巻一百六十六 列伝第九十一

唐書巻一百六十六

列伝第九十一

賈耽 杜佑 子式方 従郁 孫悰 慆 牧 顗 曾孫裔休 令狐楚 子緒 綯 孫滈 渙 渢 弟定



  賈耽は、字は敦詩で、滄州南皮県の人である。天宝年間(742-756)、明経科に推挙され、臨清県の尉に補任された。論事を上書して、太平県に移された。河東節度使の王思礼に任命されて度支判官となった。汾州刺史に累進し、治めることおよそ七年、政務で優秀な成績を修めた。召還されて鴻臚卿、兼左右威遠営使となった。にわかに山南西道節度使となった。梁崇義が東道に叛くと、賈耽は屯谷城に進撃して、均州を奪取した。建中三年(782)、山南東道節度使に遷った。徳宗が梁州に移ると、賈耽は行軍司馬の樊沢に奏上を行わせた。樊沢が帰還すると、賈耽は大宴会を開いて諸将と酌み交わした。にわかに突然詔があって、樊沢を賈耽に代らせることとなり、召還されて工部尚書に任命されることとなった。賈耽は詔を懐に入れて、もとのままに飲んでいた。罷免されるとき、樊沢を呼び寄せて「詔によって君に代らせることとなった。私もただちに命令を遵守しよう」と言った。将や吏を集めて樊沢と合わせた。大将の張献甫は、「天子が巡幸されているとき、行軍(樊沢)は公の命によって行在に天子に拝謁に行き、そこで軍を指揮しようとはかって、公の土地を自分の利にかなうようにしました。これは人に仕えて不忠というべきです。軍中は納得しませんから、公のために行軍を殺させてください」と言ったが、賈耽は「何を言っているのか。朝廷の命があったから、節度使となったのだ。私は今から行在に拝謁しに行くが、君と一緒に行こう」と言って、張献甫とともに行ったから、軍中は平穏となった。

  しばらくして東都留守となった。慣例では、東都留守となった者は洛陽に居住し、守って城から出ないこととなっていたが、賈耽は弓をよくしたから、特別に詔があって近郊で狩猟することを許された。義成軍節度使に遷った。淄青節度使の李納は偽王号を取り去ったとはいえ、密かに陰謀を含み、怨みを晴らしたいと思っていた。李納の兵数千は行営より帰還するため、滑州を経由したから、賈耽に向かってある者は野外に宿営させるべきだと言った。賈耽は「私と道を隣り合っているのに、どうして疑おうか。野外で野ざらしにでもさせるというのか」と言い、命じて城中に泊まらせ、役所で宴会を開き、李納や士は皆心服した。賈耽は狩猟をするごとに、数百騎を従え、たびたび李納を境内に入れた。李納は大いに喜んだが、しかし賈耽の徳を恐れて、あえて謀をしなかった。

  貞元九年(793)、尚書右僕射同中書門下平章事(宰相)となり、魏国公に封ぜられた。常に節度使の将帥となるべきものが不足しており、賈耽は天子に向かって自らを節度使に任じるべきであると言ったが、もし賈耽が軍中から謀れば、下の者は後ろ向きとなってしまうから、人々に不穏な動きが出るとした。帝はそうでと思い、賈耽の案を用いなかった。順宗が即位すると、検校司空・左僕射に昇進した。当時、王叔文らが実権の握り、賈耽はこれを憎み、しばしば病と称して辞職を求めたが、許されなかった。卒し、年七十六歳であった。太傅を贈られ、諡を元靖という。

  賈耽は書物を読むのを嗜み、老いてもますます勤勉で、最も地理に詳しかった。四方に使節に行った人や夷狄の使者を見かけると、必ず風俗を尋ね求め、そのため天下の土地・区域・産物・山川・険阻の地は、必ず究明して知ったのである。吐蕃が盛強になると、隴西に侵入してきたが、以前は州県の遠近を役人に伝えられていなかった。賈耽はそこで布に隴右・山南・九州を描き、かつ河が流れを図に描いて載せ、また洮州・湟州・甘州・涼州の屯鎮や人口・道や里の広狭、山の険阻や水源を『別録』六篇、『河西戎之録』四篇として進上した。詔して宝物・馬・珍器を賜った。また『海内華夷』を描き、広さ三丈、縦三丈三尺にもなり、縮尺は一寸を百里とした。あわせて『古今郡国県道四夷述』を撰し、その中国の基本は「禹貢」で、外夷の基本は班固の『漢書』で、古の郡国を墨で題し、今の州県は朱で題し、漏れ落ちたところは、多く改正した。帝はこれをよしとし、下賜物がさらに加えられた。あるいは図を指してその国の人に尋ねると、すべてその通りであった。また『貞元十道録』を著し、貞観年間(623-649)の天下の十道使、景雲年間(710-712)の按察使、開元年間(713-741)の采訪使、設置・廃止や行き来が備わっていた。陰陽・雑数も通じていないものはなかった。

  賈耽の度量は広く、思うに長者であったのであろう。人物のよしあしを批判することを喜ばなかった。宰相となること十三年、安全や危険といった緊急の大事に際して対策を披露することはできなかったとはいえ、身を引き締めて決められたことを実行するのは、自ら得意とするところであった。邸宅に帰るごとに、賓客と面会しても少しも倦むところをみせず、家人や近習は、喜怒をみたことはなかった。世間ではいつも道理に従った人だといっていた。


  杜佑は、字は君卿で、京兆万年県の人である。父の杜希望は、いったん引き受けたことは、約束を守って必ず実行し、交際があった者は全員僅かな間に英傑となった。安陵県令となり、都督の宋慶礼はその優れた政務能力を上表した。些細な罪のため連座して官を去った。開元年間(713-741)、交河公主が突騎施(テュルギシュ)に嫁ぐことになると、杜希望に詔して和親判官とした。信安郡王李漪が上表して霊州別駕・関内道度支判官に任命した。代州都督に任じられ、召還されて京師に戻り、辺境の問題について奏上し、玄宗はその才能を優れたものとした。吐蕃が勃律(ギルギット)を攻撃し、勃律は帰順を願ったから、右相の李林甫は隴西節度使となっており、そのため杜希望を鄯州都督に任命し、隴西節度留後とした。駅伝で急ぎ隴州に向かい、烏莽部の軍を破り、千人あまりの首級をあげ、進撃して新城を陥落させ、軍を凱旋させて帰還した。鴻臚卿に抜擢された。これより鎮西軍を設置し、杜希望は軍を引き連れて塞下に分置したから、吐蕃は恐れ、書簡を送って講和を求めた。杜希望は「講和を受けるのは臣下があれこれできることではない」と答え、敵はすべて争って講和の地につこうとした。杜希望は大規模・小規模な戦いをすること数十におよび、その大酋を捕虜とし、莫門に到達して、積載された備蓄物を焼き払い、終わって城に帰還した。功績によって二子に官位を授けられた。当時、戦争がしばしば勃発し、府庫はだんだん少なくなっていったが、杜希望は鎮西軍にあること数年、備蓄された穀物や金絹は余剰が出るほどであった。宦官の牛仙童が辺境にやってきて、ある者は杜希望に誼を結ぶことを勧めたが、「金銭によってこの身を節度使のままでいようとは、私には堪えられない」と答え、牛仙童は戻って杜希望が職務を行っていないと奏上したから、恒州刺史に左遷され、西河に遷った。しかし牛仙童が諸将より金銭を受け取っていたことが漏洩し、その罪は死罪に相当し、金を送った者は全員罪となった。杜希望は文学を愛し、門下で引き立てられた者は崔顥らのように全員有名となって当代に重んじられた。

  杜佑は父の蔭位のため済南参軍事・剡県の丞に補任された。かつて潤州刺史の韋元甫のもとを通過すると、韋元甫は友人の子であったから厚遇したが、杜佑自身は韋元甫に礼を加えなかった。他日、韋元甫に疑獄の案件を抱えて結審することができず、試しに杜佑に訊問させると、杜佑が述べるところは、要点がつくされていないところはなかった。韋元甫は優れた人物だと思い、司法参軍に任じ、韋元甫が浙西・淮南節度使となると、上表して幕下に任用した。京師に入って工部郎中となり、江淮青苗使に任命され、再び容管経略使に遷った。楊炎が宰相となると、金部郎中を経て水陸転運使となり、度支兼和糴使に改任された。ここに戦争が起こると、補給のことは杜佑が専決した。戸部侍郎の地位によって判度支となった。建中年間(780-783)初頭、河朔の兵は内乱となり、民は困窮して、賦は出されなかった。杜佑は弊害を救うために用途を省くにこしたことはなく、用途を省けば官員も減員するから、そこで上議して次のように述べた。

  「漢の光武帝は建武年間に四百県を廃止し、吏は十分の一しか任命されず、魏の太和年間(227-233)には方々に使者を派遣して吏員を削減し、正始年間(240-249)には郡県を併合し、晋の太元年間(376-396)には官七百を廃止し、隋の開皇年間(581-600)には郡五百を廃止し、貞観年間(623-649)初頭には内官六百人を削減しました。官を設置する根本は、百姓を治めるためであって、だから古は人を数えて吏を設置し、無駄に設置することをよしとしなかったのです。漢から唐まで、戦争で困難のため吏員を削減するのは、実に弊害から救うのに合致したことなのです。

    昔、咎繇(皋陶)は士となりましたが、これは今の刑部尚書・大理卿にあたるので、つまりは二人の咎繇がいることになるのです。垂は共工となりましたが、これは今の工部尚書・将作監にあたり、つまりは二人の垂がいることになるのです。契は司徒となりましたが、これは今の司徒・戸部尚書にあたるので、つまりは二人の契がいることになるのです。伯夷は秩宗となりましたが、つまりは今の礼部尚書・礼儀使にあたるので、つまりは二人の伯夷がいることになるのです。伯益は虞となりましたが、これは今の虞部郎中・都水使司にあたるので、つまりは二人の伯益がいることにあるのです。伯冏は太僕となりましたが、これは今の太僕卿・駕部郎中・尚輦奉御・閑厩使にあたるので、つまりは四人の伯冏がいることになるのです。昔、天子は六軍あり、漢は前後左右将軍が四人いましたが、今、十二衛・神策八軍で、だいたい将軍は六十人います。旧名を廃止せず、新たに日々加えられているのです。また漢は別駕を設置し、刺史に従って巡察しましたが、これは今の監察使の副官のようなものです。参軍は、その府軍事に従いますが、これは今の節度判官のようなものです。官名職務は、変化にあたっても同じのままであって、どうして名実一体しておりましょうか。本当に余剰について検討しなければなりません。統治しようとするのならまず名実を正すのです。神龍年間(707-710)、任官は気まま勝手で、役人は大いに集められ選ばれましたが、官職は既に欠員がなく、そこで員外官を二千人設置し、これより常態化したのです。開元・天宝年間(713-756)当時は、国の四方に敵はおらず、戸九百万あまりを数え、財庫は豊かで溢れ、余分な費用がかかったとしても、心配するほどではありませんでした。今耕作地は疲弊し、天下の戸は百三十万、陛下が使者に詔してこれを調査させましたが、わずかに三百万がいただけで、天宝年間(742-756)に比べると三分の一、とりわけ浮浪の者が五分の二おりますから、賦税を出すことができる者は段々減っているのに、禄を食む者はもとのままなのです。どうして改めないままでおれましょうか。

    議論する者は、天下なお群雄が跳梁跋扈して朝廷に服していないのだから、ただ官吏を削減すれば、罷免された者が皆群雄のもとに行ってしまうとしています。これは一般的な心情を述べたものであって、正確に述べたものではありません。なおかつ才能ある者を推薦して用いるのですから、不才の者はどうして群雄のもとに行っていなくなったとて心配することがありましょうか。ましてや姻戚・財産をかえりみるでしょうか。建武年間(25-56)に公孫述と隗囂はまだ滅ぼせておらず、太和年間(227-232)・正始年間(240-249)・太元年間(376-396)に魏は呉・蜀と鼎立しており、開皇年間(581-600)に陳はまだ南に割拠しておりましたが、皆英才を捕まえ、人を失って敵に利益をもたらすとは心配しておりませんでした。今、田越のような輩は頻繁に刑罰を用いて重税を課し、軍には目をかけるものの、士人への待遇は奴婢のようで、もとより范睢が秦の遺業をならせたり、賈季(狐射姑)が狄を強くしたような恐れはありません。または長年にわたっているものをにわかに改めるべきではありません。かつ仮に別駕・参軍・司馬を削減し、州県で内官を試験し、戸ごとに尉を設置すべきです。ただちに罷めるべきなのは、行義があるとして在所から上奏されたものの、実際にはそうではなかった場合、推薦者を罪としてしまえば、人のために推薦する者がいなくなるので、常調官に任ずべきです。またどうして心配することありましょうか。魏で柱国を設けた時、当時の宿老の功業は柱国の地位にあったので、第一に尊ばれたのです。周・隋の時代には授けられる者が次第に多くなり、国家はこれをただの勲功とし、わずかに地を三十頃得るだけになったのです。また開府儀同三司・光禄大夫もまた官名でありましたが、非常に多くなったので、かえって位階の一つとなりました。時に従って制度を樹立し、弊害にあえばただちに変えるのであれば、どうして必ず順応して改めるのを憚ることがありましょうか。」

  議題に上がったものの、採用されなかった。

  盧𣏌が宰相となると、盧𣏌に嫌われたため、京師から出されて蘇州刺史となった。前の刺史の母の喪があけると、杜佑の母は健在であったから、辞退して行かず、饒州刺史に改められた。にわかに嶺南節度使に遷った。杜佑は大きな道路をつくり、間隔をあけた街並みとしたから、大火災にならなくなった。朱厓の民は三代にわたって要衝によって節度使に服しなかったから、杜佑は討って平定した。召還されて尚書右丞を拝命した。にわかに京師から出されて淮南節度使となったが、母の喪のため任を解かれるよう願ったが、詔して許されなかった。

  徐州節度使の張建封が卒すると、軍が騒動をおこし、その子張愔を立て、承認を朝廷に願ったが、帝は許さず、そこで杜佑に詔して検校尚書左僕射・同中書門下平章事(宰相)、徐泗節度使として討伐させた。杜佑は軍艦を配備し、部下の将の孟準を派遣して淮河を渡河して徐州を攻撃させたが、勝てずに撤退した。杜佑は軍を出兵させて変乱に対応するのを得意とはしていなかったから、そこで境を固めてあえて進撃せず、張愔に徐州節度使を授け、濠州・泗州の二州を割いて淮南に隷属させた。それより以前、杜佑は雷陂を決壊させて大規模灌溉を実施し、海に近い土地を田とし、収穫された米は五十万斛にもおよび、軍営は三十区をならべ、兵士・馬は整然とし、四隣は恐れさせた。しかし部下に寛容であったため、南宮僔・李亜・鄭元均が権力を争って政治を乱したから、帝は全員を追放した。

  貞元十九年(803)、検校司空・同中書門下平章事(宰相)に拝命された。徳宗が崩ずると、詔して摂冢宰とした。検校司徒、兼度支塩鉄使に昇進した。ここに王叔文が度支塩鉄副使となったが、杜佑は既に宰相であったから度支塩鉄使は自ら執り行わず、王叔文が遂に専権した。後に王叔文が母の喪によって家に帰ると、杜佑が審査決定することとしたが、郎中の陳諌が王叔文にさせるよう要請したから、杜佑は「専権させないようにするからなのか」と言い、そこで陳諌を京師から出して河中少尹とした。王叔文は東宮を動かそうとし、杜佑に助けを求めたが、杜佑は応じず、そこで謀して追放しようとしたが、まだ決する前に失脚した。杜佑はさらに李巽を推薦して自らの副官とした。憲宗が諒暗に服すると、再び摂冢宰となり、度支塩鉄使を李巽に譲った。それより以前、度支使は職務にあたっては経費を削減してきたが、職務が増加するにつれて経費が多くなっていったから、吏を任命して百司の暫時の代理とし、繁多な上に決まりがなかった。杜佑は営繕署を将作監に、木炭は司農寺に、染色を少府に帰属させ、職務を簡素化した。翌年、司徒を拝命し、岐国公に封ぜられた。

  党項(タングート)が密かに吐蕃を導いて乱をおこし、諸将が功績を得ようと、討伐を請願した。杜佑はよくない辺臣が叛乱をおこすことと思い、そこで上疏して次のように述べた。

  「昔、周の宣王が中興したとき、異民族の獫狁が害をなし、これを太原に追いましたが、国境に到達してから追跡を止めました。中国の弊害となることを願わず、遠夷を怒らせることになるからです。秦は兵力をたのんで、北は匈奴を防ぎ、西は諸羌を追い払いましたが、怨みをまねいて乱のきっかけとなり、実際には流謫人からなる守り人を生んだだけであった。思うに聖王が天下を治めるのは、ただ多くの人を安撫させようとすることを願うからで、西は流沙まで、東は海まで、北も南も、天子の名声を聞きその教えを被るのですが、どうして内政が疲弊しているのに外征を行おうというのでしょうか。昔、馮奉世は詔を偽って莎車王を斬り、首を京師に伝送し、威は西域に震わせたので、宣帝は爵位・封土を加えるかどうかを議論させました。蕭望之は一人詔を偽り命令を違えたことを述べて、功績があっても通例としてはならないとし、後世に使者となった者が国家のために夷狄に事件を引き起こさせるような事態を恐れたのです。近年では、突厥の黙啜が中国に侵掠し、開元年間(713-741)初頭に郝霊佺が捕えて黙啜を斬り、自らこの功績は二つと匹敵するものはないと言っていましたが、宋璟は辺境にいる臣下がこのようにして功績を得ようとするのを恐れて、ただ郎将を授けただけでした。これより開元の盛が終わるまで、再び辺境に関する議論はおこらず、中国はついに安泰となったのです。このような事情の戒めは手本とするに遠い過去のことではありません。

    党項は小蕃で、中国と雑居しており、時折辺境の将が攻撃しては、その良馬や子女を己に利させ、徭役を苛斂誅求し、遂には謀反させるに到り、北狄と西戎とを互いに誘致して辺境に掠奪させたのです。伝(『論語』季氏篇)に「遠方の人が随わないなら、必ず文化力を高め、そうやって招き寄せる」とあり、管仲は「国家は勇猛の者をして辺境にいさせてはならない」と言っていますが、これは本当に聖哲が兆候を見て、その傾向や問題の本質を知覚できるということなのです。今戎どもは強くなり、辺境の防備は備わっておりません。本当に良将を慎重に選び、防備を完備させ、苛斂誅求を禁止し、真心を示し、来れば防いで懲らしめ、去れば備えるべきです。そうすれば彼らは懐柔し、奸悪の謀をするのを改めるでしょう。どうして必ずしばしば軍役をおこし、座して財力・人材を消耗する方を採用するのでしょうか。」

  帝は喜んで受け入れた。

  一年あまりして、致仕を願い出たが、聴されず、詔して三・五日に一度、中書・平章政事に入らせた。杜佑は進見するごとに、天子は尊んで礼遇し、呼ぶのに官名を呼んで、名前では呼ばなかった。数年後、固く骸骨(辞職)を乞い、帝はやむを得ず許した。そこで光禄大夫・守太保致仕を拝命し、毎月朔日(一日)・望日(十五日)に朝廷に出席し、宦官を派遣して賜い物は非常に厚かった。元和七年(812)卒した。年七十八歳。冊立して太傅を追贈し、諡を安簡という。

  杜佑の性格は学問を嗜み、貴い身分になって、それでも夜分に読書した。これより先、劉秩は百家を拾い上げて、周の六官法を揃え、『政典』三十五篇をつくり、房琯は才能は漢の劉向を超越したと称えた。杜佑は『政典』は未だに尽くされていないと思っていたから、そこでその欠落部分を補い、『開元新礼』を参考にし、二百篇をつくって、自ら『通典』と名付けて奏上し、詔してお褒めの言葉を賜り、儒者はその書物が簡約でありながら詳細であることに感服したのである。

  人となりは簡素かつ恭順な人物で、物事に背かなかったから、人は皆敬愛して重んじた。名声は漢と胡に広がり、しかも練達の文章は誰もが及ばないのである。朱坡・樊川の地には、すぐれた東屋・高台・林泉の庭園をつくり、山を穿って泉を掘り、賓客とともに酒を酌み交わすのを楽しみとした。子弟は皆朝廷に供奉することを願い、貴く盛んなことは当時の筆頭であった。能力は吏職に精勤し、統治しても苛斂誅求を行わず、しばしば税務を司り、宰相として民の利害によって差配を決めたから、議論する者は杜佑を統治・行ないに欠点はないと称えた。ただ晚年、妾を夫人としていたが、杜佑の業績からは隠れる程度といわれる。子に杜式方がいる。


  杜式方は、字は考元で、父の蔭位によって揚州参軍事を授けられた。再び太常寺主簿に移り、音律を考察して定めたから、太常卿の高郢に称えられた。杜佑が宰相になると、京師から出されて昭応県令となり、太僕卿に遷った。子の杜悰は、公主を娶った。杜式方は宗室の姻戚となったから、たちまち病と称して業務を行わなかった。穆宗が即位すると、桂管観察使を授けられた。弟の杜従郁は長らく重い病に罹っており、自ら薬を与えて食事の介助をし、死ぬと泣いたから、世間ではその真心のこもった行ないを称えた。卒すると礼部尚書を追贈された。


  杜従郁は、元和年間(806-820)初頭に左補闕となり、崔群らからは宰相の子であったから嫌われ、再び秘書丞に遷された。駕部員外郎で終わった。子に杜牧がいる。


  杜悰は、字は永裕で、一門の蔭位のため三遷して太子司議郎となった。権徳輿が宰相となると、その婿で翰林学士の独孤郁は嫌疑を避けて自らその職を辞するよう申し上げた。憲宗は独孤郁が文章をよくするのを見て、「権徳輿に婿ありというのはまさにそなたのことだな」と歎いた。当時、岐陽公主がおり、帝はこの娘を愛していた。昔の制度では、多くは姻戚や将軍の家より選ばれたが、帝は始め宰相李吉甫に詔して大臣の子より選んだが、皆病と称して辞退し、ただ杜悰だけが選抜によって麟徳殿で召見された。婚礼が終わると、殿中少監・駙馬都尉と授けられた。大和年間(827-835)初頭、澧州刺史より召還されて京兆尹となり、鳳翔忠武節度使に遷った。京師に入って工部尚書、判度支となる。たまたま岐陽公主が薨ずると、杜悰は長らく挨拶せず、文宗は不可解に思った。戸部侍郎の李珏は「この頃駙馬都尉は皆公主の服喪は天子・父同様の斬衰三年で、だから杜悰は挨拶できなかったのです」と述べると、帝は驚き、始めて詔して服喪期間を斉衰杖期の一年とし、法令として明記させた。

  会昌年間(841-846)初頭、淮南節度使となった。武宗は揚州監軍に詔して俳優の家の娘十七人を禁中に進上させ、監軍は杜悰に同じく選ばせようとし、また良家に姿形がよい者を見せようとしたから、杜悰は「私は詔を奉っていないのにたちまち共に行うのは罪である」と言ったから監軍は怒り、帝に上表した。帝は杜悰に大臣の体裁があるのを見て、そこで詔して俳優を進上させるのを廃止し、その意は杜悰を宰相にすることにあった。翌年(844)、召還されて検校尚書右僕射・同中書門下平章事(宰相)を拝命し、判度支を兼任した。劉稹が平定されると、左僕射・兼門下侍郎となった。しばらくもしないうちに、宰相を罷免され、京師から出されて剣南東川節度使となり、西川節度使に移り、また淮南節度使となった。当時、旱魃となり、道路に流亡する者が溢れ出て、民は運河で運ばれてくる米を濾して自給するようになり、「聖米」と呼び、湖沼のまぐさや蒲の実を採ってすべて尽き果ててしまったにも関わらず、杜悰は上表して吉祥・災異の前触れと報告した。獄囚は数百人を数えたが、酒色におぼれて安逸に過ごしたから裁決できなかった。罷免されて、兼太子太傅、分司東都となった。翌年、起用されて東都留守となり、再び剣南西川節度使となった。召還されて右僕射、判度支、進兼門下侍郎同平章事(宰相)となった。

  それより以前、宣宗の在位中、夔王李滋以下の五王を大明宮の内院に住まわせて、鄆王を十六宅に住まわせた。帝が重病となると、枢密使の王帰長馬公儒らが遺詔によって夔王を擁立しようとしたが、左軍中尉の王宗実らが殿中に入って、以為王帰長らのために詔が偽られたとし、そこえ鄆王を迎えて即位させた。これが懿宗である。しばらくして、枢密使の楊慶を派遣して中書省にやって来たが、ただ杜悰だけが拝礼し、他の宰相の畢諴杜審権蒋伸はあえて進み出なかったから、杜悰に説諭して大臣にふさわしくない者を弾劾させて罪にあてようとした。杜悰はにわかに封を使者に授けて復命し、楊慶に向かって、「お上は践祚されてからまだ日が浅い。君達は権力を手中にして愛憎によって大臣を殺せば、役人の禍いは日を待たないだろう」と述べ、楊慶の顔色を失い、帝の怒りもまた解け、大臣は安泰となった。しばらくもしないうちに、司空となり、邠国公に封ぜられ、検校司徒によって鳳翔・荊南節度使となり、加えて太傅を兼任した。たまたま黔南観察使の秦匡謀は蛮を討伐しようとしたが、兵は敗れ、杜悰のもとに逃げたが、杜悰はこれを逮捕し、節義に殉じなかったことを弾劾したが、詔によって斬られてしまった。杜悰は死んでしまうとは思っていなかったから、驚きのあまり病となって卒した。年八十歳。太師を追贈された。葬送の日、宰相百官に詔して参列させた。

  杜悰は大いに議論しては往々として時勢に適うところがあったが、しかし才能は適応しなかった。将軍や宰相の地位を行ったり来たりし、厚く自ら父母を孝養したが、いまだかつて在野に隠れた士を推薦したことがなく、杜佑の素風は衰えたのだった。だから当時の人は「禿角犀(角が禿げたサイ)」と呼んだ。


  子の杜裔休は、懿宗の時に翰林学士・給事中を歴任したが、事件に罪とされて端州司馬に貶された。弟の杜孺休は、字は休之である。累進して給事中となった。大順年間(890-891)初頭、銭鏐が弟の銭銶を派遣し、兵を率いて徐約を蘇州で攻撃して破り、海昌都将の沈粲が刺史の業務を執行したが、昭宗が杜孺休に命じて蘇州刺史とし、沈粲を制置指揮使とした。銭鏐は喜ばず、密かに沈粲を遣わして殺害してしまった。杜孺休は攻められると、「私を殺さないでくれ。君に金をあげよう」と言ったが、沈粲は「お前を殺せば、金はどこに行くのかね」と答えた。兄の杜述休も同じく死んだ。

  杜悰の弟に杜慆がいる


  杜慆は、咸通年間(860-874)に泗州刺史となった。龐勛が反乱を起こすと、城を囲まれ、処士の辛讜が広陵よりやって来て杜慆に面会し、家族を城から出して、ただ身を守るよう勧めた。杜慆は「私が一族全員を逃れさせて生を求めたところで、軍心は動揺するだけだ。将兵と生死を共にするのにこしたことはない」と言い、軍は聞いて皆涙を流した。杜慆は籠城の困難を聞いて、堀を浚って城の防備を固め、籠城の器械で備わっていないものはなかった。

  賊将の李円は杜慆が組みやすしとみて、勇士百人を馳せて府庫に入らせようとすると、杜慆は甘言によって礼を厚くして迎えて慰労したから、賊は杜慆の謀であると思わなかった。翌日、兵士三百名を伏兵し、球場で宴して賊を全員殲滅した。李円は怒り、曲輪を攻撃したが、杜慆は数百人を殺したから、李円は撤退して城の西に立てこもった。龐勛はそのことを聞いて、兵を増やして、書簡を城中に射て投降を促した。夜になって、杜慆は鼓を打って城壁の上から大声で叫んだから、李円の士気は削がれ、走って徐州に戻った。しばらくもしないうちに、賊は淮口を焦土とし、昼夜戦ってやむことはなく、辛讜はそこで救援を守将の郭厚本に要請し、賊は包囲を解いて去った。浙西節度使の杜審権は将を派遣して兵千人によって救援させたが、かえって李円の軍に包囲され、一軍もろとも全滅した。杜慆は人を間道によって京師に走らせると、戴可師に詔して沙陀・吐渾の援軍二万によって討伐させた。淮南節度使の令狐綯は牙将の李湘を派兵して淮口に駐屯させ、郭厚本と合流したが、李円の攻撃のため敗北し、李湘らは枕を並べて討ち死にし、ここにおいて援軍は途絶えた。賊はそこで鉄の鎖で淮河の流れを途絶えさせ、梯子と衝角で城を攻撃した。兵糧は尽きて、そのため薄い粥を支給していた。懿宗は使者を派遣して杜慆に検校右散騎常侍に任命し、防衛に努めさせた。龐勛は李円を派遣して城内に入って杜慆に面会して投降を約束させようとしたが、杜慆は怒って李円を殺してしまった。龐勛は再び書簡を送ったが、安禄山朱泚らがついに滅亡してしまったと答書し、ひそかに龐勛の軍にあてつけた。龐勛はしばしば攻撃したが目的を遂げることができず、たまたま招討使の馬挙が兵を率いてやって来たから、遂に包囲を解いて去った。包囲されることおよそ十か月、杜慆は兵士を慰撫し、全員が命を投げ出し、辛讜は包囲を冒して出入し、援軍を集め、ついに一州を全うさせたから、当時の人は艱難さを称えた。賊が平定されると、杜慆は義成軍節度使、検校兵部尚書に遷り、卒した。


  杜牧は、字が牧之で、詩文をつくることが上手であった。進士の試験に合格し、さらに賢良方正科の試験にも合格した。当時江西観察使であった沈伝師が朝廷に届けて、江西団練府巡官とした。それからこんどは牛僧孺の淮南節度府の書記の職につき、監察御史に抜擢されたのち、病気を理由にして東都(洛陽)の分司御史となった。弟の杜顗の病気が悪化したので退官し、再び宣州団練判官の職につき、殿中侍御史内供奉をさずかった。

  この頃、劉従諌が沢潞節度使として、また何進滔が魏博節度使として、相当にごうまんで国の法律制度に従わなかった。杜牧は、長慶年間(821-824)初頭から朝廷の処置が方法を誤り、そのためにまたしても山東の地を失い、大きい領域をもった重要な藩鎮の処理は、天下の人が唐の政権を重く視るか軽く視るかに関係することだけに、それを世襲のように受けつかせたり、軽々しく授与したりしてはいけないのに朝廷はこれを許したことを、当時にさかのぼってとがめようとした。が、こうしたことは、すべて朝廷のきめる大事だから、自分がその地位にないのに分をこえたことを言うのは、とがめられるおそれがあり、そういうことはよくない、ということで「罪言」を作った。その文にいう、

  「人々は常に戦争の惨劇に苦しみ、戦争は山東で始まって、天下に広がっていきました。山東を占領しなければ、戦争をやめることができません。山東の地は、禹が全国九土を分割して冀州(九州)といい、舜がその中でも非常に大きい部分を分割して幽州とし、并州としました。その自然条件を見てみると、河南と匹敵し、常に全国の十分の二の強さがあり、そのため山東の人は勇猛で力が強く、規律を重んじ、苦労を厭わないのです。魏晋の時代より以降、職人と織機の技術は巧妙で、ありとあらゆるものが流出し、習慣は卑俗となり、人々はますます脆弱となっていったのです。ただ山東だけが五種の穀物を種まき、兵は弓矢の道を根本として、他はゆったりしていて揺らぐことはありません。丈夫な馬を生産し、馬の下位のものでも一日に二百里を移動するから、兵は常に天下と対抗することができるのです。冀州は、その強大さをたのんで摂理に従わず、冀州が必ず弱く弱体化することを期待しましたが、敗れたとはいえ、冀州はまた強大となったのです。并州は、力は併呑するのに充分な能力があります。幽州は、幽陰(奥深く)で厳しい土地柄です。聖人はだからこの名をつけたのです。

    黄帝の時、蚩尤は戦争をおこない、それより以後は帝王が多くその地にいることになりました。周が衰えて斉が覇者となりましたが、一世代もたたずに晋が強大となり、常に諸侯を使役しました。秦が三晋より強勢となると、六世代の時を経て韓を占領したため、遂に天下の背骨を折り、また趙を占領して、そこで残る諸侯を拾い上げるように征服したのです。韓信が斉を占領しましたが、だから蒯通は漢と楚のどちらが勝利するかは韓信次第であることを知っていたのです。漢の光武帝は上谷で挙兵し、鄗で帝業をなしとげました。魏の武帝は官渡で勝利して、天下三分のうち、その二が手中にあったのです。晋が乱れて胡が侵攻してくると、宋の武帝が英雄となり、蜀を占領して、関中を手中におさめましたが、黄河以南の地の大半を占領し、天下は十分の八まで得られましたが、しかし一人として黄河を渡って胡に攻め入る者はいませんでした。高斉(北斉)の政治が荒れると、宇文(北周の武帝宇文邕)が占領し、隋の文帝が陳を滅ぼし、五百年で天下が一つ家となったのです。隋の文帝は宋の武帝には敵いませんが、これは宋が山東を占領できず、隋が山東を占領したから、そのため隋は王業をなしとげ、宋は霸となるにとどまったのです。この観点からみてみると、山東は、王者が獲得できなければ王業はならず、霸者が獲得できなれば霸道は得られませんが、狡猾な匪賊でも得られれば、天下を不安にすることが十分にできるのです。

    天宝年間(742-756)末、燕州の安禄山は反乱をおこし、成皋・函谷関・潼関の間を無人の地を行くかのように出入りしました。郭子儀李光弼らは兵五十万を率いていましたが、鄴を越えることができませんでした。それより百あまりの城や、天下が力を尽くしても、尺寸の地すら得られず、人々は元は唐土であったこれらの土地をまるで回鶻や吐蕃を望み見るかのように扱い、あえて攻撃しようとする者はいませんでした。国家はそのため畦や河を阻塞とし、街路を封鎖しました。斉・魯・梁・蔡はそのような影響を蒙り、そのため彼らも叛徒となったのです。裏(河北)を表(河南)の後ろ盾とし、水の流れが旋回するかのように混乱状態となり、五年間常に戦っていない者はいない状態となったのです。人々は日に日に貧しくなり、四方の異民族は日に日に勢いが盛んとなり、天子はそのため陜州に逃れ、漢中に逃れ、じりじりとして七十年あまりとなりました。孝武帝のような時運に遭遇し、古着を着て一日一度だけ肉を食べ、狩猟や音楽をせず、身分の低い中から将軍や宰相を抜擢することおよそ十三年、それでもすべての河南・山西の地を征服し、改革を実行に移すことができなかったのです。山東は服属せず、また二度も攻撃しましたが、すべて勝利には到りませんでした。どうして天は人々にまだ安寧な生活をさせないのでしょうか。どうして人の謀がまだできていないのでしょうか。どうしてそんなに難しいのでしょうか。

    今日、天子は聖明であらせられ、古を凌駕し、平和に治めようと努力されています。もし全国の人々を無事に過ごさせたいのなら、戦争を終わらせることが重要です。山東を得られなければ、戦争は終わりません。今、上策は自立して治まるのにこしたことはありません。なぜならば、貞元年間(785-805)に山東で燕・趙・魏の叛乱があり、河南で斉・蔡が叛乱しましたが、梁・徐・陳・汝・白馬津・盟津・襄・鄧・安・黄・寿春はすべて大軍で十箇所以上防衛し、わずかに自ら治所を守るのにたる程度で、実は一人として他所にとどまることはできず、遂に我が力はほどけ勢いは緩み、反逆があっても熟視するだけで、どうすることもできなかったのです。この頃、蜀もまた叛乱をおこし、呉もまた叛乱をおこし、その他まだ叛乱をおこしていない者でも、時勢によっては上下し、信頼を保つことはできなくなりました。元和年間(806-820)初頭より今にいたるまでの二十九年間、蜀・呉・蔡・斉を占領し、郡県を回復すること二百城あまりとなり、まだ回復していないのは、ただ山東の百城だけとなりました。土地・人戸・財物・兵士は、往年の時と比べて、余裕綽々ではありませんか。また自分に統治能力があると思わせるのに充分です。しかし法令制度・条文は果たして自立できるといえるでしょうか。賢才や悪人を探し出して選んだり捨て置いたりしますが、果たして自立できるといえるでしょうか。要塞や鎮守、武器や車馬は、果たして自立できるといえるでしょうか。街や村々、穀物や財物は、果たして自立できるといえるでしょうか。もし自立できなければ、これは敵を助けて敵の為に行っているのと同じなのです。土地の周囲は三千里、叛乱が根付いてから七十年、また天下には密かにそれを支持して助ける者がいるのに、どうして回復できるのでしょうか。ですから上策は自立するにこしたことはないのです。中策は魏州の占領です。魏州は山東で最も重要な地で、河南にとっても最も重要な地です。魏州は山東にあって、趙州の障壁となる地です。朝廷はすでに魏州を越えて趙州を奪取することも、もとより趙州を越えて燕州を奪取することもできませんでした。これは燕州・趙州にとって魏州が常に重要地点であることを意味し、魏州は常に燕州・趙州の命運の握っているのです。そのため魏州は山東で最も重要な地なのです。黎陽は白馬津から三十里離れており、新郷は盟津から百五十里離れており、城塞は互いに向かい合っており、朝から晩ばで戦い、この白馬津・盟津の二津のうち、敵が一つでも破ることができれば、数日もしないうちに成皋に突入することができるのです。そのため魏州は河南で最も重要な地なのです。元和年間(806-820)、天下の兵を動員して蔡・斉を誅伐したので、五年ほどは山東からの攻撃の心配はなくなりましたが、魏州を得られたからです。先日、滄を誅伐し三年ほどは山東の攻撃の心配はなくなりましたが、これまた魏州を得られたからです。長慶年間(821-825)初頭に趙州を誅伐しましたが、一日のうちに五諸侯の軍隊は壊滅し、そのため魏州を失いました。先日、趙州を討伐しましたが、長慶の時のように魏州を失ったので失敗しました。そのため河南・山東の勝敗の要は魏州にあるのです。魏が強大なのではなく、地形がそうさせているのです。そのため魏州を奪取するのが中策なのです。最下策は軽率な作戦で、地勢を計算に入れず、攻守を分析しないことがそうです。兵士と兵糧が多く、人々を戦わせることができれば、それは防衛に有利であり、兵士と兵糧が少なく、人を自発的に戦う必要もなく、攻勢が有利となります。そのため我が軍は常に攻勢で失敗することが多く、敵は防御で悩むことが多くなるのです。山東が叛いて五世代にもなり、後世の人々が見たり聞いたりした行動は、叛乱側ではなく、物事の理はまさにそうあるべきだと思い、なじんで骨髄にまで入っており、そういではないと思わなくなっています。包囲が激しく兵糧が尽きると死体を食べてまで戦っています。これはもはや習慣となっていますが、どうして一勝一負を決することができましょうか。十年あまりにおよそ三度趙州を奪還しましたが、兵糧が尽きて撤退しました。郗士美が敗れると、趙州は再び勢力を取り戻し、杜叔良が敗れると、趙州は再び勢力を取り戻し、李聴が敗れると、趙州は再び勢力を取り戻しました。そのため地勢を計算に入れず、攻守を分析せず、軽率な作戦を行うことは、最下策なのです。」

  何度か昇進して左補闕兼史館修撰となり、その後膳部員外郎に転じた。宰相の李徳裕は、かねてより杜牧の才能を、とりわけすぐれたものであると高く評価していた。会昌年間(841-846)のことであるが、黠戛斯(キルギス)が回鶻(ウイグル)を破り、回鶻の部族は負けてばらばらになって漠南(内蒙古)にのがれて来た。その時は、次のように李徳裕に説いてすすめた。「この機をのがさずに討ち取ってしまうほうがよろしい。私が考えますのに、前後漢の匈奴討伐は、いつも秋と冬に行われましたが、この季節は、匈奴の強い弓が、膠の折れる冷気のためにより強くなっており、はらんだ馬が子を産んでじゅうぶん働けるようになっております時期で、ちょうどこの時にはりあったものですから、負けることが多く、勝つことがほとんどなかったのです。ですから、今も夏の中頃に、幽州・并州のよりすぐりの騎兵と酒泉の兵を出動させて、匈奴の意表をつきましたら、一度で殲滅できましょう。これこそ上策と存じます」李徳裕はこの策を高く評価した。ちょうどその頃、劉稹が朝廷の命令を拒否したので、天子は諸鎮の軍に詔を下してこれを討伐させた。その時にも李徳裕に意見をのべた。「私が考えますのに、河陽は、西北の方天井関からは百里(56km)あまりありますが、ここに大勢の人を使ってとりでを築いて、軍の進入口をふさぎ、守りを固めてまともに交戦してはいけません。成徳軍節度使は、代々昭義軍節度使と敵対しております。それで成徳軍節度使の王元逵は、一度仇を報いて自軍の士気を高揚したいと考えています。しかしなにぶんにも遠方のことゆえ遠い道のりを駆けてまっすぐに昭義軍の根拠地の上党を攻撃することができません。そこで、当方のぜひとも狙わねばならぬところは、賊の西の方です。今もし忠武・武寧の両軍に、青州の精鋭五千人と宣州・潤州の弩の名手二千人を加えて、絳州を通って東へ攻め入りましたら、数か月もたたぬうちにきっと敵の本拠を滅ぼすことができましょう。昭義軍の食糧は、その全部を山東に頼っておりまして、ふだん節度使はたいてい邢州に留まって生活しています。山西にいる兵は孤立して少数ですから、敵の手うすにつけこんで不意に襲撃して取るのがよいのです。こういうわけで、戦争には、拙速というのはありますが、およそ巧久(うまくて長びく)というのはまだあったためしがないのです」。まもなく沢潞は平定された。戦略は大体において杜牧のたてた方策の通りであった。黄州・池州・睦州三州刺史を歴任したのち、朝廷に入って司勛員外郎となったが、いつも歴史を編輯する官を兼任した。その後、吏部外郎に転じ、かさねて請願して湖県刺史となった。その翌年、考功郎中に進み兼ねて知制詰となり、つぎの年には中書舎人に昇進した。

  杜牧は性格が剛直で、なみなみならぬ節義があり、慎重すぎて小事になずむことはせず、大胆に朝廷の大事を論じ、弊害と利益を指し示して述べたがその指摘は、とりわけ適切でゆきとどいていた。若い時から李甘李中敏宋邧と仲がよかった。しかし、杜牧が古代と現代の事柄に精通していて、政治やいくさの成功にも失敗にも十分にうまく処する道を知っていたことは、李甘らの及ぶところではなかった。杜牧はまた歯に衣着せぬ率直な態度がわざわいして、当時彼を助ける者がいなかった。従兄の杜悰は、将軍と宰相を歴任したが、杜牧は、官途に苦しみつまずいて調子よくのびてゆけず、相当にくさくさして不満であった。卒した時、五十歳であった。かつては、ある人が「あなたは畢(おわり)という名にすべきだ」と言った夢を見た。さらにまた自分が「曖昧たる白駒」という字を書いているのを夢見た。ある人が「これは、白馬が戸のすきまの向こうをきっと走り過ぎるということだ。死期が近いことの暗示だ」と言った。まもなく穀物を蒸す蒸し器が破裂した。杜牧は「縁起が悪い」と言った。それから自分の墓誌をつくり、今までに作った詩文をすっかり焚いてしまった。杜牧は詩において、その趣が力強くて雄々しく、人々は彼を「小杜」とよんで、杜甫と区別した。


  杜顗は、字は勝之で、幼いころに眼病を患い、母は杜顗に学問することを禁じた。進士に推挙され、礼部侍郎の賈餗が人に向かって「杜顗を得られれば数百人に匹敵する」と語り、秘書省正字を授けられた。李徳裕が奏上して浙西府賓佐とした。李徳裕は尊く勢いは盛んで、賓客はあえて逆らう者はいなかったが、ただ杜顗はしばしば諌めて李徳裕を糾した。袁州に流謫されることとなると、「門下が私を愛するのに全員が杜顗のようであったなら、私は今日のようなことはなかったのに」と歎いた。大和年間(827-835)末に、召還されて咸陽県の尉、直史館となった。常に人に語って、「李訓鄭註は必ず失脚する」と言っていたが、行って都に到着する前に、彼らが殺害されたのを聞き、上疏し病と称して辞任した。杜顗もまた文章をよくし、杜牧と評判はどちらかが上か下かというほどであった。ついに失明して卒した。


  令狐楚は、字は殼士で、令狐徳棻の後裔である。生まれて五歲にして、文章をよくした。加冠の年となると、進士に推薦され、京兆尹の推薦によって第一となろうとしていたが、当時、許正倫は軽薄の士で、長安では有名な人物で、蜚語をなしていたから、令狐楚はそのような人物と争うのを嫌って、譲って自らが下とした。及第すると、桂管観察使の王拱がその才能を愛し、令狐楚を任命しようとしたが、恐れて赴くことはなく、そのためまず奏上してから、後で招いたのであった。王拱の所にいても、父が并州で官職についていて孝養できていないから、宴も楽しむことはできなかった。年季が終わって父のもとに帰った。李説厳綬鄭儋が相次いで太原を摂領し、いずれも令狐楚の行業を高潔なものとし、幕府に引き止め、そのため掌書記から判官となった。徳宗は文章を好み、太原からの上奏文を見るたびに、必ず令狐楚の書いた文章について語り、しばしば称賛した。鄭儋がにわかに死ぬと、後の事を行うことができる者がおらず、軍は大騒動となり、軍乱が起ころうとしていた。夜に十数騎が刃を引っ提げて令狐楚を連行し、遺奏を書かせたが、諸将が取り囲んで熟視する中、令狐楚の顔色は変わらず、筆をとるとたちまちに出来上がり、全員に示すと、士は皆感泣し、全軍が平穏となった。これによって名はますます重んじられた。親の喪が明けると召還されて右拾遺を授けられた。

  憲宗の時、累進して職方員外郎、知制誥に抜擢された。作成した文章は、とくに上奏・制令が最も優れ、一篇ができるごとに、人々は皆伝え合って暗唱した。皇甫鎛は発言が憲宗の寵幸を得ており、令狐楚・蕭俛とともにかなり親しかったから、そのため帝に推薦した。帝もまた自分自身でも彼らの名声を聞いていたから、召還して翰林学士とし、中書舎人に昇進した。蔡州を討伐しようとし、まだ命令が下される前に、議論する者の多くは出兵を取り止めたいと思っていたが、帝と裴度だけは蔡を赦すことをよしとしなかった。元和十二年(817)、裴度は宰相になり、彰義節度使となり、令狐楚に制書を起草させようとしたが、その文章は趣旨とは合わないところがあり、裴度は令狐楚の心の内を知ることになった。当時、宰相の李逢吉は令狐楚と親しく、皆裴度を助けなかったから、帝は李逢吉を罷免し、令狐楚の翰林学士を停職として、ただ中書舎人のみとした。にわかに京師から出されて華州刺史となった。後に他の学士に書かせた宣旨は誰も趣旨に合わなかったから、帝は令狐楚の草稿を見て、令狐楚の才能を思わずにはいれなかった。

  皇甫鎛が宰相となると、令狐楚を河陽懐節度使に抜擢して、烏重胤と交替させた。それより以前、烏重胤は滄州に移り、河陽の兵士三千を従えたが、兵士は不満を持ち、道の途中で規律は崩壊して帰り、北城を根拠とし、転進して旁州を掠奪しようとしていた。令狐楚は中潬に到着すると、数騎で自ら行って労った。軍の兵士は出てきたが、令狐楚は疑う素振りをみせず、そのため全員が降伏した。令狐楚は主犯を斬り、軍はついに平定された。裴度が太原に出されると、皇甫鎛は令狐楚を推薦して中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)とした。穆宗が即位すると、門下侍郎に進んだ。皇甫鎛が罪を得ると、当時の人は令狐楚が皇甫鎛との縁によって昇進し、またかつて裴度を追い出したと言い、天下は皇甫鎛と令狐楚の両方を憎んでいたが、たまたま蕭俛が宰相となっていたから、あえて表立って言う者はいなかった。景陵を造営すると、令狐楚に詔して山陵使とし、親吏の韋正牧・奉天令の于翬らは造営のための雇い賃十五万緡を捻出できず、令狐楚が献上したのを羨余であるとし、怨んで訴えを道に掲げた。詔して于翬らを捕らえて獄に下して誅殺し、令狐楚を京師から出して宣歙観察使とした。にわかに衡州刺史に貶され、再び移されて、太子賓客の職を以て東都に分司となった。長慶二年(822)、陜虢観察使に抜擢されたが、諌官が議論して置かれず、令狐楚は陜州に到着して一日で再び罷免され、東都に戻った。

  たまたま李逢吉が再び宰相となり、令狐楚を起用しようと奔走したが、李紳が翰林にいて令狐楚の昇進を阻んだから、起用はならなかった。敬宗が即位すると、李紳は追い出され、そこで令狐楚を河南尹とした。宣武節度使に遷った。汴軍は傲慢であるため、韓弘兄弟が職務にあたって厳しい法によって糾し治め、兵士は安逸を楽しんで、心を改めることはなかった。令狐楚が到着すると、厳しさや過酷さをとりやめ、真心をつくして勧戒・説諭したから、人々は喜び、ついに世情は好転した。京師に入って戸部尚書となり、にわかに東都留守を拝命し、天平節度使に遷った。それより以前、汴州・鄆州の藩鎮が赴任するごとに、州の銭二百万を藩鎮に私に納めることになっていたが、令狐楚一人が辞退して受け取らなかった。李師古が園地・欄干と僭称した物を破壊した。しばらくして、河東節度使に遷った。召還されて吏部尚書、検校尚書右僕射となった。慣例では、検校尚書右僕射の官は従二品の重職であり、朝儀ではその班位によることとなっていたが、楚は吏部尚書の相当官は三品であるから固辞したから、詔によってお褒めのお言葉を賜った。にわかに太常卿を兼任し、左僕射・彭陽郡公に進んだ。

  李訓が乱をおこすと、将軍や宰相は全員神策軍に捕縛された。文宗は夜に令狐楚と鄭覃を呼んで禁中に入れ、令狐楚は、「外には三司・御史がおり、大臣の指示には従わないことになっているので、宦官は宰相を捕縛する権限はありません」と建言したから、帝は頷いた。詔を起草して、王涯賈餗は冤罪で、その罪を指すのにそぐわないとしたから、仇士良らは恨んだ。それより以前、帝は令狐楚を宰相とするのを許可していたが、そのため果せず、さらに李石を宰相として、令狐楚を塩鉄転運使とした。これより先、鄭註が榷茶使を創設するよう奏上し、王涯もまた官が茶園を運営することを議したが、人々にとって不便であったから、令狐楚は榷茶使を廃止して旧法のままとすることを請願し、令狐楚の意見に従った。元和年間(806-820)、禁軍から武器を出して左右街使に宰相が入朝するのを建福門まで護衛させていたが、今回の乱のため廃止された。令狐楚は「藩鎮の長は初めて任命されると、必ず戎服で仗を持って尚書省に行って挨拶しました。もとより鄭註には実は乱の兆しとなり、そのため王璠郭行余は将吏を使役して京師を血まみれにしたのです。停止すべきです」と述べ、詔して裁可された。開成元年(836)上巳、群臣に曲江の宴を賜った。令狐楚は新たに大臣が誅殺され、骸が晒されて回収おらず、怨みや禍いがからみあって解けないから、病と称して行かなかった。そこで衣服・棺の材を給付を願ったから、刑死された者の骨をおさめると、喜びの顔をみせた。当時、政治の実権は宦官にあり、しばしば上疏して位を辞することを求め、山南西道節度使を拝命した。卒したとき、年七十二歳であった。司空を追贈され、諡を文という。

  令狐楚の表向きは厳重で犯しがたい雰囲気があったが、その内面は度量がひろく、士を待って礼儀をつくした。客で星歩鬼神のような占いを勧める者がいると、一度も会わなかった。政務を行っては慰撫に優れ、治世に実績があり、人は適材適所であった。病が重くなり、子供達は薬を勧めたが、口に入れるのをよしとせず、「士はもとより命に限りがあるのだ。どうしてこんな物に頼ろうか」と言った。自らの力で天子に最期の奏上をしようと、門人の李商隠を呼び寄せて、「我が魂はすでに尽きた。私を助けて完成させてくれ」と言い、その大まかな内容は、甘露の事変で誅殺された者達への怒りを解き、全員の罪を洗い清めることを願った。文章は委細をつくしたが、錯誤するとことはなかった。書き終わると、子供達に「私の一生は時勢には無益であったから、諡を賜うことを願ってはならず、葬礼用の鼓吹も願わず、ただ葬式用の布車一台で葬り、銘を書いてもらうのに高位の人を選んではならない」と言い、この日の夜、大きな星が寝室の上に落ち、その光が庭を照らした。座って家族と別れ、そこで命を終えた。詔があって行幸をやめ、その志を述べさせた。

  子の令狐緒令狐綯は、当時に名声があらわれた。


  令狐緒は蔭位によって出仕し、隋州・寿州・汝州の三州刺史となり、善政があった。汝州の人は石に頌徳を刻むことを願ったが、令狐緒は弟の令狐綯が宰相であったから、固辞した。宣宗はその思いをよしとし、そこで沙汰止みとなった。


  令狐綯は、字は子直で、進士に推挙され、左補闕・右司郎中に累進した。京師から出されて湖州刺史となった。

  大中年間(847-860)初頭、宣宗が宰相の白敏中に、「憲宗の葬儀のとき、道中で風雨に遭って、六宮の百官は全員退避したのに、一人背が高くて髭の者が梓宮で奉って去らなかったのを見たが、一体あれは誰だったのか」と言い、白敏中は「山陵使の令狐楚です」と言い、帝は「子はいるのか」と尋ねたから、「令狐緒は若い頃から関節痛で、用いるのに堪えられません。令狐綯は今湖州を守っています」と答えたから、「その人となりは宰相の器だな」と言い、そこで召還して考功郎中、知制誥とした。翰林学士となった。ある夜、呼び寄せて共に人間の病苦について論じ、帝は「金鏡」の書を取り出して、「太宗が著したものである。卿は私の為にその概要をあげよ」と言い、令狐綯は語を摘要して「治に到っていまだかつて不肖に任せず、乱に至って未だかつて賢を任ぜず。賢を任ずるは、天下の福をうく。不肖を任ずるは、天下の禍に罹る」と言い、帝は「よろしい。朕はこれを読んだのはかつて二・三回だけだった」と言うと、令狐綯は再拝して「陛下は必ず王業を興されようと願っていますが、これを棄ててどうして先んずることがありましょうか。『詩』に「徳があるからこそ、自分に似る人物を推薦できる」とあります」と述べた。中書舎人に昇進し、彭陽県男を襲封した。御史中丞に遷り、再び兵部侍郎に遷った。また翰林学士承旨となった。夜に禁中で話し合い、燭がつきると、帝は乗輿と金蓮華の松明で送り届けてくれたが、院吏が遠くから見て、天子が来ると思っていたのに、令狐綯がやって来るのを見て、全員が驚いた。にわかに同中書門下平章事(宰相)となり、宰相となること十年であった。懿宗が即位すると、尚書左僕射・門下侍郎によって司空を拝命した。しばらくもしないうちに、検校司徒平章事に任じられ、河中節度使となった。宣武軍節度使となり、また淮南節度副大使となった。安南が平定されると、兵糧運搬の功績によって、涼国公に封ぜられた。

  龐勛が桂州より戻ると、浙西白沙を通過して濁河に入り、舟を盗んで遡上した。令狐綯は聞いて、使者を派遣して慰撫し、なおかつ兵糧を送った。部下の将の李湘は「徐州の兵は勝手に帰ってきたのですから、なりゆきとして反乱となるでしょう。まだ討伐の詔が下っていないとはいえ、節度使として任にある以上すべての反乱を制するのは、我々が対処しなければなりません。今その兵は二千足らずで、軍船を展開させ、旗や幟をたて、夥しさを人に示せば、非常に我らを恐れるでしょう。高郵は崖が切り立っていて流れは狭いので、もし草を積んだ舟をその前で火を放させ、精兵をその背後から攻撃させれば、一挙に殲滅できるでしょう。そうでなければ、淮河・泗水を渡らせてしまい、徐州の不逞の徒と合流すれば、禍乱はひどいものになるでしょう」と言ったが、令狐綯は臆病でその提案を採用することができず、また詔が出ていないことを理由として、「彼らは乱暴を働いていないのだから、淮河を渡るのと許してやり、あとは私の知ったことではない」と言ったから、龐勛は戻ると、やはり徐州を掠奪し、その衆は六・七万人となった。徐州は食料が乏しく、兵を分けて滁州・和州・楚州・寿州を攻撃して陥落させ、食料が尽きると、人を食べて腹を満たした。令狐綯に詔して徐州南面招討使とした。賊が泗州を攻撃すると、杜慆は固守し、令狐綯は李湘に命じて兵五千を率いて救援に向かわせた。龐勛は令狐綯に挨拶して「何度も赦免を受けましたが、ただちに降伏できなかった理由は、一・二人の将が反対意見を述べただけであって、ここから去りたいと思っています。一身を以て命令を聞きます」と言ったから、令狐綯は喜び、そこで龐勛を節度使に任命するよう願い、そこで李湘に「賊が降伏したら、君は謹んで淮口を守り、戦ってはならない」と命じ、李湘はそこで警戒をやめて備えを解いたから、その日は龐勛の軍とともに喜んで語っていた。後に賊は隙に乗じて李湘の陣地を襲撃し、すべて捕虜として食べてしまい、李湘および監軍の郭厚本を塩漬けとした。その時、浙西節度使の杜審権が勇将の翟行約に千人の兵を率いて李湘と合流させようとしたが、到着以前に李湘は壊滅しており、賊は偽って淮南節度使の旗幟を立てて誘引し、これもまた全滅させた。

  令狐綯の軍が敗北すると、そこで左衛大将軍の馬挙を令狐綯と代わらせた。太子太保となり、東都に分司した。僖宗が即位したばかりの頃、鳳翔節度使を拝命した。しばらくして、同平章事を加えられ、趙国公に移封された。卒し、年七十八歳であった。太尉を追贈された。子に令狐滈令狐渙令狐渢がいる。


  令狐滈は父令狐綯が宰相であったため進士に挙されなかった。父は宰相の職にあって、令狐滈と鄭顥は姻戚であったから、勢力をたのんで驕慢で、賓客を通じて権勢を招き、四方の財貨を集め、皆側目であえて言うものはなかった。懿宗が即位すると、しばしば人にその事を暴かれたから、そのため令狐綯は宰相を去ることとなった。そこで令狐滈を進士たちとともに役人に試験させることを願い出て、詔して裁可され、この年に及第した。諌議大夫の崔瑄が、令狐綯が十二月に宰相の位を去ったのに、有司の解牒は十月のままで、朝廷が進士を採用する法を令狐滈の家の事に屈したと弾劾奏上し、御史に委ねてその罪の実を取り調べることを願ったが、聴されなかった。令狐滈はそこで長安県の尉の任によって集賢校理となった。しばらくして右拾遺・史館修撰に遷った。詔が下って、左拾遺の劉蛻と起居郎の張雲はそれぞれ上疏してその悪行を指弾した。「李琢を登用して安南都護とし、長となって南方を乱し、賄賂のために害となって人々は涙を流し、天下の兵士は租税を給付されませんでした。李琢は最初から賄賂を令狐滈に送り、令狐滈は人の子の立場でありながら、父の令狐綯を悪行に陥らせました。振り返ってみれば令狐滈は諌臣となるべき人物でしょうか」と述べ、また弾劾して「令狐綯は大臣で、まさに国家と調え守る根本たるべき人物でしたが、大中年間(847-860)、諌議大夫の豆盧籍と刑部侍郎の李鄴を引き立てて夔王李滋らの侍読としましたが、これは長幼の序を乱すもので、先帝の後継者についての謀を陛下に及ばさせなかったのです。かつまた令狐滈は当時にあって、「白衣の宰相」と呼ばれていました。令狐滈はまだ進士に推挙されていなかったのに、すでに理解したとも妄言し、天下をして無解の及第と言わせるような事態になったのは、天下を欺かずにすんでいるといえるでしょうか」と述べた。令狐滈はまた恐れ、他の官に換えるよう求め、詹事府司直に改められた。その当時、令狐綯は淮南節度使であって、上奏して自分への嫌疑を雪ぎ、帝はそのため張雲を興元少尹に、劉蛻を華陰令に貶した。令狐滈もまた不幸にして官職が振るわないまま死んだ。


  令狐渙令狐渢はともに進士に推挙され、令狐渙は中書舎人で終わった。


  令狐定は、字は履常で、令狐楚の弟である。進士に及第した。大和年間(827-835)末、駕部郎中の職を以て弘文館直学士となった。李訓の甘露の変で、王遐休がまさにこの日に職に就いたから、令狐定は行って祝ったから、神策軍のために捕らえられ、殺されようとする者がしばしばいたが免れた。桂管観察使で終わった。


  賛にいわく、賈耽杜佑令狐楚は皆誠実な学者で、大官高官で、廟堂に威儀をただし、古今を導き、政務を処理するのに優れていた。立派な忠節であるのに責めることは、思うに玉のような美しい石の中に玉の表面があるようなものであろうか。杜悰令狐綯が代々宰相となったのもまた誹謗するのに充分な理由ではない。杜牧が天下の兵を論じて「上策は自立するにこしたことはない」と述べたのは何と賢いことであろうか。


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最終更新:2024年02月25日 02:32
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