* 第5試合SSその2 #divid(SS_area){ ○茂木箍一郎 脳みそを模した枕に伏していた天然パーマの男がガバっと身をあげた。 全身にびっしょりと汗をかいている。 彼がいま見た夢には、五感とは異なる奇妙な感覚があった。 頭脳に直接書き込まれたような、奇妙な感覚。 クオリアで直接見た、直接触れた、直接聞いた、直接嗅いだ、直接味わったかのような感覚が、いまの夢にはあった。 また同じような夢を見、そこで誰かと戦うらしいことだけは覚えている。 圧倒的クオリア体験により、意識が混濁しているのだろう。と茂木は結論付ける。のっそりと身を起こし、ヘッドギアを被り脳波をはかる。また横になる。 今の夢を思い起こす。真っ白とも真っ黒とも言えない奇妙な地平に浮かぶ。五感ではない感覚でこの夢が真実だと分かる。 三日後の同時刻に現実とそっくりの夢の中で、敵と戦う。 この敵の名前は――思い出せない。そいつを倒すなりなんなりすれば勝ち、報酬として自在に夢を見ることができる。敗北すれば悪夢を見せられる、と。 「ここまで奇妙な夢を見るのは初めてです。薬物のやり過ぎですかね」 独り言を言う。しかし、厳密には独りではない。 ――茂木健一郎はみなさんご存じだろう。 彼は多重人格者"茂木"のうちで公的な役割を担う人格である。そのためテレビ出演や講演会を開く際には彼が表に出る。 他の人格は、女たらしの茂木姦一郎。水墨画を描く茂木デュ一郎。すべての人格を俯瞰する茂木メタ一郎。 いま現在の"茂木"の人格は、茂木箍一郎だ。 過ぎた行いを"タガの外れたような"というが、その暴走状態を司るのが、この茂木箍一郎である。 タガが外れない限りは、平均的な"茂木"と変わりない。 「あのクオリア体験、夢とはいえずいぶん生々しいものでしたね」 (夢?)(見たっけ?)(俺はまた食パンになっていたけど)(あー分かる、発酵感すごかったけどね君はまた)(ちりちり)(お腹すいてない?)(いつものカフェ行こうよ)(殺してー!)(やめなされ、無益な殺生はやめなされ)(ありがたいこと)(南無阿弥陀仏)(アハ!)(俺に脳みそを食わせろ)(今日は休講にして寺巡りをしましょう)(歌が歌いたい)(夢?)(ご飯ー!)(脳!)(アハ!)(総括すると、昨晩は研究に没頭していたため食事を忘れ、空腹状態が反映された夢を見たようです。普段の夢と大差なかったと思われますが、アハ!) 箍一郎は疑問に思う。 あの夢。クオリアの中に埋没する熱狂的な夢を見て興奮しない茂木がいるだろうか? 彼は右手をパンツの中へ差しいれ、自身の夢精を確認した。 (やった! 精子だ!) 箍一郎はそれをぺろりと舐め、塩分とタンパク質を回復した気になった。 「ふむ……。まあ、食事にしましょうか」 箍一郎は、夢のことを、他の"茂木"に話さなかった。 話すべきでなはいと自身で結論付け、人格を茂木殺一郎に明け渡した。 ---- ○戦闘開始 次に茂木箍一郎が表に現れたのは、三日後だった。 眼前には鮮やかな青い空と、まん丸い太陽、平らな黄土色の地面が段になっている。 特撮アクション『マスク騎手』のような光景に箍一郎はノスタルジーを得た。そして強い確信も。 「これは、夢、か」 彼の独り言に反応する声はない。 彼の脳内は非常にクリアで、非常に静謐だった。 夢を見たものが箍一郎のみであれば、他の"茂木"が現れることはない。想定通りだった。 「この夢には、なんらかの意図がある」 箍一郎は強く確信した。 以前から噂になっていた"眠り病"。その実在は、他の"茂木"の臨床実験によって知っている。 肉体が眠り続ける。 これは普通の単一人格者では、自身=肉体であり、夢での敗北が自己責任であると単純につながる。 しかし"茂木"は違う。 "茂木"の肉体には五兆の人格が存在している。茂木箍一郎が敗北すれば五兆すべてが死してしまう。"茂木"の殺戮行為に恨みを持つものは少なくないため、"茂木"が眠り病にかかってしまえば、殺されることは必定である。 「馬鹿なやつらだからな。脳だけ生かしつづけてあげるような優しさはない。私のおいしい脳もふんづけて捨ててしまうに違いない。ああ、私の脳を食べたい!」 箍一郎は、五兆分の一から偶然選ばれた、とは思わない。 なにか理由がある。 茂木星一郎が表に出れば第二のビックバンが起こる、茂木遡一郎が表に出れば時間が逆回しとなって宇宙の法則が乱れる、神一郎が出れば人類に最後の審判が下る。スケールダウンした場合でも、茂木殺一郎は無条件で相手を即死させるし、空一郎は殺されようがない。とはいえ小一郎は人と戦うには小さすぎ、痺一郎は生きることすら困難だ。死一郎は言うまでもない。 ちょうどいい塩梅で、茂木箍一郎が選ばれたのだろう。 そこには意図がある。 意図があるとすれば、相手も同じ程度の戦力だろうか。 相手を殺せる。しかし殺されもする。 「油断はできないな」 箍一郎はこめかみを指でたたいた。 頭のタガを確かめる動作、冷静になる自己暗示だ。 しっかりとタガがかけられている。 夢の戦闘フィールドは採掘場。全貌を見渡せる土山へ足を向けた。 採石場の端の土山に立ち、遠くの田舎町を眺める。どこか昔に来たようなのどかな町並みだ。 町と採石場との間には底知れぬ闇があり落ちてしまえば助かりようもないなと箍一郎は確信した。 夢の戦いを終わらせなければ、一歩も外へ出られない。 もちろん箍一郎は、勝者として戦いを終わらせるつもりだ。 翻って見える採石場は平らかでだだっ広く、ある一点を除けば身の隠し所もなかった。 「まあ、夢らしいっちゃらしいプチ変さ、だけどね」 箍一郎は土山をゆっくり降りて、けして急がずに歩く。 土一色の採石場。 そこにポツンと存在する、緑豊かな建物。壁には絡まるツタ。夢の世界のありきたりな採石場なんかよりも、高級住宅街の坂の途中に建っている方がよほど自然な、小洒落た建物を見上げる。 ――相手の能力は固有結界? 家を生み出す? 何にせよ砦を持つなら、不毛な地では圧倒的に不利だ。ジャングルや江ノ島であればまだしも、石と土の天国では。食糧の入手もままならない。 短期決戦の腹をくくる。 箍一郎は"タガを外す"のイメージでこめかみをひねる。 ――変身の呪文を唱える。 「結果の出せる人になる!「すぐやる脳」のつくり方」 カチャと、タガの割れる音が確かに聞こえた。 しかしすぐに箍一郎の矯笑にかき消される。 「さあさあさあさあ! さあ! 茂木箍一郎の雄姿! とくとご覧アハ!」 茂木箍一郎は全力で彼我の距離を詰めた。ツタを模した門にタックル。 ひまわりの植木鉢を蹴飛ばす。 ランニング・マンイーター(走る食人木)を一本背負いで根こそぐ。 ユグドラシルの彫刻がなされた古めかしくお洒落な扉を茂木は丁重にノック。荘厳な厚みを持つ入り扉が拳の形にくりとられる。 「植物に人権ありません!! ノークオリア are your door!」 箍一郎は、ノック、ノック、ノック。 世界一大きなカボチャくらいの穴を開ける。室内の様子を覗く。 箍一郎は、「花よりアハ」だ。植物のことなど、芥子や大麻くらいしか知らない。 しかし静謐なレストランの窓際に並べられた色とりどりの花、紫の葉、垂れ下がった花、折れ曲がった茎、細々とした葉、ねじれた茎、簡単に纏めた髪に割烹着姿の女を見た――。 箍一郎は息をのんだ。 「oh知的な美女」 茂木はドアを押し、開かないので、引いた。鍵はかかっていない。 「いらっしゃいませ」 女主人がにこりと笑った。 ---- ○女主人 「コンセプトちゃんとしていいですね。花の天国。花があって、あの植木鉢は人骨でしょ? 違う? まあいいや。でもまあ、いやー死んだらこんな感じのとこ行きたいですね。花じゃなくて脳が咲いてるといいんですが。脳にもお花畑が必要ですね? 相当花がお好きなようですね?」 天然パーマの、テレビで見た脳科学者が、客として来ている。 少々騒がしい。 女は秘密で美しくなるというが、私の持つ秘密の小さい方――天然ドラッグをやりすぎた人の目をしている。 異様にぎらぎらして瞳孔が大きく小さくなる。 人間の生殖が花粉であれば、姿が見えないほどの花粉を出すだろう。 男の体から黄色い煙が吹き出る。姿を隠すほどだ。 「おっと失礼。なに、なんだか嬢さんの脳を食べたくて。せめて料理が来てからにしましょう」 ジョークのつもりらしい。男は笑ってる。 その煙がこちらに吹いても、愛想笑いは崩さない。殺意がむんむんと湧き上がる。自分の頬が痙攣している。 私の『ふれた相手の記憶を消す能力』が効いて、これだ。 私が一個人としての生を捨て「女主人」として生きていなければ、夢の世界までレストランを持ち込むことは出来なかったし、ドアを開く男に能力は使えなかった。 女主人にとっては店自体が私の一部である。 能力が発動し、彼は、「この場が殺しあいの夢」だと忘れている。たぶん、近所にあるレストランにたまたま足を運んだと脳内補完しているのだろう。 帰りにまたドアノブをひねれば記憶を取り戻してしまうが、その前に決着を付ける。 「ご注文はいかがですか?」 「じゃあ、なにか、美味しい料理を。脳にいいものだけを食べたいな」 「それじゃあ、天国のカレーはどうでしょう? カラーという花が混ぜられたカレーです。ここでしか食べられませんよ」 「じゃあそれで」 「かしこまりました」 ふたつ分かったことがある。 男は毒性植物に詳しくない。 男は完全に油断している。 カラーではなくテンナンショウを入れよう。相手は無知なのだから、なるべく強いものがいい。 スパイスにトリカブト。マンチニールの実も隠し味で。デザートに出す方がいいかな? いや、食後はすでに死後か。混ぜよう。 ああ、そう。肝心のカレールー。これは、まあ、インスタントでいいか。頭が吹き飛ぶほどのサドンデスソースをかけよう。 スプーンの先をアコカンテラの樹液に漬け、違和感ないよう軽く拭く。 いかな魔人といえ、一口でもう行動不能だろう。安全に、とどめだけ刺せばいい。 天国への階段を一歩ずつ登っている確かな感触がある。 大好きな花とお話をする、夢にまで見た天国が、もう目前にある。 笑みは隠さない。ただ、心優しげな女主人が客に友愛を示しているかのようにする。 お・も・て・な・し。 そうすればきっと、天使は店主に微笑む。 「お待たせしました。天国のカレーです」 男はよだれを垂らしている。まったく警戒はしていないらしい。 しかし現実でもここまで行儀が悪いのだろうか。人間の"花"の美しさとはほど遠い。堆肥にすらしたくない。 「いただきまアハ!」 男はスプーンをとる。 塗られた猛毒に気付きもしない。 スプーンを差し入れ、カレーを持ち上げ、その猛毒を口に―― ---- ○"茂木" 茂木の学園ラボの地下32階。学園の誰も存在を知らない茂木の秘密研究所だ。 この部屋には、茂木の秘密がある。 薄暗い室内にはモニターしか光源がない。モニター上ではなんらかのプログラムが走っている。それに答えるように、ザパッザパッと水の波打つ音が聞こえる。そして足音。闇の中から濡れた脚、腰、胸が浮かび上がり、そして天然パーマの"茂木"が姿を現す。 彼は目覚めたばかりのように目をぱちくりさせる。 波打つ音がやみ、誰かが「電気をつけるぞ」と言う。間もなく眼前がまばゆく光った。 「アハ!」 20人のアハの大合唱が湧き上がった。茂木、茂木、茂木――。どこを見ても茂木の姿、自分と同一の姿形があった。 「茂木? 茂木なに?」 びしょ濡れの茂木が、比較的乾いた仏頂面の茂木に尋ねた。 「そっちは?」 「茂木デュ一郎」 「おお」 「で、お前は」 「茂木知一郎」 「賢いので有名な!」 「茂木SSR一郎もいるみたい。この、20人くらいの茂木のひとりに」 「マジ!? すげえ! 5%ってめちゃ確率アップじゃん! うわー、サインほしい!」 「そう? どうせ俺たち、STAP細胞で作られた人造茂木だよ。役割終えたらポイの」 「でもクオリアはあるじゃん!!」 「まあ、そうだけど」 知一郎は内心嘆息する。 今回の茂木製造理由は、まず間違いなく、無色の夢に没入した茂木箍一郎が原因だろう。 無色の夢は、対象に夢を見させる。その際、"茂木"を操作する人格が、対象に切り替わってしまう。朝起きた"茂木"が変わっていると、ああ、あの夢を見たのねと分かる。 我々"茂木"には五兆の人格があり、その内の30万の人格が、無色の夢の報酬である瑞夢を見て沈黙している。 4000万ほどの人格が、夢を早々に切り上げ現実に戻っている。知一郎も瑞夢を見てきた一人だ。 敗北して悪夢を見ている"茂木"はわずか60件に抑えられている。 その理由は簡単だ。 夢の世界に他の"茂木"人格は持ち込めない。しかし茂木メタ一郎だけは夢の世界を観察できる。 茂木が悠々勝利すれば問題はないが、敗北しそうな場合、視点を現実に引き戻す。勝敗の確定をしない。 確定しないまま現実に戻り、我々人造茂木を用いて、敵対相手に現実で悪夢を見させてやる。 対戦相手の悪夢を確認するとは、つまり、対戦相手の敗北を確認するのと同義だ。 自動的に茂木は勝利であろう。 夢と現実を観察できるメタ一郎だけができる勝利の法則だ。 ただ、どうにも倒せない相手の場合が60件だけあった。人知を越えていたり、存在を発見できなかったり。それでもかなりの勝率だろう。 「今回は」「夢のような」 「女を殺したい」「鼻を潰す」 「話を聞かない」「鼻が利く」 「花が咲く」「離れた天国」 「煉獄の」「女のある」 「女のない」「ある」「THE ALFEE」 「FEE」「女」「AL」「THE」「女AL THE」 茂木が口々にしゃべる。メタ一郎の意志は、このような湾曲な形でしか伝わらない。 ザッピンクされた言葉で、今回の対戦相手と、そいつの居る場所、レストランの名前を知った。 "茂木"が20人程度と言うことは、あまり強くはないのだろう。軽くぶっ倒して、それでこの"人造茂木"の役目は終わり。自分からひっそりと死に、本丸の"茂木"の朝食になるだけだ。 生きて死ぬ私。それでいい。 今夢を見ている"茂木箍一郎"の身体に、本来の自分が居るのだから、人造の自分が死んでもかまわない。 まあ、そう思う方が変かもしれない。 人造茂木には単一の人格しかない、という欠点があるが、人格なんて一つあれば生きられる。野に逃げ名前を変える人造茂木も少なくない。 葉加瀬太郎、坂本慎太郎、佐野元春。あるいは名もない天然パーマの男の一人として生きる。 そういったあり方も、まあ、悪くはない。ただ俺は、一つの体に五兆の人間がわちゃくちゃ住んでいる、騒がしく奇妙な"感覚"が好きだ。 一つの体に自分一人しかいないなんて、退屈すぎる。クオリアがあることより他の"茂木"のいる方がずっとずっと大切だ。 だからこそ、箍一郎に悪夢を見せる輩が許せねえし、そいつをぶっ殺して箍一郎に素晴らしい夢を見せてやりたい。 裸の茂木たちがぞろぞろ外へ出る。培養液はすでに乾いている。 茂木の秘密研究所には、モニターと、培養液に浮かぶ巨大すぎる脳みそだけが残った。 ---- ○茂木箍一郎 「いただきまアハ!」 俺はカレーをすくったスプーンで、上品ぶった女の笑みに思い切りぶっ刺した。 「すぐやる脳」の敏捷さに、女は反応さえとれない。 スプーンは唇をえぐり、歯をへし折った。 女の顔がひきつって悲鳴をあげている。ざまあみやがれ。 「お前なあ! こんな人骨まみれのレストラン、俺を舐めやがって、風景最悪砂だらけ、そして、糞が、創作料理とか言いつつ基本ただのカレーかよ! 草葉の陰から天使のお経 with 神武天皇のエンハンスメント~ みたいな名前付けろよ、糞! ボケ! 舐めてんじゃねえぞ! おしゃれをもっと楽しませろ!」 仰向けに倒れた女に馬乗りになって、欠けたスプーンを何度も何度も突き立てる。 「カツカレーに勝てんのか創作料理さんよぉ! 駅前によォ! 小洒落たお店、赤字? 生活ちょっと心配。ぼったくってんのか!? ぼったくってんのか!? 俺をなめてんのか!? おら何とか言えよ!」 「ぱ、ぱ、ぱふひぇて、ひぇ、ひぇいかちゃん……」 女は痙攣して眼球があらぬ方向へ向いている。 赤い血涙が流れて、見開かれている。 「わお。ほら口開けて。元気だして。カレー食べて。おらっ口開けろ! 口の形をアハ! アハ! アハって言え! 口開けろ! アハって言え! ぶっ殺すぞ! 手をどかせ! カレー食え!」 女は頑として唇を開かない。両手で自分の口をふさいでる。 「お前のコンセプト花コンセプト花が咲く花が咲く花が咲く、咲く、咲く、サクサクサクサク」 何度も何度も折れたスプーンの柄を突き立てる。 「笑顔が咲く! 花が咲く! 満開の笑顔! アハ! アハ! 面白いおまえの鼻をもぐ! 耳を裂く! 咲く咲く咲く咲く恐怖が咲く! 右脳が咲く! 左脳が実る! 脳にいいものだけを食べる!」 何度も何度も折れたスプーンの柄を突き立て、女の鼻をへし折り、耳をぶんぶんふって脳を揺らし勢いで引き裂いた。 豚の鳴き声みたいな悲鳴があがる。 健康でいてほしい。 「カレー食えスジャータ! アハ!」 皿ごとを、女の顔面に叩きつける。女の細い腰が弓反りになって、なんだかエッチだなと思ったが、とにかくカレーを食べてほしい。 「人間は植物じゃない……花じゃない……認識を改めよう。悲しいけれど、人間はほかの生き物を食らって生きてるんだ……。現実を見るんだ、俺の目を見ろ!」 カレーで健康。 ひっくり返った皿でもう一度顔面を強打し、割れたので、ビンタで力任せにカレーを染み込ませた。 肌からルーが浸透するだろう。 女の右目玉が飛び出し、眼窩にルーが垂れていた。 「左右の口! 新しい!」 顔面パックのカレーライスを集めて、両目から食べさせてやる。左目はまだ穴があいてなかったので、親指で押しつぶして混ぜてやった。ときたまご代わりだ。 ぎゃあぎゃあ叫んで、食べたくないとぐずるようなので、うじむしみたいに米が詰まった右目に、薬指と中指を差し入れ上下に動かす。 「ほら、もぐもぐもぐもぐ」 女の悲鳴が高くなって、小さく消えていく。 自分で嚥下できないのか。 自身の体を後ろに倒し、女の上半身を起こす。左右の口から手を離して立ち上がり、女の背から腰を順手で掴む。 踏ん張って女の体を持ち上げる。270度ひっくり返って女の脚が肩に掛かる。くの字に折れ曲がった女を頭の高さまで勢いよく持ち上げる。股の向こうに見える、逆さになった顔からは米がこぼれている。お行儀が悪い。 上半身を前に倒し、女の体を鞭のようにしならせる。 「もぐもぐ、ごっくん」 持ち上げる勢いと振り下ろされる勢いで加速した女の頭は、滑るように床に打ち付けられてきれいになり、血と脳漿と脳みそで新たなカレーが出来上がっていた。(勝者 茂木箍一郎)こちらは美味しそうだ。 「創作カレーか! 見事!」 自分の浅慮を恥じた。と同時に女の奥ゆかしさに感涙した。 一つ目のカレーに失敗すればすぐ作り直す奉仕の心……。 女の創作カレーは誠に美味しくさきほどのスパイシーカレーとの二重構造がいい刺激になって、飽きさせない。&ruby(さら){骨}まで舐め尽くしてしまった。 結婚するなら、味噌汁のうまい女にしろと言われたことがある。確かにその通り。結婚するならこのような脳味噌汁の美味しい女がいい。 「おまえの脳味噌を毎日食いたい!」 女は起きあがって笑顔で答えた。 「はい。不束者ですがよろしくお願いします」 それからレストランの手伝いをするようになった。花の名前を教わって、花の名前を覚えられないと知った。 毎朝の食事は彼女の新鮮な脳だ。うまい。 お客さんはたまに来る程度だったが、こういう洒落た店に来る客はあまり金銭に不自由してないらしく不思議と採算はとれた。払えない場合は手伝いをしてもらった。主に具材として。 一緒に生活するようになって二年目の春に子供が産まれた。名前はお互いの名前から一文字ずつ取って箍女とした。乳児の脳は味気なかったので、健康に育つか心配だった。涼しげな目元は妻に似て、天然パーマがこちらに似ている。 パパ、ママと喋るようになって、たまに妻や僕の脳味噌を見せたがあまり興味はないらしい。花は好きらしいが、三六五日瞬きもせずウットリと見続けられるほどじゃないようだ。 妻の脳は相変わらず美味しいが、娘の脳は一番楽しい。たまに仲良しになったお客さんの脳は、味に関係なくドキドキする。秘密は最高のスパイスだと学会で発表した。 娘が七歳になった頃。 ひとつ、娘の成長に気付いた。 娘はキッチンに忍び込んでそば粉を拝借している。そして自室で夜な夜なそばを打ち付けている。細い光が漏れるドアの陰から妻とのぞき見る。 「そばばばばばば」 楽しげだ。 「そばばばばばばアハ!」 妻は、ちょっと早すぎるんじゃないのと諫めるような目をした。小声で言う。 「君だって、もっと小さいときから花を――」 「その話は、ストップ」 妻は暗がりでも分かるほど、頬を赤らめた。 「僕だって、脳食を始めたのは七歳の時だった。そばならそんなものだよ、今は」 「最近は進んでるのねェ…」 「うどんならさすがに止めるけどね」 僕は妻の腰に手を回して、キスをし、そっと夫婦の寝室へ戻った。 「そばばばばばば」 娘の楽しげな声が、ここちよかった。 うすぼんやりとした夜の中、僕は妻の頭蓋骨を叩き壊し、僕は自分の頭蓋骨を叩き壊し、こぼれたうどんが絡み合って、くすぐったくて、笑っていた。幸せだ。夢のようだ。 }