483 :557:2014/11/24(月) 10:52:06 ※戦後夢幻会支援ネタSS ・ ケーニヒスベルク沖海戦(改定版) ケーニヒスベルク沖海戦は、第二次世界大戦中の1945年4月10日に 当時の東プロイセン州、ケーニヒスベルク(現カリーニングラード州、カリーニングラード)沖合いで発生した海戦。 ドイツ海軍とソヴィエト海軍による最初で最後の本格的な海戦であり、 主力艦を喪失しながらも作戦目標を達したとして、ドイツ海軍が勝利を収めたとされている。 ほぼ同時期に起こった沖縄沖海戦と並んで知名度が高い。 なお、正式にはツェルベルス作戦(ドイツ語:Unternehmen Cerberus)とも呼ばれるが 1942年に行われた同名の作戦と区別するためにツェルベルス(Ⅱ)(ドイツ語:Unternehmen Cerberus 2)作戦とも呼ばれる。 ツェルベルスとはドイツ語でギリシャ神話における地獄の番犬ケルベロスを意味する。 ・ 背景 1945年1月半ばに開始されたソヴィエト軍による東プロイセン攻勢であったが、 ケーニヒスベルク周辺に至り、その進撃は一気に停滞を見せた。 これはアドルフ=ヒトラー総統が発した東プロイセンからのドイツ市民脱出作戦(ハンニバル作戦)が大きく関係していた この作戦で市民の脱出港に指定されていたケーニヒスベルク港を死守すべく、 同州に残存していたほぼ全てのドイツ軍戦力がケーニヒスベルク周辺に集結しており、頑強な抵抗を行っていたのだ。 また、海上でも残存する主力艦艇への燃料供給を最小限にしてまでドイツ海軍が繰り出していた 多数の駆逐艦がソヴィエト海軍の潜水艦を徹底的に狩り出しており、 それによって船団の脱出が比較的順調に進んでいたこともドイツ軍の抵抗をより強固なものとしていた。 しかし、成功を収めつつあるこの大脱出に焦りを憶えたソヴィエト軍は、 英国から給与されていた戦艦アルハンゲリスク(旧リヴェンジ級戦艦、ロイヤル=ソブリン)と 浮揚修理が終了したばかりの戦艦ペトロパブロフスクを含むバルト海艦隊(以下、アルハンゲリスク艦隊)を ケーニヒスベルクに差し向け、これ以上の脱出を阻止すると共に呼応した陸軍の一斉攻撃によって、 残存するドイツ軍を撃滅する作戦(グロズヌイ作戦)を打ち出した。 これは当時、ドイツの主力艦艇がほぼ壊滅しており、彼らを阻むものは無いという判断の下の作戦だった。 1945年に入っても潜水艦を除き、相変わらず行動が不活発だったバルト海艦隊であったが、 この作戦の発令後は一気に活性化し、わずか数日で出撃準備を整えると相次いで出撃。 海上で順次艦隊を整えると、一路ケーニヒスベルクを目指し始めた。 だが、こうした急速な動きは哨戒中であったドイツ海軍のUボートに察知され、直ちに情報がドイツ本国へと齎された。 それまで不活発だったはずのバルト海艦隊の主力艦艇が突然行動を始めた姿に、 目撃したUボートの乗組員は得体の知れない恐怖を覚えたという記録が残されている。 そして、この情報が齎されたドイツ本国は戦慄した。 不活発だったはずのバルト海艦隊の主力艦艇がわざわざ向かう先など、 渦中のケーニヒスベルクしか考えられなかったからだ。 戦艦2隻を含む有力な艦隊が補助艦艇と輸送船しか存在しない ケーニヒスベルクに突入すればどうなるかは想像にし難くない。 ここに至り、ヒトラーは残存する主力艦艇に全力で迎撃を命じた。 なお、この際にヒトラーは残存艦隊を指揮するハンス=ラングスドルフ少将に対し、 「東プロイセン市民を何としてでも守って欲しい。頼む」と電話で直に話したという記録が残されているが、 従来のヒトラー像とはあまりにかけ離れているとして、真実であったかどうかは現在でも意見が別れている。 484 :557:2014/11/24(月) 10:52:37 ・ 戦闘突入まで 1945年4月9日深夜、夜陰に紛れてキール軍港からドイツ海軍に残存する主力艦艇が一斉に出撃した。 出撃したのは、北海での誤爆による損傷から復旧していたリュッツオウ級重巡洋艦のアドミラル=グラーフ=シュペー。 稼動状態にあったアドミラル=ヒッパー級重巡洋艦、アドミラル=ヒッパーとプリンツ=オイゲン。 そして、ゴーテンハーフェンより脱出していた第一次世界大戦時の旧式戦艦ことドイッチュラント級戦艦の シュレジェンと同じくドイッチュラント級戦艦のシュレスヴィヒ=ホルシュテインである。 この5隻は随伴する軽巡洋艦のエムデンと3隻の駆逐艦(レーベレヒト=マース、マックス=シュルツ、 リヒャルト=バイツェン)を除けば、当時のドイツ海軍が有する稼動可能な主力艦艇の全てであった。 出撃の際、全艦で足並みを揃えて航行するかどうかで意見が交わされたが、事態が急を要すること。 また、旧式戦艦2隻とそれ以外の主力艦3隻の速力が大きく異なっていたことから断念され、 5隻の主力艦艇と4隻の補助艦艇はアドミラル=グラーフ=シュペー戦隊(以下、シュペー戦隊)6隻と シュレジェン戦隊3隻に別れ、各戦隊が取りうる最も速い速度で航行を始めた。 結論から言えば、この選択は正解であった。 この選択により、快速のシュペー戦隊はアルハンゲリスク艦隊が来襲する直前に ケーニヒスベルク沖へ到着することができたからだ。 ・ 会敵 1945年4月10日朝方、シュペー戦隊はケーニヒスベルク沖に到着。 当時、ケーニヒスベルク港からはソヴィエト艦隊来襲の一報を受けた脱出船が 駆逐艦の護衛を受けながら一斉に離脱しつつあったが、 未だ20隻もの船舶が港から然程離れていない位置に存在していた。 そして、シュペー戦隊がその様子を目撃して間もなく、 北方から戦艦アルハンゲリスクを先頭にしたアルハンゲリスク艦隊が来襲した。 このアルハンゲリスク艦隊はアルハンゲリスク以下、ペトロパブロフスク級戦艦のペトロパブロフスク。 キーロフ級重巡洋艦のキーロフと、マキシム=ゴーリキー級重巡洋艦のマキシム=ゴーリキー。 そして、6隻の駆逐艦(オピトヌイ、グネフヌイ、グロジャシュチイ、ゴールドィイ、 ステレグシュチイ、スメトリーヴイ)から構成されていた。 彼我の戦力差は圧倒的であった。 ソヴィエト側は戦艦が2隻。それもアルハンゲリスクは旧式ながら38.1センチ主砲8門を有する超弩級戦艦であり、 ペトロパブロフスクも30.5センチ主砲12門を有する弩級戦艦であったのに対し、 ドイツ側のアドミラル=グラーフ=シュペーは重巡洋艦に類別されるほどの小型戦艦でしかなく、 主砲も28.3センチ主砲6門と大きく劣っていた。 残る巡洋艦の数ではエムデンを含めればドイツ側がわずかに上回っていたが、 戦艦の差は如何とも埋め難く、ソヴィエト側が優勢は明らかであった。 あまりの戦力差にアドミラル=グラーフ=シュペーの艦橋では、戦隊指揮官兼艦長のラングスドルフ少将に対し、 航海長がこれでは脱出船団を守りきれないとして、船団を解いて各艦独航で本土に退避させる案を具申したものの、 厳しい声で却下されていた、という証言を艦橋では唯一の生存者であった操舵員が述べている。 彼の証言が正しければ、この直後にシュペー戦隊は、脱出船団へ迫ろうとしたアルハンゲリスク艦隊に対する 単縦陣での突撃を慣行しており、これによってケーニヒスベルク沖海戦の幕が上がったとされている。 485 :557:2014/11/24(月) 10:53:48 ・ 戦闘経過 戦力面に圧倒的に劣るシュペー戦隊だったものの、アルハンゲリスク艦隊に勝っていた点が二つ存在していた。 まず一つは、速度である。 アルハンゲリスク艦隊が旗艦であった戦艦アルハンゲリスクの最大20ノットという速度に合わせて 戦速を保たざるを得なかったのに対し、シュペー戦隊は最大28.5ノットという快速での行動が可能だった。 この優速を活かした結果、シュペー戦隊はアルハンゲリスク艦隊が予期せぬドイツ主力艦隊の出現に 散発的な反撃しか行えないうちに、不完全ながら丁字戦に持ち込むことができたのだ。 なおシュペー戦隊が接近するまでの間、射程に勝るアルハンゲリスクやペトロパブロフスクからの砲撃は 当然ながら行われていたのだが、それらの砲弾がシュペー戦隊を捉えることは無かった。 これがシュペー戦隊がアルハンゲリスク艦隊に勝っていたもう一つの点、錬度である。 アドミラル=グラーフ=シュペーが、北海で友軍からの誤爆を受けるまでは 通商破壊戦やラプラタ沖海戦で猛威を振るった歴戦の古兵であったのに対し、 アルハンゲリスクは前年に英国から譲渡されたばかりで錬度が大きく不足していた他、 ペトロパブロフスクも浮揚修理後に訓練らしい訓練は行えておらず、高速のシュペー戦隊を捉えきれなかったのだ。 不完全ながらも丁字戦に持ち込むことができたシュペー戦隊は、どうにか丁字戦の状態から逃れようとする 先頭のアルハンゲリスクとそれに続くペトロパブロフスクに対し、一糸乱れぬ砲撃を開始した。 この砲撃で滅多打ちにされた両艦のうち、特にアルハンゲリスクは副砲や高角砲の過半が損傷し、 艦上構造物にもかなりの被害が生じたとされる。 しかし古く、そして練度が劣っていたとはいえ、アルハンゲリスクは間違いなく超弩級戦艦であった。 何故ならば、シュペー戦隊による猛射を浴びてもアルハンゲリスクの主砲塔と司令塔は 破壊を免れており、主砲戦には何ら支障が無かったからだ。 そして、シュペー戦隊はそんな超弩級戦艦に接近した代償を支払うことになる。 丁字戦が崩れ、反航戦に移行しつつあった時、アルハンゲリスクの38.1センチ砲弾が アドミラル=グラーフ=シュペーの前部砲塔付近を直撃したのだ。 航行にこそ支障は無かったが、砲塔は大きく損傷して使用不能となり、大きな黒煙が上がった。 これを好機とし、続くペトロパブロフスクとマキシム=ゴーリキー、キーロフも同艦への攻撃を集中。 結果、アドミラル=グラーフ=シュペーの被害は加速度的に高まり、ついには炎上する。 さらに惨劇は続き、アドミラル=グラーフ=シュペーの後ろに位置していたアドミラル=ヒッパーが 次なる目標として狙われ、飛来したうちの一発が艦橋を直撃。 艦長を含む司令部要員を壊滅し、また操舵員も戦死したことでアドミラル=ヒッパーの操舵は一時混乱。 最大戦速を維持したまま、戦列からの落伍することになる。 だが、それでもアドミラル=グラーフ=シュペーとアドミラル=ヒッパーの行き足が鈍らなかったのが幸いした。 両艦の行き足が曲がりなりにも鈍らなかったがために、後続のプリンツ=オイゲン以下の部隊が 陣形を崩すことなく、砲雷撃戦を慣行することができたからだ。 この時点でラングスドルフ少将はプリンツ=オイゲン艦長のヴェルナー=エアハルト大佐に指揮権を移譲。 プリンツ=オイゲンを先頭にエムデン、レーベレヒト=マース、マックス=シュルツで構成されていた 戦隊後列は飛来する砲弾に構わず、横腹を晒すアルハンゲリスク艦隊に近距離から魚雷を見舞った。 486 :557:2014/11/24(月) 10:54:20 そして、この水雷攻撃がペトロパブロフスク以下のアルハンゲリスク艦隊主力を見事に捉えた。 まずプリンツ=オイゲンとエムデンの放った魚雷が、それぞれペトロパブロフスクの艦首と艦尾を捉えて切断したのだ。 これによって生じた歪みが関係したのか、以後ペトロパブロフスクは全主砲塔の旋回が不可能となる。 さらには戦速で航行していたのが災いし、加えて艦尾の被害で速度を緩めることも適わず、 水圧で艦首の破壊が加速していったペトロパブロフスクは、じりじりと艦体を沈めていった。 両艦の攻撃はそれでも収まらず、健在であったペトロパブロフスクの副砲塔群に対する砲撃を続行。 ペトロパブロフスクも黙ってはおらず、それら副砲塔群による反撃を試みようとした。 しかし、行き足が鈍ったペトロパブロフスクを避けるべく、その横を抜けようとしたマキシム=ゴーリキーが プリンツ=オイゲンらの攻撃をもろに浴びる形となり、しかもペトロパブロフスクが沈み始めるまでに行おうとした 反撃さえも自らの身をもって妨害するという醜態を晒す。 強力な20.3センチ砲弾と、それよりは小ぶりながらも威力十分な15センチ砲弾を猛射を浴びたマキシム=ゴーリキーは 沈没こそ辛うじて免れたものの、射程外に逃れる頃には艦上構造物のほとんどが壊滅していたとされる。 そんなマキシム=ゴーリキーに続かざるを得なかったキーロフとソヴィエト駆逐艦群は悲惨であった。 この頃にはプリンツ=オイゲンとエムデンは順次目標を変えており、 後ろに続くレーベレヒト=マース及びマックス=シュルツも魚雷を放っていた。 それらの砲雷撃が次々とキーロフやソヴィエト駆逐艦群を襲い、 キーロフが三番主砲塔を吹き飛ばされ、直後に魚雷を艦尾に受けて航行不能。 その後、三番主砲塔弾薬庫の誘爆で爆沈した。 続いていた駆逐艦群もオピトヌイがレーベレヒト=マースの放った魚雷の直撃で撃沈された他、 キーロフが航行不能になったことで陣形を乱されたところへ砲撃を浴び、 グネフヌイが艦首断裂で航行不能、さらにゴールドィイが煙突付近への直撃で炎上し、相次いで艦隊から落伍する。 この丁字戦からの反航戦が終わった段階で、ソヴィエト側の被害はペトロパブロフスクとキーロフ、駆逐艦1隻が沈没。 マキシム=ゴーリキーと駆逐艦2隻が大破戦闘不能。アルハンゲリスクが中破。 対するドイツ側の被害は、アドミラル=グラーフ=シュペーが前部主砲使用不能の上で中破炎上していたものの、 航行に支障は無く、後はアドミラル=ヒッパーが艦橋壊滅で戦列から落伍した以外の被害は エムデンと駆逐艦2隻の小破に止まっていた。 一見するとドイツ側に優勢が傾いたかのように感じられるが、それは間違いである。 何故ならば、アルハンゲリスク最大の問題たる主砲は未だ健在であり、 後少しでも脱出船団に接近させれば、船団がその射程に収まってしまう可能性が残されていたからだ。 さらにドイツ側は最大の打撃力を持っていたはずのアドミラル=グラーフ=シュペーの主砲が アルハンゲリスクへの有効打にならないことが明らかとなっており、 アルハンゲリスクを阻止する有効な手段は、プリンツ=オイゲンらの魚雷を除いて存在していないかに思えた。 しかし、その一撃が確実に当たるとは限らない。他に手立ては残されていないのだろうか。 そうした思考がラングスドルフ少将に決断をさせた、と後世では結論付けられている。 487 :557:2014/11/24(月) 10:55:08 ・ ラングスドルフ=チャージ シュペー戦隊の猛撃を抜けた時点で、アルハンゲリスク艦隊で戦闘行動可能な艦は 戦艦アルハンゲリスクと駆逐艦3隻にまでその数を減じていた。 しかし、ドイツ側の小型戦艦は炎上しており、2隻の重巡洋艦も片方は戦列から落伍。 総合的な打撃力は、戦艦が健在であるソヴィエト側が優勢であった。 そこでアルハンゲリスクは駆逐艦3隻にプリンツ=オイゲンらの牽制を命じると、単独で脱出船団へと向かい始めた。 これは彼らに対する命令があくまでも脱出船団撃滅であり、乗り合わせた政治将校が頑なに主張したためであった。 また実際問題として、ここまでの大被害を被りながら命令を果たせなかった場合、 彼らアルハンゲリスク艦隊の面々がどのような扱いを受けるかは火を見るより明らかであろう。 このような焦燥からの判断が、ドイツに最後の好機を作り出した。 もしもこの時、アルハンゲリスクがあくまでもドイツ艦隊の完全な撃滅を志向し、 アドミラル=グラーフ=シュペーに止めを刺していたのならば、海戦の結果は変わっていたと考えられるからだ。 かくして脱出船団に向かい始めたアルハンゲリスクであったが、やがて煤煙を上げながら脱出船団の横を抜け、 船団とアルハンゲリスクの間に立ち塞がろうとする2隻の小型戦艦の姿を捉えた。 それはシュペー戦隊と別れた後も諦めず航行を続け、ようやく海域に到着したシュレジェン戦隊であった。 随伴していた駆逐艦リヒャルト=バイツェンを船団の護衛に合流させた結果、 シュレジェンとシュレスヴィヒ=ホルシュテインの2隻だけとなっていたものの、 アルハンゲリスクの行く手を遮り、脱出船団が離れる時間を稼ぐだけのことができる貴重な戦力には変わりなかった。 アルハンゲリスクの行く手を遮るように展開し、シュペー戦隊が成し得なかった完璧な丁字戦を試みるシュレジェン戦隊。 いくら相手が旧式で小型の戦艦とはいえ、艦体が損傷している以上は砲撃を受ける危険を冒せない。 そんなシュレジェン戦隊の勇壮な姿がアルハンゲリスクに転舵を強い、そしてドイツに最後の好機を物にさせた。 転進するアルハンゲリスクに対し、後方から火炎と黒煙を噴き上げながらも 鈍ることが無かった最大の戦速で追い縋ろうとする小型戦艦が居たのだ。 アドミラル=グラーフ=シュペーである。 この接近するアドミラル=グラーフ=シュペーの目論みを、アルハンゲリスクは誤解した。 否、誤解したというよりは、常識的な判断を下したと言っても差し支えないだろう。 前部主砲が使用不能である以上、アドミラル=グラーフ=シュペーの有効な攻撃手段は 後部主砲しか残されていない。それさえ注意すれば後は副砲に稀な一撃に警戒するぐらいである。 今ならば、労せずに止めを刺せるかもしれない。 そこでアルハンゲリスクは急遽予定を変更しアドミラル=グラーフ=シュペーに対して丁字戦の形を描く。 先ほどと逆の立場で、アドミラル=グラーフ=シュペーに止めを刺そうと動いたのだ。 だが、それにも係わらずアドミラル=グラーフ=シュペーは突撃を継続した。 アルハンゲリスクがその異変に気付いたのは、彼我の距離が相当に縮まった後であった。 本来、丁字戦はいつまでも理想的な丁字を描き続けるものではない。 何故ならば、頭を抑えられた艦はそれを避けるように転進するため、 然程時間が経過しないうちに丁字が瓦解してしまうからだ。 だがこの時、アルハンゲリスクはアドミラル=グラーフ=シュペーに対し、理想的な丁字を描き続けていた。 経験の浅いアルハンゲリスクの乗組員は、この異常に気付くことが出来なかったのだ。 488 :557:2014/11/24(月) 10:55:42 そして、アルハンゲリスクが異変に気付いた時には既に手遅れであった。 次の瞬間には、アドミラル=グラーフ=シュペーがアルハンゲリスクの左舷艦尾付近に体当たりしたのだ。 戦史上最後のラムアタックとされるこの一撃は、アドミラル=グラーフ=シュペーの艦首大圧壊と引き換えに アルハンゲリスクの艦尾を抉り取り、航行不能へと至らしめた。 さらに直後、アドミラル=グラーフ=シュペーは限界まで旋回させていた後部主砲塔の3門を斉射。 体当たりの衝撃で照準器は狂っていたと推測されるが、この距離ならば関係は無かった。 放たれた28.3センチ砲弾は全てが艦上構造物を直撃し、司令塔基部ごとアルハンゲリスクの司令部要員を薙ぎ倒した。 これは小型戦艦が超弩級戦艦に致命的な一撃を与えた瞬間であり、 同時にアドミラル=グラーフ=シュペーによる最後の一撃であった。 直後、ようやく旋回を終えたアルハンゲリスクの三番主砲塔と四番主砲塔が アドミラル=グラーフ=シュペーに反撃を加え、最早満身創痍だった同艦に止めを刺したからだ。 アドミラル=グラーフ=シュペー、轟沈。 これはハンス=ラングスドルフ少将以下乗組員1150名中、生存者わずかに3名という凄まじいものであり、 この際に立ち上ったきのこ状の黒煙は離れつつあった脱出船団からも十分に目撃できるほどだった。 だが、そんな大爆発の余波を至近で受けてしまったアルハンゲリスクもただでは済まなかった。 衝撃波が副砲や高角砲を吹き飛ばし、さらには抉り取られた艦尾から大量の熱風が艦内に吹き込んだ。 その結果、アルハンゲリスクは大炎上を起こし、アドミラル=グラーフ=シュペーに 引きずり込まれるかのようにやがて艦尾から沈んでいった。 なお、こうしたアドミラル=グラーフ=シュペーとアルハンゲリスクの最期は、 シュレジェンに乗り合わせていた宣伝省関係者が回していたカメラに録画されており、 戦後ナチスに対する評価に厳しい制約が加えられたドイツにあって、 唯一公式の場でも放映することを認可された旧宣伝省の映像として有名である。 ・ その後 アルハンゲリスクとアドミラル=グラーフ=シュペーの沈没は、海戦の終了を決定付けるものであった。 満身創痍のマキシム=ゴーリキーを含むソヴィエト側の残存艦艇は大慌てで撤退し、 そしてドイツ側の残存艦艇もケーニヒスベルクへの攻勢が強まったとして、 逃げるソヴィエト側の残存艦艇を追うことなく、ケーニヒスベルクの支援と脱出船団の護衛に 散っていくことになったからだ。 シュレジェン戦隊の2隻は操舵が回復したアドミラル=ヒッパーと共にケーニヒスベルク港に突入。 市内外周に達しつつあったソヴィエト軍に対する猛烈な艦砲射撃を続け、 最後のドイツ軍が撤退するその瞬間まで、ケーニヒスベルクの守護神であり続けた。 一方、プリンツ=オイゲン以下の5隻は脱出船団を護衛しながら本土へと帰還し、 キール軍港にて作戦行動を終えた。 これはドイツ海軍が行った最後の水上戦闘作戦となった。 参加艦艇 ドイツ海軍 ・ アドミラル=グラーフ=シュペー戦隊 重巡洋艦 : アドミラル=グラーフ=シュペー、アドミラル=ヒッパー、プリンツ=オイゲン 軽巡洋艦 : エムデン 駆逐艦 : レーベレヒト=マース、マックス=シュルツ ・ シュレジェン戦隊 戦艦 : シュレジェン、シュレスヴィヒ=ホルシュテイン 駆逐艦 : リヒャルト=バイツェン ソヴィエト海軍 ・ バルト海艦隊 戦艦 : アルハンゲリスク、ペトロパブロフスク 重巡洋艦 : キーロフ、マキシム=ゴーリキー 駆逐艦 : オピトヌイ、グネフヌイ、グロジャシュチイ、ゴールドィイ、ステレグシュチイ、スメトリーヴイ 損害 ドイツ海軍 沈没 : アドミラル=グラーフ=シュペー 大破 : アドミラル=ヒッパー(後に本土に帰還) 小破 : エムデン、レーベレヒト=マース、マックス=シュルツ ソヴィエト海軍 沈没 : アルハンゲリスク、ペトロパブロフスク、キーロフ、オピトヌイ、グネフヌイ、ゴールドィイ 大破 : マキシム=ゴーリキー 小破 : ステレグシュチイ 489 :557:2014/11/24(月) 10:56:55 ・ 余談という名の参加艦艇裏話 ・ アドミラル=グラーフ=シュペー 大戦初期の大西洋通商破壊戦で活躍した武勲艦。 ラプラタ沖海戦後に大西洋単独で横断し、帰還しようとした最中、 北海上でドイツ空軍機からの誤爆を受けて機関を損傷。 辛うじてキール軍港に帰り着き修理を受けたものの、以降数年間は原因不明の機関不調に悩まされる。 それが原因で長らく港内生活が続いていたが、1944年末にようやく機関不調の原因が判明。 主力水上艦艇の修理優先度が下がる中、ケーニヒスベルク救援までに修理が完了したのは半ば奇跡と言える。 作戦中に戦没したが、1999年に沈没地点の調査が行われ、同艦の錨が回収された。 現在、その錨はキールにて展示されている。 なおこのシュペーに対する誤爆が原因で以降、海空軍の意思疎通が綿密に行われるようになり、 ヴィーキンガー作戦におけるレーベレヒト=マースとマックス=シュルツの喪失回避の遠因となる。 ・ アドミラル=ヒッパー 作戦後、火力支援のためにケーヒニスベルクに留まるも、東プロイセンからの最終脱出船団と共に撤退。 無事にキール軍港へ帰還したが、艦上構造物の損傷が激しかったことから 修繕は不可能と判断され、港内に繋留。特設武装を施し、防空砲台として利用された。 しかし終戦間際の空襲によって大破、着底。史実同様1948年に浮揚、1952年に解体。 ・ プリンツ=オイゲン 作戦後、キール軍港に帰還。 燃料枯渇のため以降の出撃は控えられたが、終戦時も稼動状態を維持。 米軍に接収されたものの、1956年のドイツ再軍備の際に返還。 ドイツ連邦共和国海軍籍に復帰し、旗艦として活用される。 ・ エムデン 作戦後、キール軍港に帰還。 損傷が軽微だったことから以降、数次に渡って脱出船団護衛に組み込まれる。 最終脱出船団護衛時、疎開船ゴヤに対するソ連潜水艦の雷撃を庇い、爆沈。 490 :557:2014/11/24(月) 10:57:52 ・ レーベレヒト=マース 作戦後、キール軍港に帰還。 損傷が軽微だったことから以降、エムデンと共に脱出船団護衛に組み込まれる。 終戦時も稼動状態を維持しており、米軍に接収される。 その後、プリンツ=オイゲンらと共に1956年のドイツ再軍備の際に返還。海軍籍復帰。 1970年代に退役。キール港内に記念艦として展示される。 なお史実ではヴィーキンガー作戦中に誤爆が沈没するも、この世界ではシュペーの先例によって回避している。 ・ マックス=シュルツ 作戦後、キール軍港に帰還。 損傷が軽微だったことから以降、エムデンと共に脱出船団護衛に組み込まれる。 終戦時も稼動状態を維持しており、米軍に接収される。 その後、プリンツ=オイゲンらと共に1956年のドイツ再軍備の際に返還。海軍籍復帰。 1970年代に退役。部品の一部を記念艦化されるレーベレヒト=マースに供出の後、解体。 なお史実ではヴィーキンガー作戦中に誤爆が沈没するも、この世界ではシュペーの先例によって回避している。 ・ リヒャルト=バイツェン 作戦後、キール軍港に帰還。 損傷が軽微だったことから以降、エムデンと共に脱出船団護衛に組み込まれる。 終戦時も稼動状態を維持しており、米軍に接収される。 その後、プリンツ=オイゲンらと共に1956年のドイツ再軍備の際に返還。海軍籍復帰。 1970年代に退役。部品の一部を記念艦化されるレーベレヒト=マースに供出の後、解体。 ・ シュレジェン 作戦後、火力支援のためにケーヒニスベルクに留まるも、東プロイセンからの最終脱出船団と共に撤退。 キール軍港へ帰還したものの機関が既に限界を迎えていたことから、 キール軍港の入り口に近いラーボエの海岸に埋め立てられ、簡易要塞としての利用が計画された。 しかしキール軍港に敵軍が押し寄せることはなく終戦を迎えたため、武装解除後に放棄。 今でも船体は現地に存在している。 なお史実ではソ連に接収されたが、この世界では埋め立てられたために接収を免れている。 ・ シュレスヴィヒ=ホルシュテイン 作戦後、火力支援のためにケーヒニスベルクに留まるも、東プロイセンからの最終脱出船団と共に撤退。 キール軍港へ帰還したものの機関が既に限界を迎えていたことから、 キール軍港の入り口に近いラーボエの海岸に埋め立てられ、簡易要塞としての利用が計画された。 しかしキール軍港に敵軍が押し寄せることはなく終戦を迎えたため、武装解除後に放棄。 今でも船体は現地に存在している。 なお史実ではソ連に接収されたが、この世界では埋め立てられたために接収を免れている。