巻一百二十五 列伝第五十

唐書巻一百二十五

列伝第五十

蘇瓌 頲 詵 震 幹 張説 均 垍


  蘇瓌は、字は昌容で、雍州武功の人で、隋の尚書僕射の蘇威の曾孫である。進士に及第し、恒州参軍に任命された。母の喪にあい、悲しみ嘆くこと人以上であり、左庶子の張大安が上表して孝悌に推薦し、豫王府録事参軍に抜擢され、朗州・歙州の二州の刺史を歴任した。

  当時、来俊臣が州参軍に左遷されてくると、人は恐れて用いず、多くの者が書翰を蘇瓌に送って対応を願ったから、蘇瓌はその使者を叱って、「私は忝けなくも州牧に任命されているが、身分の高下には自然と礼があるのであり、どうして小人を待つなどの過ちをすることができようか」と言い、ついに書翰を送らなかった。来俊臣は帰還できなかったから恨んだ。そのため連続で地方官に転任させられ、長安に戻ることができなかった。しばらくして揚州大都督府長史に転任した。揚州は都会であったから、多くの珍しい名産があり、前長史の張潜于辯機は巨万の財貨を得ていたが、蘇瓌はただ一人行李を自分で持つほどでしかなかった。同州刺史に遷った。

  この年旱魃となり、兵で交代すべき者は赴任することができなかった。蘇瓌は上奏して、「宿衛は欠けてはならず、毎月の給付をさらに現在の半分の糧食を下賜し、生活することができるようにさせれば、交代の者は欠くことはありません。また進献をむかえて、不急の造営は中止すべきです」と述べたが、採用されなかった。当時、十道使は天下の逃亡世帯を一括没収した。それより以前に戸籍に載らなかった者は捜索されるのを恐れて、近隣の州に流入し、さらに互いに隠しあった。蘇瓌は十道使の廃止を願い出て、責任を州県に負わせ、予め簿註を立てておき、全国同日に検査し、一月で止め、悪事をやめさせ、毎年収穫を一括とし、租調を検査し、労役の弊害を免れた。武后は仏像を鋳造し寺院を建立し、賦役を行わない年はなかった。蘇瓌は「浪費消耗することは莫大で、国庫より出庫していないとはいえ、民間の産業から日々蕩尽する必要があります。百姓が不足すれば、君主はどうして充足できましょうか。天下の僧尼は偽って出家する者が半ばにもなります。寺とあわせて、僧の定員数を記録して、欠員が出た場合にただちに補っていただきますようお願いいたします」と上奏し、武后はその発言をよしとした。

  神龍年間(707-710)初頭、長安に入って尚書右丞となり、懐県男に封じられた。蘇瓌は法令に通暁し、多く台省などの役所の旧例を知り、唐朝の格式は、すべて刪定した。再び戸部尚書に移り、侍中を拝命し、京師留守となった。

  中宗が復位すると、鄭普思が妖しげな幻術によって秘書員外監に任じられ、支党が岐州・隴州の間をうろついて、扇動誘引して混乱を巻き起こした。蘇瓌は鄭普思を逮捕して尋問したが、鄭普思の妻は左道によって韋后の厚遇を得ており、禁中に出入りし、詔によっておさまることがなかった。蘇瓌は朝廷で鄭普思の不可を論じ、帝はなおも裁決できなかった。司直の范献忠は、蘇瓌が鄭普思を調べさせていたから、進みでて「蘇瓌は大臣となっているのに、先ず逆乱の小僧を誅殺して天子に報告しなければならないのにできていません。罪は大罪にあたります。臣にまず蘇瓌を斬らせてください」といい、ここに僕射の魏元忠が頓首して、「蘇瓌は長者で、刑を用いるのに曲げるようなことをいたしません。鄭普思は死罪に相当します」と言ったから、帝はやむを得ず、鄭普思を儋州に流罪とし、支党は死罪に相当した。累進して尚書右僕射・同中書門下三品(宰相)を拝命し、許国公に進封された。

  帝が南郊の祀りを行うと、国子祭酒の祝欽明が皇后に亜献させ、安楽公主に終献させるよう建白した。蘇瓌はその建白は非礼であると上奏し、帝の前で侮辱した。帝は暗愚で意気地がなく、従うことができなかった。当時、大臣は初めて官を拝命すると、食を天子に献上し、これを「焼尾」といったが、蘇瓌は一人献上しなかった。侍宴になると、宗晋卿が嘲ったが、帝は黙って何も言わなかった。蘇瓌は帝に「宰相は陰陽を調和させ、天に代わって物を治めることを職掌としています。今食料の物価が上昇して、百姓にはいきわたらず、衛兵に至っては三日食べていない有様です。臣は本当にこの職に値するほどのことができているとは言えません。ですから敢えて焼尾を献上しないのです」と弁明した。帝が崩ずると、皇太后に遺詔して臨朝し、相王(睿宗)を太尉に任じて輔政させた。韋后は宰相韋安石韋巨源蕭至忠宗楚客紀処訥韋温李嶠韋嗣立唐休璟趙彦昭と蘇瓌で禁中で議した。宗楚客が分別なく、「太后が臨朝されれば、相王と互いに音信できない煩わしさがあるのだから、輔政とすべきではない」と言ったから、蘇瓌は声を荒らげて「遺制は先帝の遺志である。どうして簡単に改められようか」と言ったが、宗楚客らは怒り、ついに相王が輔政するという事を削ってしまった。蘇瓌は病だと称して入朝しなかった。この月、韋氏が失脚して睿宗が即位し、蘇瓌は左僕射に昇進した。

  景雲元年(710)、老いのため病み、太子少傅で免官となった。卒し、年七十二歳であった。司空荊州大都督を贈られ、諡を文貞という。皇太子は別邸で哀悼を示した。薄葬を遺言し、布車(霊柩車)一台のみの葬儀であった。

  蘇瓌は州を治めると考課は常に最良であり、宰相となると、当時の世情の利害を述べることは非常に多かった。韋温が汴洲司倉参軍となると、賄賂の罪によって杖刑としたが、立場が代わって用いられることになっても、蘇瓌の正義を憚って、ついにあえて害することをしなかった。開元二年(714)、その家に実封百戸を賜ったが、長子の蘇頲は固辞し、そこで真ん中の子の蘇乂を抜擢して左補闕とした。開元六年(718)、詔して劉幽求とともに睿宗の廟廷に配享した。文宗の大和年間(827-835)、旧徳を記録し、その四代孫の蘇翔に官位を授けた。

  蘇瓌の子たちでは、蘇頲蘇詵が名が顕れた。


  蘇頲は、字は廷碩で、幼い時から聡明で、一たび文章を見ると千言をし、たちまち暗唱できた。進士に及第すると、烏程尉に転任した。武后が嵩山で封禅の儀を行うと、賢良方正科に抜きんでて推挙され、左司禦率府冑曹参軍に任じられた。吏部侍郎の馬載は、「古は一日に千里を走るというが、蘇君はこれだな」と言った。再び監察御史に遷った。長安年間(701-705)、詔して来俊臣等らが関与した冤罪事件を再審し、蘇頲はそれが誣告であるという証拠を暴き、多くの者が赦免された。給事中・修文館学士に遷り、中書舎人を拝命した。当時、父蘇瓌が同中書門下三品(宰相)であり、父子が同じく禁裏にいたから、朝廷ではこれを栄誉とした。

  玄宗が宮中の難を平定し、詔を書いたものが積み上がったが、一人蘇頲は太極殿の便殿にあって、口述したものや、報告の各種各様、軽重に差がなかった。書史は申し上げて「公はゆっくりしてください。そうでなければ手腕がもげてしまいます」と言った。中書令の李嶠は、「舎人の思索は湧くが如しだ。私が及ぶところではない」と言った。太常少卿・知制誥に遷った。父の喪にあい、服喪を終える前に工部侍郎に任命されたが、固辞して拝命せず、喪があけてから職に就いた。帝は宰相に「工部侍郎から中書侍郎に任命されることはあるか」と尋ね、「陛下は職位に才能ある者を任命されようとしています。どうして私の考えごときの助けがいりますか」と答えたから、そこで詔して蘇頲を中書侍郎とした。帝はねぎらって、「まさにちょうどよい官に欠員がいるが、そのたびに卿を用いたいと思っていたが、しかし宰相の議で遂にそれができなかったことを、朕は卿のために恨みに思っていた。陸象先が没してから、紫微侍郎はまだ誰も任命されていないが、朕はその人に卿以外の者はいないと思っている」と言ったから、蘇頲は頓首して陳謝した。翌日知制誥を加えられ、政事食を賜った。政事食が給されたのは蘇頲から始まったことである。当時、李乂と誥令を共同で司っていたが、帝は、「前代に李嶠蘇味道が当時の文壇をほしいままにしており、「蘇李」と号していた。今、朕は蘇頲と李乂を得たから、どうして前人に恥じることがあろうか」と言った。しばらくして許国公に封じられた。

  吐蕃が辺境に侵入し、諸将はしばしば敗れ、敵はますます勢いづき、騎兵は領内に侵入した。帝は怒り、自ら兵を率いて討伐したいと思った。蘇頲は諌めて、「古は荒服と称したのは、荒忽(遥かに遠い)の意味にとっており、常に職貢を奉らせてはいませんでした。そのため来れば拒み、去れば逐わず、禽獣はこれを養い、羈縻はこれを防ぐのです。たとえば狩猟のように考えてみれば、羽毛は衣服の用には用いず、体肉は郊廟の捧げ物にはのぼらず、だから王者は射なかったのです。ましてや陛下は万乗の君の重きがあり、犬羊蚊虻のように勝ち負けを語るのでしょうか。遠夷は着物を左前にするような連中で、天子を辱めるほどのものではなく、また見るべきなのです。さりとて兵法は先声後実、まずは強いという評判によって怯えさせ、その後に武力で攻撃するものであり、陛下はしばらく親征の詔をかえして、勅して猛将や謀略の士に増援部隊を投入すれば、吐蕃は日を経ずとも崩壊し、また御自ら天子の討伐をするのを待つ必要がありません。岐州・隴州に長年の疲弊が刻み込まれ、または千乗万騎の軍をあちこちから補給するのにはきりがないのです。誠に恐れながら徭役は内にはしり、寇掠のため防備を備えるのは、彼らには耐えられません。これが一つ目の理由です。戎虜の性質は、突然行ってはすみやかに来るので、敗れて逃げるのを恥とはせず、勝ってもしたことを譲ることはありません。もし大軍が一たび辺境にのぞめば、雷を恐れて鳥が逃散するようなもので、彼らはかえって多方に出て来て、こちらはその誤りを受けることになります。これが二つ目の理由です。太上皇(睿宗)は陛下が御身に戦傷を負ったと聞けば、心配なさらないということができず、思いが沸き起こり、どうして自らを安心させることができましょうか。これが三つ目の理由です。漢の蒯成侯は高祖を諌めて、「陛下はいつも自ら出陣されますが、これは使うに足る者がいないからでしょうか」と言い、高帝は自分をいたわり愛してくれるこその言だと思いました。今、将軍・宰相・大臣で、どうして陛下のために力を尽くさない者がいるとでもいうのでしょうか。どうして親ら行ってあわただしくされるのでしょうか」と述べたが、採用されなかった。

  また上言した。「王者の軍は、征伐があっても戦うことはなく、藩屏の貢納がたえると、王命により征伐しました。ここに兵をその郊外でおさめ、辞命を得てから止めたのです。兵士が戦場に臨んでの言いではなく、敵人が恐れて敢えて戦わないことなのです。古の天子は親征することがなく、ただ黄帝が五十二戦しましたが、まだ平定しなかった時のことでした。阪泉の戦いで功がなったのは、つまり閑居に身を修めて、無為無事であったからです。陛下は乱を平定され、まさに深く高いところをご覧になられようとし、礼楽をつくり、泰山で封禅され、空同に登られ、どうして天子の住居を厭い、金革を着て、一日の敵とするのでしょうか。今吐蕃は首領を遣わして干犯して国令を犯し、軍吏は一度も勝てず、陛下は至尊を屈してこれを敵とし、朝に鼎で煮て夕に砧で叩いたとはいえ、なおまだ四夷に誇るべきではなく、どうして天子御自ら御足労いましましょうか。敵が侵入しても、ただ羊馬を盗み、穴蔵を暴いて衣を奪うだけで、いまだかつて辺境の人々を殺したり奪ったりしたことはありませんから、その罪は許しやすいのです。臣が恐れるところは敵は狼のような心で、北狄を引き連れ、六師が行軍しているのを聞いて、幽州・并州に侵入し、霊州・夏州に侵犯し、南は京師を動揺させて、太上皇の心を揺り動かし、これは陛下が天下の安心のために、親を安らかにすることができないのです。臣はもとより、国内にいて勝を制するのが、策の上です。もしくは良将を選んで、兵を募って約束を厳に守り、軍律に違えば必ず誅殺し、敵を殺した者は必ず賞を出し、多くは金を出して酋長に宛てがえば、敵は日を立たずして滅ぶのです。願わくばしばらく日時を延期し、西からの便りを待つべきです」と述べた。またたまたま薛訥が大いに吐蕃を破り、捕虜や財貨を獲得したが少なく、このため帝は止めて行かなかった。

  当時、詔して靖陵碑を建立し、蘇頲に命じて詞書させた。辞退して、「前世の帝は後から碑を記すことはなく、この事は古を考察しても存在せず、これは不法というべきです。詳細にあえていうべきならば、祖宗諸陵はまずはただちに営造すべきであって、後嗣が何を言うのでしょうか」と述べたが、帝はその言を受け入れなかった。

  開元四年(716)、同紫微黄門平章事(宰相)・修国史に昇進し、宋璟とともに国事にあたった。宋璟は剛直かつ正直で、多くを裁決するところで、蘇頲はよくその長所を推した。帝の御前にあって奏上し、宋璟の発言がいまだに含意をつくしていなければ、ある時は少し屈んで、蘇頲はすぐにこれを助け、理解していないようであったら、蘇頲はさらに宋璟の申すところを補足し、そのため帝はいままでその意見に従わなかったことはなく、二人は両方非常に喜んだ。宋璟はかつて「私と蘇氏の父子は同じく宰相・僕射となり、温厚で慎み深く、自ら宰相の器と自認した。もし上奏に替否すべきであれば、事は即断するにいたり、公事に尽力して私事は省みなかった。今丞相としては引けを取らないつもりだ」と言った。

  開元八年(720)、罷免されて礼部尚書となった。しばらくして検校益州大都督長史・按察節度剣南諸州となった。当時、蜀は疲弊の色濃く、人は流亡していたから、蘇頲に詔して剣南の山沢塩鉄を収めて自ら救わせた。蘇頲は政策を簡潔にし、重ねて力役を起こし、そこで守備兵を募り、雇用の夫役の銭を運び、井戸を開削し銭を鋳造する鑪を置き、算出して出入し、余った市場の穀物を分けて、兵糧として分配させた。当時、前司馬の皇甫恂が蜀に派遣され、庫の銭、市場の錦半臂・琵琶の撥・宝玉の鞭を召し上げようとしたが、蘇頲は許さず、そこで上言した。「使者を派遣して命令を遵守するならば、まず取ることは急ぎのことではなく、これは陛下が山沢から軍費を救う意思ではありません」ある者が蘇頲に「公は遠くにあって、お上の意をたのむことができない」と言ったが、蘇頲は、「そうではない。明主は私的な好き嫌いで公平さを奪うようなことはしない。どうして遠近の間によって忠臣の節をかえることがあろうか」と言った。巂州蛮の苴院が吐蕃とともに連合して入寇しようと謀ったが、間諜が捕らえられ、役人は討伐を願ったが、蘇頲は許さなかった。間諜が持っていた書を返還し、添書に「お前にはできない」と書いたため、苴院は恥じ入り、敢えて辺境に侵入することはなかった。

  泰山の封禅に従い、詔して「朝覲壇の頌」をつくり、世の人はその文に感嘆した。戻ると、分担共同で十銓(十名の選考官)に関する事を取り仕切った。卒した時、年五十八歳であった。帝はなおも朝政をとろうとしたが、起居舎人の韋述が上疏して、「貞観・永徽(627-655)の時、大臣が薨去すると、たちまち朝廷では挙哀して終始の恩を表明し、上は賢人を表彰して旧事の徳を記録し、下は生きては栄え死んでは悲しむの美がありました。昔、晋の知悼子が卒しても平公は宴を楽しんでいましたが、杜蕢の一言で悟ったことは『春秋』に書かれています。そのため礼部尚書の蘇頲が代々政務を輔弼し、陛下に仕え奉ること二十年あまり、今突然還らぬ人となり国の人々は悲しんでいます。彼は天下を覆う旧臣で、股肱の一族です。ただちに廃朝し、君臣の誼みを明らかにすべきです」帝は「もとより朕の思いだ」と言い、即日洛城南門で哭し、朝儀を行わなかった。詔して右丞相を贈り、文憲と諡した。葬礼の日、帝は咸宜宮で遊び、猟をしようとしていたが、葬礼の日であることを聞いて、「蘇頲もまた葬むられるのか。私も自らの楽しみを忍ばなくてはな」と言い、道の半ばで帰還した。

  蘇頲の性格は清廉・倹約で、俸給はすべて諸弟親族に分け与えてしまい、蓄えは多くはなかった。景龍年間(707-710)より以後、張説とともに文章で有名となり、名望の差は多くなく、そのため当時の人は「燕許(燕国公張説・許国公蘇頲)の大手筆」と号した。帝はその文を愛し、「卿がつくった詔令は、別に副本に記録し、臣某の撰と書いて、朕の宮中に留め置いている」と言い、後世ついにこれは留中の故事となった。その後李徳裕が論を書いて「近世の詔誥は、思うに蘇頲が書いたものの他は私の文章が一番である」と述べたという。


  蘇詵は、字は廷言で、賢良方正の高第に推挙され、汾陰尉に任命され、秘書詳正学士に遷り、累進して給事中となった。当時、蘇頲は紫微侍郎に任命されたが、固辞していた。帝に「古に宮廷の官に任命されて親族であっても避けなかった者がいたか」と言われたため、「晋の祁奚がそうです」と答えた。帝は「そうだな。朕が自ら蘇詵を用いるのであって、卿は公正ではないことを言っているのだ」と言った。しばらくして徐州刺史に出されたが、優れた治績であった。卒すると吏部侍郎を贈られた。


  蘇詵の子蘇震は、蔭位によって千牛備身に任じられた。十歳あまりで学に優れて成人のような風があった。蘇頲は「わが家に先生がいる」と言った。累進して殿中侍御史・長安令となった。安禄山が京師を占領すると、蘇震は京兆尹の崔光遠とともに開遠門の役人を殺し、家を捨てて出奔した。当時、粛宗が軍をおこして霊武にいて、蘇震は昼夜兼行で行在に馳せ参じ、帝はこれを喜び、御史中丞に任命し、文部侍郎に遷った。広平王(後の代宗)が元帥となると、補佐に選ばれ、蘇震を糧料使とした。長安・洛陽の二京が平定されると岐陽県公に報じられ、河南尹に改められた。九節度使の軍が相州で大敗すると、蘇震と東都留守の崔円は襄州・鄧州に逃げたから、済王府長史に左遷された。再び起用されて絳州刺史となり、戸部侍郎・判度支・為泰陵・建陵鹵簿使に昇進し、功労によって岐国公となり、太常卿を拝命した。代宗がまさに東都に行幸しようとすると、再度蘇震を河南尹としたが、赴任前に卒した。礼部尚書を贈られた。


  蘇幹は、蘇瓌の従父兄である。父の蘇勗は、字は慎行で、武德年間(618-623)、秦王府諮議・典簽・文学館学士に任命され、南昌公主と結婚し、駙馬都尉となった。魏王泰府司馬に遷り、博学で有名であり、穏やかであったから重じられた。文学館の開館をすすめて文学士を引き抜いた。吏部侍郎・太子左庶子を歴任し、卒した。蘇幹は明経科に選ばれ、徐王府記室参軍に任じられ、徐王李元礼は狩りを好み、そのたびに諌めて止めた。垂拱年間(685-688)、魏州刺史に遷った。当時、河朔の地は飢饉で、前刺史の苛政暴成のため、百姓は流浪していたから、蘇幹は役人を調べて悪人をとりしまり、農業・養蚕を奨励し、これによって流浪していた者たちがことごとく戻ってきたから、治世を称えられた。右羽林軍将軍を拝命し、冬官尚書に遷った。来俊臣はもとより嫌っていて、蘇幹が琅邪王李沖と書翰を交わしていると誣告して獄に繋ぎ、怒りのあまり卒した。


  張説は、字は道済、またの字は説之である。その先祖は范陽より河南に移り、改めて洛陽の人となった。永昌年間(689)、武后が賢良方正を策すると、吏部尚書の李景諶が氏名の上に糊ではりつけて名を隠して成績を調べると、張説の答えたものは第一であったが、武后は成績を二番とし、太子校書郎を授けられ、左補闕に任じられた。

  武后はかつて、「諸儒は氏族を皆もとは炎帝・黄帝の末裔であるというが、つまり上古には百姓はないということなのか。朕の言ったことはどう思うか」と尋ねたことがあった。張説は、「古にはまだ姓がなく、もしくは夷狄のような有様でした。炎帝の姜氏・黄帝の姫氏より、始めて所生の地によって姓としたのです。その後天下は建徳し、生まれによって姓を賜いました。黄帝は二十五子いましたが、姓を得た者は十四名。徳が同じならば姓は同じであり、徳が異であれば姓は異なりました。その後はある者は官によって、ある者は国によって、ある者は王父の字によって、始めて族を賜り、しばらくしてこれを姓としました。唐・虞の時代をくだって戦国時代になると、姓や族は次第に広まりました。周が衰えるや、列国が滅ぶと、その遺民はそれぞれ旧国によって氏としました。時代が下って両漢の時代になると、人は皆姓がありました。そのため姓は国の名による者が多くなり、韓・陳・許・鄭・魯・衛・趙・魏が多くなったのです」と返答した。武后は「よろしい」と述べた。

  久視年間(700-701)、武后は三陽宮で避暑し、ほとんど秋になっても戻らなかった。張説は上疏して以下のように述べた。「三陽宮は洛陽城から隔てること百六十里で、伊水に隔たり、坂は険峻で、夏を過ぎて秋になると、水嵩が増え、道は崩れて山は険しくなり、運送の道は通じなくなり、河は広いのに橋はなく、距離は千里、兵馬を従わせると、日々兵糧を費やしています。太倉や武庫は都邑にあり、兵糧や武器は山のように蓄えられていますが、どうして歴代王朝の都を去って、山谷の僻地に落ち着くのでしょうか。これは剣や戟を逆さまに持って、人に樽柄を示すようなもので、臣は思いますに陛下に賛成できません。禍や兵乱が起こるのは、人がいて一瞬で現れるので、そのため「安楽を必ず戒めるならば、行うところに後悔はない」というのは不可の第一です。宮城は狭小で、四方から人々が集まっているのに、城郭内は溢れかえり、針を並べるところすらありません。住人を排斥し、野宿させ草むらを歩かせると、風雨が突然起これば、身を寄せるところを知らず、孤児や老病者は町中を流転するのです。陛下は人の父母となって、これをどのようにされるのでしょうか。これが不可の第二です。池亭は奇巧をめぐらせ、お上の心を誘います。谷を削って奇観をつくり、流れをせき止めて海をみなぎらせ、地脈を貫き、月や鳥が通る雲路を出現させ、山川の気をかえ、農業・養蚕のための土を奪うのです。木や石を運び、斧を運び、山谷に作業の声が響くこと春夏も休むことはありません。陛下にこれを造るよう勧めた者は、どうして正しい人だというのでしょうか。『詩経』に、「民は苦しみ、難儀する。せめて少しでも休めると良いのだが」とあります。不可の第三です。苑の東西二十里を防ぐのに、外は墻や垣や門がないのに、内には草むらや渓谷があり、勇猛な者が伏せ隠れ、悪人が根拠とするのです。陛下は往々として軽装で行かれますが、先払いの警蹕は粛然としておらず、草木が生い茂っている場所をへて、険難の地を乗り切って、ついにはやる獣や狂人が現れても、左右を驚かせることになった時、どうして危なくないといえるのでしょうか。『易』に「将来の患害を考え、あらかじめこれを防ぐことに心がける」とあります。願わくば万姓のために自重されますよう。これが不可の第四です。

  今、北では胡寇どもが辺境をうかがっており、南では夷獠どもが騒いでいます。関西ではやや旱魃となり、耕作に心配があり、東を安んじ近くを落ち着かせるべく、水陸の輸送が実施しようとしています。臣が望むところは、輸送の車を戻す際に、深く上京におらせ、人を休ませ農業を広げ、徳を修めると、遠くから人がやってきます。不急の役をやめ、無用の費用を省くのです。心を澄ませて寡欲となれば、長い年月がたっても青々と草木が生い茂り、この上なくよろこばしい限りなのです。臣はくだらない議論を繰り広げましたが、十に一つも従われることはないでしょう。なぜならば囲碁・双六などの盤で遊ぶ楽しみをはばみ、林や水辺での隠遁の楽しみをはばみ、深謀遠慮な計略をただし、最適なものを変え、後での利を必要とするあまり先の喜びを捨て、まだ明主の心を潤していないのに、すでに貴臣の思いをねじ伏せているのです。しかし私は死にたくはありませんから、恐れながらこの本官を責めるのみとしていただきたいのです。」 武后は採用しなかった。

  鳳閣舎人に抜擢された。張易之は誣告して魏元忠を貶めようと、張説に証言させようとした。張説は朝廷で、「魏元忠は謀反の事実などありません」と述べたから、武后の不興をかって、欽州に流された。中宗が即位すると、召喚されて兵部員外郎に任じられ、工部・兵部の二侍郎に遷ったが、母の喪にあって職を去ったが、短期間で詔があって黄門侍郎に起用されたが、服喪を終えることを願って固辞し、その言辞が哀到であった。当時、礼俗は衰え、士は奪服(服喪を終える前に官に呼び戻されること)を栄誉としていたが、張説は一人服喪の礼を終わらせようとしたから、天下に高名となった。喪があけると、再び兵部に任じられ、修文館学士を兼任した。

  睿宗が即位すると、中書侍郎兼雍州長史に抜擢された。譙王李重福が反乱を企てて死ぬと、東都の支党の数百人が投獄されたが、長いこと判決がでなかった。詔して張説を派遣して尋問させたところ、一晩のうちに罪人を捕らえ、そこで張霊均鄭愔を誅殺し、他の誤って逮捕した者をすべて釈放した。帝はその事実を曲げず、悪を漏らすことがなかったことを喜び、慰労した。玄宗が皇太子となると、張説と褚无量は侍読となり、最も親しみ尊敬されていた。翌年、同中書門下平章事(宰相)、監修国史に昇進した。

  景雲二年(711)、帝(睿宗)が侍臣に向かって、「方術家の上言に、五日以内に突如兵士が宮中に乱入するだろうと言っているから、私のために備えてほしい」と述べたが、左右の者は答えなかった。張説は進み出て、「これは讒人のしかけた策謀で太子(玄宗)を動揺させようとしているだけです。陛下がもし太子を監国となされば、君臣の名分が確定し、悪者の魂胆を破り、禍の発生が防げます」と述べたから、帝は悟って、制を下して張説の言の通りにした。翌年、皇太子は皇帝に即位した。太平公主蕭至忠崔湜らを宰相としようとしたが、張説が自分になびかないから、尚書左丞に任じて、宰相を罷免して政事から遠ざけ、東都留守とした。張説は太平公主らが謀反を抱いているから、そこで使者を遣わして佩刀を玄宗に献上し、先決の策を願った。帝はこれを受け入れた。蕭至忠が誅殺されると、召喚して中書令となり、燕国公に封じられ、実封二百戸を得た。

  それより以前、武后の末年に潑寒胡戯を行い、中宗もかつて楼に登って観覧していた。ここにいたって、四夷が来朝したから、再びこれを実施しようとした。張説は以下のように上疏した。「韓宣子が魯に行き、周礼を見て嘆き、孔子が斉に行き、俳優の罪を数え上げました。列国でこのようであるのに、ましてや我が天朝ではどうでしょうか。今、四夷は和を請い、使者が入謁しますが、礼楽によっておさえ、兵威によって示すべきです。戎夷だからといって軽んじてはなりません。どうして相手側に古の姜戎の首領である駒支のような弁がなく、由余のような賢人の臣下がいないとわかるのでしょうか。また潑寒胡戯を行うことは、いまだにその典故を聞いたことがありません。裸体で飛び跳ね、泥や水を掛け合うのに、盛徳をどうして見ることができましょうか。かの禹王の干羽の舞いのためしにほど遠く、かといって、外交折衝のための効果的な儀礼にかなっているとは思えません。」朝廷は受け入れ、これより潑寒胡戯は遂に絶えた。

  当初から姚元崇と仲悪く、罷免されて相州刺史・河北道按察使となった。さらに連座して岳州に移され、実封を停止された。張説はすでに執政の思いを失い、心内は恐れていた。平素から蘇瓌と親しく、当時、蘇瓌の子の蘇頲が宰相になると、そこで「五君詠」を作って蘇頲に献じ、その一つは蘇瓌について詠っており、蘇瓌の忌日を待って手渡した。蘇頲は詩を観ると嗚咽し、しばらくもしないうちに帝に謁見して張説が真心がある人物で功績があり、京外の官に棄てるべきではないと述べ、遂に荊州長史に遷された。

  ほどなく右羽林将軍検校幽州都督となり、入朝して戎服を着て謁見した。帝は大いに喜び、検校并州長史・兼天兵軍大使・修国史を授けられ、勅によって原稿を持ち込んで軍中で編集を行った。朔方軍大使の王晙が河曲の降虜の阿布思を誅殺するや、九姓回紇・同羅(トンラ)・抜野固(バイルク)等が皆疑い恐れた。張説は持節して軽騎二十騎を従え、直ちにその部に詣で、帳下に宿り酋長を召見して慰撫しようとした。副使の李憲は虜は信用し難い、不測の事態に巻き込まれるようなことはすべきではないと述べた。張説は「渡しの肉は黄羊(くじか)というわけではないから、食べられる心配はない。血は野生の馬ではないから、刺殺される心配はない。士人は国家の危機を目の前にして命を投げ出すもの。まさに私はいまこそその時と考える」と答え、そこで九姓は遂に安心した。王晙は後に蘭池州の叛胡の康待賓を討とうとし、張説に詔して作戦に参加させた。当時、党項羌(タングート)もまた連合して兵で銀城を攻撃し、張説は歩兵・騎兵一万人を率いて合河関から急襲して破り、配送した敵を駱駝堰まで追撃した。羌・胡は勝手に味方同士たがいに殺し合いをはじめ、康待賓は鉄建山に逃れ、残党は潰え散った。張説は党項を招き集め、元の場所に戻してやった。副使の史献(阿史那献)がすべて誅殺するよう願ったが、張説は従わず、奏上して麟州を設置して羌の衆を安住させた。

  召し出されて兵部尚書・同中書門下三品(宰相)を拝命し、宋璟陸象先にその職を譲ろうとしたが許されなかった。翌年、詔によって朔方節度大使となり、自ら出向いて五城を視察し、兵馬をとりしまらせた。当時、慶州方渠の降胡の康願子が反乱し、自ら可汗となって、牧馬を奪い、西は黄河を渡って塞に出た。張説は兵を進めて討伐し、木槃山にて捕縛し、捕虜三千を得た。そこで建議して河曲の六州の残胡五万人を移住させて、唐州・鄧州・仙州・豫州に移し、河南・朔方の地を無人とした。功によって実封三百戸を賜った。これより以前、辺境の守備兵は常時六十万人におよび、張説は当時平和で事変もおこらなかったから、二十万を解兵して帰農させるよう願った。天子は疑問に思っていたから、張説は、「辺境の兵は広くにわたっているとはいえ、だいたい諸将が持ち場で守りにつくほか、種々の労役に従って自給すればよいのです。外敵の侵犯を防いで勝利をおさめるには、無駄な兵数が必要なのではありません。陛下は英明であらせられるので、四方の夷どもは畏れ平伏しています。兵力を削減して敵の侵入を招くような心配はありません。臣は一門の者百名を保証としてさしだしたく思います」と述べたから、帝は裁可した。当時、宮中の衛兵は弱体化して、交代で非番になると逃亡してほとんどいなくなってしまった。張説は建議して勇強の兵士を募集し、その科条に優れた者は、夫役を免除させた。十日もしないうちに、精兵十三万を確保し、宮廷の諸衛にそれぞれ配置し、京師の軍が強力になった。後に「彍騎(かくき)」というのはこれである。

  帝(玄宗)が東都(洛陽)より長安に帰還しようとし、そこで并州に行幸した。張説は帝に謁見して、「太原(并州)は我が王朝創業のもととなったところです。陛下が巡幸され、御稜威を輝かせるにあたっては、その創業を長く思いおこすべきです。河東から京師に入ると、漢の武帝が脽上に建立した后土祠があり、この祀りは長らく廃止され、歴代の王朝も行ってきませんでした。願わくば天下の農民のために収穫を祈願されれば、まことに四海万民の幸福となります」と述べた。帝はその言を受け入れ、后土祠の祀りを実施して帰還した。中書令に昇進した。

  張説はまた封禅の儀の挙行を唱え、詔を受けて諸儒とともに儀式の計画を練り、多く正しい方法に裁定した。帝は張説と礼官学士を召集して酒を集仙殿に置いて、「朕は今、賢者とともにここで楽しんでいるのだ。まさに集賢殿とするのがよいだろう」と言い、そこで制を下して麗正書院を改めて集賢殿書院とし、張説に院学士を授け、その院長に任じた。東巡して封禅して帰還すると、尚書右丞相兼中書令となった。張説に詔して『封禅壇頌』を撰し、これを泰山に刻んで成功を誇った。それより以前、源乾曜は封禅したいとは思わず、張説は強力に推進したから、両者の関係は悪くなった。泰山に登るときになると、執事官で祭祀に従事する者は、張説が皆ねんごろな者を取りててて位階を五品とし、従った兵は勲位が与えられただけで賜い物がなかったから、多くの者に専横を恨まれた。

  宇文融が献策して、天下の逃亡世帯および班籍外の余剰田を一括没収し、十道勧農使を任命して、郡県には派遣して取り締まらせることを要請した。張説は騒擾を恐れ、しばしば阻んでこれを糾した。ここに至って宇文融は吏部に十銓(十名の選考官)を設置し、蘇頲らと官吏の選考を分担したが、何か奏上して裁可を願うところがあると、張説はほとんど抑え留めてしまうから、ここに十銓の選考は混乱した。宇文融は恨み怒り、そこで崔隠甫李林甫とともに張説を弾劾・奏上し、「方術士の王慶則を招いて夜に怪しい祈祷をさせ、その門下に上表させ、僧の道岸を招いて時勢を伺い狙い、右職に任じ、親しい官吏の張観・范堯臣は張説の権勢にたより、市では権力を振るって賄賂をとり、ほしいままに太原の九姓の羊銭千万を給付しています」と延べ、その言は醜く惨めであったが、帝は怒り、源乾曜・崔隠甫・刑部尚書の韋抗に詔して、ただちに尚書省に取り調べさせ、金吾の兵を発してその邸宅を囲んだ。張説の兄の左庶子の張光は朝堂に詣でて耳を斬って冤罪を討ったえたから、帝は高力士を派遣して見に行かせた。張説を見るとヨモギのような頭をして顔は垢だらけ、藁の上に座り、家人に瓦器で粟や塩を用意させて食べ、自ら罰し恐れるさまであった。高力士は戻って奏上し、また「張説は忠義者で、国家に功績があります」と述べたから、帝は哀れに思い、そこで張説の中書令の任を停止し、王慶則らを誅殺し、連座する者はなお十人あまりに及んだ。張説はすでに政事をやめ、集賢院にあって専ら国史を撰述した。また右丞相をやめることを願ったが許されなかった。しかし国家の軍事に関する大務があるごとに、帝はたちまち張説を訪問した。崔隠甫らは張説が再び用いられることを恐れ、文を巧みにして貶め、もとより張説に怒る者はまた「疾邪篇」を著し、帝は聞いて、そこで張説を致仕させた。

  はじめ宰相となった時、帝は吐蕃を討ちたいと思っており、張説は密奏して講和によって辺境が休息したとしたが、帝は、「朕は王君㚟が来るのを待ってこれを計ろう」と言ったから、張説は出て源乾曜に、「王君㚟は兵を好んで利を求める。彼が来るならば、私の発言は用いられないな」と言った。後に王君㚟が吐蕃を青海の西で破り、張説の策が失敗すると、そこで巂州の闘羊(闘争心の強い羊)を帝に奉り、そこで諷諭した。「もし羊に物をいわせることができたなら、必ず「戦って決着がつかなければ、ただちに死ぬものがでるまでだ」と言うでしょう。どうか、この上なき仁者たる陛下には、無意味に士卒をそこなうことのなきよう、現実の力量を慎重に測られるのでしたら、喜びとするところです」帝はその真意を悟って受け入れ、彩千匹を賜った。後に瓜州が陥落し、王君㚟は死んだ。

  開元十七年(729)、再び右丞相となり、さらに左丞相に遷った。就任の日、勅して担当の役所に帳をめぐらせて音楽の演奏のしつらえをさせ、宮中から酒飯を出させ、帝が自ら詩を賦した。まもなく開府儀同三司を授けられた。開元十八年(730)卒した。年六十四歳。元日の朝廷での儀式はとりやめとなり、太師の位を贈位され、諡を「文貞」とした。群臣からの反対意見のため諡は決定できなかったが、帝が自ら碑の文章をつくり、諡は太常の通り「文貞」となっており、これによって諡は決定された。

  張説は正義感にとみ、一度請け合ったことに責任をもち、後進を招き入れることを喜び、主君や友人との関係においては、ふむべき道筋をきわめて重んじた。帝(玄宗)が東宮であったとき、秘謀・密計をともにするところは非常に多く、後についに中心的な臣下となったのである。朝廷の重要文書は多くはその手から出て、帝は文章を好み、製作するところは必ず草稿を作らせたのである。よく人の長所を用い、学問のある人物を招いては、天子の徳による教化を助け、法律の文章を彩り、王法をなした。天子は経術を尊び、集賢院を開館して学士を設置し、太宗の政治を修飾したが、これは皆張説が首謀者であった。文章をつくれば精深緻密な思索をめぐらせたが、とくに碑誌を得意とし、世の中でこれに匹敵する者はいなかった。岳州に流謫されたが、詩はますます哀れで美しく、しとやかさに磨きがかかり、人は「江山の助けを得た」と言ったという。常に集賢院で図書の校訂刊行の任にあたり、その間致仕の一年間であったとはいえ、また自邸で史書を編纂した。

  それより以前、帝は張説に大学士を授けたいと思ったが、辞退して、「学士には本来、大学士の呼称はありません。中宗が大臣を尊寵のあまり、この呼称となったのです。臣はあえてこの呼称になりたいとは思いません」と固辞したから沙汰止みとなった。後に集賢院で宴し、先例によって官位が高い者から先に飲んだが、張説は、「私は儒学では道によって高い低いが決められていると聞いています。官閥によって先後としてはいません。太宗の時に修史が十九人いましたが、長孫无忌は太宗の舅であったのに、宴ごとに先ずお酌をあげることをよしとはしませんでした。長安年間(701-705)、『三教珠英』が編纂されると、当時の学士もまた位階・俸禄によって上下を決めたりはしませんでした」と言い、これによって杯を持って同時に呑むことになり、当時の人は礼があるとして従った。中書舎人の陸堅は学士たちに適格性に欠ける者が多いのに、役所から供される食膳が豪華すぎ、国家に利益がないとして、建言して廃止しようとした。張説はこれを聞いて、「古より帝王というものは一旦功がなれば、贅沢でほしいままになりがちなもので、無用な庭園の造成でなければ、音楽と女色への耽溺がそれである。今、陛下は儒学を尊び道を重んじられ、みずから古典の講義をなされ、英俊が学者をひきたてられた。さらに麗正書院は天子の礼楽に関する中心的な機関であって、これに要する費用は些細であり、これによって得る利益は極めて大きいものがある。陸先生の言われることは、なんと考え方のせまいことであろう」と言い、帝は張説の発言を耳にして、遂に陸堅をうとんじた。

  張説はかつて自らその父の碑文をつくったが、帝は「嗚呼、積善の墓」と書いてその碑額とした。張説歿後、帝は家で書かれた文章を集めて編纂し、世間で広まった。開元年間(713-741)以後、宰相であったから姓名で著者をあらわさず、ただ燕公といった。大暦年間(766-779)、詔して玄宗の廟廷に配享した。子に張均張垍・張埱がいる。


  張均もまた文章をよくした。太子通事舎人から主爵郎中・中書舎人に累進した。開元十七年(729)、張説が左丞相を授けられると、京官の人事考課を行ったが、張均の事を書いた考課に、「父は子に忠を教えるというのは、古からのよい教えである。王が帝王の事業をいうのは、最も難しいものである。凡庸なものは猜疑心によって綱紀が乱れるのであろうか。考は上の下である」と述べられており、当時の者はまた張説が私事を考えないと思った。後に燕国公を襲封し、兵部侍郎に累進したが、饒州・蘇州の二州の刺史に左遷された。しばらくして再び兵部侍郎となった。

  自ら己が宰相たるべく才能があるとみていたが、李林甫にさまたげられ、李林甫が卒すると、陳希烈をたのみ、彼を頼りとした。しかしすでに楊国忠が執政となっており、陳希烈は罷免されて、張均は刑部尚書となった。張垍の事に連座し、建安太守に左遷された。戻ると大理卿を授けられたが、いつも不平不満があった。安禄山が国を奪うと、偽政府の中書令となった。粛宗が長安を回復すると、張均・張垍兄弟は皆死刑に相当した。房琯はこれを聞いて、「張家が滅んでしまう」と驚き、そこで苗晋卿に面会して、釈放を求めた。帝もまた張説の旧功を思って、詔して死を免れ、合浦に流された。建中年間(780-783)初頭、太子少傅を贈位された。子の張濛は徳宗に仕え、中書舎人となった。


  張垍寧親公主と結婚した。当時、父張説は宰相であり、兄張均は舎人であり、叔父張光は銀青光禄大夫であり、栄華は絶頂であった。玄宗は張垍に厚く目をかけ、禁中に自宅を置き、侍らせて文章をつくらせて、珍しい賜い物は数えきれないほどであった。兄張均は翰林に供奉しており、張垍は賜った物を張均に自慢したが、張均は、「これは舅が婿にあげたものであって、天子が学士に賜ったものではないだろ」と言った。張垍は帝のために祭祀の進行を行ったが、所作が優雅であったから、帝は喜んだ。そこで禁中内の家を訪問し、張垍に向かって、「陳希烈が宰相を辞めたら誰を次にしたらよいだろうか」と言った。張垍は考えあぐねて返答しないでいると、帝は、「わが婿に変わるものはないだろう」と言ったから、張垍は頓首して感謝した。それを楊貴妃が聞いており、楊国忠に語ったから楊国忠は憎み、陳希烈が罷免されると韋見素を推薦してこれに代らせたから、張垍はお上を怨んだ。

  天宝十三載(754)、安禄山が入朝すると、奚・契丹を打ち破った功績でもって、平章事(宰相)に就任することを求め、楊国忠は、「安禄山は軍功がありますが、しかし字を識らず、宰相に任命すると四夷が漢を軽んじるようになることを心配します」と言ったから、沙汰止みとなった。安禄山が范陽に帰還するにあたって、高力士に詔して滻坡まで見送ったが、高力士は戻ってくると、「安禄山は鬱々とした様子でした。宰相になれないことを知っているようでした」と復命し、帝は楊国忠に語ると、楊国忠が「告げたのは絶対に張垍でしょう」と言ったから帝は怒り、その兄弟全員を追放し、張均を建安太守に、張垍を盧溪郡司馬に、張埱を給事中から宜春郡司馬に左遷した。年内に長安に戻り、張垍は太常卿に任じられた。

  安禄山軍が長安に迫って帝が長安を脱出して西は咸陽に至ると、ただ韋見素楊国忠魏方進が従うだけであった。帝は高力士に、「朝臣では誰が来るだろうか」と言ったから、高力士は、「張垍兄弟は代々国恩を受けており、必ず来るでしょう。房琯は宰相の地位を望んでましたが、陛下は長らく用いられず、また安禄山がその器量を買っているので、来ないでしょう」と答えると、帝は「まだわからんぞ」と言った。後に房琯がやって来て、召見すると涙を流した。帝は慰労して「張均・張垍はどこにいる」と尋ねると、房琯は「臣が西に行く途中、その家を通りかかり、一緒に行こうと誘いました。張均は「馬が走れないから、後から行きます」と言いましたが、臣が見た所、おそらくは陛下に従うことはできないでしょう」と答えた。帝は嘆いて高力士に向かって「私はどうして人を謗ろうとするのだろうか。張均らは自ら才器が並びないものだと言って、重用されないのを恨んでいたが、私が彼らの望みを叶えたところで、今こうなってしまわないといえようか」と言った。張垍はついに陳希烈とともに安禄山の宰相となり、張垍は賊とともに死んだ。


  賛にいう。張説は玄宗朝にて最も有徳の人物であり、太平で用いられ、忠誠は懇誠であり、また封禅の儀を計画し、法典を明らかにし、開元の文物が充実したのは、張説の力によることが多かった。途中、悪者に排斥され、すんでのところで逃れられないところであった。古より功名をあげた者が終わりをよくことは稀であるのに、どうして張説だけ終わりをよくすることができようか。子の代になって利益を得ようとしてその家は失脚した。蘇瓌蘇頲のように二人とも世に賢宰相と称された。何と盛大なことであろうか。

   前巻     『新唐書』    次巻
巻一百二十四 列伝第四十九 『新唐書』巻一百二十五 列伝第五十 巻一百二十五六 列伝第五十一

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2023年08月30日 00:01
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。