中国動乱

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中国動乱 - (2008/08/14 (木) 01:55:44) の編集履歴(バックアップ)


マニュアルのイントロダクションだとあの世界情勢にどうつながるのか理解できなかったので、Melting Point & Shattered World のイントロダクションとして書きました。それの中国編です。

AAR マニュアル0.5
2019年末から2020年初頭にかけておきた一連の出来事は当時を生きる人々に大きな影響を与えた。一連の出来事に対する後世の歴史家の評価はさておき、激動の時代に身を投じる指導者たちのために、この僅かな期間に起きた数多くの出来事を記しておきたい。

20世紀後半が人類の統合の時代ならば21世紀は人類の分裂の時代と人々は称するだろう。
20世紀から21世紀にかけて世界を率いた大国の多くがこの僅かな数ヶ月間に地図から姿を消した。

中国動乱
2008年に行われた北京オリンピックの後も、新疆ウイグル自治区、チベット自治区の人々の独立を求める声はおさまることは無かった。国際社会の無関心と黙殺にも屈することなく、人々の自由を求める声は着実に広がり続けていた。そのころ中国共産党の中心部でも深刻な亀裂が生じつつあった。北京に本拠地を置く中国共産党本流の派閥に対し、上海、南京など経済発展著しい南部に本拠地を置く改革開放派との間に起きた対立はやがて修復不可能なほどに広がっていった。2019年年末、中国共産党の上海派は南中華人民共和国の樹立を宣言。中華人民共和国と袂を分けた。中国政府は即座に報復と併合を行おうとしたが、2つの理由からそれは不可能になった。ひとつは人民解放軍の半分が南中国に配備されており、上海派に与したこと。戦力が拮抗する“2つの中国”が衝突すればその犠牲が並大抵のものではないことと彼らは理解していた。そしてもうひとつ。この混乱に乗じて独立を勝ち取ろうと反乱の火の手が上がったことである。

自由の戦い ウィグルスタン(東トルキスタン人民共和国)成立
1949年に人民解放軍に制圧されて以来、東トルキスタン、新疆ウイグル自治区にいきる人々にとって暗黒の時代が続いた。中国の天然資源の3割から4割を有するこの地域は中国にとって重要であり、徹底的な支配と弾圧が行われてきた。50回を超える核実験において75万の人々が放射能障害で死亡、そのほかの弾圧で命を落とした人々の数は数え切れない。9.11以降、“テロとの戦い”という大義名分を手にした中国政府はこの地に徹底的な弾圧を加えた。しかし、この地に生きる人々の独立を願う心の炎を消すことは出来なかった。2020年初頭、南中国の独立に乗じる形で東トルキスタン亡命政府は新疆ウイグル自治区の独立を宣言。国名をウィグルスタンと称し、かつての東トルキスタンの国旗、青地に白の三日月と五角星「キョック・バイラック」を掲げた。

ダライ・ラマの帰還 チベット独立
ウィグルスタンの成立と前後して一人の齢80を越える老人がヒマラヤを越えチベット自治区のラサに入った。その男の名はダライ・ラマ14世。彼がかつて「このままではチベット文化はあと10年もすれば消滅してしまうだろう」と語ってから奇しくも10年後、北京五輪によって中国の支配が既成事実として西側先進国に認知されてから12年後の帰還であった。新疆ウイグル自治区と同様、先進国の政府・企業の意図的な無関心によって黙殺され続けてきたチベットであったが、南中国の成立によって出来た政治の空白を千載一遇の、そして最後のチャンスととらえ、チベット亡命政府は冬のヒマラヤを越えた。プロの登山隊でもひるむその道のりを彼らは踏破した。80を越えたダライ・ラマ14世のどこにこの過酷なたびに耐える体力が残されていたのだろうかと人々は驚いた。しかし、彼と彼が体現する国が70年間歩んできた道のりを考えればヒマラヤの山々を越えることなどたやすいことだったに違いない。
一貫した非暴力運動でチベット亡命政府を率いてきた法王であったが、民族浄化によって消滅の危機に瀕しているチベットを救うためには非暴力だけではなんら事態は解決しないとの結論に達する。
「・・・非暴力はあくまで非服従とついにならねば何の効果も発揮しない、そして、非服従とは死の覚悟である。我々は一貫して中国政府に対し非暴力、平和主義の精神で自治を要求してきた。しかし彼らの返答は一貫して銃口であった。ことここに至り、チベット政府は、暴力主義の帝国に対して平和主義を掲げるのは、チベット、そして全世界の平和のためになんら貢献しないことを学んだ。・・・」
ラサのポタラ宮より全世界に対して発せられた独立宣言。中国により侵略併合されてから続く人々の血と涙がついに報われたときであった。ヒマラヤの山々に翻る雪山獅子旗。しかし、これはゴールではない。チベットの生存をかけた戦いはむしろこの瞬間に始まったのである。

チンギス・ハーンの末裔たち 南モンゴル共和国(内モンゴル共和国)
1947年に旧満州国とともに南モンゴルは人民解放軍によって制圧された。それから約70年。中国によって行われる支配は、チベット、新疆ウイグルと同様の苛烈なものであった。人々は歴史を奪われ、文化を奪われ、財産を奪われ、そして命を奪われた。特に21世紀に入ってからの中国政府主導の大開発によって引き起こされた環境破壊は草原に生きる人々の生活を徹底的に破壊した。だが、誇り高き王者、チンギス・ハーンの末裔たちの心の中まで屈服させることは出来なかった。2020年。ウィグルスタン・チベットに続き、3番目の独立国として南モンゴル共和国が誕生した。
「・・・1947年、中国政府はモンゴル人の意志に反し、内モンゴル自治区を成立させました。それ以来、内モンゴルのモンゴル人は、民族としての参政権、公民権など個人の人権が奪われてきたのです。半世紀以上にわたり、内モンゴルのモンゴル人は民族史における最も恐ろしい事件を目撃することになりました。それらは、罪なき市民の大量殺戮、宗教施設の完全な破壊、モンゴルの文化と伝統を滅亡の縁に追いやる計画的、強制的な同化政策、草原の壊滅的な破壊などです・・・。」
草原に旗が翻る。自由を求める人々の旗が。かつてユーラシア大陸の大半を席巻した草原の民が、再びその手に剣をとった。

五族協和の理想再び 満州国独立
中国共産党内部の権力闘争が中華人民共和国をここまで分裂させることになろうとは当事者の誰もが思い浮かばなかっただろう。だが、この分裂劇の次に何が来るか、多くの人々は正確に予想していた。大動乱。アメリカ合衆国はすでになく、ロシアも分裂した今となっては、中国大陸に訪れる動乱を止める外部の力は存在しなかった。易姓革命という言葉を多くの人々が連想した。そんな中、中国北東部に新しい国が産声を上げた。満州国。かつて歴史の僅かな期間存在した幻の国が来るべき動乱の前に再び現れた。五族協和の理想を胸に・・・。

我是香港人!
香港が中華人民共和国に返還されて以来、一貫して中国政府は香港の自治能力を殺ぎ、一国二制度の有名無実化に勤めてきた。返還時に50年は香港の現体制を存続させるという取り決めはあっさりと無視された。香港人による自治を求める住民投票が何度も請求されたが中国政府はそれを拒否した。
中国共産党の分裂に乗じ、香港自治政府は北京から送られてきた自治政府長官を強制退去させた。そして、南中国が派遣してきた自治政府首相も拒否し香港の独立を宣言した。“我々は香港人!”香港が香港であるための戦いが今始まった。

わずか数ヶ月の間に、中華人民共和国は大分裂に陥った。中国各地で共産党の圧制に抗議する声が上がり始め、南北中国共産党は各地の反乱の鎮圧に手一杯であり新疆ウイグル自治区、内モンゴル自治区、チベット自治区、そして香港の独立に対応することが出来なかった。中国大陸に再び動乱の時代が訪れようとしていた。

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