教育迷子になる前に

「個性」とは何か?

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「個性」とは何か?


 ここまで「国語教育の目的」について簡単に見てきただけですが、「国語を見れば、その国の教育の特徴が見える」と言われるだけのことはあり、この段階で既に考えられるようになったポイントが数多くあります。

 その中でも、特に重要になるのが「個性」の捉え方でしょう。


日本では批判されている個性教育
 日本では、「個性」は特にゆとり教育の導入に伴って注目されるようになりました。そのため、ゆとり教育の代名詞的なキーワードとなっています。

 しかし、その導入時に大量の疑問が噴出しました。
  • 個性を伸ばす教育とは、具体的にはどんな教育なのか?
  • そもそも”個性”とは一体何なのか?
 このような根本的な疑問に答えることすら疎かにしてしまったので、教育に大きな混乱を招いてしまいました。これは、ゆとり教育を失敗に終わらせた大きな原因の1つとして数えられています。
 その結果、「個性」という考え方そのものまで否定されるようになっていきました。
個性教育を目指した、ゆとり教育は失敗に終わった。
    ↓ということは、
そもそも個性を伸ばそうとしたこと自体が間違いだったのだ。

 このような経緯があるので、日本の教育においては、「個性」は未だに嫌われている概念だと言って良いでしょう。

 さすがに「個性なんていらない」とまで言う人は少ないですが、それでも「個性を伸ばすのは教育の役割ではない」と考える人は大勢います。
 さらには、現在の脱ゆとり教育には「ゆとり教育という”失敗した個性教育”から脱却」という側面があります。
 公的なコメントにおいて批判されることこそありませんが、個性教育の大切さを主張する者はもうほとんどいないでしょう。

 「個性」という概念はに未だに曖昧に誤解されたままの状態です。これから見直されるという期待もあまりできません。


個性教育の否定 ≒ 人間性教育の否定

 個性についてこれから簡単に確認していきたいと思いますが、まず先に大雑把な結論を言ってしまうと個性とは人間性です。
  • 個性 ≒ 人間性
 ゆとり教育を批判する過程で「個性を伸ばすのは教育の役割ではない」といった主張まで当たり前のように普及してしまいましたが、これはそのまま「人間性の育成は教育の役割ではない」という主張に置き換えられます。
 表現を少し変えただけなので、一見あまり変わらないように感じるかもしれませんが、「個性」という言葉に惑わされずに落ち着いて考えれば、この主張の問題点にはすぐに気が付くでしょう。

Q:人間性の育成は、教育の目的ではないのか?

 国語教育の目的を見てきた中で「世界の教育では、国語は教育の中で最も重要な基礎とされおり、その目的は心を育てることにある」という点を確認してきました。
 世界の教育では、明らかに人間性の育成を最も重要な目的にしています。

 日本の教育においても、そもそも学校教育が掲げる最も基本的な理念は「全人教育」です。学校教育は、単に「勉強さえできればいい」とは考えておらず、「1人の人間として立派に成長し、幸せになって欲しい」という願いを根本に掲げているはずです。
 これを踏まえて考えれば、日本の教育においても明らかに人間性の育成は最も重要な目的であるはずなのです。

Q:人間性の育成は、教育の目的ではないのか?
A:人間性の育成は、教育の最も重要な目的です。

 しかし、これでは矛盾してしまうでしょう?
 片や個性は教育に混乱をもたらした原因とされていながら、片や人間性は教育の最重要項目とされています。
  • 個性と人間性は違うのでしょうか?
 例えば、人間性として求められている「優しさ」や「誠実さ」は、個性ではないのでしょうか?
 そんなはずがないでしょう。むしろ「優しさ」や「誠実さ」こそ、個性と呼ばれるべき代表例です。人間性が育っていく過程で獲得される個々の人間性が個性です。多種多様な人間性の、その1つ1つが個性です。「明るく前向き」という人間性も個性であり、「冷静で判断が的確」という人間性も個性です。個性とは人間性です。様々ある個性を、全部まとめて人間性と呼んでいるだけにすぎません。
 だから、人間性を育てていれば個性は自然に身に付いていくものでり、個性を批判するならば人間性をも批判することになります。

 個性と人間性は似たような概念であり、個性だけを否定して人間性だけを肯定することなどできません。少なくとも、そんなことをするためには個性と人間性を明確に区別できなければならないでしょう。しかし、現在の日本において、そんな区別はされていません。わざわざ無理に区別するメリットも無いでしょう。素直にまとめて育てる方が簡単です。
 もし「個性≒人間性」という認識でありながら、それでも個性教育を批判するのであれば、それは教育において最も重要である人間性の育成をも批判することになります。
  • 個性 ≒ 人間性
  • 個性教育の否定 ≒ 人間性教育の否定
 現在の日本の教育は、いじめや不登校などの問題に直面して「心の教育」に悩みを抱えていますが、その一方で「個性教育」への配慮はあまりしていません。これでは大きく矛盾しているのではないでしょうか。


「個性」の誤解

 「個性」とは一体何なのか?
 この認識が既に誤解に満ちています。この誤解から簡単に見直していきましょう。

背景
 日本の「個性」観が誤解されやすい原因には、それ以前の問題として、よく「日本人には個性が無い」と言われるような社会的現実が背景にあります。

 まず、なぜ「日本人には個性が無い」と言われているのでしょうか。
 これは、既に”常識”で挙げた通りです。
  • 日本では周囲に合わせることが重要なので、みんな同じような発言しかしません。
  • しかし、あくまで「合わせているだけ」なので、自分なりの理由や根拠を持ちません。
  • どんな質問に対しても「みんながそう言ってるから」という答えで万能にやり過ごせます。
  • 結果、誰1人として責任のある意見を言わないので、社会全体が無色透明に近い印象になります。
 改めて確認しておくと、たとえ「みんな同じ」であっても、それ自体は別に個性が無いことにはなりません。
 例えば「日本人は勤勉」と言われますが、これは個性です。「日本人らしさ」などのように、しっかりとしたチームカラーを持っていれば、それはその集団に属する人たちが共通して持っている個性ということになります。
 「日本人には個性が無い」と言われがちなのは、単に「みんな同じだから」でなく、「みんな同じように自分の意見を言わないから」です。
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単純な誤解
 この「周囲に流されて自分の意見を持たない」点が、個性が無いと言われる原因です。

 では「個性がある」とは、どんな状態なのでしょうか。
 それ考える際に、単純に反転して「個性が無い状態の反対が、個性がある状態だ」という理屈から「個性とは、周囲に流されずに、しっかりと自分の意見を言うこと」と誤解するケースが多数見られます。
誤解されている個性観
個性が無い ⇒ 他人の意見に合わせるだけ。自分の意見を持たない。
個性がある ⇒ 他人の意見に影響されない。自分の意見を押し通す。
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 しかし、これも落ち着いて考えれば、おかしいことはすぐに分かるでしょう。
  • 他人の意見を聞かないことが個性なのか?
  • 自分の意見を無理矢理押し通すことが個性なのか?
 そんなはずがないでしょう。それは単なるワガママです。個性ではありません。

 確かに「自分の意見を言える」ということは非常に重要です。
 しかし、そのために「他人の話を聞かない」という必要は全くありません。既にコミュニケーションの中で挙げたように、「自分の意見を言えること」と「他人の話をしっかり聞くこと」は表裏一体の関係にあります。
 つまり、周囲に全く流されず自分の意見を一切顧みないような姿勢では、コミュニケーションが成立しません。それでは「自分の意見」は「独り善がりの意見」にしかならないのです。

参考
 この誤解が、そこからさらに他の誤解まで生んでいきます。次の2つは、よく耳にするでしょう。
  • 「個性」とは、目立つこと。つまり、奇抜性。
  • 「個性」とは、他者とは異なること。つまり、独自性。
 例えば学園ドラマなどを参考にすると、髪を金髪に染めてみたり奇抜なファッションをしてみたりと、他者と違う要素をアピールして「これが私の個性だ」と目立とうとする例が見られますが、これは明らかに誤解です。それは単に目立っているだけです。

 もう1つ例を挙げると、いわゆるキラキラネームも分かりやすい例でしょう。これは漢字を英語読みさせるなどの過剰な工夫を凝らした非常に変わった名前のことですが、その目立つ独自性から「個性的な名前」などと言われています。
 しかし、これも誤解です。これも、あくまでも単なる「目立つ名前」や「変わった名前」にすぎません。

 独自性があって目立っていても、それを個性とは言いません。それは単に好みの問題であり、つまりただの趣味です。
 よく誤解される奇抜性や独自性は、「個性」ではなく「ユニーク性」のステータスです。
 奇抜なファッションとは「個性的なファッション」ではなく「一風変わったファッション」という意味であり、キラキラネームも「個性的な名前」ではなく「一風変わった名前」のことです。


本来は目立たない個性

 改めて「個性とは何か」を考える上で、その特徴を最も分かりやすく示す例が「縁の下の力持ち」です。
縁の下の力持ち
自分は表舞台には立たずに、陰ながら他人を支えるために努力しているような人のこと。
 裏方として補助に徹しているので確かに外部からは目立ちませんが、身近な人たちからはとても信頼されている掛け替えのない存在と言えるでしょう。
 学校で考えるなら、運動部のマネージャや給食のおばさんなどが分かりやすい例。映画を例に考えるなら、カメラマンや音響スタッフなど。基本的に外部の人間からは見えなくて当たり前の存在ですが、仲間内では非常に重要な存在です。

 ここに個性があります。「縁の下の力持ち」を大切な個性の1つとして捉えることができると、「個性」の特徴が一気に見えてきます。

個性の特徴
個性は目立ちにくい
基本的に、個性は目立ちにくいものです。
 目立たなくて見落とされがちな長所を、身近にいる人たちがしっかり汲み取って代弁したものが、個性の発祥です。
 奇抜なファッションをするなど、外見的な特徴によって目立つことではありません。甲子園やオリンピックに出場するなど、その功績によって目立つことでもありません。
 反対に、例えば「見た目は派手だけど、実は意外に根は真面目だよね」とか「レギュラーになれなかったのは残念だけど、でも、本当に頑張ってたよね」と言われるような、見えにくい内面的な特徴に注目したものが個性です。

個性は長所だけ
原則として、個性は長所だけです。
 「時間にルーズ」や「卑怯」といった自分勝手な個性はありません。それは、ただの短所です。
 ただし、例えば「臆病」と捉えると短所になるようなものでも、それを「慎重」と捉えると長所になるように、同じ性質でも見方次第で長所にも短所にもなり得ます。
 ここに個性という概念の重要なポイントがあります。一見短所に見えるものでも安易に短所と決めつけずに、良い所を探すつもりで見直してみると、意外と簡単に長所に見えるようになることが多々あります。この反省点から、意図的に「短所」という言葉を封印して、多少強引にでも「個性」と言い直すようになりました。これが個性尊重の姿勢です。
 これは決して「短所も個性」という考え方ではありません。「短所に見える中にも、長所が隠れているのではないか」という見方です。

個性は自覚しにくい
個性は、他人から指摘されるまで、自覚しにくいものです。
 例えば、優しい人は、自分のことを優しいとは思っていません。他人に親切でありながらも「別に、これぐらいは普通でしょ?」と思っている場合がほとんどです。特に意識せずに誰に対しても自然に優しく接することができるような人だからこそ、周囲から「優しい人」と思われるのです。
 このように、自覚していない部分にこそ個性はよく表れます。

周囲とのズレ
自覚しにくいだけでなく、自分と周囲との認識には大きなズレが頻繁に生じます。「個性とは、ほとんど誤解の塊みたいなもの」と言っても過言ではないでしょう。
 例えば「縁の下の力持ち」として周囲から信頼されている人でも、本音では「別に好きで裏方をやっている訳じゃない。私だって本当は主役になって注目されたい」と思っているようなケースが多々あります。
 周囲から個性として高く評価されていても、本人にとってはそれがコンプレックスになっているようなケースは珍しくありません。

自分からはアピールできない
自分の個性を説明することはできません。周囲から誤解されていると感じている場合、実はその誤解の方が自分の個性とされます。
 例えば、自分から「私は天才です!」と説明しても、それは単なる「自称:天才(笑)」にすぎないでしょう。そんなものを個性とは言えません。どんなに強くアピールしても、いくら細かく説明しても、それは所詮自称です。「みんな誤解してるけど、私は本当に天才なんだよ!」と力説したところで、それは単なる妄想としてしか受け取られないでしょう。
 どんなに強くアピールしても、それは自己アピールでしかありません。結局は「周囲の人からどう思われているか」が自分の個性となります。つまり、自分の個性は、周囲の人たちによって勝手に認められるものでしかないのです。自分で決めることはできません。
 ちなみに、これが個性不要論の発信源です。よく見かける「子供たちの個性なんて伸ばす必要は無い」といった論理ではなく、「自分の個性は自分では分からない。それなら自分探しに一体何の意味があるだろうか」といった疑問が発端です。

独自性ではない
個性は自分が持っている人間性であり、簡単に言えば「自分らしさ」です。しかし、それは決してオンリーワンではありません。
 個性は他者と簡単に重複します。別に唯一自分だけが持っている特性とは限りません。もし独自のものと仮定すると、例えば「誠実」という個性を持っていいのは自分1人だけということになってしまいます。しかし、誠実な人が大勢いても別に不思議はないのでしょう。個性を独占する必要はありません。既に挙げたように「日本人は勤勉」と言われる場合、それも立派な個性です。個性とはユニーク性ではありません。
 そして、同じ個性を持つ人が大勢いても構わないなら、個性があるからといって目立つとは限らないでしょう。そのため「個性的≠目立つ」となります。

「ありのままの自分」ではない
個性は「自分らしさ」なので、よく「ありのままの自分」を肯定することだと思われがちです。しかし、これも誤解です。
 単純に自分を全面肯定してしまうと、「私は弱い人間だから、弱いままでいい」ということになり、向上心を失って努力もしなくなります。それでは人として成長しなくなるので、人間性も成長しません。つまり、個性も成長しません。個性を求めたつもりが個性の成長を妨害することになるので、これは間違いなのです。
 単に「ありのままの自分」を肯定することは、実は単なる怠惰にすぎません。成長にはむしろ、ある程度の自己否定が不可欠です。現状に満足せずに目標を追って努力する姿勢の中にこそ、個性は顕著に表れます。


個性の真意は「他人を認めること」

 少々、周り道をした形になりましたが、「個性」には重要ポイントや誤解されている点が多々あることが見えてきたと思います。
 これらを踏まえた上で、「個性とは何か」という問いに改めて簡単にひと言で答えるなら、それは「他人を認めること」だと言えるでしょう。

Q:個性とは何か?
A:それは「他人を認めること」です。

 「個性」と言われると、ほとんどの人が「私の個性とは何だろう?」と、すぐに自分のことを考えてしまいます。
 しかし、それは間違いです。

 「個性」という概念の最も重要なポイントは他人です。家族や友人など身近いる他人の意思を尊重すること、それが原点です。注目すべきは「自分の個性」ではなく「他人の個性」です。

 そして、多種多様な他人の個性を認めていくと、それが自分の考え方や価値観にも影響して多様性や柔軟性をもたらします。結果として、自身の可能性を拡げて成長を促進することにも繋がります。

 これが「個性」の重要なポイントなのです。


他動詞の構文:主語+目的語+述語

 現在、一般的に普及している「個性」観とはかなり違うので、話が飛躍しているように感じられるかもしれません。簡単に論点を整理してみましょう。
 少しテクニカルな話になってしまいますが、あえて「個性教育」から考えて、文法的に考えてしまった方が分かりやすいでしょう。

 個性教育とは「個性を伸ばすことを目的とした教育」のことです。何のひねりも無くそのまんまなので、この点は問題無いと思います。
 ただ、ここで注意が必要なのは「この文章の主語は誰か?」という点です。日本語は主語や目的語などを簡単に省略してしまうので、時折このような問題が発生します。主語をよくよく確認してみると文章の意味が反転してしまう場合もあることは、多くの人が経験上知っているでしょう。
 これは意外なほど見落とされやすく、多くの誤解を生む原因になっています。しかし、問題としてはとても簡単なので、落ち着いて考えさえすればすぐに分かります。

Q:個性教育とは、誰が誰の個性を伸ばす教育なのか?
A:それは「教師」が「生徒」の個性を伸ばす教育です。

 拍子抜けするほど簡単な、当たり前の答えでしょう。
 個性教育とは、教師が生徒の個性を伸ばす教育です。教師が教師自身の個性を自慢する訳ではなく、子供たちが自力で自分の個性を伸ばす訳でもありません。大人たちがサポートすることで、子供たちの個性を伸ばすのです。
 つまり、自分自身の個性を伸ばすのではなく、他人の個性を伸ばすのです。それが、個性教育の基本構造です。
 教師が気にかけているのは「子供たちの個性」です。自分の個性になど興味もありません。たとえ教師として自分に個性が無かったとしても、全く気になりません。

 この点に気付いてしまえば、後は簡単、と言うよりそのままです。
 「個性」とは「私は相手の個性を認める」という形が基本形であり、普通は「主語+目的語+述語」という他動詞を伴った文型になります。主語対象と目的語対象の2者が文法上必要になるのです。
 「個性」は「コミュニケーション」と同様に、相手の存在が不可欠となる概念です。「私の個性は○○なところです」といった自分独りで納得している形の文章は、目的語対象となる相手の存在が欠けているため、文法上間違いなのです。
 「他人の個性に配慮できること」が個性の大切なポイントであり、自分に個性が無くても何の問題もありません。

 個性教育とは、「この子は真面目にコツコツ努力するタイプ」「こっちの子は失敗を恐れずにどんどん挑戦するタイプ」と子供たち1人1人の個性を把握して、それぞれの長所を伸ばしていこうと考えたものです。ここで重要なのは、あくまでも教師が「子供たちの個性」を認めることです。
 そして、さらにその延長として、子供たちにも「友達の個性」を認められるようになって欲しいと願っています。

 決して、「自分の個性」をアピールすることなど求めていません。
 既に述べたように、もし子供たちが自分から「私は天才です」とアピールしてきても、それをそのまま個性として認める訳にはいきません。本当に天才の場合もあれば、単なる自信過剰の場合もあるでしょう。その違いも見極めずに、子供たちの自己申告をそのまま鵜呑みにしていては個性教育などできません。



自分の個性を求める場合

 教師でさえ「自分の個性を出しなさい」と指導する人が大勢いますが、それは間違いです。
 「自分の個性を出しなさい」という言葉は、要約していくと「他の人とは違う、自分だけの意見を出しなさい」と言い換えられ、差異性と独自性を求めるメッセージになります。
 つまり、これは個性とユニーク性を勘違いしています。そして、ユニーク性が目標とするのは「自分らしさ」ではなく「風変わりであること」です。
  • 他人と同じ意見を述べてはならない。
  • 自分らしさを出さなければならない。
 このように独自性を求められると、素直に他人の意見を聞けなくなってしまいます。他人の意見を真剣に聞けば聞くほど、必ずその意見から影響を受けてしまうからです。
 他人に影響されたら、そこにはもう「自分だけの独自性」などあるはずがないでしょう。そのため、例えば6人の友人から意見を聞いてしまったら、その6通りの意見は選択肢から削除しなくてはなりません。「私はこの意見に賛成です」では、ユニークな回答とは言えないからです。他人の意見を参考にするほど、”自分独自の回答”の選択肢は削られていきます。
 それでも尚、どうしても独自性にこだわるならば、始めから何も聞かない方が得策でしょう。そのため「他者性を排除すること」が個性のカギになります。
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 これは言い換えると、ここでの「自分」とは「現時点での自分」が理論的な最大値になるということです。
 何事も1度考え始めたら、それから新たに情報収集をしてはなりません。現時点で知らない情報の中に「自分らしさ」などあるはずがないからです。他人の意見を聞いてはならないのと同様に、書物などから得た情報によって自分の考え方が変わった場合も、それは「純粋な自分独自の意見」ではなく「情報に左右された意見」としてしか評価されなくなります。そこに独自性は認められません。
 これは、情報を集めるほど「他人の意見の寄せ集め」と評価されてしまうことを意味するため「しっかり勉強した秀才ほど普通の考え方をするようになり、無個性になる」といった見方をされるようになります。

 結果として、「自分の個性を出しなさい」と言われると、自分を外界から隔離して情報を遮断し、自分の内側に潜む"個性"を探すことになります。できる限り他人の話を聞かないこと、勉強をしないこと、情報にアクセスしないことが必要になり、「現時点で既に持っている個性」が重要になります。
 しかし、それでは未熟な人ほど不利になってしまうでしょう。
 特に子供たちは、まだ圧倒的に経験も知識も不足しており自分の意見を確立していない場合が多いので、はっきりと個性と呼べるものを持つことができません。そんな状況で「早く自分の個性を見つけなさい」と言われても、そのためには情報を遮断しなければならなくなるので、かえって成長を阻害されることになります。つまり、「個性」が教育の天敵になってしまうのです。

 そして、大勢の人々がユニークな価値観を持った”個性溢れる社会”を作ろうとするならば、そこでは誰もが他人とのコミュニケーションを断たなくてはなりません。奇抜性や独自性を維持するためには、自己完結した価値観を持たなければならないからです。
 そのため、その社会全体がコミュニケーション不全に陥ります。社会性は構築されません。1人1人がしっかりと自分独自のユニークな価値観を持っていますが、ユニークであるが故にそれは他者と共有できないため各自が孤立している社会になっていきます。
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 このように、個性を奇抜性や独自性と勘違いしたまま「自分の個性」を追い求めていくと、誰もが他人とコミュニケーションをとれなくなってしまい、社会全体も衰退していきます。



他人の個性を認める場合

 自分の個性を伸ばすための最大のポイントは、他人の意見をしっかり聞くことにあります。

 まず、単純に考えて、人はどんな時に他人の意見を聞こうとするでしょうか? 

Q:他人の意見を参考にしたい時とは、どんな場合か?
A:それは「自分で考えようとしている時」です。

 自分なりに何か疑問を感じた時や、自分の考えをまとめようとした時などに、人は友人などに「最近、こんな風に考えているんだけど、どう思う?」と尋ねて参考意見を集めようとします。他者の視点を通して、意見を補強したり、新たな問題点を発見したりして、自分の意見をまとめ直していくのです。
 このように、自分で真剣に考えようとしている時にこそ、他人の意見はありがたいものになり、しっかり聞くようになります。

 そうやって他人の話を真剣に聞いた上で改めて考え直した意見は、当初の「自分独りで思い付いた意見」とは比べものにならないほど飛躍的に質の高いものになるでしょう。
 この場合、もちろん、その意見はもう「自分独自の意見」とは言えません。友人の意見を数多く取り入れているので奇抜性もありません。
 しかし、それはよりハッキリと明確に「自分の意見」だと言えるものになります。どこまでが元々の自分の意見で、どこからが友人から影響された意見なのか、その出所の境界は曖昧で分からなくなるかもしれません。しかし、そんな「誰が言い出した意見か」なんて重要ではありません。重要なのは、友人と意見を交わした末に辿り着いた結論です。「現時点で、私はこのように考えている」という到達点です。それが格段に明確な形になります。意見の根拠や理由をしっかり整理し、反対意見に対しての理解も深くなり、どんな欠点を残しているかも把握した上で、他者にも分かりやすく説明できるようになります。決して独り善がりにならずに、むしろ周囲の人のためにも役立てられるような価値のある「自分の意見」になります。
 つまり、単なる思い付きにすぎなかった「主観的な意見」を、他人の意見を参考にすることによって「客観的な意見」にまでレベルアップさせることができるのです。
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 このように、他人の意見をしっかり聞いて他人の個性をしっかり認めていくと、それが結果的に「自分の意見」を作ることに繋がってがいきます。「どんな意見に自分は賛成なのか」「どんな意見に自分は反対なのか」それを確認するだけでも、意見の精度は飛躍的に向上します。
 少しややこしい表現になりますが、「自分らしい考え方」は他人の意見を聞くことによって形作られていくのです。

 そして、ややこしい表現ではあっても、これこそ教育の最も基本的な構造です。
 簡単にプロセスを整理すると、次のようになるでしょう。
  • 先生からはこんな風に教えられた。
  • でも、友達は違う考え方を言っていた。
  • 本などで調べてみたら、他にも色んな意見があると分かった。
  • それらを踏まえた上で、私自身はどの意見を正しいと考えているのだろうか?
 教育とは「先生の話を聞いて終わり」ではありません。聞いてから、自分なりに咀嚼して考え直してみることが重要です。これは、そのまま「他人(先生)の話をしっかり聞いて、自分なりの意見をまとめていく」というプロセスでしょう。表現としてややこしくても「他人の意見を聞くことによって、自分の意見が形作られる」というのは、教育として極めて重要で基本的な根幹なのです。

 さらに、このように自分の意見をしっかり持っていると、自分とは対立する意見に対してさえ配慮できるようになっていきます。「私の考え方とは違うけど、この点に関しては確かに共感できる」とか「世の中には色々な考え方があるんだなあ」といった感覚です。

 改めて「自分の個性」を求める場合を考えると、「自分の意見」と「それ以外」の二極分化の構図になっていることが分かるでしょう。「それ以外」を全て振るい落とすことで、逆説的に「最後まで残ったものが自分の意見なのだ」と捉えようとしているのです。そのため、何か少しでも気に喰わないものがあれば、それだけで全面的に否定する傾向にあります。
 例えば「ゆとり教育」を批判する場合、多くの人が「ゆとり教育は悪い」といったように全部丸ごと徹頭徹尾批判してしまいます。しかし、全体として批判するにしても、1つ1つの要素をきちんと確認していけば、賛同できる部分だって少しは見つかるはずなのです。そして、それが分かると安易に全体批判するような真似は恥ずかしくてできなくなるでしょう。
 これは”常識”の中で万引きを例に挙げたケースと同じです。たとえ明らかな犯罪であっても、個別に見ていくと同情や弁解の余地があるケースは少なくありません。個々の事情を知っていくと、安易に全体批判することはできなくなるでしょう。

 それと同じように、相手の意見をしっかり聞いている場合、たとえ意見が真っ向から対立しても、無闇に相手を批判しなくなります。むしろ、「そんな考え方もあるのか」と、対立したままでも敬意を払うことができるようになります。
 友人と意見交換して、たとえその結果対立してしまったとしても、それ自体は友人との仲を引き裂くようなものではありません。むしろ、今まで以上にその友人を理解出来るようになるでしょう。自分と友人はどんな点で違うのか。その「違い」にしっかり注目することは、決して対立ではなく、相手をより深く理解するための前進です。
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 このように、お互いの個性を認め合おうとすれば、そこには自然に社会が生まれます。コミュニケーションが非常に重要になり、相互協力の基で積極的に社会が構築されていきます。
 この場合の”個性溢れる社会”が目指すのは、自立と協力の両立です。決して独り善がりにならない、相互理解に基づく自立と協力。それはつまり、簡単に言うと「チームワーク」のことです。他人の個性を認めていくことが自分を高めることに繋がり、それによって今度は自分なりに他人のために貢献できるようになります。この連鎖によって、社会も自分自身も成長していきます。

 ユニーク性を求めれば「他人とは違う自分だけの特徴」を探すために他者を排除していきますが、反対に「誰かのために役に立つ」という目標を掲げて他者と積極的に関わっていけば、具体的な自分の役割を見つける形で成長することができます。
 抽象的な表現になりますが、「誰にも影響されない自分だけの自分」ではなく「みんなと共に生きて影響し合っている自分」を獲得していきます。それが個性なのです。
  • ユニーク性 ⇒ 自分の個性を求める ⇒ 他者性を排除
  • 個性     ⇒ 他人の個性を認める ⇒ 自分の役割の発見に繋がる
 このような「他人の個性」を認め合える社会では、必ずしも奇抜性や独自性を必要としません。
良いアイデアはすぐに他人に伝播するので、画期的な発想でも早い段階で一般に普及します。
反対に、奇抜なだけで役に立たないアイデアは誰からも評価されません。すぐに淘汰されます。
 どちらにしても、奇抜性や独自性は持続しないのです。

 1人1人が自分の個性を持った”個性溢れる社会”とは「各自が自分の力を最大限に活かして、みんなで貢献し合う社会」ということになります。



注意:チームワーク

 日本の”チームワーク”観にも誤解がよく見られます。分かりやすいのが、次の2点でしょう。
  • 1人ではできないことでも、みんなでやればできる
  • チームのためには誰かが犠牲になるしかない
 こういった考え方が根強くありますが、どちらも間違いです。

 まずは1点目の「1人ではできないことでも、みんなでやればできる」ですが、これはチームワーク以前に、「集団」として当たり前のことです。
 「10人集まれば10人分の仕事ができる」というのは当たり前です。まして「30人集って15人分の仕事をする」となれば、それはとても簡単でしょう。
 「人数を増やせば、その分だけ可能範囲を広げられる」というのは当然なのです。

 チームワークとは「同じ人数でもより高いパフォーマンスを発揮できるように、より質の高い協力関係を築くこと」です。簡単に言えば、10人で11人分以上の仕事ができるような協力関係を指します。
 反対に、10人も集めて9人分以下の仕事しかこなせないならば、それは集団になることがマイナスに働いていることになります。つまり「足の引っ張り合い」が発生していると捉えられます。
集団(基準) 10人集まれば、10人分の力
チームワーク 10人で協力し、11人分以上の力を発揮
足の引っ張り合い 10人集まっても、9人分以下の力しか出せない

 日本の”チームワーク”観では、この両者の区別ができていないことが多く、足の引っ張り合いを”チームワーク”と呼んでいるケースが多々あります。それが、2点目の「チームのためには誰かが犠牲になるしかない」といった言葉に表れています。
 学校で考えた場合でも、よく「みんなで話し合って決めたことだから、我慢して協力しなさい」といった多数決の押し付けが見られます。現実問題として、全体の統率をしなければならないので、多数決は合理的であり、他に方法が無いのでしょう。しかし、それでも、それとチームワークは別物です。「チームワークが大切だから、多数決を押し付けて良い」という理屈はおかしいのです。
 我慢や犠牲を容認するほどチーム全体のパフォーマンスは低下するため、どんどん足の引っ張り合いになっていきます。「チームのため」のはずが、意に反してチームをダメにしてしまうのです。そのため「無理矢理押し付けなければ全体を統制できないような状況は、仕方が無いとは言え問題が山積みだ」と捉えるべきでしょう。

 チームワークには「各自の長所を引き出して活かすこと」が不可欠です。
 他人を犠牲を前提として考えるようなチームワークなど成立しません


注意:「認めること」と「肯定すること」

 確認のため再度注意しておきますが、「他人を認めること」とは、必ずしも「他人を肯定すること」ではありません。しっかり否定することも「認めること」の範疇です。

 既に”常識”の中で述べていますが、子供の発想には「先生が言ってたから」という判断基準があります。これは「先生が言っていることは内容に構わず全て肯定する」という考え方です。
 しかし、それでは本当の意味で先生を認めていることにはならないでしょう。単に考えるのが面倒だから肯定してしまっているだけで、実は先生の意見について全く吟味していません。つまり、話を聞かずに肯定しているだけなのです。それでは、とても「認めている」とは言えません。
 これと同じ構造を持つのが「イエスマン」です。相手の話を聞かずに、内容に関係無く、返事は全て「イエス」。これは、確かに全てを肯定していますが、決して相手を認めてはいません。むしろ、相手を無視しているのと変わらないでしょう。
 このように、相手を肯定しても、それは必ずしも相手を認めていることにはなりません。

 言い換えれば、相手に反対していても、それでも認めることはできます。
 相手の話をしっかり聞き、その上で「この点において、私はあなたの意見には反対です」と答えるならば、それは相手をしっかり認めているのです。意見への賛否は、あくまでも意見に対する賛否です。たとえ相手の意見を否定しても、それは意見を否定しているだけで、相手の存在や尊厳を否定していることにはなりません。
 ここで重要なのは、結論としての賛否ではありません。たとえ意見が対立したとしても、それは相手の意見を真剣に聞いている結果であり、相手と真正面から向き合っている証なのです。それこそ「人として相手を認めること」に他なりません。
 これはスポーツを例に考えると分かりやすいですが、本気で相手を倒そうとしている時というのは、本気で相手を認めている時なのです。敵として敬意を表することは、人として敬意を表することと大差ありません。

 単に全面的に肯定するのではなく、「この部分は賛成だけど、こっちは反対」といったように相手の意見をしっかり評価することこそ、本当の意味で相手を認めることになります。



未知の道

 こうして見直してみると、実は個性には一貫性が無いことに気付くでしょう。

 個性とは「自分らしさ」であるため「個性とは、いつどんな時でも変わる事のない一貫した自分らしさだ」と、よく誤解されています。しかし、それは間違いです。
 既に挙げたように「弱い人間」が「弱い人間のままであること」に個性など見出せないでしょう。反対に、強くなろうと努力する姿勢に、その人の個性を見出すことは容易です。
 人は成長しながら、どんどん違う価値観を取り入れていきます。絶えず変化しながら成長していくのです。つまり、成長とは変化です。「個性を伸ばす」とは、成長のプロセスを指します。そのため、変わっていくことが個性なのです。

 これはよく「道」に喩えられます。
 ずっと歩き続けてきた後で、ふと振り返ればそこには自分が歩いてきた道筋ができているでしょう。その自分が歩いてきた道、道中で体験してきた事柄、その旅で得た思い出、それらが自分の個性として吸収されます。
 個性とは、単純に「今の自分」ではなく、「今までの自分」という過去から現在へと続いている成長のプロセス全体を指します。

 さらに「今までの自分」のみならず「これから自分」が重要になります。
 個性を「自分が歩いてきた道筋」だとするならば、「個性を伸ばす」とは、その道筋をさらに伸ばしていくことを意味します。
 当然ながら、ここで過去の道筋をいくら見直しても、それが伸びることはありません。道を伸ばすためには、さらに前へと進み続けることが必要です。

 過去を振り返れば「今までの自分」の個性を確認できるかもしれませんが、それは思い出のようなものです。大切なものではありますが、思い出に浸ってばかりで努力を疎かにしていては成長できません。思い出は浸るためのものではなく、これからの努力目標を決めるための参考として活用する方が有意義でしょう。

 時々後ろを振り返ることも大切なのは、「今までの自分」を確認して、それを次の進路を決める際に活かすためです。つまり、まず「今これから何をしたいか」という目標や目的があってこそ、過去の自分が活かされてくるのです。

 このことから、個性は「これからの自分」という未来の可能性をも含めた概念になります。
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 もし「いつまでも全く変わらない一貫性」を求めるなら、それは「その場でじっと立ったまま、全く1歩も進まないこと」になります。前へ進まないからこそ何も経験せず、何も経験しないからこそ考え方も変わりません。「変わらないこと」とは「成長しないこと」です。
 一貫性を保つためには、成長しないことが不可欠になってしまうので、それは間違いなのです。

 このように変化し続けているからこそ「自分の個性」を把握することは容易ではありません。しかし、それで構わないのです。「昨日までの自分」がどんな考え方をしていたか、そこにこだわる必要はありません。今日改めてチャレンジしてみれば、きっと昨日までとは違う結果になります。無理に同じ結果にしなければならない理由など微塵もありません。考え方など変わってもいいから、これから「新たな自分」を発見していけばいいのです。

 様々なことにチャレンジしていると「自分がどんな人間なのか、自分でもよく分からなってきた」と感じる機会があるでしょう。それぐらいに成長し続けている人こそ、本当の意味で個性的なのです。

 その意味では、基本的に子供たちはとても個性的です。