、著作と一番近いところで仕事をしていた。不満は全く無かったんですよ。いい職場だったと思います。人間もいい人ばっかりだったし。

T なんで辞めたの?

R どうしても、って、自主制作をしたわけですよ。映画をね。

T どうしてそこで音楽じゃなかったの?

R そこで音楽じゃなかったのは、というか、音楽はずっとやってた。音楽はTKさんと同じスタンスだと思う。オーガストっていうバンドを、大学時代からずっとやってたバンドをまんまやってた。その時も思ったのは、音楽っていうのは、趣味でいいや、と。

T なんでなんで?そこは知りたいなあ。

R うーん。

T これ自己セラピーみたいでいいなあ(笑)俺も自分で言ってて「なんでだろう?」って思うもん。分かるもん。なんで音楽じゃなくて映画だったのか。そこは知りたいなあ、深層心理をこう……

R 音楽、だって、俺ヘタだし。

T 自分の才能をそこで見切りをつけたんだろうな?

R 諦めてた。とっくに。

M 才能があればそれで音楽でよかった?

R そうかもしんない。

T そうか。圧倒的に歌がうまかったりしたらな。

R 圧倒的に、俺、諦めてた(笑)圧倒的に才能が無いのを、知ってたからね。

—— O 仕事に関しては才能は感じなかったんですか?

R べつに仕事は仕事だった。まあ、一年もやってないんで。

M 才能見えないよね。

T それで5年後、十年後のビジョンが見えなかった?

R いや、そういうのはない。見えると思ったし。でも、それでも映画だったんですよ。

T で、なぜ映画?

R なんでかっつーと……なんでか分かんないんだよなあ(笑)でも、気づいたら映画を撮ってたっていう。

T それまでは映画観たりとかしなかったの?

R その通り。週に一本観るくらいの勢いで。全然観てない。でも、小説家のこともそう。小説と音楽は俺の中で同じ位置、っつーか、距離にあって。

T 映画はさ、知らなかったからさ。小説と音楽は関わり過ぎて、才能に見切りつけて。

R そうかもしれない。良いこと言うね。だから、「俺才能ねえや」って諦めたのが小説と音楽で。で、まだ全然「才能ねえ」か分からなかったのが、映画だった。

T それ、あるよね。

R だからそのために、映画学校ってところに入ったっていうのはあります。

{M 映画はまだ「才能ねえや」とは思ってない?

R 思ってなかった(た、を強調)。

T 知識の無いぶん、分からないからさ。中学の時にピストルズ(※セックス・ピストルズ。イギリスのパンク・ロック・バンド)聴いてプロになれるって思ったレベルの話でしょ?プロになれる人っていうのは、その勘違いが続く人だから。

R わはははは。まあ俺は一種の勘違い野郎なんだけど、えー、そうだね。それで、映画に行った。小説と音楽は知識を蓄えていってたんで、大学時代。映画だけは違って。

T 消極的な選択じゃなくて、ポジティブな……

R そうですね……

(続く)


新地下「22歳問題」会談 その二は
表現の副業化は可能か?
表現のためのワークライフバランス
趣味に命を賭ける
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22サイ モンダイ カイダン p1

(2010,9,6)


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