教育迷子になる前に

いじめを撲滅してはならない

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いじめを撲滅してはならない


 昔から変わらずに深刻な問題であり続けている教育テーマの1つに「いじめ」があります。

 「いじめを苦にした自殺」という最悪のケースも、1980年代には既に社会問題として注目されており、当時から「最近のいじめは昔と違って陰湿になった」とか「いじめは絶対に許してはならない」といった言葉が叫ばれていました。
 そして、それらの言葉は、2010年代に入った現在でも、何ら変わることなく叫ばれ続けています。
 つまり、30年掛けても、いじめの問題はほとんど改善されていないと考えられます。

 まずは1点目として、ここは抑えておくべきでしょう。
  • いじめは現代特有の問題ではありません。昔から変わらずに抱え続け、改善できずにいる問題です。
 いつの時代でも「昔は良かった。それなのに最近の若者は……」という論調があります。
 確かに、問題の質や形、あるいは背景や原因などは、時代と共に変化もするでしょう。それを分析することも不可欠です。
 しかし、時代毎に区別することによって、下手をすると「最近の若者」ばかりに責任を押し付けて、「自分は大人だから関係無い」とするような論調まで招き兼ねません。
 ここで断言しておきますが、とっくの昔からいじめは深刻な問題になっていました。ニュースのみならず、昔話や童話などを読んでみても分かるように、数十年と言わず人類史レベルで遥か昔からあった問題と捉えるべきでしょう。決して現代特有の問題ではありません。

 いじめを「子供の問題」と捉えることで思考停止し、責任を放棄しようとする大人たちの姿が多数見られますが、それは非常に情けない事態です。
 「教育の問題」「日本の問題」「人類の問題」として捉え、大人たちも一緒に取り組んでいかなければ、この問題を改善していくことは困難でしょう。


 2点目のポイントは「具体性の欠如」です。
  • 「いじめは悪い。絶対に許してはならない」と言う人は大勢いますが、「では、どのような対策をとるべきか」という具体案の話がほとんどありません。
 さらに、ここで非常に厄介になるのは「子供たちは話し合うことすら許されない」という点です。
 日本の教育は「子供を大人の指示に従わせる」というスタンスに基づいています。「黙って言われた通りにしなさい」「我慢して勉強しなさい」といった教育が日常的なされます。そのため、日本の子供たちは、自分で考え皆で話合って行動するといったプロセスを非常に苦手とします。
 つまり、「指示待ち」が基本姿勢になりやすく、自分たちから具体案を提示することは教育として許されていないのです。いじめを減らすために、子供たちが自ら具体的なアクションを起こす可能性は非常に低いでしょう。




日本の取り組み姿勢

 いじめは間違いなく犯罪行為であり、解決・改善が必要です。
 そのための取り組み姿勢として、日本の特徴と言えるのが次の2点でしょう。
  • いじめを撲滅しなければならない
  • 傍観者も加害者と同罪
 この2点は、現場教師や有識者のみならず総理大臣さえも公式な場で述べています。そのため、日本の公式見解と言って良いでしょう。

 しかし、この2点はどちらも間違いです。

いじめを撲滅しなければならない」という見方の落とし穴

 「いじめを撲滅しなければならない」という言い方は、いじめ問題を本当に深刻に受け止め、本気で取り組もうとする強い意志によるものでしょう。その真摯な姿勢は非常に大切であり、批判できる要素など微塵もありません。

 しかし、ひと口に「いじめ」といっても様々なパターンがあり、個々の事例を見ること無く一緒くたにして「何が何でもいじめは許さない」と批判するのは悪手と言わざるを得ません。
 その理由は、常識について考える中で「万引き」を例に挙げた理由と同じです。

簡単に確認
 まず「万引き」は窃盗行為であり間違いなく犯罪です。厳しく取り締まる必要があります。

 しかし、リストラや虐待などの理由で今にも飢え死にしそうな人が、仕方無く食糧を万引きするようなケースは実際に多々あります。そのようなケースにおいて、その「万引き」という犯罪行為だけを取り締まったらどうなるでしょうか? 当然、餓死者が増えるでしょう。
 それでは、たとえ万引きという犯罪行為を撲滅できたとしても、「問題を改善できた」と言えるはずがありません。

 どんな理由があろうとも、犯罪行為を正当化することはできません。
 しかし同時に、たとえ犯罪を防ぐためであっても、「他人に迷惑をかけるぐらいになら、潔く死ね」と、苦しんでいる人々を死に追い込むような行為を正当化させる訳にはいきません。
 万引きという「行為」だけに注目して取り締まっても、その背景にある「原因」を解決しなければ、それは餓死者や強盗など他の形をとって結果に表れるでしょう。万引きを撲滅させただけの現実が、万引きが増加するよりも遥かに悲惨な事態になる危険性は充分にあります。
 他にも「赤ちゃんポスト」などを考えれば、同じような事例が多々あることは分かるでしょう。

 「何が何でも撲滅」という強い姿勢は、その強さが故に視野を狭めてしまう危険性を孕んでいるのです。

いじめ
 視野を狭めてしまう危険性は、いじめ問題においても変わりません。
 いじめという行為だけを撲滅しても、その背景にある原因を解決できなければ、それは自殺や不登校、薬物依存や通り魔などの形に変わって表面化する危険性は充分にあります。
 いじめ問題は、それに関わった人々の人生を左右する非常に深刻な問題です。しっかり取り組む必要があることは疑いの余地もありません。
 しかし、それでもただ「撲滅すればいい」問題ではありません。

 この「撲滅」という表現自体、既に危険信号ともとれるでしょう。
 いじめは、本来「解決」していくべき問題です。
 もちろん原因究明や責任の所在確認などをのんびり行っている場合ではなく、また当事者からすればいじめに納得できる帰結点や妥協点など無いでしょう。悠長に「解決」なんて戯れ言を掲げるならば、軽蔑されても弁解すらできません。
 「撲滅」という表現は、このような「とにかく問答無用で絶対に無くす」という非常に強い意志の表れであり、同時に「解決」を嫌った表現です。いじめゼロという結果を重視しすぎるあまり、原因や他の問題を蔑ろにしかねない視点なのです。

 しかし、やはりいじめは解決していくべき問題です。
 当事者にとっては「解決」という表現は生温い戯れ言かもしれませんが、問題の改善するカギを握る親・友人・教師たちは、「撲滅」ではなく「解決」を目指すべきです。



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