巻一百七十六 列伝第一百一

唐書巻一百七十六

列伝第一百一

韓愈 附 孟郊 張籍 皇甫湜 盧仝 賈島 劉义


  韓愈は、字は退之、鄧州南陽の人である。七代前の先祖の韓茂は、北魏の王朝に対して功績があり、安定王に封ぜられた。父の韓仲卿は、武昌の県令となって、善政を施し、県から去ったあと、人々は石に刻んでその得を誉め称えた。秘書郎で終わった。韓愈は三歳のときに父を失い、長兄の韓会が左遷されたのについて嶺表に行った。韓会が死ぬと、兄嫁の鄭氏が韓愈を養い育てた。韓愈は、書物を読むことを覚えると、日ごとになん百字なん千字も記憶し、成長するにつれて儒家の六経や諸子百家の学説の全てに精通するようになった。進士に選ばれて及第した。当時董晋が宣武節度使になると、上表して韓愈を観察推官の役につけた。董晋が死ぬと、韓愈は、その故郷に帰るのを送ったが、それから四日もたたぬうちに汴州の駐屯軍が反乱を起こした。そこで去って武寧節度使の張建封のもとに行って身をよせた。張建封は、韓愈を節度使府の幕僚とした。幕僚としての韓愈の行動は、正しいと思ったことはどこまでもやり通し、誰はばかる所なく直し、中央政府の四門博士の官に変わり、監察御史に遷った。上疏して宮市の弊害を激しく論じたため、徳宗の怒りをかって、陽山の県令に左遷された。愛情を持ってその地の民衆に接し、民衆たちは、子供が生まれると、韓愈の姓を取ってその名とするものが多かった。江陵法曹軍に改任された。元和年間(806-820)初頭、権知国子博士となり、東都洛陽で事務をとったが、三年たって正式の国子博士となった。都官員外郎に改任され、まもなく河南の県令に任じられた。のちに職方員外郎に遷った。

  華陰の県令の柳澗が罪を犯したため、前任の華州刺史は上奏してこれを弾劾したが、中央の決定が下されないうちに刺史の任期が切れた。柳澗は、人々を煽動し、転任する刺史の馬車の前に立ちふさがって、前年軍隊の通過に際し労力奉仕に出たときの費用を払うようにと請求させた。後任の刺史はこれを憎み、その罪状を調べて、房州司馬に左遷した。韓愈は、華州を通ることがあってこの事件を知り、前任の刺史と後任の刺史とが密かにぐるになっているのだと考え、上疏して柳澗の件について糾明を求めた。御史が再審してみると、柳澗が賄賂を取っていた事実が発見され、彼は更に封渓の県尉に官を貶された。韓愈もこのことで罪があるとされ、国子博士の官に戻された。才能を持ちながらしばしば官位を落とされ、今また下級の官に移されたため、「進学の解」を作って自分自身になぞらえた。

  「国子の先生、あさ太学に登校し、学生たちをあつめて校舎の前に立たせ訓示した。「学業ははげめばすぐれ、あそべばすさむ。行ないは思案すればりっぱ、気ままなればめちゃくちゃ。いまこそは聖人賢者めぐりあい、太平の用意はすべてととのう。悪邪を抜き去って、俊秀善良を登用尊重する。小さな善でもすればそろって名前を記録され、一芸に有名なものはだれでも任用される。ねこそぎさらえほじくり出して、欠点をのぞき美点を磨き出す。およそまぐれあたりで選ばれるものはあっても、多能なのに抜擢されぬというものはない。学生諸君、学業がすぐれぬことを気づかえ、試験官に目がないことを気づかうな。行ないのりっぱならぬことを気づかえ、試験官の不公平を気づかうな。」

  いいもおわらぬうちに、列中で笑ったものがいる。「先生はわたしをあざむかれるか。この弟子はなが年先生におつかえして来た。先生は口ではいつも六経の文句を暗誦し、手にはいつも諸子百家の書物を開いている。ことがらを記録すればかならず要点を書きぬき、議論をまとめればかならず奥の意味をさぐり出す。なるべくたくさん取り入れ努力して獲得し、小も大も捨てられることはない。あぶらをともしてひるまにつづけ、いつもこつこつと年末まではげむ。先生の学術は、はげんでいるといえましょう。異端の説をあらそいおしのけ、仏教老子をはらいしりぞける。すきまがあれば補ないうずめ、はやらぬ学説をひろめられる。失墜した学説のあてどのないものをたずねもとめ、ただひとりさがしまわって遠く継承される。百の川をさえぎって東に流し、あれくるう波を定まった方向からおしかえす。先生は儒学に関して、労力を費やしているといえましょう。純粋な酒の中にひたりこみ、その中の精華を口に含む。文章を作っては、著書は家いっぱい。上、模範にとるは、舜帝・禹王、ひろびろとはて知れず。周の「五誥」や殷の「盤庚」のぎくしゃくがちがち。『春秋』のこちこち、『左伝』のふわふわ。『易経』の奇抜ながらすじがとおり、『詩経』のまともながらもはなやかさ。下れば『荘子』に「離騒」、太史公司馬遷の記録。揚雄と司馬相如、基調は同じで目さきが変わるところまで。先生は文学に対して、中をゆたかに外をのびのびとされたといえましょう。わかいとき学問を知るとすぐに、勇敢に実行に移された。成人してからは筋道を心得て、なにごとにつけても適宜であった。先生は人格において、完成しているといえましょう。それなのに官途にあっては人から信用されず、個人的には友人から援助されない。前につまずきうしろによろけ、なにかあるととがめを受ける。しばらく御史になったかと思うと、やがては南の遠国に飛ばされる。三年間大学教授だったが、余分ものとして問題にされぬ。運命と仇敵とが相談しあい、失敗するのは目に見えている。暖冬でさえ子どもはさむいと泣き叫び、豊年でさえも妻は空腹に悲鳴をあげる。頭ははげ歯はからっぽ、ついに死ぬまで何の役にも立つまい。それを考えることも忘れて、かえって人に教育していらっしゃる。」

  先生「おい、きみ、前へ来い。だいたい大木はうつばりに、細い木はたるきになる。柱の上のますぐみ、くるるにしきい、かんぬきに門柱。それぞれ適当なところにおかれ、うまく使用して家をつくりあげるのは、大工のうでまえ。玉札丹砂、赤箭青芝。牛の小便に馬の屁きのこ、やぶれ太鼓の皮。なんでもかでものこしたくわえ、用途に応じむだのないのは、医者のうできき。登用は明白に選択は公平に、器用なものと不器用なものをとりまぜ任用する。ていねいなのは八方美人、ごつごつしたのこそ豪傑。短所をしらべ長所をはかって、人がらに適切なようにするのは、宰相のさじかげん。むかし孟軻は議論がすきで、孔子の道はおかげであきらか。車の跡は天下をめぐり、ついに旅行のうちに年老いた。荀卿は正義を守り、りっぱな議論は世にひろまった。楚の国にざん言を避け、蘭陵の地でうだつあがらぬままなくなった。この二人の儒者は、ことばを吐けば経典、足を挙げれば法則。人なみはずれてすぐれ、聖人の域に十分はいる。その人たちの時代のめぐりあわせはどうであったか。」「いま、先生は、学問にはげんではいるが伝統によらぬ。ことばは多いが的中を求めぬ。文章は奇抜だが実用にならぬ。行為には修養努めているけれどもひとびとの評判にならぬ。それでも毎月俸給を費やし、毎年お蔵米を減らす。子どもは耕作を知らず、よめは機おりを知らぬ。馬に乗って従者をひきつれ、おちつき坐って食事する。あたりまえのみちをあくせくとふんで行き、古い書物をのぞいては学説をぬすんで来る。しかしながら聖天子は処罰されないし、大臣から免職にされない。幸福なことではございませんか。なにかすると非難を受け、評判もそれに随う。閑職に追いやられているのは、お似合いなのです。財産の有無を考え、官位や俸禄の高低をはかる。自分の度量にかなったところを忘れ、先輩の欠点を指摘する。それらは、いわゆる大工が杭を柱にせぬと責め立て、医者が菖蒲で長生きさせようとするのを非難して、豨苓を飲ませようとするものなのです。」」

  政府の実力者たちがこの文章を読んで、韓の才能を非凡なものだと評価し、比部郎中・史館修撰に改任させた。考功郎中、知制誥の官に変わり、中書舎人の官にまで昇った。

  それより以前、憲宗は、蔡を討伐しようとして、御史中丞の裴度に命じて討伐軍の陣営を巡視して情勢を判断させた。裴度は戻ると、賊軍は打ち亡ぼすことができるとの意見を詳しく言上した。このことについて宰相と議論をしたが、意見が合わなかった。韓愈も以下のように上奏した。

  「淮西では連年、武器やとりでを手入れして、金銭や絹、食糧や家畜が、褒賞で減少すれば、武器を手にした兵士が、四方にむかって侵入掠奪し、農耕の男とはたおりの女とは、子どもたちの手をひいて後方から兵糧を補給しておりましたが、その出費をつぐないませんでした。又聞くところでは、飼っている馬が非常に多く、半年以来、みなうまやに入れられているとのことであります。それは、ちょうど十人力の人であろうと、朝から晩まで、いつも大声でどなってはねまわっておれば、さいしょはすごいけれども、その元気はいつまでも持たず、きっとおのずと疲れ果て、力がなくなったところにつけこめば、身のたけ三尺の子どもでも、そのいのちを思うままにさせられるようなものであります。まして、疲れ果てくたびれきったのちの三つの小さな州で、天下全体の力とぶつかれば、そのやぶれるのは、またたく間のことであります。けれども、まだやぶれるかどうかわからないのは、陛下が決断を下されるかどうかにかかっているからであります。そもそも、兵士が少なければ、かならず勝つためには不十分であります。かならず勝つ軍隊は、かならず速く戦うことによります。兵士が多いのに戦いが速く行なわれなければ、費用がかならず多くかかり、両方土地のあいだ、国境のあたりでは、日日攻撃と掠奪とがあり、敵に近いところの州や県では、さまざまの形で徴発されます。その時すこし大水や早ばつにあえば、住民は憂い苦しみます。こうなったときには、だれもかれも意見がくいちがい、陛下のお耳をまどわします。陛下がしっかりと意見を持たれず、途中でおやめになれば、威光をきずつけ費用を損失し、その弊害はかならず深いのであります。だから、大切なのは、まず決心をきめ、よくよく状況を考え、事件が起こったときにまどわずしてこそ、成功の見こみが立つのであります。」

  また、「諸道から兵士を動員するのは、他郷に旅行して来たので、勢力はひとりぼっちで弱く、反乱軍の土地ととなりあっている州や県では、村里の住民が戦闘に習熟して、敵の状態をよく知っているとのことであります。もし、命令を出して募集させれば、すぐさま軍隊をこしらえあげられますし、教えて三ヶ月もすれば一切用いることができます。」と言上し、また「もし四道に分けて、道ごとにそれぞれ三万人をおき、要害の地を選択して一か所に駐屯させ、実力を中にたくわえて様子をうかがわせるようにし、一度に出動して、蔡の両翼が助けあうこともできないようにさせると、成功するでしょう」と願った。政府の権力者たちは、この意見を喜ばなかった。たまたま韓愈を謗って、彼が江陵に居たときに、裴均に厚遇され、裴均の息子の裴鍔は平素から行動がめちゃくちゃな人物であるのに、送別のためにわざわざ文章を作ってやり、その中で裴鍔を字で呼んでいる。と非難する者があったのをきっかけに、韓愈を誹謗する声が一気に高くなった。このために彼は、太子右庶子に改任された。裴度が宰相として彰義軍の節度使となり淮西宣慰の任に当たることになると、上表して韓愈を行軍司馬の役につけた。韓愈は、裴度の許可を得ると、駅伝の馬車に乗って軍に先んじて汴州に乗り込み、韓弘を説きつけて朝廷の軍に力を合わさせることに成功した。呉元済が平らぐと、刑部侍郎の官に逢った。

  憲宗は、使者を鳳翔まで遣わし、仏舎利を迎えて三日間宮中に入れ、それからそれを仏寺に送った。これに際して、王公から士庶にいたるまで、あわただしく走りまわり、合掌礼拝し梵唄を唱った。西域の法をまねて自分の身体に火をつけたり、珍宝を投げ出し、道に行列して踊りまわるという状態にまで至った。韓愈は、このことを聞いて憎み、そこで次のように上表している。

  「仏は、異民族の一つの教説にすぎません。後漢の時から、中国に流れこんだもので、大むかしにはなかったものであります。黄帝は在位百年、年は百十歳、少昊は在位八十年、年は百歳、顓頊は在位七十九年、年は九十八歳、帝嚳は在位七十年、年は百五歳、帝堯は在位九十八年、年は百十八歳、帝舜と禹とは、いずれも百歳、この時天下太平、人民は安楽長寿でありました。けれども中国には仏はまだなかったのであります。そののち、殷の湯王も年は百歳、湯の子孫、太戊は在位七十五年、武丁は在位五十九年、『書経』や『史記』にそのなくなった年齢は見えませんが、在位年数から推測すれば、おそらくやはりいずれも百歳以下でありますまい。周の文王は年九十七歳、武王は年九十三歳、穆王は在位百年でありましたが、この時も仏の教えはまだ中国にはいっておらず、仏に奉仕することによってこのように長寿となったのではございません。後漢の明帝の時、やっと仏の教えがはいって来ました。明帝は在位わずかに十八年にすぎません。そののち戦乱亡国がひきつづき、国家の生命は短く、宋・斉・梁・陳・元魏より以下、仏に奉仕するのが一心であればあるほど、年代はいっそうちぢまって来ました。ただ梁の武帝だけは、在位四十八年、前後三度、自身をささげて仏に布施され、先祖の霊廟の祭祀に、犠牲の牛、羊、ぶたを使用せず、ひるに一度食事し、それも野菜やくだものだけでありました。その後、はからずも侯景におしとめられて、台城で餓死し、国家もつづいて亡んでしまいました。仏に奉仕して幸福を求めたのが、かえっていっそう災禍を得ることになったのでありますこれから見ましても、仏が奉仕するほどのものでないことは、おわかりでありましょう。

  高祖皇帝がはじめて隋の禅譲を受けられたばかりのとき、仏教を除こうと討議させられました。当時の臣下のものどもは、才能識見が狭く、先王の道と時代による適当な処置を深く知って、天子さまのご聡明さを発揮させ、それによってこの弊害から救い出すことができず、そのことはそのままで沙汰止みになりました。わたくしはいつもざんねんに思っております。謹んで考えますに、睿聖文武皇帝陛下は、神聖英武にして、数百年数千年このかた、たぐいございません。御即位のはじめ、すぐさま人を得度して僧や道士とすることを許可されず、又新しく仏寺や道観を立てることを許可されませんでした。わたくしはこう思っていたことでありました。高祖皇帝のお志は、かならず陛下の手で実行されるだろう、いまたといすぐに実行できなくても、かれらをすきほうだいにさせて、いっそう盛んにさせられることはないにちがいない、と思ったのでございます。いま聞くところによれば、陛下は僧侶たちにいいつけ、仏舎利を鳳翔から迎えさせ、楼にお出ましになってごらんになり、輿にのせたまま大内裏にお入れになり、さらに寺寺につぎつぎと迎えさせて供養させられたとのことでございます。わたくし、極めて愚かながら、きっとこうだと知っております。陛下は仏に迷わされたので、こんな崇拝奉仕をして、幸福を祈願されたのではなく、ただ豊年で国民がたのしんでいるので、国民の心に副われて、首都の士や庶民のために、めずらしい見せもの、遊び道具をこしらえさせられたまでのことだ、と思います。これほど聖徳あり聡明な陛下がこんなことを信じようとなさるはずがありましょうか。けれども国民は愚かで、惑い易くさとり難いものであります。かりにも陛下がこのようだと見ますと、まごころから仏に奉仕されていると思いこみ、みな、こう申しますでしょう。「天子さまは、偉大な聖人であるのに、それでも一心になってうやまい信じておられる。国民などはなにほどのものであろうか。いっそう命を惜しんだりしてはならぬぞ。」そして、頭のいただきを焼き指を燃やして、百人十人と群をなし、きものを脱ぎ銅銭をばらまいてお布施とし、朝から夕方まで、つぎつぎとまねをしあって、ただもう時代におくれまいとし、としよりもこどももかけまわって、自分の職場を棄てるようになるでありましょう。もしすぐに禁止せず、寺寺をつぎつぎとまわれば、かならず、ひじを断ちきり、身の肉を切りとって、供養とするものが出るでしょう。風俗を傷つけ、四方の国に笑いぐさを伝えることになり、小さなことではありません。

  そもそも、仏はもともと異民族の人であって、中国とことばは通ぜず、衣服は作りかたがちがいます。口では先王の礼にかなったことばを語らず、身には先王の礼にかなった衣服を着ず、君と臣とのあいだの義、父と子とのあいだの情も知りません。たといその身が今まで生きていて、その国の命令を奉じて、首都に外交使節としてまいりましたとしても、陛下がそれを認めて接待せられるのは、宣政殿で一度拝謁仰せつけられ、礼賓院で一度宴会を開かれ、衣服ひとかさねを下賜され、護衛をつけて国内から出されるぐらいのことで、ひとびとをまどわせることをさせられないでありましょう。ましてその身は死んでから久しくたち、ひからびた骨、けがれたのこりであります。宮中に入れさせてよいでありましょうか。孔子さまは、「神さまや精霊は尊敬するが近づけない。」といわれ、諸侯が自分の国で弔問に行くのでさえも、みこや神主を先だてて、桃やおぎのほうきで不吉なものを祓いきよめさせ、それから進み出て弔問いたしました。いま、理由もないのに、けがれたものを迎え取って、自身出かけてごらんになるのに、みこや神主が先ばらいもせず、桃やおぎのほうきを使用して祓いきよめることもなさっておりません。臣下のものどもはそれがあやまりであることを申さず、御史は臣下の怠慢をとりあげません。わたくし、実にはずかしく存じます。なにとぞ、この骨を事務担当官におわたしになり、それを水か火に投げこんで、永久に迷信の根源を絶ちきり、天下の疑惑をはっきりさせ、後世の惑いのたねを絶ちきるようになさって下さいませ。そして天下の人に、偉大な聖人のなされることは、なみなみのことよりも遥かに遥かにとびぬけているのだということを知らせて下さいませ。そうすれば、なんとりっぱなことではありませんか。なんと愉快なことではありませんか。仏にもしも精霊があって、たたりをすることができるのなら、あらゆ禍と咎めは、わたくしの身に加えるのがよろしい。上なる天が見ております。わたくしは怨んだり後悔はいたしません。」

  上表文が来ると、憲宗はひどく腹を立て、上表文を持って宰相たちに見せ、韓愈を死刑に処しようとした。裴度崔群が言った、「韓愈めの言葉は、まちがいだらけで道理に悖り、罪に処せられるのは誠に当然ではございますが、心に最高の忠を持っておらねば、どうしてこんなことまでしでかしたりいたしましょう。どうぞいささか彼の刑を緩められて、以後彼の処刑に懲りて帝をお諌めする者がなくなってしまわぬようにされて下さい」。帝が言った、「韓愈めが、おれが仏をあがめることが度を過ぎると言うのは、それはそれで許すこともできよう。しかし後漢の世に仏をあがめるようになって以来、天子はみな長生きできなかったなどと言うに至っては、なんというひどい言い草だ。韓愈めは臣下でありながら、思慮分別を失ってこんなことまでやりだしたのだ。決して許すことはできない」。事態がここに至って宮中も一般の人々も心を驚かせ、帝の外戚の貴族までが、韓愈のために執り成しの言上をした。そのため死刑は免れて潮州刺史に官を貶されることになった。

潮州に着くと、上表して哀みと叙任に対する感謝の意を表した。

  「わたくし、分別なく意見をいう愚かもので、ものごとの節度をわきまえず、上表文をたてまって仏舎利のことを申し述べましたところ、ことばが不敬にわたりました。罪名にしたがって処罰を定めれば、一万回殺されてもなお軽いぐらいであります。陛下は、わたくしの愚かな忠義心をあわれみ、わたくしの分別のないきまじめさをおゆるしになり、わたくしのことばは処罰せねばならぬが、心に別のことがあってのことではないとおおせられ、特別に刑法の条文をまげられて、わたくしを潮州刺史になさいました。処刑をまぬがれたうえに、俸給生活ができることになりました。天子さまの御恩のひろく大きなことは、天地でも計量できません。脳をぶちわり心臓をくりぬいても、感謝の気持ちをあらわしきれないのであります。

  わたくしの統治しております州は、広州の嶺南節度使管内でいちばん東の地域にあり、海口を過ぎ、悪渓を下れば、波と早瀬は勢いはげしくて、日程は予定しがたく、台風やワニは、そのわざわいを予測できません。この州の南の近い地域でも、みなぎる海が天にまでつらなって、毒の霧と風土病をおこす気とが、朝夕立ちのぼります。わたくしはわかいときから病気がちで、年はやっと五十ですが、髪は白く歯は抜け落ち、道理からすればそう長くはありますまい。そのうえに犯した罪はきわめて重く、住むところは又いちばん遠くて悪いところであります。憂いと恐れと慙愧と胸さわぎで、死ぬのは間もないことと思われます。ひとりこの身ひとつがあるだけで、朝廷には親類も同郷人もなく、遠い文化のない土地にいて、化けもののなかまとなっております。もしも、皇帝陛下があわれんで思いをかけて下さらなければ、だれがわたくしのためにいってくれるでありましょうか。

  わたくしは生まれつき、愚かで見識がなく、世間のことについてよく知らないことが多うございます。ただ、学問と文章がひどくすきで、ほんの一日もやめたことがなく、実際、現今の同輩のものから高く評価されております。わたくしは、時機時機に必要な文については、人よりもすぐれているところはありませんが、陛下の功績と聖徳とを論じ述べて、『詩経』『書経』と肩を並べ、歌や詩を作って、天地の神神の宮居や御先祖の霊廟にささげ、泰山の祭祀を記録して、白玉の書札にほりつけ、天に答えるほどのひろびろしためでたさをひろげのべ、過去にはなかったような偉大な事跡を賞讃するとなると、『詩経』や『書経』の巻物の中に編みこんでもはずかしくなく、天地のあいだにおいても欠点がなく、むかしの人を復活させたとしても、わたくしはそうひどく見劣りはしないつもりであります。

  謹んで考えますに、大唐は天命を受けて天下を統治し、四海のうちは、みな臣下となり、東西南北、土地はそれぞれ万里あります。天宝年間(742-756)からのち、政治がすこしゆるみ、文化による教化も不十分であり、武力による勝利もつよくなく、わざわいをおこすわるい臣下が、シミのようにくいこんで住まいし碁のようにちらばっており、毒を出しては自分を防衛し、外面は従順で内心は反逆し、父が死ねば子が代わり、祖父なら孫へとむかしの諸侯のように領地を自分のすきなようにし、租税を納め朝廷へのあいさつもしないで、六・七十年、四代の皇帝陛下につぎつぎと伝わって、陛下に至りました。陛下は御即位このかた、自身直接聞いて判断され、天地を回転させ、機械の中心装置を運転し、雷のようにはげしく風のように吹きとばし、日や月のようにあかるく照らされました。天子さまの鉾の指しまねくものは、みなおとなしく従い、天のおおう下に、生きとし生けるものはきわめて平和になりました。ですから、音楽にあわせる歌詞を定めて、神神に申しあげ、東のかた泰山に巡幸されて、天に功績を上奏し、あきらかな功業をすっかり書きつけて、はっきりと得意の気持ちを示され、将来、永久の世代のものたちに対して、われわれの完成されたすばらしさに感服させるようにされるのがよろしいと存じます。いわゆる千年に一度もめぐりあうことのできないめでたい機会なのに、わたくしは、罪を背負い罰を受けて、身から出た さびとして海の島につながれ、びくびく、ああああといたみなげきながら、毎日死にせまられております。おそまつなわざさえもおともの官吏の中、おそばづかえのもののあいだで上奏して、思いのたけを尽くし精魂をはき出し、罪を償うこともまったくできず、この天にもとどく苦しみをいだいていては、死んでも安らかに目を閉じられません。謹んで考えますに、皇帝陛下は、天地の父母、憐れみを垂れさせたまわりますようお願い致します。」

  帝は上表文を見て、いささか心を動かされ後悔して、もう一度中央で用いようと考えた。その上表文を持って宰相たちに見せて言った、「韓愈がさきに論難をしたのは、大いにおれのことを思ってくれてのことなのだ。ただ、天子が仏に仕えれば寿命が短くなるなどと言ってはならなかったのだ」。皇甫鎛は、以前から韓愈の剛直なところを嫌っていたので、すぐさま上奏して、「韓愈はまだ十分には人づきあいの悪い性格が改まっておりませんから、ひとまずもう少し都に近い地方の官に移されるのが適当かと思われます」と述べた。そのため袁州刺史に改任されることとなった。それより以前、韓愈が潮州に赴任したとき、民衆たちに困ったり苦しんだりしていることはないかと尋ねたことがあった。みなが口をそろえて言った、「悪渓と呼ばれるところに鱷魚(ワニ)がいて、住民たちの家畜を食べるため、家畜がほとんど全滅しかかっております。住民たちはこのために生活が窮之いたしております」。数日あと、韓愈は自ら出かけてその状態を見ると、属官の秦済に命じて、羊一匹と豚一匹を谷川に投げこんで祈らせた。その告文にいう、

  「むかし、先王が天下を統治されたとき、山や沢を封じこめ、網や縄や銛や刃もので、住民に害を与える虫や蛇や悪い化けものをとりのぞき、それらを国外追放された。後世の王に至り、徳が薄くて、遠方まで統治することができなくなると、長江や漢水のあたりでさえも、みな放棄されて、異民族の楚や越の国に与えられた。まして、潮州は、五嶺と南海のあいだ、首都から万里のところであるからなおさらのことである。鱷魚(ワニ)どもがここに侵入し、卵を生みつけて繁殖したのも、なるほどもっともなことといえる。

  現在、天子さまは唐の帝位をうけつがれ、神聖にして慈愛あり勇武である。四つの海の外、天地四方の内、すべてかわいがって統治される。まして、王の足跡のおよぶところ、揚州に所属する近い地域、刺史と県令が治めるところ、租税を出して天地や先祖の霊廟、ちよろずの神神の祭に提供する土地では、もとよりのことである。鱷魚(ワニ)どもは刺史とこの土地にいっしょに住まいしてはならぬ。刺史は、天子さまの命令を受けて、この土地を守り、この住民を治めている。それなのに鱷魚がぎょろぎょろ目をむいておちつかず、谷の渕に住まいをかまえ、住民や家畜や熊やぶたや鹿や麞(のろ)を食って、身を肥やし、子孫を繁殖させ、刺史とはりあって、どちらが親分となるか争っている。刺史は弱虫ではあるけれども、鱷魚どものために、うなだれへりくだって、びくびくきょろきょろと、住民や役人に対してはずかしい思いをしながら、ここで日さえたてばよいというくらしをしようとは思わぬ。そのうえ天子さまの命令をうけたまわって官吏として赴任して来た当然のこと、その事情からいって鱷魚どもと決着をつけねばならない。鱷魚どもに理性があるなら、刺史のことばに耳を傾けよ。

  潮州という州は、大海が南にあり、鯨や鴨のような大きなものでも、えびやかにのような小さなものでも、なんでもとり入れて、生活させ養ってくれる。鱷魚(ワニ)どもは、朝出発すれば、夕方には到着できる。いま、鱷魚と約束する、まる三日のうちにその一族をひきつれて、南のかた海に移住して、天子さまから御命令を受けている官吏を避けよ。三日でできなければ、五日までとし、五日でできなければ、七日までとする。七日でできなければ、これはけっきょく移住を承知しなかったのである。これは刺史がいながらそのことばを聞き入れようとはしないのである。そうでなければ、鱷魚どもは頑冥で神霊を欠き、刺史がことばをかけても、聞こえず理解しないのである。天子さま御命令の官吏を軽蔑し、そのことばを聞き入れず、移住して避けようとせぬものと、頑冥で神霊を欠き、住民や生物の害となるものはいずれも殺すがよい。刺史は、うでまえすぐれた役人と住民とを選抜し、強い弓と矢を手にして、鱷魚どもに対して処置をとらせ、かならずみなごろしにするまではやめないであろう。後悔してはならぬぞ。」

  その晩、谷に激しい風とかみなりが起こり、数日たつと水がすっかり涸れ、鱷魚は西方六十里の地に移った。これ以後、潮州に鱷魚の被害の心配はなくなった。袁州の人々の間には、息子や娘を人の家の下働きに売る風習があったが、期限が来ても買いもどさないと、そのまま持主の家の奴隷となってしまった。韓愈は袁州に赴任すると、一人ずつのそれまでの労賃を計算し、買いもどすに足る額になっているもの七百余人をすっかり父母のもとに帰してやった。同時に土地の有力者たちの約束を取りつけ、下働きに売る風習を禁止した。中央に召し帰されて国子祭酒の官に任ぜられ、兵部侍郎に移った。

  鎮州の駐屯軍が反乱を起こし、田弘正を殺して、王廷湊を首領におし立てた。皇帝は、詔を下して韓愈を宣撫にむかわせた。出発したあと、人々は韓愈の生命を危ぶみ、元稹は、「韓愈ほどの人材を殺してしまうのは惜しい」と上言した。穆宗も後悔し、情勢をよく判断して適切な処置を取るように、必ずしも敵地に乗り込む必要はないとの詔を韓愈に伝えた。王廷湊は、厳戒体制を敷いて韓愈を迎え、前庭には甲冑に身を固めた兵士たちが並んでいた。席につくと、王廷湊が言った、「事態が安らかでないのは、これらの兵士たちの不満が強いからなのだ」韓愈は声を荒げて言った、「天子は、あなたに軍を率いてゆく才能があると考えられたからこそ、将軍の節を賜ったのだ。賊たちと一緒になって背こうなどとは決して思っておられなかった」。言葉が終わらぬうちに、兵士たちは前につめ寄せ興奮して言った、「さきの大将軍の王武俊殿は、国家のために朱滔を討たれた。その時の血ぞめの衣服はまだ残っている。この軍のどこが朝廷の意にそわなくて、反乱軍と見なされるのか」。韓愈が言った。「おれは、おまえたちがさきの大将軍のことなど忘れてしまったのだと思っていた。覚えているとすれば、それは結構だ。そもそも反逆をなすことと柔順であることとの損得については、遠い故事を引くまでもない。天宝年間(742-756)以来の凶事吉事でもって、おまえたちに明らかにしてやろう。安禄山史思明李希烈たちのうち、息子あるいは孫が生き残っている者があるか。ましてや官位にある者がおるか」。兵士たちが答えた、「ない」。韓愈が言った。「田公は、六州を奉じて朝廷に帰順され、中書令に任じられ、父子ともに軍を率いるしるしの旗と節とを授けられた。劉悟李祐も大鎮の長だ。このことは、おまえたちの軍の者がみな聞いている所ではないか」。兵士たちが言った。「田弘正はやり方が酷かったので、この軍の者は不満を持ったのです」。韓愈が言った、「しかしおまえたちは田公を殺し、そのうえ田公の家族までも殺害した。この上になにを言うのだ」。兵士たちは口々に叫んだ。「兵部侍郎殿の言葉の通りだ」。 王廷湊は、兵士たちの心が動揺するのを恐れ、急いで引き下がるように合図をすると、韓愈に泣きついて言った、「いま廷湊をいかようにせよとおおせられますか」。韓愈が言った、「神策軍(近衛兵)や六軍(天子が直接率いている軍)には、牛元翼ぐらいの者なら少なくないのだが、ただ朝廷は事の名分を重んじられ、これを棄てておくことはできないのだ。あなたが牛元翼を久しく包囲しているのは、どうしたことなのだ」。王廷湊が言った、「すぐさま包囲から出しましょう」が言った。「そうされたならば、お咎めもありますまい」。ちょうど牛元翼の方でも囲みを破って脱出したので、王廷湊はこれを追わせなかった。韓愈は帰ると、王廷湊の帰順の言葉を奏上した。帝は大いに喜び、吏部侍郎に改任させた。

  当時宰相であった李逢吉は、李紳を嫌って中央政府から追い出したいと考えていた。そこで韓愈を京兆尹と 御史大夫を兼任させ、特別の詔を下して御史台に挨拶に行く必要はないとした上で、李紳を御史中丞(御史大夫の次官)に任じた。李紳は、果たして韓愈が挨拶に来ないと言って弾劾の上奏をした。韓愈は、自分は詔を受けていると弁解をした。 そののち、この事件をめぐって文書が盛んにやりとりされたので、宰相の李逢吉は、御史台と京兆府との間がいまくいっていないという理由で、韓愈を罷めさせて兵部侍郎に改任し、李紳を江西観察使として地方に転出させた。李紳は、帝に目通りして留任することができ、韓愈も再び吏部侍郎となった。長慶四年(824)に卒した。享年五十七歳。没後、礼部尚書の官を贈られた。諡は文。

  韓愈は、頭が明晰で鋭く切れ、他人に附和雷動することがなかった。友人たちとの交わりは、最後までいささかも変わることなく貫いた。後輩たちの世話をして世の中に出してやり、その中には有名になった者も多く、韓愈の指導を受けたものは、みな「韓門の弟子」と称した。ただ韓愈の官位が上がると、次第に弟子入りをことわるようになった。肉身や姻戚の者、あるいは友人たちに跡継ぎのないまま死ぬ者がいると、韓愈が親がわりになって父を失った娘を嫁にやり、その家のことを心配してやった。兄嫁の鄭氏が死ぬと、一年の喪に服してその養育の恩に報いた。

  いつも文章を論じて、「漢の司馬相如・太史公(司馬遷)・劉向・揚雄以後、優れた作者は世に出ていない」と言い、そう考えればこそ韓愈は深く文章の根本を探って、すっくと聳え立ち、一家を成したのである。その『原道』・『原性』・『師説』など数十篇は、みな奥ゆきが広く深く、孟軻(孟子)や揚雄と表裏一体をなし、儒家の六経を助けるものであるとされる。その他の文章についても、内容の導き出し方や議論の進め方は、なによりも先人のやったあとを踏まぬようにと心がけた。しかしこうしたことは、韓愈だけが十分な余裕を持ってやれることであった。その一派の李翱・李漢・皇甫湜たちが韓愈のあとについてそれを模倣したような類は、はるかに及ぶことができない。韓愈について学んだ者のうち、孟郊張籍らも、それぞれ当時名声があった。


  孟郊は、字は東野、湖州武康の人である。若くして嵩山に隠れ、性格は狷介不羈、他人と和合することは少なかった。韓愈と一見すると身分や貧富などを問題にしない交わりをした。五十歳のとき進士に及第し、溧陽県の尉に任じられた。溧陽県に金瀬や平陵城があり、林は近くまでせまって草木が覆い茂り、麓には池沼があった。町外れは静かにさえわたり、行っては水のほとりに座り、徘徊しては詩を賦していたから、職務はほとんどできなかった。そのため県令は府に申し上げて、仮の尉で替わらせ、その俸給を両者で半分づつとした。鄭余慶が東都(洛陽)留守となると、水陸転運判官に任じられた。鄭余慶が興元府を治めると、奏上して参謀となった。卒した時、年六十四歳であった。張籍が諡して貞曜先生とした。

  孟郊が詩をつくると道理にかなっており、最も韓愈が褒め称えたが、しかし晦渋だと思われていた。李観もまたその詩を論じて、「古より至高のところにあり、平きところは下は二謝(東晋の謝霊運と謝朓)を振り返る」と言った。


  張籍は、字は文昌、和州烏江の人である。進士に及第し、太常寺太祝となった。しばらくして秘書郎に遷任された。韓愈の推薦により国子博士となった。さらに水部員外郎・主客郎中を歴任した。当時の名士は皆張籍と親交があり、韓愈は賢さから重じた。張籍の性格は狷介かつ実直で、かつて韓愈が博打を喜んでいたのを責めて非難し、論議はよく人に勝り、仏教・道教をしりぞけるのに書物を著して孟軻・揚雄のように世の中に示すことをしていないと非難した。韓愈は最後に書簡を送って以下のように返答した。

  「あなたは、わたしをつまらぬ人間と思わず、聖人賢人のなかまにまでおすすめ、わたしのけがれた心をのぞき、まだ及ばないところをのばそうという心持で、わたしには道に到達できる素質がある、といわれます。その本源をさらえて、流れあつまるところにみちびき、その根に水をやって、実を食べようとなさいますが、これは、徳のりっぱな人でも遠慮することで、ましてわたしなど、いうまでもありません。けれどもその中に御返事するのがよいと思うことがあるので、書くことにいたしました。むかし、聖人が『春秋』を作ったとき、その表現に深い意味を持たせましたが、それでも、はっきりと公開して伝えようとはされず、口ずから弟子に授けられ、後世になって、はじめて解説書があらわれました。聖人がわざわいを気づかわれてとられた方法は、こまかいところに意味を持たせることでありました。いまかの仏・道の二教をあがめて奉仕しているものは、上はいうもおそれ多く、下は貴族や大臣なのですから、わたしは堂々たる議論でおしのけようとは思いません。はなしのできるものを選んで教えても、時にはわたしと意見がくいちがい、声をあらだてることになります。もしも書物を書きあげたら、それを読んで腹を立てる人はきっと多いでしょう。きっとわたしを狂人だ、考えちがいをしてるのだと思いましょう。自分自身でさえ保証しかねるのに、書物がわたしにとって何の役に立ちましょう。孔子は聖人です。それでも、「わたしは子路を弟子にしてから、悪口が耳にはいらなくなった」といい、そのほか、天下いたるところに、補助する人がありましたが、それでも、陳では食糧がなくなり、匡では危険なめにあい、叔孫から非難され、斉・魯・宋・衛の郊外を馳せめぐられました。孔子の道は尊いけれども、その困窮も甚だしいものがあります。その門弟たちがいっしょに保持していったおかげで、さいごは天下にその地位を確立されましたが、もし、ひとりそれをいい、ひとりそれを書いたのなら、生きのこることを期待できたでしょうか。かの二教が中国に流行してから、ざっと六百年あまりになります。根をしっかりと植えつけ、波をひろびろと流し、朝に命令を出せば夕方に禁止されるといった簡単なことではありません。周の文王がなくなってから、武王・周公・成王・康王とそれぞれ保持しつづけ、礼法音楽もすべてちゃんとしていました。孔子まではそう長い期間ではありません。孔子から孟子まで、そう長くなく、孟子から揚雄までも、そう長くありません。それでもあんなに努力し、あんなに苦労して、やっと確立することができました。わたしが簡単にできるはずがありましょうか。簡単にできるなら、そう遠くまで伝わりません。だから、わたしはむりにしようとは思わないのです。けれども、むかしの人を見ると、その時世に認められ、その道を実行できれば、書物を著わしていません。書物とは、いつも自分のしていることが、当時に行なわれず、後世に行なわれるためのものです。いま、わたしが、自分の希望とおりにはたらけるかどうかは、まだわかりません。五十・六十になって、それをしても、おそくないのです。天がこの人類に道を知らせまいと思えば、わたしの生命は、あてにならぬでしょう。もし天がこの人類に知らせようとするなら、わたし以外にだれがいますでしょうか。道を行ない、書物を書き、現代を教化し、後世に伝えることが、きっとあります。あなたはどうしてそんなにわたしの行為にはらはらしているのです。

  さきのお手紙に、わたしがひとと議論するとき、興奮をおさえきれず、ひとに勝つのをよろこんでいるみたいだ、とありました。たしかにそういうところがありますけれども、それは自分が勝つのを喜んでいるわけでありません。自分の道が勝つのを喜んでいるのです。自分の道が勝つのを喜んでいるのでもありません。自分の道は、孔子・孟軻・揚雄が伝えて来た道です。もし、勝たないのなら、道といえないのです。わたしは、ひとに勝つのを喜ぶという名をさけようとは思いません。孔子のことばに「わたしは顔回と一日中はなしていたが、かれはばかみたいにさからわない」といっているところからすると、孔子はひとびとと議論することがあったのです。いいかげんなはなしをしているという非難には、さきの手紙ですっかり申しました。あなたはもう一度読みかえして下さい。むかし、孔子でもたわむれることがありました。『詩経』に、「よくたわむれるけれども、ひどいことはしない」とあるではありませんか。『礼記』に、「弦を張ったままでゆるめないのは、文王・武王でもできないことだ」とあります。道に有害だとも思えません。あなたは、それを考えておらないのではないでしょうか。」

  張籍は詩をつくり、楽府(古体詩の一種)を得意とし、多くの警句がある。官位は国子司業で終わった。


  皇甫湜は、字は持正で、睦州新安の人である。選ばれて進士に及第し、陸渾県の尉となり、仕官は工部郎中に到った。酒による失言をし、しばしば同僚をなじったから、自ら求めて東都の分司(洛陽の官吏のこと)となった。東都留守の裴度は招いて判官とした。当時裴度は福先寺を修造し、碑を建てようとし、文を白居易に求めた。皇甫湜は怒って、「近くにいる湜を棄てて遠くにいる白居易を取るのなら、ここから去りたいと思います」と言ったから、裴度は謝罪した。皇甫湜はそこで一斗の酒を所望し、飲んで酩酊して、筆をもって真っすぐ立って書き上げた。裴度はお礼に車馬に繒彩と贈物が非常に多かったが、皇甫湜は激怒して、「私は『顧況集序』をつくりましたが、それ以外では作文をいまだ他人に許したことはありません。今、碑文の字は三千あり、一字三縑です。どうして私はこんなに少ない報酬を受けるはめになるのでしょうか」と言ったから、裴度は笑って「奔放な天才だな」と言い、従って報酬を与えた。

  皇甫湜は以前、蜂に指を刺させるため、小児を買って蜂を育てさせ、叩いてその毒液を撤らせた。ある日、その小児に命じて詩文を記録させたが、一字誤ったから、ののしって杖を探したが、杖がなかったから、その肘を噛んで血を流させた。


  盧仝は東都(洛陽)に住み、韓愈が河南令であったとき、その詩を愛して、敬意をもって優遇した。盧仝は自ら玉川子と号し、かつて「月蝕の詩」をつくって元和の逆党を批判した。韓愈はその巧みさを賞賛した。

  当時、また賈島劉义がいて、皆「韓門の弟子」であった。


  賈島は、字は浪仙で、范陽の人である。当初、僧侶であり、名を無本といった。東都(洛陽)に来た時、洛陽令が、僧が午後に外出することを禁止したため、賈島はそのため自ら慰める詩をつくった。韓愈はこれを哀れんで、そこで文章をつくることを教え、ついに還俗して進士となった。詩文をつくるのにいつも苦吟し、公卿や貴人に遭遇しても、いつも気づかなかった。ある日、京兆尹(韓愈)と遭遇したが、苦吟してロバにまたがってながらも避けず、呼ばれて詰問され、しばらくして詠むべき句を得たのであった。何度も科挙を勧められたが、及第できなかった。文宗の時、誹謗のため長江主簿に貶された。会昌年間(841-846)初頭、普州司倉参軍となり、さらに司戸に改任されたが、命令を受けて赴任する以前に卒した。享年六十五歳。


  劉义もまた一人の高節の士である。若い時は放埒で侠行があり、酒のために殺人して逃亡した。たまたま恩赦となったため出てきて、さらに過去を改めて読書し、よく詩をつくった。しかし昔にやっていたことをたのみとしていたから、貴人に拝礼することができず、常に穴が空いた沓、破れた衣服を着ていた。韓愈が天下の士に接することを聞いて、歩いて会いに行った。「氷柱」「雪車」の二詩をつくり、韓愈からは盧仝孟郊の右に出ると評価された。樊宗師と会うと、樊宗師は彼に拝礼した。道行く人の顔をみて長短をいい、仁義を行えば人の欠点を補うことはまるで親族のようであった。後に口論して賓客に謝ることができず、そこで韓愈の金数斤を持ち去った。「これは墓の中の人に諂って墓碑を書いて得ただけだから、この劉君に与えたら供養になるだろう」と言った。韓愈は止めることができず、斉・魯に帰り、どこで死んだかわからない。


  賛にいわく、唐が勃興し、五代がわかれて受け継いだが、王政の綱紀はゆるみ、文業は衰え、衰えて質が悪化し、田舎言葉が混雑するようになった。天下が平定されると、治世は整えられて弊害は除かれ、儒教は討論研究されて国法をおこし、醸成されて次第に広がること百年あまりになろうとし、その後文章は次第に述べられてきた。貞元・元和年間(785-820)になると、韓愈は遂に六経の文によることを諸儒に提唱し、末流まで流れの堤防となって導き、曲がった物を真っ直ぐにし、偽りを削って真実なものとした。しかも韓愈の才能は、自ら司馬遷・揚雄に匹敵するとみて、班固以下に到っては論ずるに値しなかった。彼の得意とするとことなると、粋然としてすべて正しい事柄から出て、古臭い言葉は削除し、縦横に紙面を馳せ、言論・書法の気勢は豪放で、これらの事をおこなっても聖人の教えと食い違うことはなかった。その道は思うに韓愈自ら孟軻(孟子)に比較するとし、荀況(荀子)・揚雄はまだ真心がないとしているが、どうして韓愈の言う通りだと信じられないことがあろうか。諫言を奉ったり謀を陳述する時には、危機を排除して孤児に憐れみをかけ、悪党の下々を矯正し、仁義にかしこまり、徳行の君子というべきである。晋から隋まで道教・仏教が盛んに行わるようになったが、聖道が絶え間なく続くことは帯のようであった。諸儒が天下の正議をたのんで、道教・仏教がを助けて怪神の座を提供した。韓愈は一人嘆息して聖人の道を引き、天下を惑わす物事に争い、嘲笑されたとはいえ、倒されてもまた奮闘し、はじめ信じる者はいなかったが、ついに大いに世の中に名があらわれるようになった。昔、孟軻(孟子)は楊朱・墨子の説を否定したが、孔子の時代からわずか二百年ほどのことであった。韓愈は道教・仏教の二家の教えを排斥したのは、それからさらに千年あまり後のことであり、正道に帰し、功績は等しくその威力は倍となった。いわゆる荀況(荀子)・揚雄を超えたといってもいいくらいであった。韓愈が没してから、その言行は大いに行われ、学者は仰ぎ見ること泰山や北斗雲のようであった。


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最終更新:2023年06月28日 23:46
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