蘇威

蘇威 そい

534-621
隋の宰相(在任589-592、601-607)。京兆・武功(陝西省興兵県)の人。字は無畏。父は西魏の名臣蘇綽。幼い時に美陽県公を襲爵、郡の功曹となった。 時の独裁者宇文護に礼せられてその娘と結婚したが、禍をおそれ、北周一代を通じて実職につかなかった。周末、高熲の推挙で丞相楊堅(隋の文帝)に召されたが郷里に帰り、 その即位後はじめて太子少保兼納言となった。やがて大理卿・京兆尹・御史大夫を加えられて5職を兼領した。このため官職独占を弾劾されたが、帝は「蘇威なくしては自分は道を行なうことができない」といって信任を変えなかった。のち刑部・吏部・民部の各尚書を歴任し、尚書右僕射になった(589)。蘇威は公正清廉で、高熲とともに朝政に参与し、父の遺志をついで賦役軽減につとめ、律令格式の多くを創定してその能力を称せられた。しかし寛容さに欠け、その法規は細密にすぎ、自分にさからう者を憎んだので、反対者も多かった。江南の貴族主義をおさえるために地方官をすっかり変え、また「五教」をつくって民に強制的に唱えさせたので、旧陳一帯に反乱が起こった。新楽制定問題をきっかけに何妥に朋党関係を弾劾されて免官され、601 (仁寿1)年右僕射に復したが、煬帝の時代に、高熲らに連座して再免、その後、納言として朝政に参与、高句麗遠征には大将軍として従軍したが、内乱に言及して除名された。帝の没後は宇文化及李密王世充ら群雄のもとで転々として余命を保つだけで、唐が王世充平定後郷里で没した。子に蘇夔が、孫に蘇勗・蘇亶、曾孫に蘇幹中宗殤帝睿宗の宰相蘇瓌がいる。『隋書』『北史」に伝がある。

列伝

『隋書』巻四十一 列伝第六 蘇威
『北史』巻六十三 列伝第五十一 蘇綽 子威

参考文献

『アジア歴史事典5』(平凡社、1960年)

外部リンク

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』蘇威https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E5%A8%81

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最終更新:2025年10月23日 12:38
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