李邕 りよう
678-747
唐の文人・書家。揚州・江都(江蘇省)の人。字は泰和。
李善の子。早くから文才があった。譙王
李重福の乱を討伐して戦勲をあげ、則天武后の末年、内史
李嶠・監察御史
張廷珪の推薦をうけ諫諍官となった。その後、玄宗朝で殿中侍御史、戸部侍郎となったが、時の顕官
姚崇にねたまれ括州司馬に左遷され、やがて陳州刺史となったが、また
張説に忌避され欽州遵化県尉となった。彼が「李北海」と称されたのは、天宝(742-756)初め、括・淄・滑3州の刺史から北海太守になったためである。人となりは豪侈で、細事にこだわらない彼の性格が、かえって時の勢力者と合わず、たびたび左遷のうきめにあい、官吏としては生涯を不遇のうちに終わった。しかし、その文章書簡は人にすぐれ、文人としての名声は高い。とくに碑文を請う者が多く、数百首を作り、謝礼金は巨万にのぼったといわれる。この盛名により、また宰相
李林甫のねたみをうけ、ついに殺された。著書に『李北海集』がある。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典9』(平凡社、1962年4月)
外部リンク
最終更新:2023年10月29日 10:46