真説・万華鏡奇談

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真説・万華鏡奇談」を以下のとおり復元します。
<p><strong>真説・万華鏡奇談</strong></p>
<p>Part52-95~103,137~142,145~147,202~208,216~223</p>
<hr /><dl><dt>95 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談</strong></a>:2010/06/23(水)
19:34:03 ID:TRlYdLnp0</dt>
<dd>真説・万華鏡奇談投下。<br />
伝奇ホラーです。<br />
雰囲気を詳しくというリクエストなので、短文派、お許しください!<br /><br />
用語解説<br />
【樟脳】主に防虫剤に使われる、クスノキを蒸留した結晶。<br />
    スーッとするような、微かに線香臭さの混じったような、癖のある甘い香り。<br />
    日本のおばあちゃんちのタンスの匂いと言ったらこれ。  <br /><br /></dd>
<dt>96 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第一章</strong></a>:2010/06/23(水)
19:40:20 ID:TRlYdLnp0</dt>
<dd>第一章【万華鏡奇談】<br />
 <br />
「おにいさま」<br /><br />
そう呼ぶ声が聞こえた。<br /><br /><br />
薄暗く黴臭い土蔵の中で、修一はぼんやりしていた。<br />
外はにわか雨で、湿気た空気が陰鬱な雰囲気に拍車をかける。<br /><br />
ここは、堀田にある修一の両親の実家。<br />
かつては土地一番の名家であった。<br />
黒漆の塀に囲まれた古式然とした平屋敷に<br />
庭の樹齢八百年超の古桜が栄華の名残を香らせ、今もこの家は桜屋敷と呼ばれている。<br /><br />
今母屋では、親戚一同が集まり、祖母の葬儀が行われているはずだ。<br />
肩身の狭い浪人生である上、社交性の低い修一は、ここでサボっている訳だ。<br /><br />
幼い頃は、よくこの土蔵に忍びこんだ。<br />
大した蔵ではない。<br />
裏庭にある小さな白壁の土蔵で、南京錠で閉じられた扉こそ重々しいが、<br />
中には申し訳程度の土間と、六畳程の板間があるだけだ。<br />
古い家具や調度品が置かれているだけの物置だったが、好きな場所だった。<br />
ほこりをかぶった振り子時計や鏡台、褪せた屏風に長持。<br />
それを開ければ雅やかな小物に絢爛豪華な反物。金箔の獅子香炉からは仄かに妖しい残り香が薫り、<br />
幼い修一は薄闇の中、儚く美しい楽園の空想を紡いだものだった。<br /><br />
兄弟も無く友達も少なかった修一は、背徳感を圧してこの蔵に入り浸っていた。<br />
そう背徳感。亡き祖母は、修一がこの蔵に立ち入るのを酷く嫌っていた。<br />
いや、祖母はこの蔵自体を嫌っていたのだった。<br />
蔵に納められた祖父修造の遺品――修一を楽園に誘った小物達を、何故か祖母は疎んでいた。<br /><br /></dd>
<dt>97 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第一章</strong></a>:2010/06/23(水)
19:42:04 ID:TRlYdLnp0</dt>
<dd>修一は祖母が嫌いだった。<br />
小柄で姿勢が良く、若い頃は大層な美人であったそうだが、<br />
ひどく怒りっぽく、修一を叱ってばかりいた。<br />
7年前に両親とこの実家を出るまで叱られ通しだったが、その祖母も亡くなった。<br />
そして遺品から蔵の鍵を見つけ、修一は久しぶりにここにいるのだった。<br /><br />
幼い頃は気にならなかった静寂と闇が、今の修一には不気味に感じられる。<br />
曇天で室内が更に暗くなり、そろそろ母屋に帰ろうかと思っていた。<br />
そんな時だった。<br /><br />
「おにいさま」<br /><br />
少女の声がした。<br />
振り向くが誰も居ない。そもそも修一を兄と呼ぶような血縁は居ない。<br />
雨音が一段と激しくなる。葬儀中の雷は縁起が悪いのだったか、と思った途端<br />
ゴロゴロという音と共に、丸い白が修一の目に焼き付いた。<br />
見れば、壁に指先ほどの穴が空いており、そこから外の雷光が差したのだった。<br /><br />
そして、その光に照らされるように、壁際の文机が目にとまった。<br />
その上に、桜色に菫の格子の和紙が巻かれた万華鏡が乗っていた。<br />
手に取ると、しっくりと手に馴染む。しかし、今までこの万華鏡は本当そこにあっただろうか。<br />
俄かに不気味になり、また葬儀もそろそろ気にかかる。<br />
雨足はもう滝のようだったが、修一は万華鏡を懐に、蔵の外へ飛び出した。<br /><br />
数時間後、弱くなった雨音を聞きながら、修一は一人客間で万華鏡を覗いていた。<br />
葬儀は終わり、大座敷では宴会が始まっている。<br />
田舎の酒宴独特の雰囲気に馴染めず、修一はここでまたぼんやりとしているのだった。<br />
万華鏡は褪せ、手摺れして使いこまれている。底が何故か、何かに擦り付けたようにざらついていた。<br />
誰のものなのだろう。桜色だから女性のものだろうか。<br />
もう外は暗い。大座敷からは楽しげな笑い声が聞こえてくる。<br />
そこに混じる気はしない。混じれる気もしない。修一はもう寝ることにした。<br /><br /></dd>
<dt>98 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第一章</strong></a>:2010/06/23(水)
19:43:11 ID:TRlYdLnp0</dt>
<dd>夢を見た。<br />
修一は蔵の中に居た。<br />
明かりは無く、夜の闇が満ちている。しかし周囲の物は手に取るように見える。<br />
だから夢だと分かった。<br />
外から南京錠がかかっていることを、夢の中の自分は知っていた。<br />
閉じ込められていることになるが、不思議と恐ろしくは無い。<br /><br />
「おにいさま」<br /><br />
また声がした。慕わしげな、甘えたように媚びた声だった。<br /><br />
「お待ち申しておりました。  ずっと」<br /><br />
修一は声を上げて蔵中を捜しまわった。会いたかった。誰なのか何故なのか分からない。会いたかった。<br />
目を上げると、あの丸い穴があった。光が漏れている。<br />
壁にへばりついて覗きこむと<br /><br />
目があった。<br />
誰かが覗いていた。壁を隔ててお互いの眼球を見つめあう。<br />
「お前は誰だ」<br /><br />
目が覚めると、もう朝だった。<br />
潮が引くように、夢の記憶が消えていく。ただ黴臭い匂いだけを覚えている。<br />
枕元には万華鏡があった。<br /><br />
朝食の後、形見分けがあった。<br />
祖母の着物を、腐肉に群がる獣のように親戚達が漁っている。<br />
遺言によれば、屋敷は修一の父修治が継ぐが、他は好きにしていいとのこと。<br />
ただし、蔵の中の物だけは、決して持ち出さず、そのまま閉ざしておくように。<br />
不思議な遺言だった。<br /><br />
自分は着物等もらっても仕方ない。そう思い、万華鏡を懐から取り出して見せた。<br />
誰も玩具等には興味を示さず、高価な遺品を漁っている。<br />
叔父が、系譜を見つけたと興奮してやって来た。<br />
見れば、紙の一番上には、読めない程の達筆で名前が一つ記されていた。<br />
そこからあみだのように、様々な筆跡で連綿と名前が綴られ、一番下には修一の名前があった。<br />
祖父の名前は修造。<br />
修一の名は、父修治ではなく祖父の名前から取られている。<br />
「頑固な人でな。どうしても孫にも自分の名前を継がせるって言ってたっけ。」<br />
家系図には直系の者しか記されないようで、嫁や婿に来た者の名前は書かれていない。<br /><br />
そうやって名前を目で追っていると、一か所だけ黒々と墨で塗りつぶされた名前があった。<br />
その代の長男、修造の並び。つまり祖父の兄弟姉妹の一人が墨で消されている。<br />
「親父の兄弟か。何人か戦死したらしいがな。」<br />
「生まれてすぐ死んだんじゃないか?」<br />
死ぬ度に消していては家系図は真っ黒になってしまう。<br />
家系図は記録であり歴史なのだ。つまり、消された人物は、歴史から―<br />
修一はひどく寒々とした気持ちになった。<br /><br /></dd>
<dt>99 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第一章</strong></a>:2010/06/23(水)
19:48:05 ID:TRlYdLnp0</dt>
<dd>「あァ、思いだした!」<br />
叔父が声を上げた。「その万華鏡、蔵にあったんだろ?」<br />
父と叔父がニヤニヤ笑い合う。<br />
何でも、この万華鏡は祖父が大切にしていた品らしい。<br />
終戦後復員した祖父は、前にも増して寡黙になり、日がな土蔵でこの万華鏡を覗いていた。<br />
祖母は祖父に声を荒げる人ではなかったが、万華鏡に悋気を燃やしているのは子供心に分かった。<br />
幼いなりに父と叔父は万華鏡の元の持ち主に想像を巡らせ、「お袋の恋敵」の噂をしあっていたのだった。<br /><br />
祖母の嫉妬の対象だった、祖父の大切な万華鏡。<br />
みだりに持ちだしていい物ではないだろう。修一は昼に、万華鏡を蔵に戻しに行った。<br />
仏教では四十九日、死者がこの世に留まると言う。祖母もまだこの家に居るのだろうか。<br /><br />
大きな南京錠を開いて中に入る。改めて見ると、蔵にしては変わった作りだ。<br />
こうして土間から板間へ上がる口等、勝手口のようにも見えるではないか。<br />
もしかして、ここは祖父の子供部屋だったのかもしれない。それなら祖父の愛着も…<br />
そこまで考えて止めた。我が子に蔵などあてがう訳がない。<br /><br />
元の文机の上に万華鏡を戻すのは気が引けた。何かの拍子に転げ落ちてしまいそうだ。<br />
適当な場所を求めて辺りを見回す。箪笥、長持ち、小道具入れ……<br />
ふと、修一は気づいた。<br />
ここは、やはり住居だ。<br />
振り子時計。文机。鏡台。箪笥。長持。どれも生活空間にあっておかしくないものだ。<br />
そしてこの配置はどうだ。まるで使い勝手を意識した配置にさえ思える。<br />
幼い頃の記憶が蘇る。そう、この箪笥には、女物の着物や帯の他に、足袋や下着も仕舞われているのだ。<br /><br />
しかし、蔵は住居には適さないのは分かっている。現に鍵など、外からしかかけられないではないか。<br />
外からしか。<br />
ありえない想像が脳裏をかすめた。<br />
嗚呼 あの家系図の 黒々とした墨跡―<br /><br />
甘いような樟脳の匂いに目眩がする。こんなものはただの妄想だ。<br />
監禁だ、座敷牢だなどと、大時代的な突飛な妄想だ。叔父と父に話そう。笑い飛ばしてもらって自分も笑おう。<br />
その途端、突然闇が襲ってきた。開けていた扉が閉まったのだ。<br />
慌てて飛びつくも、外から鍵が落とされる音が重々しく響いた。<br /><br />
叩いても叫んでも、扉は開かなかった。<br />
誰かの悪戯だと思いたかった。だが、親戚のほとんどは午前のうちに帰って、今は両親と叔父夫婦しかいない。<br />
彼らがこんな子供じみた真似をするだろうか?<br />
憤りに任せ、叩き、ぶつかり、体重を全てかけても、重厚な観音開きの扉はビクともしなかった。<br />
夕方になれば、母が探してくれるだろう。<br />
そう腹を決めると、急に暗闇が気になり始めた。<br /><br />
叔父は、祖父が万華鏡を覗いていた、と言っていた。<br />
蔵には、明かりになるような物は無い。電気も来ていないし、扉を開けていても、板間の方までは万華鏡を覗ける程の光は入ってこない。<br />
わざわざ灯を持ち込んで万華鏡を覗いていたのだろうか…。<br /><br /></dd>
<dt>100 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第一章</strong></a>:2010/06/23(水)
19:49:40 ID:TRlYdLnp0</dt>
<dd>何か持っていないかと、ポケットを探ると冷たい感触を探り当てた。<br />
瞬間、全身の血が引いた。<br />
この蔵の鍵だ。<br />
あの巨大で頑丈な南京錠は、施錠する時は鍵を使わない。しかし開ける時には。<br />
追い打ちをかけるように、甘い樟脳の風が吹いた。<br />
何かが駆け抜けたのだ。樟脳の匂いを纏った何かが。<br />
おかしくなってしまいそうだ。恐怖に呑まれてしまう。<br /><br />
その時、細い光の筋が差した。腰を抜かしそうになったが、何のことは無い。あの丸い穴から午後の陽射しが注いでいるだけだ。<br />
そして慄然とする。何故、今まで暗かったのか?何が穴を塞いでいたのだ?<br />
それでも、外が見たかった。眩しくて目が当てられないが、無理やり覗きこむ。<br /><br />
目があった。<br />
誰かが覗いていた。壁を隔ててお互いの眼球を見つめあう。<br />
耐えきれず叫んだ。「お前は誰だ」<br />
目は嘲笑うように歪み、視界の外に消えてしまった。<br />
疲れ果てて文机の上に座り込む。<br /><br />
祖母の事を思い出す。いつも金切り声で喚いていた祖母。<br />
男なんだから、長男なんだからしっかりしろ、そう言って我慢ばかり押し付けられて、自分は随分感情を表すのが下手な人間になってしまった。<br />
項垂れて床を見ているうちに、不意に思い出した。<br />
そうだ!この蔵にはいつも錠が下ろされ、鍵は祖母が持っていた。<br />
なのに自分がここに入り浸れたのは何故か。それは、床板の一部が持ちあげられて、床下を通って庭から出入りできるからだ。<br />
喜び勇んで床板を探るも、取っ掛かりが見つからない。<br />
何故だ、釘でも打たれたのだろうか?祖母だ。いかにも祖母がやりそうな事だ。<br /><br />
泣きたい思いでまた文机に腰を下ろす。<br />
そして先ほどの思考に結論を出した。<br />
ここには、誰かが閉じ込められていたのだ。そして彼女は家系図からも消された。<br />
彼女は恐らく祖父の妹だ。祖父の愛着や蔵の様子に説明がつくし、何よりも<br />
「おにいさま」<br />
あの声は、亡霊の呼ぶ声ではなかったか。自分は祖父に似ているのかもしれない。<br />
だから、ここに呼び込まれたのではないだろうか。<br /><br />
視線を巡らせると、天井の闇の中に白い小さな顔が浮かんでいた。<br />
心臓が止まりそうになったが、よくよく見れば市松人形であった。<br />
天井の梁に凭れるように置いてあったのが、転んで下を見下ろす格好になったのだろう。<br />
ほこりまみれで放置されているのが気の毒だ。取り上げてはらってやりたいが、<br />
文机に乗っても天井には手が届きそうに無い。適当な棒など探していると、目の前に何か落ちてきた。<br /><br />
「おにいさま」<br />
市松人形が自分を見つめていた。<br />
嗚呼、とうとうこの暗闇に気が違ってしまったのか。<br />
人形を壁際に遣り、光を求めてまた丸い穴に目を当てる。明るい庭に少し安心した。<br />
ふと思いつく。この穴は、万華鏡をあてがい覗くのにちょうどいい感じだ。<br />
祖父も、この光で万華鏡を覗いていたのではないだろうか?底の擦った跡を見てそう思う。<br />
それでは、と自分も万華鏡を穴に当て、覗きこんだ。<br /><br /></dd>
<dt>101 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第一章</strong></a>:2010/06/23(水)
19:52:04 ID:TRlYdLnp0</dt>
<dd>目の前に広がったのは、万華鏡の曼荼羅のような世界では無かった。<br />
慌てて穴を直に覗けば、そこは昼下がりの庭があるだけ、しかし万華鏡を介せば違う物が見える。<br />
そこには、今居る蔵の中が映っていた。<br />
いや、今では無いのか。覗きこむ自分が映っていない。代わりに一人の少女が居た。<br />
病的なまでに白い、小さな、細い少女だった。<br />
慌てて振り向くが、誰も居ない。<br />
そして万華鏡を覗けば、少女はそこに居る。<br />
行燈の灯りに照らされ、年の頃12、3の少女が、赤い櫛で長い黒髪を梳いている。<br />
持つ手の慄きで、シャラ、と万華鏡が傾き、場面が切り替わった。<br /><br />
まさに切り替わったとしか言い様が無い。視界は同じ蔵の中だが、鏡台の前に居た少女が、瞬時に部屋の中央に移動していた。<br />
先ほどまで桜色の着物であったのに、今は藤色のそれを着ていた。<br />
俯いて、手持ち無沙汰にビー玉を弄んでいる。なんと白い、細い腕なのだろう。<br />
先程と違い顔がよく見える。<br />
白く繊細なガラス細工のような肌に、猫のように大きな目、小さく赤い唇。<br />
まるで命を持つ人形のような美しさだった。<br /><br />
また切り替わる。<br />
床一面に色とりどりの反物を敷き詰め、うっとりと悦に入ったように寝そべる少女。<br />
長い黒髪を乱し、堪えきれない笑みを零しながら転げまわる。<br />
また切り替わる。<br />
行燈の頼りない灯りを暖に、白い綿入れを着込んだ少女。<br />
そこに、重々しく扉が開いて誰かが入ってきた。修一と同じ年頃の、修一と同じように腺病質な青年だ。<br />
青年が現れると、少女は顔を輝かせて喜ぶ。<br />
青年は少女に湯たんぽを渡し、愛おしげに彼女の頭を撫でた。<br /><br />
修一は気付いた。これはまさに万華鏡だ。<br />
絵柄を変えるように万華鏡を回すと、情景が、いや時間が切り替わる。<br />
音は聞こえないが、耳をすませば少女の声や衣擦れが感じられるような気がした。<br />
修一は夢中で万華鏡を覗き続けた。<br />
時には青年と談笑したり、割烹着姿の老婆が食事を運んできたりというシーンもあったが、ほとんど彼女は一人きりだった。<br />
病気で寝込んだ日や、青年に爪を切ってもらった日。<br />
一人泣いていた夜に癇癪を起こして割った色鮮やかな小瓶。<br />
正月には七輪を前に一人で食べる雑煮。小さな鏡台の前で一人きりのファッションショー。<br /><br />
老婆は彼女を邪険に扱う。彼女を慈しむのは青年だけだった。<br />
青年が見覚えのある万華鏡を少女に見せている。<br />
青年は少女を痛ましく思い、しかし本人に気取られまいとしている。<br />
少女は青年を慕い、特別な想いを抱いているのが、修一にはなんとなく分かった。<br />
青年が少女の名前を呼ぶ。<br />
「さくらこ」<br />
ふと口をついて出たその名前に修一は自分で驚いた。少女の名前なのだろうか。<br />
何故?自分は彼女の事を知る由もない。名前等知るはずない。<br />
しかし、まるでその声が聞こえたかのように、万華鏡の中の少女が振り返った。<br />
不思議そうな顔でこちらを見つめている。目が合っていると感じる。立ち上がりこちらに歩いてくる。<br />
慌てて万華鏡を回した。不意に背後で物音がした。<br />
人形が倒れている。壁に凭せかけておいたのに、壁から50cm程離れた場所で。まるでこちらに歩いてきたかのように。<br />
思考が追いつかないうちに、床下から一定のリズムで板を叩く音がした。丁度ノックのように。<br /><br /></dd>
<dt>102 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第一章</strong></a>:2010/06/23(水)
19:53:28 ID:TRlYdLnp0</dt>
<dd>ホラー映画の主人公が進んで怖ろしい目に遭いにいく理由が分かった気がした。否定するために確認したいのだ。<br />
修一も、床板を探り、隙間に指を差し入れ持ち上げた。<br /><br />
そこには一面の目があった。おにいさま。おにいさまおにいさまおにいさまおにいさま。<br />
震える修一の手から万華鏡が落ち、先端が割れて中の具が散乱した。<br />
壁から差す光の中、小さな三日月型の具が目に留まった。<br />
それは、ちょうど爪切りの後に落ちたような、綺麗に割れた小さな爪だった。<br /><br />
もう一度床下を覗く。そこには敷き詰められた小石があるだけだった。これを目と見間違えたのだろうか。<br />
意を決して床下に潜る。やはり成長した体が通るには狭いが、修一は這った。<br /><br />
程なく、修一は日の傾き始めた裏庭に立つ事が出来た。<br />
中庭の桜がここからも見える。振り返れば、白壁の土蔵は静かにその役目を遵守していた。<br />
土蔵を回りこみ、あの壁の穴を見つけた。小指の先ほどの穴だ。<br />
少し迷った後、修一はゆっくりと穴を覗き込んだ。<br /><br />
目があった。<br /><br />
&lt;第一章・終&gt;<br /><br /></dd>
<dt>137 :<a href="mailto:sage"><strong>ゲーム好き名無しさん</strong></a>:2010/06/24(木)
22:15:29 ID:JjEbHTg00</dt>
<dd>万華鏡奇談二章目いきます。<br />
ほんのり12禁くらい。<br /><br /></dd>
<dt>138 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第二章</strong></a>:2010/06/24(木)
22:16:45 ID:JjEbHTg00</dt>
<dd>第二章【朧月夜鬼談】<br /><br />
桜の花が咲く度思い出します。その物悲しげな、美しい横顔。<br />
ああ、わたしの過ちは、癒える事も許されることもなく<br />
それでも、いつもまでも浅ましくお慕い申し上げております。<br /><br /><br /><br />
春もまだ浅い折、母が亡くなったという報せが届いた。<br />
母といっても、5年ほど前父が迎えた後妻、継母だ。線の細い美人だった。<br />
しかし修造は、最後まで継母を家族と感じる事は出来なかった。<br />
何しろ、彼女が嫁いできたのは、実母が世を去って1年の事だったのだ。<br /><br />
実母も線の細い人であった。弱弱しく優しく、たおやかで美しい。<br />
しかし修造の記憶の中の母は、凄惨な姿でぶら下がっている。<br />
6年前の春の夜、実母は中庭の古桜で首を吊ったのだった。<br /><br />
屋敷を象徴する古桜だったが、樹齢の為か咲かずの古桜と呼ばれていた。<br />
それが、母が枝で首を吊った年から、満開の花をまた咲かせるようになった…。<br /><br />
途中で大津稲荷の縁日を冷やかし、修造は屋敷に辿りついた。<br />
進学で一人下宿している都会から、義母の葬儀の為帰ってきたのだ。<br /><br />
「修さん」<br />
戸口に凭れかかるように、津紀子が白い顔を覗かせていた。<br />
「お帰り。もう随分心配しておったんよ。」<br />
津紀子は修造の姉だ。<br />
彼女もまた、たおやかで美しい。<br />
喪服で肌の白さが際立ち、見てはいけないような背徳を覚える。<br /><br />
大座敷にしつらえた祭壇に、父竹光が毅然と座っていた。<br />
父は未だ武家の男だ。頑健で厳格、己の矜持と家の名誉を重んじる。<br />
「母親の葬儀にも戻れんのか」と苦言を受けた。<br />
「何しろ急な報せで」言い訳をするが嘘だ。通夜、葬儀が終わるまでダラダラと帰郷を延ばしただけだ。<br /><br />
3年前、勉学を理由に都会へ出してもらった修造は、盆にも正月にも帰らなかった。<br />
新しい母と、彼女が連れていた乳飲み子に馴染めなかったのも理由の一つだ。<br />
その乳飲み子-双生児の草太と信太も今では6歳程になっている。<br />
「修造お兄様、お帰りなさいませ」<br />
3年といえば、彼らには人生の半分に等しい。<br />
それだけ離れていた男を家族と感じるのは、できないことだろう。<br />
縁日で買った玩具を土産に与えたが、反応は気まずげで、他人という感を強めたに過ぎなかった。<br /><br /></dd>
<dt>139 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第二章</strong></a>:2010/06/24(木)
22:26:00 ID:JjEbHTg00</dt>
<dd>双子が出て行った後、父が苦々しい顔で切り出した。<br />
「話がある。まだ、誰にも知らせていない事だ。」<br />
義母もまた、首を吊って死んだのは知っていた。しかも、実母と同じ古桜でだ。<br />
その義母の死体が、「消えた」のだと言う。<br />
出棺の時、父はやけに柩が軽いのに気付いた。<br />
灰の中には、やはり遺骨はなかった。<br /><br />
「修造君は、いつまでこっちに居られるのかね?」<br />
何かを頬張ったような湿った声で話しかけてくるのは、宗像氏であった。<br />
年は父と変わらないが、頑強な父と比べ、宗像は不摂生で中年太りの体躯が目に付く。<br />
脂ぎった肌の、常に卑しい笑みを張り付かせた、浅ましい醜男だ。<br />
そして、忌まわしい事に、この男が、愛しい姉の、夫なのだ。<br /><br />
この義兄も、修造が生家に帰らない大きな理由だった。<br />
この男は、狐憑きの家系として村中から疎まれている稲荷神社、宗像家の当主だ。<br />
本人も噂や見た目の下賎さを、そのまま映した嫌らしい人物で、<br />
中年にもなって、女遊びで家財を食い潰しては父や祖父に無心に来る。<br />
そんな、ここ一帯でも下のない最悪の男。村中の娘が口も聞きたくないと忌み嫌う男。<br />
そんな男にすら津紀子は、持参金付きで「貰っていただき」、その事で父と祖父は、<br />
本来なら到底この家に入れないような男に、強く出られないのだ。<br /><br />
津紀子は、鬼子であった。<br />
その髪は雪のように白く、色素の無い瞳は赤い。<br />
産婆は、生まれた津紀子を見た途端、すぐさま縊り殺そうとしたという。<br />
母の庇護がなければ、津紀子は大人になることはなかっただろう。<br />
父も祖父も、彼女を娘として扱ったことはない。存在しないものとして無視され津紀子は育った。<br /><br />
狭い村にも、津紀子の居場所はなかった。外に出れば雪女と陰で罵られ、虐げられてきた。<br />
なまじ美しく、そして蔑むことを公的に認められている津紀子。<br />
村を支配する佐倉家の娘でなければ、どんな辱めにあったかもしれない。<br /><br />
愛情深い母だけを頼りに、過酷な境遇に育った津紀子は、<br />
それでも気立てがよく、情の深い女性になった。修造は姉が心の底から好きだ。<br />
しかし、津紀子を守ってくれる母はもういない。<br />
父と祖父にとっては、持参金をつけて厄介払いした鬼子でしかない。<br />
たった今も修造は、横柄な態度で津紀子に命令する宗像と、従順に従う津紀子を見せられることに耐えねばならない。<br />
この家の者は皆異常なのだ。<br />
宗像の煙草の臭いが不快だった。家に煙草を吸う者はいない。<br />
耐えられず、輪を抜けて外に空気を吸いに出た。<br /><br />
玄関を出ると、マツと出くわし、帰郷を熱烈に歓迎された。<br />
マツは通いの家政婦で、修造が生まれる前からこの家に仕えている。<br />
産婆でもあり、家への忠誠心から津紀子を殺そうとしたのもマツだ。<br />
しかしマツは、田舎の老婆にしては驚くほど先進的な思想の持ち主だ。<br />
「これからの名士には学が必要だ」と、修造が都会に出ることを反対する父を説き伏せてくれたのもマツだった。<br />
それなのに、同じ口で津紀子を蔑み、父や祖父、そして修造を崇め奉る。<br />
だが、父は厳格一徹で、義母は他人であるこの家では、唯一心を許せる大人でもあった。<br />
「櫻子は、元気かな?」<br /><br /></dd>
<dt>140 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第二章</strong></a>:2010/06/24(木)
22:35:59 ID:JjEbHTg00</dt>
<dd>マツは答えない。修造は一人で裏庭の土蔵に向かった。<br />
この蔵が、この家の異常さの極めつけとも言えるものなのだ。<br />
鍵で錠を開き、観音開きの戸を開ける。<br />
「お兄様?」暗がりから不安げな声が呼び、蝋燭がかざされる。りん、と鈴の音がする。<br />
「ああ、お兄様!」はち切れんばかりの勢いで胸に飛び込んできたのは、まだ十二、三ばかりにしか見えない少女だった。<br />
「お帰りなさいませ、お帰りなさいませ、お兄様!お待ち申し上げておりました。ずっと」<br />
彼女は佐倉櫻子(さくらさくらこ)。修造の妹だ、<br /><br />
「わたくし、本当は知っておりますのよ。<br />
 お兄様がお戻りになられても、なかなか櫻子に会いに来てくださいませんの。<br />
 ようやくお戻りになって下さったというのに、櫻子より大切なものなど御座いましょうか」<br />
瞳を子猫のように輝かせ、口だけはすねたように駄々をこねる。<br />
櫻子には、義母の死は知らされていない。<br />
櫻子はこの蔵の外の全てから切り離され、隔絶されているのだ。<br />
彼女は赤ん坊の時分に、初めてこの蔵に入れられてから、一歩も外に出されたことは無い。<br />
そのことは、修造にも多少の責がある。<br />
櫻子は、修造の双子の妹であった。<br /><br />
成人したばかりというのに、蔵に閉ざされている体は未発達で、物言いも幼い。病的に白い肌、足首に巻かれた鈴。<br />
それもこれも櫻子が、修造と双子だったからだ。<br />
長男が双子であれば、後に生まれた子を「忌み子」として殺す。各地で見られる因習だ。<br />
仮に男だったなら、母がどんなに庇っても、生まれてすぐに殺されていたに違いない。<br />
そういう家なのだ。<br />
母は病の体を押して土蔵に通いつめ、孤独の次女を育てた。<br />
じっと「家」に耐え、恨み言一つ零さず子を育て上げ、6年前咲かずの古桜に身を預けたのだった。<br /><br />
以来、マツが嫌々ながら櫻子の世話をするようになった。<br />
マツは予想通り、櫻子を害虫か何かのように扱っている。<br />
義母の連れ子、双子の草太と信太に、マツが言い聞かせているのを漏れ聞いたことがある。<br />
「おふたりは、ご長男でなくて、ほんにようございましたねぇ」<br />
その時、障子に映るマツの影を見ながら、これが昔話に出てくる鬼婆か、と思った。<br /><br />
家に居る頃は、修造は父に叱られながらも土蔵に通った。姉も櫻子を慈しんだ。<br />
だが姉が嫁ぎ、修造は都会に逃げた。「家」から逃げたくて都会に出たのだ。<br />
「姉さんを守らんでええ、櫻子を守らんでええ。でも「家」は守ってかなあかん。」<br />
姉の言葉を思い出す。馬鹿な。修造が家を継ぐのは、姉と妹を守りたいから。それだけだ。<br />
ふとある情景が浮かんでくる。赤い夕焼けだった。<br />
「姉さんはずっとこの家に居て、ずっと私の傍に居てください。<br />
 私だけの姉さんでいてくださいませ。」<br />
津紀子はどんな顔で、どんな返事をしたのだったか。何故か思い出せない。<br />
そしてそれから然程たたぬ内に、姉は突然他人の物になった。<br /><br /></dd>
<dt>141 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第二章</strong></a>:2010/06/24(木)
22:37:37 ID:JjEbHTg00</dt>
<dd>りん、という鈴の音に、修造は慌てて物思いから覚めた。<br />
櫻子が怪訝そうに自分を見上げている。<br />
「どうなされたの、お兄様。なんだか顔色がよろしくないみたい。」<br />
「…いや、ちょっと樟脳に酔ってしまったみたいなのだよ。」<br />
咄嗟の嘘だった。でも確かに甘い樟脳が噎せ返るように匂っている。<br /><br />
「まぁ!申し訳ありません、折角お兄様がお戻りになるから…」<br />
彼女の来ている桜色の晴れ着は、見覚えがなかった。津紀子が見立ててやったのだろう。<br />
修造が新しい着物と櫻子の愛らしさを褒めると、櫻子は赤い顔ではにかむ。<br />
「それよりお兄様、櫻子の知らないお話を沢山お聞かせ下さいませね。」<br />
不幸な境遇を思わせぬ、屈託のない笑顔に、修造の胸は痛む。<br />
津紀子の物悲しげで弱弱しい印象に比べ、櫻子の瞳にはいつも、仔猫のような好奇心の煌めきがあった。<br /><br />
修造は、大津稲荷で買った林檎飴を櫻子に渡した。<br />
「食べてもいいのかしら。本当にすべて頂いてもよろしいのかしら」<br />
菓子一つでこんなにも無邪気に喜ぶ櫻子。<br />
マツが三度持ってくる食事以外には、どんな食べ物が世にあるかさえ知らないのだ。<br />
都会に住む同じ年頃の娘がどんな服を来て、どんな話題に花を咲かせているのかさえ。<br />
修造は櫻子に様々な小物を買い与えた。十分な着物もあり、手遊びの細々な道具もあり、土間で行水もできる。<br />
しかしそんなもの、到底埋め合わせにはならない。<br /><br />
都会に出る時、一番気になったのはやはり櫻子のことだった。<br />
津紀子もしょっちゅう面倒を見に戻ってきてくれているが、櫻子を本当に守れるのは修造だけだ。<br />
なのに都会に逃げた。<br />
社会に出れば学ぶことも沢山あり、気の置けない友人もできた。正直楽しい。<br /><br />
また思い悩み口数が減った修造に、櫻子もしゅんとなる。<br />
「櫻子のおつむでは、とてもお兄様のお役には立てないわ。」<br />
「そんなことはない。私は櫻子がいるから多くを学んでいるのだよ。<br />
 私は今ね、櫻子の病気を治す為に勉強しているんだよ。」<br /><br />
嘘だ。<br />
”お前は生まれつき病を患っているから、蔵の外には出られない。”<br />
櫻子はそんな嘘を言い聞かされて育った。<br />
父は櫻子がこの蔵で朽ちるまで外に出すつもりはないだろう。<br />
でも、自分が当主になった暁には…。<br />
「わたくしの病気は一生治らないと聞きました。<br />
 でも櫻子は仕合せで御座いますのよ。こうしてお兄様が会いに来て下さるのですもの。」<br /><br />
そして修造はねだられた通り、都会での出来事を櫻子に話して聞かせた。<br />
しかし今度は櫻子が上の空で、話を聞いているのか心許ない。<br />
「少し疲れてしまったようです。申し訳ありません。」<br />
そう言われれば辞すしかない。また来るからと言い残して蔵を出た。<br />
外では、マツがじっと立っていた。修造が扉を離れると、すかさず鍵を下ろす。<br />
ここに居る間くらいは、櫻子の世話を自分でしよう。そう思う。自分も石を投げる側であることは分かっていた。<br /><br /></dd>
<dt>142 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第二章</strong></a>:2010/06/24(木)
22:41:26 ID:JjEbHTg00</dt>
<dd>マツと並んで歩き、院へ進む話や、義母の葬儀の話をする。<br />
マツは、既に死体が無くなった事を知っていた。マツは、宗像を疑っているようだ。<br />
「見たんでございますよ、あの色ボケを。」<br />
葬儀の夜、この家に泊まったマツは、夜更けに厠に起きた。<br />
その時に縁側を通ると雨戸が開いていたのだと言う。<br />
日本家屋の縁側の雨戸というのは、窓のように開くものではない。<br />
戸板を枠にがっちりと嵌めこむので、外に出ようと思えば少なくとも一枚は外さなくてはならない。<br />
その晩、雨戸は一部外され、そこから例の古桜が見えた。<br />
そこで首を吊った女が、今襖一枚隔てた座敷に寝かされているのだ。ゾっとしたと言う。<br />
これは不用心と雨戸を戻しかけた時に、マツは見た。月明かりの中を歩く宗像氏のシルエットを。<br /><br />
成程、死体を運び出すのなら、そこから出るのが一番近い訳だ。<br />
そこまで話した時、マツが急に萎縮してしまった。<br />
「こ、これは御隠居様」見れば、縁側に面した自室の障子から、祖父剛蔵が顔を出していた。<br />
マツにとって、人間では一番偉いお方だ。修造にとっては、一番接点の無い人だった。<br />
祖父は、庭の古桜を眺めていた。<br />
義母が首を吊った枝は、遺体を下ろす時に割れ、半端に下がっている。<br />
「都合のいい時でかまわんから、切り落としてくれや。」そう言って祖父は障子を閉めた。<br />
「鋸と脚立は納屋だったね。」<br />
予定がある訳でなし、今やろうと思った修造を制して、マツが納屋へ歩いていく。<br />
不意に後ろから声をかけられて、修造はどきりとした。津紀子だった。<br /><br />
津紀子の陰のある笑顔を修造は憂う。<br />
櫻子を含めた他の女性に抱く気持ちと、津紀子への気持ちが全く違うものであるのは分かっていた。<br />
姉は夕飯を作るとはりきっている。彼女はいつ料理を覚えたのだろう。<br />
この家では家事は全てマツの仕事。鬼子に花嫁修業など不要とばかりに、何もやらせてもらえないまま嫁に出された。<br />
宗像の家ではさぞかし苦労をしただろう。<br /><br />
マツが脚立を抱えて戻ってきたのを見て、津紀子は逃げるように去った。<br />
マツから脚立を取り上げ、桜の下に置いて登った。<br />
近くなっていく桜の花弁を見ながら、実母の死を想う。その時、視線を感じた。<br />
振り向いて、常にない高い視点から庭を見下ろす。しかし脚立を支えるマツ以外に人気は無い。<br />
気を取り直して、また一段脚立を登った時<br />
足を乗せた板が音を立てて砕け、修造の体は宙に放り出された。<br /><br /></dd>
<dt>145 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第二章</strong></a>:2010/06/25(金)
01:42:25 ID:/YfytV1H0</dt>
<dd>背中から落ちたが、大事には至らなかった。<br />
左肩から背中がひどく痛む。湿布薬で誤魔化す内に気づけば朝だった。<br />
中庭を望む障子を開けると、父が庭で素振りをしていた。<br />
老いの見えない逞しい体。手には二尺五寸ばかりの真剣。<br />
普段は床の間にあるそれで、鮮やかに空を一閃する。<br />
父のようにはなれない。昨日もろくに受け身も取れなかった。<br />
案の定、その事を叱られた。<br />
「お前の使い方が悪い。あの脚立はつい先日も駐在が使ったのだからな。」<br />
義母の死体を下ろした時の事だろう。しかし、修造には気になることがあった。<br />
抜けた板には、まだ大して体重をかけていなかったのだ。まるで、元から裂け目があったようだった。<br /><br />
「おはよう、修さん。起きて大丈夫なん?」津紀子が歩いていくる。<br />
湿布を貼り替えると言われて拒むが、津紀子に圧されて服を脱いだ。<br />
白い指が己の背に触れる。吐息を感じる。<br />
上擦りそうな声を抑えて、櫻子の着物の話をする。やはり津紀子が見立てたものだった。<br />
「櫻子、大層よろこんでなぁ。修さんに一番に見てもらうんやって。<br />
 だから修さんが帰るまで大事に仕舞っとくんやって、マツにそれは沢山樟脳をねだったそうやわ。」<br />
あの濃密な樟脳の匂いはそれだったのか。<br />
朝食は、櫻子と一緒に土蔵で食べようと思った。<br /><br />
膳を運ぼうと立つ津紀子を呼びとめ、修一は照れ臭げに鞄から土産を取り出した。<br />
大津稲荷の露店で買った、桜色に菫の格子が雅な和紙の万華鏡だ。<br />
喜んでそれを覗きこむ姉の姿に、修造の心も躍った。<br /><br />
「まぁお兄様!お姉様も!おはようございます!」<br />
暗い土蔵の中、櫻子は花のような笑顔で二人を迎えた。<br />
櫻子には、修造の怪我の事は話していない。この笑顔を曇らせたくはなかった。<br /><br />
膳は二つ。津紀子は給仕はするが自分は食べない。宗像が未だにだらしなく寝こけているからだ。<br />
どこにいても女は哀れだ。<br />
男より先に箸をつけることはできないし、男より先に湯に浸かることはできない。<br />
夜は男より先に寝ることは許されず、朝は男より先に起きねばならない。<br /><br /></dd>
<dt>146 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第二章</strong></a>:2010/06/25(金)
01:44:54 ID:/YfytV1H0</dt>
<dd>暗い気持ちを拭ってくれるかのように、櫻子がはしゃぐ。<br />
思わず声を立てて笑おうとして、肩に激痛が走った。<br />
目敏い櫻子は、修造の怪我を見抜き、途端におろおろと取り乱した。<br />
「大したことは無い。少し足を滑らせただけなのだよ。」<br />
「ああ、でもお兄様、どうして脚立などお登りになったの?」<br />
心配する櫻子を宥めて、膳を前に座る。<br />
櫻子は、布団の上にちょこんと座り、切り取られた朝の光に目を細めている。<br />
津紀子が味噌汁を取りに戻ったから、扉が開いているのだ。<br />
「今日はお天気だから、その布団をあとで干してあげよう。」<br />
「いえそんな、お怪我もされているのに、お兄様にそんなことを…」<br />
困ったような櫻子に、遠慮することはないと笑いかけると、戻った津紀子にたしなめられた。<br />
「嫌ですよ、修さん。年頃の娘なんやから、殿方に布団を触れられるなんて恥ずかしいんよ。<br />
 櫻子、あとで姉さんがお天道様にお布団頼んどいてあげるからなぁ。」<br />
櫻子はにっこり微笑む。<br />
「わたくし、お姉様大好きよ。お兄様も大好き。<br />
 義弟たちとは口を利いてはいけないと言われているから、もうちっとも会ってないけれど、でもとっても可愛らしいと思うし。<br />
 みんな大好きよ。」<br /><br />
櫻子の笑顔に、激しく胸が痛む。修造は決意した。<br />
「次の春には…<br />
 卒業したら、こっちに戻って来る。それまでの辛抱だよ。」<br />
櫻子はくすくす笑う。<br />
「おかしなお兄様。あと1年したら、お兄様は櫻子の病気を治して下さるの?<br />
 お医者様ではないんだから無理だわ。櫻子のことなど、お戯れに気にかけてくださるだけでいいの。<br />
 お兄様は、お家の為にもっと立派になられなくては。」<br /><br />
それよりも、と櫻子が不思議そうな顔で箸を置いた。<br />
「きつねが、おりますの?」<br />
意味が分からない。こんこんと鳴くきつねかと問うと、そうだと言う。<br />
何を食べるのと聞かれ、主に肉だよと答えると、櫻子は不安げに瞳を揺らした。<br />
「では、櫻子は食べられてしまいませんの?」<br />
5日前―櫻子は知らないが、義母の葬儀の当日、真夜中に大きな狐を見たと言うのだ。<br />
この、暗く閉ざされた土蔵の中で。<br />
蔵の鍵は、一つはマツが肌身離さず持ち、一つは居間の壁にかかっている。<br />
鍵を開けるのはマツか津紀子だけだ。その時狐が入れば気づくだろう。<br />
つまり…夢を見たのだ。葬儀のしめやかな空気がここまで忍びこんできたのだろう。<br /><br />
朝食を終えた修造は、納屋に向かった。<br />
そこで壊れた脚立を検分する。やはり折れた個所には、ノミを入れたような切り口があった。<br />
あの程度の高さでも、打ち所が悪ければ死ぬこともある。一体誰が…。<br />
「修さん?」<br />
声がして飛び上がる。津紀子が、「食後のお茶をと思うて」捜しに来たのだった。<br />
「それよりも、こんなところでどうしたん?」<br />
それよりも、津紀子こそ何故ここが分かったのだろう。納屋に来ることは誰にも告げていない。<br />
納屋と蔵は庭を挟んで対角線上にある。時間的にここにまっすぐ来たとしか思えないのだ。<br />
自分を呼びに来た以外の目的があるのではないか。<br /><br /></dd>
<dt>147 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第二章</strong></a>:2010/06/25(金)
01:47:36 ID:/YfytV1H0</dt>
<dd>「さっきの、櫻子の話やけどねぇ、やっぱり悪い夢を見ていたんやと思うんよ。」<br />
ひとまず話に乗る。自分も夢だと思っていた。<br />
「うん。その明けた朝ね、ちょうどあの子…ええっと、月のものが来たんよ。<br />
 女ってのは、その頃がちょうど不安定になるものだからさ。<br />
 敷布にも染みがついてしもうて、洗ってもよう落ちんと、それで余計修さんに布団触られとうなかったんじゃ…」<br /><br />
津紀子の声が途切れた。母屋の方で叫び声がしたのだ。<br />
「修造!修造はいないか!」<br />
声を嗄らして呼ぶ父のもとに走る。父の取り乱した姿が新鮮だった。<br />
「死んだ!死んどるんだ! あれは―…殺されとる」<br />
そっと修造は後ろに視線を流し、またすぐに戻した。見たくなかったのだ。<br />
修造の後ろで、女が笑っていた。<br />
静かに唇を吊り上げて。絵草紙であろうか、どこかで見た―そう、鬼であった。<br /><br />
父に連れられて入ったのは、修造が寝起きした六畳の客間だ。<br />
畳んだ布団に伏すように、マツが倒れていた。<br />
光景が目に浮かぶようだ。布団を上げようとして、屈んで手を差し入れる。そこを後ろから一発。<br />
傍に、雨戸を閉めるのに使う重い棒が転がっていた。<br /><br />
「主人の物です。」<br />
津紀子が指したのは、棒の脇に転がっていた一本の煙草。確かに宗像のものだ。<br />
「し、知らんぞ!おい津紀子、なんてこと言ってくれるんだ。図ったのか?」<br />
戸口に、この騒ぎでやっと起きた宗像が立っていた。<br />
「いいえ、私はただ、これが貴方の物だと言っただけで…」<br />
「ええい!いい加減にしろ!全く忌々しい女だ!!」<br />
宗像は激しく足を鳴らして津紀子に詰め寄り、その野蛮な手で細い腕を掴み引き倒した。<br />
そのまま雪のように滑らかな髪を引っ掴み、引き摺り回し、殴りつける。<br />
津紀子はただ、僅かに呻きを漏らすだけで、唇を噛みしめていた。<br /><br />
なんという醜態だろう。この男はやはり気違いの狐憑きなのか。<br />
「やめてください、宗像さん!姉さんが死んでしまう!」<br />
「この女は宗像の女だ!自分の妻をどう扱おうがこっちの都合だ。<br />
 こいつはそう――躾けなんだよ!」<br />
修造が更に絶望したのは、この狂態への父と祖父の反応だった。<br />
彼らは眉を潜め、まるで疎ましいものを見ぬふりをするように、部屋を出て行ったのだ。<br /><br />
痛めつけられ、投げ出されて津紀子の衣がはだけた。<br />
いつも、姉の肌を美しいと思っていた。誰も足を踏み入れたことの無い新雪のようだと。<br />
触れたいと思う心をいつも秘め隠していた、修造の聖域。その美しい肌は――<br /><br />
腹部や肩、乳房にさえもいたる所に、裂傷や痣、火箸を押し付けたような蚯蚓腫れの火傷まで――<br />
津紀子は動かず、ただ虚ろな目で天井を見上げている。<br />
修造の愕然とした凝視に気付いて、宗像はぶ厚い唇を剥いた。<br />
「これでも大分マトモになったんだ。<br />
 これをもらってやる時言われたんだ。好きにしていいと。誰にも文句を言われる筋合いは無い。」<br />
そして下卑た笑みを浮かべで囁いた<br />
「……この女はな。悦ぶんだよ。こうすると。」<br /><br /></dd>
<dt>203 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第二章</strong></a>:2010/06/29(火)
16:16:46 ID:q8KAoaGd0</dt>
<dd>「嫁に来た時は、満足に飯も作れん。掃除も洗濯もさっぱりで、<br />
 おまけに腹ボテだったと来た!とことん使えない女なんだよ。いくら大金付けられてもとんだお荷物だ。<br />
 だから好きなようにやってるし、こいつもこの家の人間も何にも言わない。」<br />
津紀子が櫻子の世話をしに通ってくるのは、夫の虐待から逃れる口実でもあったのだろう。<br />
虚ろな頭で修造がそう考えていると、宗像が臭い口を寄せてきた。<br />
「お前、津紀子に惚れているだろう。実の姉に。<br />
 いいぜ。<br />
 こいつはな、イカレちまってるんだよ。もう随分いたぶってきたからな。<br />
 最近は痛めつけられると、こうやってさっぱり惚けちまう。」<br /><br />
姉はまだ、魂の抜けたようにピクリとも動かない。<br />
「こうなったらよ、この女はもうお人形さんさ。<br />
 ナニをしても感じねェし、覚えてもいねぇ。だからよ」<br />
宗像は半裸の津紀子から、纏わりついた着物を引き剥がし、全てを曝け出した。<br /><br />
「抱かしてやるよ。好きなだけヤらしてやる。お前欲情してんだろ?<br />
 大丈夫だよ。前のガキが流れちまってからコイツは孕まないんだ。<br />
 鬼子だけあって、ガキもやっぱり人間じゃなかったんだな。」<br />
修造は、落ちていた棒を掴むと、宗像の側頭部に叩きつけた。<br /><br />
脳裏に蘇るのは、赤い夕焼けだった。<br />
「姉さんはずっとこの家に居て、ずっと私の傍に居てください。<br />
 私だけの姉さんでいてくださいませ。」<br />
それを聞いた津紀子がどんな顔をしたのか思い出せない。<br />
ただ、目の前の障子に映る影がやけに大きくて恐ろしかった。<br />
よくよく見れば大きくて当たり前で、それは二人分の影だった。<br />
誰の影だろう。美しい女だった。白い肌を赤く火照らせ、切ない喘ぎに紛れ、男の名を何度も呼んでいた。<br />
男は女を犯していた。男は修造だった。<br />
その後すぐに、姉は他人のものになった。<br /><br />
津紀子は意識を取り戻し、膝を抱えて座っている。寄り添うように修造も傍らに座っている。<br />
目の前には、死体が二つ。<br />
子供が出来たのだという。津紀子以外には知らなかった。<br />
だから津紀子は家を出たのだ。今すぐ嫁げるなら誰でもよかった。<br />
宗像は粗野で横暴で酒乱で淫蕩だが、愚鈍でもあった。<br />
婚礼後、すぐに目立ち始めた腹も、自分の子と疑わなかったのだ。<br />
ところが生まれた子は――実の姉弟の禁忌の子、まともな形をしていなかった。<br />
宗像は奇形の子を我が子とは信じず、次第に津紀子を憎むようになり、虐待が始まった。<br /><br />
津紀子の話を、呆然とした頭で聞く。<br />
父は一度戸口に現れ、倒れたマツと宗像を一瞥すると<br />
「裏山に涸れ井戸がある」そう呟き、荷車を取って来ると言い残して去った。<br /><br /></dd>
<dt>204 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第二章</strong></a>:2010/06/29(火)
16:20:49 ID:q8KAoaGd0</dt>
<dd>「私は、鬼やから<br />
 ねぇ、修さん。こンひとは、私が殺したんよ。…ええね?」<br />
すがりついて止める。そんな事はさせられない。<br />
「全部私が持ってくけんねぇ、草太と信太の事も許してやってね」<br />
姉の言葉に修造はむせび泣く。しかし次の言葉は分かりかねた。<br />
「出ておいで。」<br /><br />
「お姉ちゃんがしっかり教えなあかんかった。仕方ないもんなあ。<br />
 あんたには良い事なんか悪い事なんかもちぃとも分からんのだったんやろう。<br />
 なあ…―――――櫻子。」<br /><br />
目を疑った。庭に、櫻子が立っていた。<br /><br />
「誰が死んだの?誰が殺したの?」<br />
好奇心に目を輝かせ、無邪気な笑みを浮かべている。<br />
櫻子は修造に抱きつき、猫のように舌でちろちろと修造の唇を舐めた。<br />
「お兄様…ああ、わたくしだけのお兄様。<br />
 もうどこにも行かないで下さいませね。ずっと櫻子の傍に居て、櫻子の為だけに生きてくださいませねえ。」<br /><br />
この女は誰だ。この淫靡な仕草で誘う女は誰だ。<br />
修造は櫻子を、座敷へ突き飛ばした。少女の体は軽く、けたたましい鈴の音と共に畳に倒れこむ。<br />
むっくりと首をもたげた櫻子は、笑っていた。<br />
「愛しております、お兄様。<br />
 どうかあの晩のように優しく口づけて下さいませ。」<br /><br />
もはやその表情は正常ではなかった。<br />
「憐れな」<br />
津紀子が呟く。<br />
「憑けられたか。」<br /><br />
荷車を縁側につけた父が、櫻子を見て固まり、非難の視線を寄こす。<br />
櫻子はあろうことか、するすると帯を解き、桜色の晴れ着を畳に落とした。<br />
真っ白で未熟な、無垢な裸身だ。<br />
「ほぅら、こんなにも美しい。<br />
 津紀子お姉さまの醜い体と違って、傷一つなく、穢れていない。<br />
 全てお兄様に捧げる為にあるのに。」<br />
津紀子は悲しげに呟いた。<br />
「そう言われたんね。―――狐に。」<br /><br />
「服を着なさい、櫻子。父と兄とは言え、殿方の前。<br />
 いいかい、狐など、いなかったんよ。」<br />
姉の言葉に、突然櫻子は甲高い哄笑を上げた。<br />
髪を掻きむしり、飛び跳ね、もがく。<br />
「この子は決して、閉じ込められていたわけではなかったんです。<br />
 恐らくは布団の下。床板が外れるんやないかと私は思うております。<br />
 ところで、櫻子はたくさんの樟脳を所望しておりました。<br />
 それならば長持あたりを捜すのが定石ではないかと。」<br /><br /></dd>
<dt>205 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第二章</strong></a>:2010/06/29(火)
16:26:55 ID:q8KAoaGd0</dt>
<dd>義母の死体の話だ。<br />
だが、何故?そして櫻子のような非力な娘がどうやって?<br />
はっとして、修造は傍らに転がる、忌むべき男の死体を見た。<br /><br />
父はただ、それも井戸に捨てんといかんなと言った。<br />
家と子供を守る為に、父は鬼になる。<br />
姉は、そんな事をせず、自分を犯人として突き出してくれと言う。<br />
弟や妹を守れるのなら、鬼子は本当の鬼になる。<br />
ならば、鬼は私だろう。修造はそう思う。<br />
罪を犯した片割れを殺し、自分も罪を償おう。<br />
笑い続ける櫻子を引き倒し、首を締め付けた。<br /><br />
「何を勘違いしとんね!この子は何もしてんのよ!!」<br />
姉に叱りつけられて、修造は手を離した。櫻子が激しく噎せる。<br />
「ならばマツを殺したのは誰なんですか!脚立の傷も櫻子がやったのでしょう!」<br />
「櫻子は誰も殺しておらん!<br />
 ただ、お義母様の死体を隠しただけ、樟脳で臭いを誤魔化しただけ。<br />
 櫻子はね、蔵から好きな時に抜け出せて、葬式で修さんが帰るのも知っとった。<br />
 でも、修さんが中々帰ってこんから焦ったんよ。葬式に間に合わなければそのまま帰ってこんのやないかって。<br />
 <br />
 …死体がなくなれば葬式は終わらんと思ったんよ。<br />
 そこを、好色な狐につけ込まれた。」<br /><br />
鍵は誰にでも持ち出せた。居間の壁に無造作にかかっている。<br />
櫻子の望みを叶えた狐は、代償を求めたのだろう。<br />
敷布の、血の染み。<br />
その間中、櫻子は狐の睦言を呪詛のように聞いた。――津紀子と違って、傷一つなく穢れていない。<br />
何も知らない櫻子も、それがどんな行為かうっすら理解した。<br />
幼い心は蹂躙され、回復不能な程の負荷を受けた。<br />
そしてそれを解決する術として、恋しい兄に抱かれたと思い込もうとした。<br /><br />
「夫の罪は、妻の罪。堪忍ねえ、どうか堪忍ねえ櫻子」<br />
呆けた櫻子に着物を着せつける。<br />
姉は頑なに自分が罪を被ると主張する。誰かを庇っているように。<br />
「…宗像の煙草を置いたのは、姉さんですね。」<br />
(「全部私が持ってくけんねぇ、草太と信太の事も許してやってね」)<br />
愕然とした。<br />
傍らの襖から、二対のあどけない目が覗いていた。草太と信太。<br />
姉はマツが死んだのをもっと早く知ったのだろう。そして納屋に確かめに行った。<br />
脚立は、普段はマツの使うものだ。<br />
もし、壊れたら面白いなとか。それで落ちたら面白いなとか。<br />
棒で殴ってやったら痛いだろうけど、追い回されて叱られて、それで済むと思っていたのだろう。<br />
殺すつもりなんてなかった……いや、わからない。<br />
鬼子として見殺しにされる長姉、忌み子として飼殺される次姉。そして母は桜に取り殺されるように死んだ。<br />
双子殺しを伽にする鬼婆は、幼い胸に何をもたらしたのだろう。 <br />
ああ、ここは、恐ろしい家だ。<br /><br /></dd>
<dt>206 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第二章</strong></a>:2010/06/29(火)
16:35:23 ID:q8KAoaGd0</dt>
<dd>双子の無邪気な瞳が隙間から消えたのと、宗像が起き上ったのはほとんど同時だった。<br />
凍りつき動けない父、姉、修造を前に、宗像は頭を擦り、のっそりと障子を開け姿を消した。<br />
不安に目を見かわしているうちに、宗像はゆっくりと戻ってきた。<br />
宗像は、古い狐の面をしていた。<br />
聞いたことがある。未だに山奥の村に残る風習、夜這い。<br />
昼の顔を知られぬよう、男達は天狗や狐の面をつけ他家の寝所に忍びこむのだ。<br />
樟脳の匂い立ち込める蔵の中、死体の詰まった長持を傍らに、無垢な娘を陵辱した狐。<br />
その手に、父の日本刀がぶら下がっていた。抜き身である。<br /><br />
櫻子が火がついたように泣きだした。<br />
修造は咄嗟に彼女を抱きしめ、裸足のまま外に飛び出した。<br />
桜の脇をすり抜け、小さな手を引いて我武者羅に走る。<br />
父も逃げる。津紀子も逃げる。追って来るのは本物の鬼だ。<br /><br />
悲鳴が聞こえて、修造は振り返った。<br />
あの古桜の下で、津紀子が鬼に引き摺り倒されていた。<br />
真っ白な肌から、真っ赤な血飛沫が噴き出す。<br />
たまらず立ち止まった修造に、津紀子が笑いかけた。母の笑顔に瓜二つであった。<br />
その手には、庭で拾い上げたのだろうか、草刈り鎌が握られていて<br />
己を掴む夫の首を躊躇なく掻き切ったのだった。<br /><br />
桜の下に、真っ赤に染まった夫婦が倒れている。<br />
父も修造も、何も考えられず、それを見つめている。<br /><br /></dd>
<dt>207 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第二章</strong></a>:2010/06/29(火)
16:37:36 ID:q8KAoaGd0</dt>
<dd>「死んだかしら?」<br />
修造は耳を疑った。<br />
何故、このような状況で、そんなに嬉しそうな声が出せるのか。<br />
「死んだのかしら?」櫻子の目は楽しげに輝いている。<br /><br />
驚愕し開いた修造の口に、櫻子が小さな唇を押し付ける。<br />
「愛しておりますのよ、お兄様。<br />
 でもお兄様は、お姉さまのようには愛してくれますまい。<br />
 お姉さまのようにはしてくれますまい。<br />
 でも」<br />
自分の下腹部を撫でる。<br />
「もしも、わたくしに狐の子が宿っていたら、<br />
 その時はお兄様が父親になって下さいませねえ。<br />
 そうしたら、大好きなお兄様の字を一字頂いて名付けとう御座います。」<br /><br />
物も言えない修造に、櫻子は諦めたような嘲笑を投げかけ、<br />
身なりを正し、埃を落とすように裾をはたくと、晴れやかに顔を上げた。<br />
「それでは、蔵に戻りますね。<br />
 わたくしが外に居ると、お兄様も何かと不都合で御座いましょうから。<br />
 また、お待ちしておりますわね。」<br /><br />
鈴の音を鳴らし小さな背中が遠ざかっていく。その先には巨大な白壁の砦が佇んでいる。<br />
振り向けば、桜の下に凄惨な二つの死体と、それを見つめる二人の少年が居た。<br />
その顔は、妹の笑みにどこか似て屈託がなく、<br />
ここは、鬼の棲み家だな。 ―――そんな事を思ったのである。<br /><br />
&lt;第二章・終&gt;<br /><br /></dd>
<dt>208 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談</strong></a>:2010/06/29(火)
16:39:23 ID:q8KAoaGd0</dt>
<dd>とりあえずここまで。<br />
あと第三章と、外伝が二つあります。<br /><br /></dd>
<dt>217 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第三章</strong></a>:2010/06/29(火)
22:11:28 ID:q8KAoaGd0</dt>
<dd>【第三章・箪笥女】<br /><br />
今年の夏休みから、修の家に、親戚の一家が同居することになった。<br />
お祖父ちゃんの弟で、定年を迎えたから故郷に戻ってくることにしたらしい。<br />
屋敷は修の家族5人― 父さん、母さん、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、そして修 ―には広すぎるくらいだし、<br />
何より、大好きな香澄姉ちゃんが越して来るんだから、修は大歓迎だった。<br /><br />
香澄ねえちゃんは、父さんの従妹になるけど、まだ中学一年生。修と2歳しか変わらない。<br />
年取って出来た娘は可愛いっていうけど、それに加えて男やもめのおじさんは、<br />
香澄姉ちゃんをそれはもう溺愛している。まぁ修だって、姉ちゃんは可愛いと思うのだけど。<br /><br />
家に着くなり、おじさんは香澄と修をマジックショーに連れて行ってくれた。<br />
おじさんは子供っぽいところがあるので、自分が行きたかったんだと修は踏んでいる。<br />
そんな推察をしたり、マジックだって種も仕掛けもある手品じゃん、なんて考えたり<br />
修は世の中を斜めに見てしまう所がある。<br />
学校の先生にも、年より大人っぽい(要するに生意気で理屈っぽい)と言われた。<br /><br />
自分でも、ちょっとかわいくない性格だと思う。<br />
でも、父さんみたいな父親を持てばしょうがないことだ。<br />
修の父、修一は、世間的には変人に類する。<br />
無口で、はっきり言って暗いし気難しい。日がな一日離れに籠っては何か書き物をしている。<br />
相続した山を国が買い上げたものだから、ろくな収入がなくてもかまわない。という程度の作家だ。<br />
修も父さんの作品を読んだことはある。<br />
うちの裏庭の土蔵を舞台にした薄気味悪い小品だった。香澄ねえちゃんは数少ないファンとして大絶賛していたけれど。<br />
おじさん曰く、その作品にはベースがあるらしい。<br />
父さんが若かった頃、蔵に居た父さんを、おじさんが悪戯で閉じ込めてしまったんだそうだ。<br />
全くおじさんは子供っぽい。<br /><br /></dd>
<dt>218 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第三章</strong></a>:2010/06/29(火)
22:12:32 ID:q8KAoaGd0</dt>
<dd>帰りの車の中で、修は香澄姉ちゃんに流行ってるおまじない等を話してあげた。<br />
そのまま学校の怖い話なんかをしている時、叔父さんがとっておきの怖い話をしてやると言い出した。<br /><br />
『箪笥女』<br />
ある女がいた。女は病で痩せこけており、外見は殆どガイコツのようだった。<br />
それだから友達もなく、女はどんどん暗くふさぎこんでいった。<br />
しかしある日恋をした。化け物と蔑まれる女に唯一普通に接してくれた男だった。<br />
奇跡の様な勇気で男に想いを告げ、男もほだされたのか、女を受け入れてくれた。<br />
まるで夢のように幸せな日々が過ぎた。<br />
ある日、男が転勤することになったと言い出した。<br />
天国から突き落とされるように、女は嘆き悲しんだ。<br />
スーツケースを用意して、旅支度をする男に、女は連れて行ってと懇願する。<br />
「君をこの鞄に入れて、一緒に連れていきたいくらいなのに」<br />
嘆く男の前で女は立ちあがり、スーツケースに足を入れた。<br />
大きめなだけの、手に下げられるスーツケース。<br />
紙のように細い体を折り畳み、女はその中にすっぽりと入ってしまった。<br />
男はゾッとする。<br />
男は、女を愛してはいなかった。<br />
怖いもの見たさで遊んでやっただけ。そして調子に乗って女房面する女にうんざりして、<br />
転勤と偽って姿をくらませようとしていた所だった。<br />
約束よ、と笑う女に、約束だと男も笑って蓋を閉めた。<br />
そして鞄を海へそのまま捨てた<br /><br /></dd>
<dt>219 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第三章</strong></a>:2010/06/29(火)
22:13:13 ID:q8KAoaGd0</dt>
<dd>箪笥女の続きを聞いているうちに、家に着いた。<br />
お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが待ち構えていた。<br />
偏屈な息子、掴みどころのない嫁、おまけに孫は生意気で可愛げがない。<br />
香澄姉ちゃんを大歓迎する気持ちもわかるというものだ。<br /><br />
はりきった祖父祖母は、香澄姉ちゃんの部屋を予め用意していた。<br />
修の隣の和室に、古めかしい鏡台、箪笥なんかがもう運び込まれている。<br />
それらは実は、蔵にあったものだ。遺言では手をつけちゃいけないことになってるのに。<br />
「もったいない、もったいない」<br />
いつものようにそう言って、運び出してしまったのだろう。<br />
気味悪がるかと思ったが、香澄ねえちゃんは古風な家具に喜んだ。<br />
箪笥に手をかけ、引き出しを開けようとしたが、何かが引っかかって開かない。<br />
修は、箪笥女の続きを思い出していた。<br /><br />
しばらく平和に暮らした男は、家が臭いのに気付く。<br />
生臭いような、磯臭いような臭い。<br />
ある日、ドンドンと籠った音がした。箪笥の中からだ。臭いもそこから漏れていた。<br />
あの女だ。まともな思考で無いのに男はもう気付かなかった。<br />
箪笥の引き出しは、動きやすいよう上に隙間が開いている。<br />
そこから女が覗いていると思った。<br />
どうにかして生還し、自分に復讐しに来たのだ。今度は死ぬのを確認して捨てなくては。<br />
引き出しを開けると、そこにはびしょ濡れの女が入っていた。<br />
高さ20cm程の中、押し潰されるようにして。<br />
ちょうど隙間の高さにに目があった。やはり覗いていたように。<br />
その目は乾き、腐った魚のように濁っている。そのはずだ。<br />
女は死んでいた。<br /><br />
現実家を自負する修には、突っ込みどころの多すぎる話だが<br />
男が箪笥を見た時、隙間から女と目があったのではないか、そうなら怖いなと思う。<br />
姉ちゃんは、力をこめて引き出しを引く。<br />
すると、中から木板の割れる音がした。<br />
「……壊しちゃった。」<br /><br /></dd>
<dt>220 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第三章</strong></a>:2010/06/29(火)
22:15:24 ID:q8KAoaGd0</dt>
<dd>夏休みは、子供にとって特別なイベントだ。<br />
だから何か特別なことをやってみたくなるものなのだ。例えば徹夜とか。<br />
うちは、お祖母ちゃんの目が光っているので中々そんなことはできない。<br />
だが、ある夜――――あの夜のことはとてもよく覚えている。<br /><br />
お祖母ちゃんが敬老会の旅行に出かけた日。<br />
お祖父ちゃんとおじちゃんはそれに乗じて呑みに行き、。母さんは寄り合いで夜更けまで帰ってこない。<br />
父さんは離れに相変わらず閉じこもっているので、計算のうちに入らない。<br />
姉ちゃんと、子供二人だけの留守番だった。<br />
何か特別なことをするなら今日しかない。<br />
わくわくした修は、姉ちゃんにドッキリを仕掛けることにした。<br />
もう寝るねと声をかけ、姉ちゃんが風呂に入っている間に、部屋に忍び込む。<br />
この箪笥、この前無理やり引いた時に、一段壊れてしまった。<br />
下から二段目の、底板が外れてしまったのだ。<br />
だから、一番下の段なら、修なら潜り込むことが出来た。<br />
そう、箪笥女の真似をしてやるのだ。怖がること間違いなしである。<br /><br />
何気なく鏡台を見る。これも蔵から運ばれたものだ。鏡の中に変なものがある。<br />
目が合った。<br />
鏡越しに。今まさに、修が身を潜めるつもりだった和箪笥の隙間から。<br />
なるべく何気ない風を装って部屋から出た。<br /><br />
誰かが箪笥の中に潜んでいる。子供しかいない事をどこからか聞きつけたのか。<br />
修は、縁側で雨戸を閉める時使う棒を取り、部屋に戻った。<br />
戦わなくてはいけない。相手が狭い中に寝転んでいる今なら、一気に攻撃すれば修に勝機がある。<br /><br /></dd>
<dt>221 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 第三章</strong></a>:2010/06/29(火)
22:17:32 ID:q8KAoaGd0</dt>
<dd>恐る恐る引き出しを開けた。<br />
予想外に軽い。誰も入ってない。小さな市松人形と目が合った。<br />
驚いて閉める。さっき見たのは人形の目だったのか。下見をした時、人形なんか入っていなかった。<br />
あの人形は何だ。父さんの不気味な小説に出てきたあの人形なのか?<br /><br />
もう一度引き出してみた。<br />
中は空っぽだった。<br />
「何してるの」<br />
修のパニックは、香澄ねえちゃんの登場で最高潮に達した。<br />
風呂から上がったパジャマ姿の姉ちゃんが、不思議そうな顔で修を見ていた。<br />
自分は、主のいない部屋で箪笥に手をかけている。これではまるで、嫌らしいことをしていたようだ。<br />
誤解されてしまう。嫌われてしまう。修は混乱のあまり、泣きだしてしまった。<br />
泣きじゃくりながら、さっきまでの事を有りのままに話す。<br />
姉ちゃんは、大人の女のひとのように、修の頭を撫でながら聞いてくれた。<br /><br />
そして、一部始終を聞き終わると、悪戯っぽい顔で箪笥を開けた。<br />
「よく見てごらん。」<br />
覗きこむと、引出しの奥に人形が落ちていた。修はすぐに事の次第がわかり真っ赤になる。<br />
勢いよく閉めたから、人形が撥ねたんだ。<br />
上の段がなかったからそのまま枠を飛び越えて、後ろの遊びの部分に落ちたんだろう。<br /><br />
「伯母さんにこのお人形もらったんだけどね、こんな事言ったらよくないけどさー<br />
 なんだか気味が悪くて。だから引き出しに入れといたの。<br />
 でも可哀想だったよね。どうせなら、座敷とかに飾ってもら………」<br /><br />
首を巡らせた姉ちゃんの表情が凍っていた。<br />
姉ちゃんの目は、鏡台を見据えている。先程の修と同じ位置だ。そこからは箪笥が映っているだけだ。<br />
けれどもまるで、何か信じられない物でも見てしまったかのようだった。<br /><br />
&lt;第三章・終&gt;<br /><br /></dd>
<dt>222 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 外伝1</strong></a>:2010/06/29(火)
22:20:00 ID:q8KAoaGd0</dt>
<dd>【外伝・桜花偽説】<br /><br />
母は、鬼のような人だった<br /><br />
躾けに厳しく、癇癪持ちで、私も弟もしょっちゅう叱られた。<br />
父が止めに入らねばならない程激しくぶたれたこともある。<br />
罪の無い悪戯にも容赦はなく、そんな時は、裏庭にある蔵に放り込まれた。<br />
じっとりとした静寂と闇は、耐えがたい程恐ろしく、泣きながら扉を叩いて謝り続けたものだ。<br />
そんな時の母の顔は、勝ち誇ったようで、私と弟が泣き叫ぶのを楽しんでさえいるようだった。<br /><br />
佐倉家は平安より続く由緒ある家柄だ。<br />
山村の分家ではあったが、当時は第二次大戦の真っ只中で、都会から何人も親戚が疎開に来ていた。<br />
母はいつも以上に厳しく、気丈に立ち振る舞い、戦地に赴いた夫の帰りを待っていた。<br />
母は強かった。親戚連中の、あからさまに母を見下した態度にも毅然と立ち向かい<br />
それを器用に受け流す手腕は鮮やかであったが、陰では彼らを口汚く罵っていた。<br />
特に、同じ年頃の、セツ子という女史によくいびられていたように思う。<br /><br />
母は、恐ろしくはあったが、大変美しい人だった。<br />
その仕草一つ一つに、魔性の様な婀娜っぽさがある。<br />
美しいと言えば、若くして亡くなった伯母も、相当に美しい人だったようだ。<br />
仏壇の遺影でしか知らないが、儚げに微笑むその女性は、恥ずかしながら私の初恋のひとであった。<br />
母に叱られた後など、仏間に忍び、写真の笑顔に慰められたものだ。<br /><br />
母に、伯母がいつどうやって亡くなったか尋ねてみたことがある。<br />
「あんたまで、鬼の憑き子なんぞに呪われたか!」<br />
意味は分からなかったが、母のあの恐ろしい顔が忘れられない。<br /><br />
「修治!」<br />
母に呼ばれ、お使いを言いつけられる。<br />
別に嫌なわけではない。ただ、母は弟の義雄には何もさせず、私にばかり雑用を押し付ける。<br />
だからといって義雄が可愛がられている訳でもなく、同じように叱られ、折檻されるのだ。<br /><br />
風呂敷を持って庭に出る。今は古桜が満開の花をつけていた。<br />
門を出ながら思い出す。母は、あの桜の木を執拗に切りたがり、父と激しく言い争っていた。<br />
父は物静かな人で、常として母のすることに口を挟むことはなかったが<br />
この時だけは、語気を強めて母の要望を撥ねつけていた。<br />
そのうち父は兵隊に行き、桜はそのまま残っている。<br />
別段邪魔になる訳でなし、むしろ桜屋敷と呼ばれるほど、あの木はこの家のシンボルだ。<br />
何故母はあんなにもあの木を嫌うのだろう?<br />
言いつけ通り醤油をもらって帰る道、考え続けたが納得行く理由は思いつかなかった。<br /><br /></dd>
<dt>223 :<a href="mailto:sage"><strong>真説・万華鏡奇談 外伝1</strong></a>:2010/06/29(火)
22:20:55 ID:q8KAoaGd0</dt>
<dd>ふと私は回想から覚めた。<br />
今は秋、また降り出した雨の中、古桜は息をひそめている。今日は母の葬儀の日であった。<br />
「兄貴」<br />
振り向くと縁側を義雄が歩いてきた。「もう皆帰ってしまったよ。」<br />
私たち兄弟は、何故かあまり似ていない。<br /><br />
「昔な」<br />
呟くと、義雄は黙って隣に腰を下ろした。目の前にはあの古桜がある。<br />
「こんな雨の日だったかな。醤油のお使いを頼まれて、<br />
 帰ってきたらお袋が、そこの桜の根元んとこにしがみついてたことがあってな。<br />
 泣いてた…みたいなんだよな。見ちゃいけない気がして、お袋がいなくなるまで隠れてたっけ。」<br /><br />
母はうずくまり、泣きながら何事か呟いていた。<br />
(ごめんなさい、ごめんなさい、おねえさま…)<br />
そう聞こえたように思ったが、私は黙っていた。<br /><br />
母の涙をもう一度見たのは、父が戦争から生きて帰ってきた時だ。<br />
やはり母は、父を愛しているのだなとしみじみ思った。<br />
しかし、<br />
「お袋、孤独な人だったもんなぁ。<br />
 親父は戦争から帰ってきたら、なんか蔵にこもりっぱなしだったしな。」<br />
義雄はそう言った後、ふと底意地の悪そうな悪戯っぽい笑みを浮かべた。<br />
「蔵といえば、俺修ちゃんにちょっとお仕置きしちゃったんだわ。<br />
 まぁ、お袋の気持ちをくんでってことでさ。<br />
 でも、さすがにそろそろ出してあげないと、泣いちゃってるかもしれないなあ」<br />
そう笑う義雄の、表情の作り方が母そっくりだと思う。<br /><br />
「こんな桜が満開の頃に降る雨を、花散らしっていうんだってよ」<br />
花散らし。<br />
あの雨が降っていた日、涙していた母が、何を思っていたのか。<br />
私はもう永遠に知ることは無いのだ。<br /><br />
&lt;外伝1・終&gt;<br /><br /></dd>
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復元してよろしいですか?