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差別や人を笑いものにするは行為は一人でやっても楽しくない。
叩きや笑いものにすることで得られる幸福感は、賛同者が増えるときほぼノーコストで幸福感がコピーされ幸福感の総量が増量される。
賛同者が増えれば、自分たちの行為は正しいという説得力ある理論が増えていき、参加者が多いということ事体が自分たちの行為は正しいのだという確信を助長し視点にもバイアスがかかる。
経済学やマーケティングでいうところの電話やソフトウェアの普及と同じ構造が存在する。
電話は普及台数1台では何の役にも立たないがたくさん普及すれば一人頭の便益は増加する。
差別や人を笑いものにして楽しむ行為は普及すればするほど、参加者一人頭の幸福感も参加者増加スピードも増量する。
差別の布教コストも差別普及率が上がれば低下していく。
そして人を馬鹿にして楽しむための伝道コストは、技術開発つまり馬鹿にして楽しむための新しい理屈の開発によってどんどん低下していく。
差別をしている人たちは幸福感の中にいる。
差別される人の不幸の総量はあまり増加しない。
幸福感は増加し不幸の総量はあまり増加しない。
天秤は幸福感に偏るよって差別は正しい。
差別反対とはこの正しいものを叩きのめすんだから工夫がいる。
差別はよくないという理屈をどう構築し、差別の普及速度に対抗するには次元の違う対策が必要となる。
教育や日々の議論などの遅々とした草の根運動から。
差別と同じ普及構造で、差別反対を普及しなくてはいけないわけであり。
差別反対と差別賛成は生存競争や市場でのシェア争いに似た様相を示すと思われる。
10歳までは知能遅れ。
10歳から25歳までは前頭側頭葉認知症。
25歳からは無能として人生を送った私はバカにされることが多いが。
小学校の頃の私を思い出せる範囲で思い出すと。
休み時間に集団でパンチやキックを食らっていたか皆からのけ者にされていた記憶が強くある。
しかし考えてみれば私をボコってた人たちは、ボコることによる幸福感を得ていたのだからあれはあれで正しかったのだ。
私一人の不幸の総量は多人数の幸福の総量よりも小さい。
天秤は幸福に傾いている。
集団暴行は正しい行為だったのだろう。
教師も黙認していたし、大人も現状を正しいと考えていたから放置していたのだと思う。
今現在私は障碍者手帳を申請できる身であるが、その部分を創価学会の方が笑いものにして楽しんでいる。
同じ町内の森本さんなど私を馬鹿にして楽しみ、そのバカにする行為を周囲に波及させることで楽しいという幸福感を増産している。
幸福感を増産しているのだから正しい行為なのだと思う。
私一人の不幸など発生している幸福感に比べれば非常に小さい。
貴方に問う。
幸福の増加速度が不幸の増加速度を上回り幸福の総量が多い私のようなケースにおいて。
私の論を否定することは、幸福になることはいけないことだという理屈を含むと思う。
幸福は人生の最終テーマではないのか?
それを否定して幸福の生産を中止すべきだと主張するかもしれない。
何故だろう?
私の価値観には倫理がない。
だから幸福の増加速度が不幸の増加速度を上回る場合、それを否定する理屈がない。
倫理を導入し、幸福のほうが不幸より多いからといってそれを実行すべきではない時がある事がわかる。
差別や人を笑いものにするは行為は一人でやっても楽しくない。
叩きや笑いものにすることで得られる幸福感は、賛同者が増えるときほぼノーコストで幸福感がコピーされ幸福感の総量が増量される。
賛同者が増えれば、自分たちの行為は正しいという説得力ある理論が増えていき、参加者が多いということ事体が自分たちの行為は正しいのだという確信を助長し視点にもバイアスがかかる。
経済学やマーケティングでいうところの電話やソフトウェアの普及と同じ構造が存在する。
電話は普及台数1台では何の役にも立たないがたくさん普及すれば一人頭の便益は増加する。
差別や人を笑いものにして楽しむ行為は普及すればするほど、参加者一人頭の幸福感も参加者増加スピードも増量する。
差別の布教コストも差別普及率が上がれば低下していく。
そして人を馬鹿にして楽しむための伝道コストは、技術開発つまり馬鹿にして楽しむための新しい理屈の開発によってどんどん低下していく。
差別をしている人たちは幸福感の中にいる。
差別される人の不幸の総量はあまり増加しない。
幸福感は増加し不幸の総量はあまり増加しない。
天秤は幸福感に偏るよって差別は正しい。
差別反対とはこの正しいものを叩きのめすんだから工夫がいる。
差別はよくないという理屈をどう構築し、差別の普及速度に対抗するには次元の違う対策が必要となる。
教育や日々の議論などの遅々とした草の根運動から。
差別と同じ普及構造で、差別反対を普及しなくてはいけないわけであり。
差別反対と差別賛成は生存競争や市場でのシェア争いに似た様相を示すと思われる。
10歳までは知能遅れ。
10歳から25歳までは前頭側頭葉認知症。
25歳からは無能として人生を送った私はバカにされることが多いが。
小学校の頃の私を思い出せる範囲で思い出すと。
休み時間に集団でパンチやキックを食らっていたか皆からのけ者にされていた記憶が強くある。
しかし考えてみれば私をボコってた人たちは、ボコることによる幸福感を得ていたのだからあれはあれで正しかったのだ。
私一人の不幸の総量は多人数の幸福の総量よりも小さい。
天秤は幸福に傾いている。
集団暴行は正しい行為だったのだろう。
教師も黙認していたし、大人も現状を正しいと考えていたから放置していたのだと思う。
今現在私は障碍者手帳を申請できる身であるが、その部分を創価学会の方が笑いものにして楽しんでいる。
同じ町内の森本さんなど私を馬鹿にして楽しみ、そのバカにする行為を周囲に波及させることで楽しいという幸福感を増産している。
幸福感を増産しているのだから正しい行為なのだと思う。
私一人の不幸など発生している幸福感に比べれば非常に小さい。
貴方に問う。
幸福の増加速度が不幸の増加速度を上回り幸福の総量が多い私のようなケースにおいて。
私の論を否定することは、幸福になることはいけないことだという理屈を含むと思う。
幸福は人生の最終テーマではないのか?
それを否定して幸福の生産を中止すべきだと主張するだろう。
貴方は自己矛盾に陥る。
幸福は人生の最終テーマだ。
しかし幸福を生産する行為がここにおいて否定される。
何故だろう?
話がおかしくなるのは私の価値観には倫理がないからだろう。
だから幸福の増加速度が不幸の増加速度を上回る場合、それを否定する理屈がない。
倫理を導入し、幸福のほうが不幸より多いからといってそれを実行すべきではない時がある事がわかる。