唐書巻一百九
列伝第三十四
崔義玄 神基 神慶 琳 楊再思 季昭 竇懐貞 兢 宗楚客 晋卿 紀処訥 祝欽明 郭山惲 王璵
崔義玄は、貝州武城県の人である。隋の大業年間(605-618)の乱で、
李密に会いに行ったが、李密は用いなかった。河内の賊である
黄君漢が李密のために柏崖を守備していたが、崔義玄は鼠の群れが河を渡るのを見て、矛の刃に花の文様があった。「これは王敦(東晋の権臣)が滅んだ前兆だ」と言い、そこで黄君漢を説得して城ごと帰順し、黄君漢は懐州刺史・行軍総管を拝命し、崔義玄を司馬とした。
王世充が
高毘を率いて河内に侵攻したが、崔義玄は攻撃してこれを逃走させ、多くが陣地で降伏した。黄君漢は掠奪した子女・金帛を分け与えようとしたが、拒んで受け取らなかった。戦功によって清丘県公に封ぜられた。
太宗が王世充を討伐すると、しばしば崔義玄の謀を用いた。東都が平定されると、隰州都督府長史に転任した。貞観年間(623-649)初頭、左司郎中、兼
韓王府長史に任じられ、韓王友の孟神慶とは考えが同じではなかったが、共に助け合って任にあたった。
永徽年間(650-655)、累進して婺州刺史となった。当時、睦州の女子の
陳碩真が挙兵して叛いた。それより以前、陳碩真は自ら仙界に去ると言い、郷里や隣里と別れの挨拶をしたが、ある者がその詐りを密告したから、後に捕縛された。詔があって釈放されて罪は不問とされた。ここに婚姻関係のある章叔胤が妄言して、陳碩真が天から帰ってきて、化して男子となり、よく鬼や物を使役でき、次第には熒惑(火星)も使役できると言って、これによって大衆を惑わした。自ら文佳皇帝と称し、章叔胤を僕射(宰相)とし、睦州を破り、歙州を攻撃して滅ぼした。その党を分遣して婺州を包囲した。崔義玄は兵を発して防衛したが、兵の中には陳碩真には神霊があり、その兵に手を出せばたちまちに一族が滅ぶと言い立てた者がいて、軍は恐れて崔義玄に用いられることをよしとしなかった。司功参軍の
崔玄籍は「奴らは天命によって挙兵したというはずなのに、それでも成し遂げられていないではないか。これは人をたぶらかしているだけで、奴らの勢力は長くはないぞ」と言ったから、崔義玄はそこで崔玄籍を先鋒に任命して、自らは軍を率いて後続となった。淮戍(浙江省桐廬県)を降して、その間諜数十人を捕虜とした。星が賊の陣営に落ちると、崔義玄は「賊は必ず滅ぶ」と言い、翌朝攻撃に出ると、左右の者が盾で防ごうとしたが、崔義玄は、「刺史だって避けたいのだ。誰が死ぬのをよしとしようか」と言い、命じて去らせた。これによって軍は奮起し、斬首は数百級、降伏したのは一万以上を数えた。賊が平定されると、御史大夫を拝命した。
崔義玄は儒教経典解釈の学問をし、先儒の疑問点や誤り、または音が通じないものがあれば、たちまち諸家の説を採用し、条をわけて節を解読し、正すことができた。
高宗は詔して博士とともに五経の義を討論させた。
武氏が皇后となると、崔義玄は
帝の決定に賛同し、また
武后の意によって
長孫无忌等らを取り調べて誅殺した。蒲州刺史の官で終わり、年七十一歳であった。幽州都督を追贈し、諡を貞という。武后が政権を掌握すると、揚州大都督を追贈され、その家に実封戸二百を賜った。
崔神基は、長寿年間(692-694)、司賓卿・同鳳閣鸞台平章事(宰相)となった。
酷吏に標的にされ、嶺南に流された。
中宗が即位した当初、しばらくして用いられて大理卿となった。
弟の
崔神慶は、明経科に貢挙し、
武后の時、累進して莱州刺史となった。朝廷に入って、億歳殿にて待制となり、政治について奏上したことは武后の心にかなった。武后は崔神慶が官を歴任して優れた政治をみせ、またその
父が武后に対して功績があったから、抜擢して并州長史に任じ、「并州は、朕の故郷で、駐屯する兵も多く、前の長史たちは全員尚書となった。今、卿に授けるから、重用している理由を理解しなさい」と言い、そこで自ら行くときの地図を手配し、日を選んで送り出した。崔神慶がはじめて到着すると、詔によって銭幣の法を改め、州県に布告したが、にわかに物価が高騰し、多くの商人が驚き心配したから、崔神慶はそれが朝廷にせいではないと突き止め、果して狡猾な牽制者が勝手に行なったことがわかった。武后は喜び、制書を下してお褒めの言葉を賜った。それより以前、并州は汾州と隔てて東・西二城となっていたが、崔神慶は水路を跨いで堀を連ね、合せて一つにし、防禦の兵を毎年数千人省いた。兄の
崔神基が下獄すると、急いで都に赴いて変事を報告し、召見されることが出来たが、武后は詳細に告発書を出してきて示した。崔神慶は理で説明したから、死罪を減刑することができたが、これによって歙州司馬に貶された。
長安年間(701-705)、累進して礼部侍郎に転任し、しばしば上疏して時の政治の意見を述べた。太子右庶子に転任し、魏県子に封ぜられた。この時、突厥の使者が入見してきて、
皇太子を朝廷に参加させるべく、役人が東宮に移書を送って太子を呼び寄せた。崔神慶は諌めて、「五品以上が亀袋を帯びるのは、思うに徴召の詐りを避けるためで、内に亀を出してこれによって合わせるのです。ましてや太子を呼び出すのにはどうでしょうか。古は太子を召し出すのに玉契を用いましたが、これは本当に注意深く、禍いの芽を摘み取るの意味で、考えなくてはなりません。だいたい事を禍が芽生える前に考えるので、だから長じても吉凶禍福の兆しの咎がないのです。今、太子は陛下と宮殿を異にしていますが、朝朔望日に朝廷で会わなければ別に呼ばれることはありません。墨敕・玉契を下されますように」と述べて、詔によって裁可された。ついで詔によって詹事の
祝欽明とともに交替で東宮侍読となった。司刑卿を経て、
張昌宗の獄を弾劾したが、非常に粗略で尽力しなかった。神龍年間(707-710)初頭、張昌宗が誅殺されると、連座して欽州に流されて、卒した。五王(
崔玄暐・
張柬之・
敬暉・
桓彦範・
袁恕己)が有罪となると、張昌宗の縁者で流刑にされた者は全員詔によって元通りとなり、崔神慶に幽州都督を追贈した。
崔神慶の子の
崔琳は、政事に明るく、開元年間(713-741)、
高仲舒とともに同じく中書舎人となった。侍中の
宋璟が親しく礼し、尋ねるたびに「古い事は仲舒に尋ね、今の事は琳に尋ねるのなら、何を疑うことがあろうか」と言っていた。累進して太子少保に遷った。天宝二年(743)卒し、秘書監の
潘粛がこのことを聞いて、涙を流して「古の高貴な美徳を持つ人であった」と言った。崔琳の長子の崔儼は、諌議大夫となった。
崔琳に群れ従う者は数十人で、
興寧里から
大明宮を謁し、貴人の冠や馬車の覆い、馬の使い走りが互いに望み見る有り様であった。毎年家で宴し、一つの榻(いす)の上に笏を置き、重ねてその上に積んでいた。崔琳は弟での
崔珪・光禄卿の
崔瑤とともに儀礼用の鉾を並べるほどに高貴な身分となり、世間では「三戟の崔家」と号した。開元・天宝年間(713-756)、内外の宗属で緦麻(高祖父母、妻の父母のために三か月の最も軽い喪)の喪に服すものはいなかった。それより以前、
玄宗は宰相を任命するごとに、すべてまずその名を書いていたが、ある日崔琳らの名を書いて、黄金の甕で隠すと、ちょうどその時、
太子が入ってきたから、
帝は「ここに宰相の名が書いてある。お前が選ぶのなら誰になるだろうか。的中したら、酒を賜おう」と言ったから、太子は「崔琳・
盧従愿なんかではありますまいな」と言うと、帝は「そうだ」と言い、太子に酒を賜った。当時、二人は宰相として有望であり、帝は宰相にしたいと思ったことは何度もあったが、一族が強大で、付き従う者が多いことを恐れ、ついに用いなかった。
楊再思は、鄭州原武県の人で、明経化に及第し、人となりは陰険で賢かった。はじめ玄武県の尉となり、使者として京師に来て、宿屋に宿泊すると、盗賊が衣服や袋を窺っていたが、楊再思とばったり会ってしまい、盗賊は苦渋により謝罪した。楊再思は、「貧しさに苦しんでいるから、こんなことになっているのだ。袋の中の手紙に手をつけず、そのまま元通りにしてくれ。他の物は持ち去っても構わない」と言った。そのことは誰にもいわず、ただ路銀を借りて帰った。累進して天官員外郎となり、左粛政御史中丞に任じられた。延載年間初頭(694)、鸞台侍郎・同鳳閣鸞台章事(宰相)に抜擢された。兼左粛政御史大夫の職を加えられ、鄭県侯に封ぜられた。さらに内史(宰相)に遷った。
宰相の地位にあること十年以上、人に取り入って喜ばせたが、優れた人材を推薦することはなかった。皇帝が嫌えば、その人物の悪口を言い、褒めるとその人物を誉めた。謹んでうやうやしく、今まで人と争ったことがなかった。ある者が、「公の位は尊いのに、どうして自ら恭しくなさるのか」と尋ねると、「世の中を渡っていくのはつらく苦しく、真っ直ぐな者は最初に禍を受ける。そうでなければ、どうして我が身を全うできようか」と答えた。この当時、水の気が悪く、坊門を閉じてお祓いをした。楊再思が入朝しようとすると、前の車が泥濘にはまり、牛を叱っても前に進まなかった。車の人が腹を立てて、「馬鹿な宰相が陰陽を和することができず、坊門を閉じているから、私が行くことを難しくさせている」と言っていたから、楊再思は役人を派遣して、「お前の牛が勝手に衰えただけであって、宰相一人の責任とはできない」と言わせた。
張昌宗が罪とされ、司刑少卿の
桓彦範が弾劾して張昌宗の官職を罷免しようとしたから、張昌宗は朝廷に訴え、
武后は張昌宗を無罪とするよう意向を示し、宰相に「張昌宗は国家に功績があるか」と尋ねると、楊再思は「張昌宗は陛下のために薬をつくり、服用させて快癒しました。これによって功績があります」と答えたから、武后は喜び、張昌宗を官に戻した。これより天下は桓彦範を尊んで、楊再思を卑しいものだとした。左補闕の
戴令言が「両脚の狐」を賦して謗ると、楊再思は怒り、戴令言を貶して長社県令としたから、士はますます馬鹿にして騒ぎ立てた。
張易之の兄である司礼少卿の
張同休は、公卿とその役所で宴会をし、宴が酣になると、「公の顔は高麗に似ている」とふざけたから、楊再思は喜び、絹を切って巾の上に綴り、紫袍を裏返しにして、高麗舞を踊り、動きは節に合わせると、満座から卑しい笑いがおこった。
張昌宗が容貌によって主君のお気に入りとなったから、楊再思は度あるごとに「人々は六郎(張昌宗)が蓮の花に似ていると言いますが、そうではありません。蓮の花が六郎に似ているだけなのです」と言い、その諂いに巧みで、厚顔無恥なようすはこの通りであった。にわかに検校右庶子となった。
中宗が即位すると、戸部尚書・同中書門下三品(宰相)・京師留守を拝命し、弘農郡公に封ぜられ、兼揚州長史、検校中書令の職を加えられた。侍中に改められ、鄭国公に改封され、実封戸三百を賜り、
順天皇后奉冊使となった。
武三思が
王同晈を誣告して陥れると、楊再思は
李嶠・
韋巨源とともに取り調べを行い、迎合して王同晈を死罪とし、多くの者がこれを冤罪だと思った。再び中書令、監修国史を拝命した。尚書右僕射に遷り、そこで同三品(宰相)となった。卒すると、特進・并州大都督を追贈され、
乾陵に陪葬され、諡を恭という。
弟の
楊季昭は、茂才異行科に及第し、殿中侍御史となった。
武后が駙馬都尉の
薛紹を誅殺すると、薛紹の兄の
薛顗が斉州刺史となっており、楊季昭に命じて取り調べをさせたが、謀反の証拠を得られなかったから、武后は怒り、沙州に飛ばされた。赦免されて帰還し、懐州司馬となった。
竇懐貞は、字は従一で、左相の
竇徳玄の子である。若くして言動が異常に過激で、衣服は簡易かつ質朴で、輿や馬といった豪侈な事をしなかった。仕えて清河県令となり、優れた統治ぶりを報告された。後に越州都督・揚州長史に遷った。
神龍年間(707-710)、左御史大夫兼検校雍州長史に昇進した。その年任命され、
中宗が夜に近臣と宴会し、「聞けば卿は妻を喪ったとか。今、後添えは欲しくないか」と尋ねると、竇懐貞は言われるままに返答した。すると突然禁中に宝扇・衝立が運ばれ、翟衣(后妃命婦の最高位の礼服)を着た者が出てきて、これが
韋后の乳母の王氏で、いわゆる莒国夫人なる者であり、もとは蛮の婢であった。竇懐貞は納れて辞退しなかった。また韋后の父の諱を避けて、字によって世間に通行した。世間では乳母の婿を阿㸙といい、竇懐貞は謁見・奏請するごとに、自ら「皇后の阿㸙」と署名し、ある者が「国㸙」と言うと、笑って恥じる様子はなく、これによって自ら韋后に媚びた。当時、赤県の尉は墨制によって御史を授けられる者が多かったから、ある者がふざけて、「尉から御史台に入る者が多いが、県は役に立つのか」と言うと、「いつかは役に立つだろう」と答えた。その理由を尋ねると、「優れた役人がいると幸運が去ってしまうから、だから役に立つのさ」と答えたから、聞く者は皆笑った。また
宗楚客・
安楽公主らに従って高い地位を得たが、会議では斥けられて、名声のみ高かった。韋后が失脚すると、妻を斬ってその首を献上したが、濠州司馬に貶され、再び益州長史に遷り、名誉は元通りとなった。
景雲年間(710-712)初頭、殿中監となって召還され、ひと月して左御史大夫・同中書門下平章事(宰相)に遷り、中山県公に封ぜられた。再び侍中に遷った。当時、
太平公主が政治に干渉し、竇懐貞は全身全霊で付き従い、毎日政務が終わって退廷すると、ただちに
公主の邸宅に赴いて、公主が求めているものを探った。
睿宗が
金仙公主・
玉真公主の二公主のために道観を建立し、巨万を費やし、諌める者が行き来して止むことがなかったが、ただ竇懐貞のみ完成を勧め、工事の監視役となった。族弟の
竇維鍌が諌めて、「公は宰相の位につき、役に立つことを進言し、そうでないことを止めさせるのを考えて天子を輔弼すべきであって、瓦や木材を計算したり、工匠の間を行ったり来たりして、全国にどうして尊敬の念を集めることができましょうか」と言ったが、答えず、営繕の監督はますます厳しくした。当時の人々は「以前は
皇后の国㸙であったが、後で
公主の邑丞となった」と語り、公主に仕える様子がまるで邑の役人であるかのようであったからである。宰相の位にあること半年、何もすることがなく、
帝は
承天門に引見して、厳しく責め立てた。突然、
李日知・
郭元振・
張説と一緒に全員罷免された。左御史大夫となった。この時、太歳が左執法(おとめ座)を犯したから、占い師が竇懐貞に向かって禍があるだろうと言ったため、大いに恐れ、上表して
安国寺の奴となるよう願ったが、許されなかった。翌年、再び同中書門下三品(宰相)、兼太子詹事、監修国史となった。また尚書右僕射によって兼御史大夫、軍国重事宜共平章となった。
玄宗が帝位を譲られると、左僕射に昇進し、魏国公に封ぜられた。
太平公主とともに謀反を企て、失敗すると身を投じて水死し、追ってその死体を誅し、姓を毒氏に改めた。しかし平生受けた俸禄は、すべて親族に与えて蓄えることがなく、失脚した時、家にはただ粗米数石があるだけであった。
性格はへつらって人を欺き、よく権勢者と打ち解けて結びついた。宦官に仕えることは、最も恐れはばかるかのようで、ある時髭がない者を見て、間違って礼を行なった。監察御史の
魏伝弓が宦官の輔信義を憎んで、その悪事を弾劾・奏上しようとしたが、竇懐貞は、「この者は
安楽公主が信任する者であって、どうして捕縛しようとするのか」と言うと、魏伝弓は「帝王の決まり事を壊すからで、正しくこの者を罪とするのです。今日殺すか、明日誅殺するかすれば、後悔することはありません」と答えたが、竇懐貞はそれでも厳しく止めさせた。魏伝弓は、鉅鹿の人で、忠誠正直の人であり、司農丞で終わった。
竇懐貞の従子の
竇兢は、字は思慎で、明経科に貢挙し、
英王府参軍・尚乗直長となった。郪県令に任命され、駅伝の宿舎・道路を修造し、冠婚喪紀法を設定し、民衆は恩義に感じた。
宗楚客は、字は叔敖で、その先祖は南陽の人である。曽祖父の宗丕は、後梁の南弘農太守で、梁が滅ぶと隋に入り、河東の汾陰に住み、そのため蒲州の人となった。父の
宗岌は、魏王
李泰の府に仕え、
謝偃らとともに『括地志』を撰述した。
宗楚客は、
武后の従姉の子で、身長は六尺八寸(約204cm)、頭脳明晰で髭が美しかった。進士に及第すると、累進して戸部侍郎となった。兄の
宗秦客は、垂拱年間(685-688)、武后に革命を勧め、昇進して内史(宰相)となり、弟の
宗晋卿は羽林の兵を司った。後に兄弟が全員収賄で有罪となって嶺外に流罪となった。一年ほどして、宗秦客が死に、宗楚客らは帰還した。にわかに検校夏官侍郎・同鳳閣鸞台平章事(宰相)となった。
武懿宗と折り合いが悪く、ちょうどその時、将作と材を賜って邸宅を営造したが、過度に奢侈であったから、武懿宗に弾劾され、文昌左丞から播州司馬に貶され、宗晋卿も峯州に流された。しばらくして豫州長史となり、少府少監・岐州・陝州の二州の刺史に遷った。しばらくして、再び夏官侍郎によって同鳳閣鸞台平章事(宰相)となった。
邵王の妓女を娶った罪で、原州都督に貶された。
神龍年間(707-710)初頭、太僕卿・郢国公となった。
武三思に引き入れられて兵部尚書となり、
宗晋卿を将作大匠とした。
節愍太子が敗れると、鄠州に逃れ、殺され、その首を切り離して武三思らの棺に祭ったが、宗楚客が願い出たことであった。にわかに同中書門下三品(宰相)となった。
韋后・
安楽公主が親しく頼りとし、
紀処訥とともに党派をつくり、世間では「宗紀」と号した。
景龍二年(708)、突厥の娑葛に詔して金河郡王としたが、娑葛の部下の闕啜忠節が宗楚客らに賄賂を贈って止めさせたから、娑葛は怒り、兵を率いて辺境の患いとなった。監察御史の
崔琬が朝廷に奏上して「宗楚客・
紀処訥が権力を専らにし、君子の心はなく、境外の交りを納めて、そのために国が怨みを抱かれるのです。宗晋卿は専ら賄賂に従って私的にし、おごりたかぶってほしいままに振る舞っています。二人とも収容して獄に下し、三司に取り調べさせるよう願います」と述べた。故事では、大臣が御史に向き合って弾劾されると、必ず走り出て、朝堂に立って処罰を待っていた。宗楚客は血相を変えて大声で「性格が忠誠剛直であっても、崔琬に無実のことでそしられる」と言ったから、
中宗は突き詰めることができず、詔して崔琬と宗楚客・紀処訥を義兄弟の盟約をさせて和解させたから、世間は
帝のことを「和事(紛争調停)の天子」と言った。ついで中書令に遷った。韋氏が敗れると、
宗晋卿とともに誅殺された。
宗楚客の性格は明朗快活であった。
武后の時、突厥の沓実力吐敦なる者が降伏し、その部落は平夏にあった。しばらくして辺境から書簡がやって来て、吐敦が叛いたと言ってきた。宗楚客は兵部員外郎となっており、武后は呼び寄せて方略を尋ねた。「吐敦は、臣は昔彼と語り合いましたが、その人となりは忠義和厚で、かつ国家に恩があり、必ず背くことはありません。その兄の子の黙子なる者は、狡悍で、吐敦と仲が悪く、今言叛いたと言ってきたは、黙子がしたことでしょうが、しかし何もできますまい」と答えた。にわかに夏州が、黙子が部落を掠奪して北に逃げ、夏州の兵および吐敦に捕らえられたと上表してきた。後に
張仁亶が三城(受降城)の築城を願い出た時、議者の意見はバラバラであったが、一人宗楚客のみは「万世に利する」と言った。しかし権利を犯し、かつて右補闕の
趙延禧を仄めかし、符命を申し上げて
帝に媚びた。「唐に天下があり、百年になってから周が継ぎました。陛下は
お母上の譲りを受けまして、周と唐を一統しましたが、その符兆は八つありました。
天皇が再び陛下を周王としたのは、これは唐にあって周をおこし、
則天が陛下を立てて皇太子としたのは、これは周の時代にあって唐が興隆するということで、第一なのです。
天后が文王廟を建立したのは、第二なのです。
唐同泰の「洛水図」に「永昌帝業」とあるのは、第三です。讖に「百代宗を移さず」とあるのは、第四です。孔子が「百世周を継ぐ」とあるのは、第五です。「桑条韋歌」に、「まさに二聖の在位九十八年にして、子孫相承九十八世たるべし」とあるのが、第六です。二月に慶雲五色が生じたのは、天が和に応じたもので、これは第七です。去る六月九日に内廷に瑞蒜が出たのは、第八です。
則天を第一世として、
聖朝を二世とし、後の子孫が相承すること九十八世で、その数はまさに百世に満つので、唐の暦数は三千年以上になろうとするでしょう」と述べたから、
帝は大いに喜び、趙延禧を諌議大夫に抜擢した。識者は宗楚客らのことを、神を欺き君主を誑かす者として、大罪があるものとした。またかつて密かにその党派に語って、「始め、私は卑しい身分にあって、一番宰相の位に憧れた。今この地位にあって、また天子の位を思うが、そんなものは南面して一日で充分なものだな」と言っていた。外面上は
韋氏に従っていたが、心の中では逆謀を蓄えており、だからついには失脚したのである。
宗晋卿は髭面で容貌は雄渾偉大で、声は鐘のようであった。不学であったが、しかし才気が衆人よりはるかにすぐれていた。垂拱年間(685-688)以後、
武后に任用され、宮殿・苑地・閑厩、内外多くの造作で監督しないものはなかった。中岳を開山し、
明堂を造り、九鼎を鋳造するのに力があった。
紀処訥は、秦州上邽県の人である。人となりは体躯が大きく、髭の長さは数尺もあった。その妻は
武三思の夫人の姉で、そのもとに遣わして武三思と通じ、これによって昵懇となり、昇進して太府卿となった。神龍元年(707)夏、大旱魃となり、穀物の価格が高騰し、
中宗は召喚して人々を救う方策を尋ねた。武三思はこのことを知って、密かに太史
迦葉志忠に仄めかして奏じ、「摂提(大角星の両側にあって、北斗七星の柄に当たる三星の名)が太微(天球上を三区画に分けた三垣の上垣。北斗七星より南、星宿・ 張宿・翼宿・軫宿より北)に入り、帝座(ヘルクレス座)に近づきました。これは天子が大臣と接し、忠義を納めるしるしなのです」と言わせた。
帝はこれを信じ、詔を下してお褒めの言葉を賜り、紀処訥に衣一副・綵六十段を賜った。
宗楚客とともに同三品(宰相)となり、侍中に昇進した。後に誅殺された。
祝欽明は、字は文思で、京兆始平県の人である。父の
祝綝は、字は叔良で、若くして経典に通暁し、非常に著作を書いて諸家の疑異をあらわした。門人の
張後胤が顕官となると、朝廷に推薦し、詔によって成績優秀で合格し、無極県の尉で終わった。
祝欽明は明経化に選ばれ、東台典儀となった。永淳・天授年間(682-692)、また英才傑出科・業奥六経科に合格し、著作郎を拝命し、太子率更令となった。
中宗が東宮であったとき、祝欽明は侍読を兼任し、太子に経典を教え、兼
弘文館学士となった。中宗が復位すると、国子祭酒・同中書門下三品(宰相)に抜擢された。礼部尚書に昇進し、魯国公に封ぜられ、食実封三百戸を得た。
桓彦範・
崔玄暐・
袁恕己・
敬暉らは全員祝欽明から『周礼』の正しい意味を学び、朝廷は祝欽明を尊んだ。親の忌日を秘匿したから、御史中丞の
蕭至忠に弾劾され、申州刺史に貶された。京師に入って国子祭酒となった。
景龍三年(709)、
天子は南郊の祀りを実施しようとし、祝欽明は国子司業の
郭山惲とともに密かに
韋后の意に迎合して、欺いて議して次のように述べた。
「『周礼』では「天神を祀といい、地祇を祭といい、宗廟を享という」とあります。大宗伯に、「大神を祀(まつ)り、大祇を祭り、大鬼を享(まつ)る(『周礼』大宗伯)」とありますように、王は理由があって関わらず、そこで摂祭して奉るのです。「追師は后の衣冠を掌る(『周礼』追師)」とあるのは、これによって祭祀の実施を待つのです。「内司服は后の六服を掌る(『周礼』内司服)」とあるのは、祭祀すればただちに供するのです。また九嬪は「すべて大祭祀は、后が裸(祖霊を祀る国の大祭)を献じ、美石の酒気をすすめる(『周礼』内宰)」とあります。だからこそ皇后は天子を助けて天神を祀り地祇を祭るべきなのです。鄭玄は「闕狄(王后の祭服)は、后が王を助けてもろもろの小祀を祭る服である(『周礼注疏』内司服 疏)」と述べており、小祀がなお助けとなるのなら、ましてや天地はどうでしょうか。闕狄の上、褘・褕狄(いずれも后の祭服)のあわせて三服は、すべてこれによって祭を助け、褘の衣は大祀を助けるのを知るのです。王の祭服は二つあり、「先王は袞冕、先公は鷩冕(『周礼注疏』内司服 疏)」とあり、そのため后が祭を助け、また褘衣によって先王を祭り、褕狄は先公を祭るのです。天地を祭るのを助けるとは言わず、これによって鄭玄の説を明らかにし、三例に背くのです。春秋外伝に「禘郊(天子が始祖と天神を祭祀する大典)では、天子が自ら犠牲の牛を射て、王后は自らお供えの餅を臼つく」とあり、世婦は后に礼の事を詔して、もっぱら宗廟に主とはしません。祭統に「祭というものは、必ず夫婦で自ら行うべきものであり、従って男女の職分を夫婦で受け持つのである(『礼記』祭統)」とあり、哀公が孔子に「礼官礼服で迎えにゆくとは、丁寧すぎるのではないか」と尋ねると、「婚礼によって二つの家が友好の仲となり、その上で君主は先祖の業を継ぎ、天地・宗廟・社稷のあるじともなることができるのです。どうしてわが君はそれを丁寧すぎるのではないか、と仰せられますか(『礼記』哀公問)」と答えましたが、これによって后が祭を助けるべきなのを知るのです。臣に経典の意味によって、儀典を定めさせてください。」
帝は聡明ではなかったとはいえ、それでもなお疑いをもち、礼官を召集して質問した。太常博士の
唐紹・
蒋欽緒が「祝欽明が引用した部分は、すべて宗廟の礼であって、天地を祭る礼ではありません。周・隋より以前も、皇后が祭祀を助けることはありませんでした」と答えた。帝は宰相に命じて自分たちの意見を参照して訂正させ、唐紹・祝欽緒はまた博士の
彭景直を引き連れて共に以下のように議した。
「『周礼』に言うところの祀・祭・享は、すべて互いに補完し合っています。典瑞には「両圭によって地を祀る(『周礼』典瑞)」とあり、司几筵には「祀を設けて先王は宴席に酔う(『周礼』司几筵)」とあり、内宗に「宗廟の祭祀を掌る(『周礼』内宗)」とあり、伝に「聖人のみが天帝に饗(すす)めることができ(『礼記』祭義)」「春夏秋冬の祭祀には、季節の供物を供えて父母を思慕してやまない(『孝経』喪親章)」とあり、これは天を祀るのを享をいい、廟を享るのを祭というのである。礼家がだいたい大祭祀というのは、天を掌るのみではないのです。鬱人に「大祭祀では、量人とともに玉杯を受けて返杯をさしあげて終わる(『周礼』肆師)」とあり、天を祭って裸(祖霊を祀る国の大祭)せず、そこで九嬪は美石の玉器をすすめ、廟を飾り付けするのを大祭祀というのです。祝欽明は大宗伯の職によって、后が天地の礼を祭ると言っています。経典を調べてみますと、「すべての大神を祀り、大祇を祭り、大鬼を享る。執事を率いて日時を占い、浄濯を行い、玉鬯を用意し、生贄と鼎を検査し、玉の盛り器を奉じ、大号令を発し、大きな儀式を整え、王とその大儀式を行う。もし王が祭祀に参加しない場合は、その代理が実施する(『周礼』大宗伯)」とあり、これによって推測すれば、天地宗廟を祭ることを言っているのです。他には「すべての大祭祀は、王后は関与せず、ただ摂祭によって執り行うのである(『周礼』大宗伯)」とあり、王后の祭廟についてはおおむねそうなのです。もし天地を祭るのを助けるのなら、すべてを重ねて列するべきではないのです。また内宗・外宗の職掌は、いずれも王后をたすけて廟に奉るのであって、天地を祭るのをたすけるという語はありません。もしこのように天地を祭るのを助けるのでしたら、誰が補助すべきなのでしょうか。これは摂祭によって宗廟を行うことは非常に明らかなのです。内司服は后の祭服を司り、天服を祭ることはありません。礼家の説には「后は天地五岳を祭るのを助けず、そのための服はない」と言い、また「后に五輅(五種類の車)があり、重翟(后の車)によって先王・先公の祭りに従いを、厭翟にて諸侯を饗するのに従い、安車によって朝夕王にまみえ、翟車によって桑を取り、輦車によって遊宴する」と言っており、このことを調べてみますと、后に祭天の車がないのは明白です。しかし后は王が天地を祭るのに従うなんてことは、古から聞いたことがありません。」
当時、左僕射の
韋巨源が
韋后を助けて
帝に掣肘を加えており、政治の実権を奪い、そこで祝欽明の議を助けると、帝は果たしてその発言を用いるようになり、これによって韋后を亜献とした。大臣の
李嶠らの娘を奉って斎娘の採用をし、供物を奉った。礼が終わると、詔して斎娘で夫がいる者をことごとく昇進させた。
それより以前、
韋后の一族と結婚し、禁中に食を献じ、
帝は群臣とともに宴すると、祝欽明は自ら八風舞ができると言ったから、帝は許可した。祝欽明の身体は醜く肥り、地によって頭を揺らして目玉が飛び出、左右を振り返ってみると、帝は大笑した。吏部侍郎の
盧蔵用が「こんなことをして五経は地に堕ちたな」と歎いた。景雲年間(710-712)初頭、侍御史の
倪若水は弾劾奏上して、「祝欽明・
郭山惲らは腐儒で行いがなく、諂いによってこれまでのことを乱して改作し、百王が伝えてきたものが、一朝で堕落してしまいました。今聖徳は中興なされましたが、小人を用いることは朝廷にとってよくないことで、遠くに斥けられ、人臣を引き締めることを願います」と述べ、そこで祝欽明を饒州刺史に、郭山惲を括州刺史に貶した。祝欽明は五経に該博であったが、自ら不孝によって罪とされて罷免され、このことを弁明することもなく、韋氏に追従し、再任用を図ったが、また韋氏に連座して逐われたから、諸儒は恥とした。後に洪州都督に移され、京師に入って崇文館学士となり、卒した。
郭山惲は、河東の人である。よく礼を治めた。景龍年間(707-710)、累進して国子司業となった。
帝が近臣および修文学士で親しい間での宴会をし、詔して全員を伎させた。工部尚書の
張錫は「談容娘舞」をし、将作大匠の
宗晋卿は「渾脱舞」をし、左衛将軍の
張洽は「黄麞舞」をし、給事中の李行言は「駕車西河曲」を歌い、ほかの臣はそれぞれ述べるところがあったが、皆軽薄であると侮蔑していた。しかし郭山惲が「習ったことがないので、ただ知っている詩を読みます」と言い、そこで誦「鹿鳴」(『詩』小雅 鹿鳴)と「蟋蟀」(『詩』国風 蟋蟀)の二篇を読み、まだ読み終わる前に、中書令の
李嶠が諷刺していることを知って、止めさせた。帝はその剛直さを喜び、詔を下したお褒めになり、時服一揃えを賜った。その後、
祝欽明とともに曲論によって世に阿諛し、その身を守って終わることができなかった。しばらくして再度国子司業を拝命した。
賛にいわく、
祝欽明は経典を
中宗に講義し、朝廷の大儒となり、そこで聖人の教えを偽って儒教の説とし、美しい妻を引き連れて郊祀で上帝に見え、汚らわしさがちらほら聞こえ、祖廟の祀りは終わることはなかった。思うに孔子が誅殺した少正卯は邪なのに従ってなめらかであり、荘周(荘子)は儒者のことを『詩経』を口ずさみ礼のきまりをふりかざしながら、墓の盗掘を行なっている者と同等であるとした。ただ要領を保って家で死ぬのは、どうして不幸であるといえようか。後世、儒に託して悪巧みをしようとする者は、多少の戒めとすべきであろう。
王璵は、王方慶の六世の孫で、若くして家学の礼を学んだ。
玄宗の在位は長く、老子の道を推し崇め、神仙の事を好み、広く祠祭をおさめ、神とあらば祈らないことはなかった。王璵は上言して、東郊に壇を築いて青帝を祀ることを願い、天子はその言を受け入れ、太常博士・侍御史に抜擢し、祠祭使とした。王璵は専ら祭祀によって
帝の意を当て解き、禊ぎ祓いすることがあっても、大抵は占い師やまじない師のような類であった。漢以来、葬儀では皆銭を埋めることがあり、後世田舎ではしばらく紙を銭に見立ててあの世のことを行なったが、ここに王璵はこれを採用したのであった。
粛宗が即位すると、累進して太常卿に遷り、また祭祀・祈祷によって寵遇された。乾元三年(760)、蒲・同・絳等州節度使を拝命し、にわかに中書侍郎によって同中書門下平章事(宰相)となった。当時、大乱の後で、天下は治世の時代を願っていたが、王璵の人望は薄く、他に才学はなく、議論となると何もできずにただふざけるばかりで、にわかに宰相となると、内外の者は非常にがっかりした。そこで奏上して太一壇を設置し、
帝に自ら九宮祠に行くよう勧めた。帝はこれによって思い通りとなり、他の宰相は権力を奪うことができなかった。帝が不予となると、太卜は山川の祟りがあると建言した。王璵は巫女を派遣して駅伝に乗せて分派して天下の名山・大川に祈らせ、巫女は全員服を着飾り、宦官が護衛を担当し、至るところの道や州県で、賄賂や狼藉をした。当時、一人の巫女が美しさによって人を惑わし、悪少年数十人を自らに従わせ、最も悪巧みをして不法を行なった。馳せて黄州に入ると、刺史の左震が朝に宿所にやって来て陳情したが、門の鍵は開かなかった。左震は怒り、鍵を毀して入り、巫女を捕らえて役所で斬り、従っていた悪少年を全員誅殺し、その不正財産を没収して十万銭以上を得て、そこで宦官を帰還させた。この報告が上奏されたが、王璵は問い詰めることができず、帝もまた罪を加えなかった。翌年、王璵の宰相職を罷免して刑部尚書とし、また京師から出して淮南節度使となったが、なおも祠祭使は兼任し、浙東節度使に遷った。召喚されて京師に入り、再び太子少師に遷った。卒すると、開府儀同三司を追贈され、諡を簡懐という。
それより以前、王璵は鬼神に託して位は将軍・宰相にまで至り、当時、左道によって昇進する者が入り乱れて出現した。
李国禎なる者は、術士として名が顕れ、広徳年間(763-764)初頭、建言して、「唐の帝室は仙人の家系で、崇めて些細な福徳をあらわし、神霊を招致すべきです。昭応県の南山に天華上宮・露台・大地婆父祠をつくり、三皇・道君・太古天皇・中古伏羲・女媧らを合祀してそれぞれを立派にし、百戸を給付して掃除なされますように」と申し述べた。また義扶谷のもと湿地であったところに龍を祠り、建物を設置するよう述べた。詔があって建言に従ったが、そこで地を掃き清め、工役を課したが、ちょうどその年は飢饉となっており、人々は命令に堪えることができなかった。昭応県令の
梁鎮が上疏して厳しく諌め、七つの不可があると上奏し、「天地の神を最上級に尊ぶには、地を掃き祭るべきで、心を砕いて享(まつ)るべきです。今、先王のお決めになったことを廃されて、人のために福を祈ろうとしていますが、福は来る前に人々はすでに困窮しています。また神の意志に違い人を虐げるのでは、どうしてこれによって福がやって来るのでしょうか。宗廟ではひと月に三祭の礼がありませんが、そのままにしておいていいものではありません。大地婆父なる神は、経典に見ることができず、もし地に祖廟をお建てになるのなら、上天は必ず意向に背中を向けたことへの責めを残されるでしょう。湿地は、龍が住んでいるところですが、今湿地は枯れてから久しく、龍はどうしてここにいるというのでしょうか。龍が去った穴を崇め、生きる人の産業を破壊すべきではありません。三皇・五帝・道君らには両京(長安・洛陽)および都にそれぞれの宮廟があり、春と秋に祭礼を行なっていますが、ここにまた営造すれば、これは神を冒涜しているというべきでしょう。そもそも禍福・吉祥の根本は礼節を守るうえでの大切な貌・言・視・聴・思の五事にあるのであって、山川・百神にあるのではないことは明らかです」と述べた。そこで李国禎らを弾劾して、「李国禎らは民衆を動せば人を得て、工事をおこせば利を獲て、祭祀をすればお供えを受けとり、自分のやり方に固執して権力を市井にふるっています。迷惑欺瞞の様は天に聞こえ、神饌を運び入れてはその往復は道路で互いに見合うほどで、一時として休むことはありません。人々と神々は互いに怨み合い、災害はともにやってくるのです。臣は先だってご命令をお受けしましたが、安定和睦するところは、陛下が臨時の処置をお許しになることにあります。今造作を起こされるところを、臣は謹んで便宜によってすべて停められますよう願うところです」と述べた。
帝はこの意見に従った。梁鎮は悪しき風潮を怒り嘆くことで有名な人物となり、仕えて司門郎中となった。王璵の曽孫の
王摶には別に
伝がある。
最終更新:2025年10月19日 17:15