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魏の蜀討伐戦

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魏の蜀討伐戦

262年冬、鍾会は鎮西将軍・仮節都督関中諸軍事に任命された。
司馬昭は青・徐・兌*・豫・荊・揚州の諸州に船を建造させるとともに、唐咨に大型艦を作らせ呉に攻め込むように見せかけた。
263年秋、詔勅が下り蜀討伐作戦が行われることになった。
全軍の指揮は大将軍の司馬昭がとり、征西将軍の[登β]艾と雍州刺史の諸葛緒にそれぞれ諸軍三万人を率いさせた。
[登β]艾を沓中・甘松へ向かわせて姜維と全戦線に渡って対峙させる一方、諸葛緒には姜維の退路を断たせるため武街・橋頭へ向かわせた。鍾会は十余万の軍を率いて斜谷・駱谷通って漢中に向った。この時牙門将の許儀を先発させ道路を通じさせたが、橋に穴があいて鍾会の馬の足が落ちたため、許儀は処刑された。

漢中に入った鍾会は、蜀の護軍蒋斌の蜀軍五千が守る漢城を護軍の荀愷に、同じく監軍王含率いる五千が守る楽城を前将軍の李輔にそれぞれ一万人を与えて攻めさせ、自らはそのまま通り抜けて西方の陽安口に出て諸葛亮の祭祀を祀った。護軍の胡烈に関城(陽安関の城)を攻め破らせた。

一方の姜維は漢中に退却しようとしたが[登β]艾の命で先に甘松を押さえていた金城太守の楊欣らに彊川口まで追跡され合戦となって、姜維は敗走した。姜維はすでに諸葛緒によって帰路である橋頭が塞がれていることを聞き、孔函谷の北を通って迂回しようという形勢を見せた。諸葛緒はそれに吊られて戻り、姜維の軍はそこから引き返して橋頭を通過した。諸葛緒はさらに戻って追ったが間に合わなかった。
姜維は陰平で一度軍を集結させ、関城へ向かおうとしたがすでに落城していることを知り、白水で張翼・寥化らと合流して剣閣に入り、鍾会と対峙した。

姜維を追ってきた諸葛緒と白水で合流した鍾会は剣閣で姜維と対峙しつつ、剣閣の西から将軍の田章を江由へ向かわせた。田章は江由の手前で蜀の伏兵と遭遇してこれを破り、そこで[登β]艾と合流した。[登β]艾は上奏して、冬十月、姜維を追って陰平に至り間道を入って、そこから道無き道を七百里程進んで漢徳陽から江由に出ていたのであった。
蜀の守備隊長馬バクは降伏した。
蜀の衛将軍諸葛瞻は[登β]艾の動きを察してフ*から綿竹へ引き返し守備に当っていた。
最初諸葛瞻軍が優位にあったようだが、敗れ、諸葛瞻と尚書の張遵は首を切られた。

姜維は頑強に抵抗していたが諸葛瞻が敗れたことを知り、剣閣を捨てて東に走り巴に入った。
鍾会は対峙している間に諸葛緒を讒言して罪に落とし、囚人護送車で召還させると、その軍を吸収した。姜維が去るとフまで軍を進め、胡烈・田続・ホウ会に命じて姜維を追撃させた。

[登β]艾は軍を[各隹]に進めると、蜀の劉禅は使者を使わして玉璽と綬を捧げて降伏した。




《三国志鍾会伝》《三国志[登β]艾伝》
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