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ネタ[架空戦記版]12_yukikazeさま_ 戦後夢幻会ネタSS——「たった一人の戦場」」(2021/04/05 (月) 01:10:32) の最新版変更点

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961 :yukikaze:2014/10/13(月) 14:54:07 台風で暇を持て余したんで投下。 暗く細長い通路を、男は無言で歩いていた。 以前は無愛想なMPが両脇にいて、彼を罪人よろしく扱おうとしたのだが、男の冷ややかな視線に耐えきれず、今では男の後ろを歩いているに過ぎない。 それが男にとっては実に噴飯ものであった。 全く情けないものだと。所詮、連中は抵抗できない人間にしか強い態度は取れないのだろう。 あの戦争で負け続け馬脚を現した連中に相応しい精神ではある。 もっとも、男にとって現状が不快なのは間違いなかった。 今日もまた男にとってバカげた一日が始まろうとしているのだから。   戦後夢幻会ネタSS——「たった一人の戦場」 所謂戦争犯罪人の処罰に対して、アメリカ側の日本への態度はドイツの時のそれと比べると極めて消極的なものであった。 無論それは日本の戦争が正義の戦争であったと認めたからではない。 アメリカ側は日本の行動を侵略戦争であると断じており、当時の国際的枠組みを自らの手で破壊したことについては徹底的に糾弾をしていた。 しかしながら、それはあくまで国家に対する糾弾であり、個人に対する糾弾であってはならないとウォーレスは考えていた。 仮にそれが認められるとしても、それは事後法としてではなく、国際条約で認められて以降に行わなければ意味がないと考えていた。 ウォーレスにとって裁判とは、法に基づいた罪を裁く場であり、間違っても国家による復讐劇に使われてはならないと考えたのである。 そうでなければ裁判そのものの価値が地に落ちるからである。 だが、このウォーレスの考えは、連合国内では全く賛同を得られなかった。 彼らにすればドイツを事後法で裁く以上、日本に対して例外を認める必要性がないと返したのである。特に中華民国は「日本の侵略はナチスのホロコーストに匹敵する歴史的な罪である」と厳しく糾弾し、オーストラリアやオランダもそれに同調した。 勿論彼らが、裁判の名のもとに報復を行おうとするのは明らかであった。 ウォーレスは彼らに対して「我々は日本の国家的罪を許した訳ではないし、彼らが国際条約に反して行った行為に対しても許すつもりもない」と説得したが、彼らは聞く耳を持とうとはしなかった。彼らの後ろにはそれぞれの国の「世論」というものがあったからである。 962 :yukikaze:2014/10/13(月) 14:54:48 そう。何だかんだ言いながらも日本を追い詰めていたアメリカと違って、それ以外の国は火事場泥棒のソ連を除いて負け続けていたのである。 当然のことながら各国国民の政府に対する視線は冷たかった。 特に中華民国の場合、最初から最後まで負け続けていたという事実は大きすぎた。 面子を何よりも重視する彼らにしてみれば、日本を徹底的に叩きのめさない限り、自らの政治的権威そのものが崩壊するのである。 故に、彼らは執拗なまでに国際裁判による断罪を求め続けるのである。 この動きに、ウォーレスも匙を投げた。 自らの信条からすれば、彼らの言い分を受け入れる気など起きないのだが、連合国の盟主としては、必要以上に彼らの意見を拒絶するのもまずすぎた。 イギリスはともかくとしても、中国やフランスは一定数以上の共産党シンパが控えており、彼らの伸長がこれ以上拡大するのはまずいのである。 心中溜息をつきながら、彼らの要望を受諾したウォーレスであったが、彼は喜色満面の大使達に対して釘を刺しておくことも忘れなかった。 「貴方方は茨の道を歩むことを自ら選んだのですぞ。その責任は偏に貴方方にあるということをお忘れなく」 ウォーレスのこの予言を、各国は30年後に後悔と共に振り返ることになるのだが、その時の彼らには単なる負け惜しみにしか聞こえなかった。 そして、ウォーレスの同意を得た事から彼らはGHQを通じ、嬉々として国際法廷における犯罪人検挙に勤しむことになるのだが、一番の獲物の名前は、東条英機であった。 中華民国やオーストラリアは、昭和天皇の検挙を画策したが、これは英米が全力で止めた。 ワシントン宣言で「天皇主権から国民主権へと移されるが、天皇制については日本国民によって定められるもの」と、事実上の天皇制維持を認めていることから、彼らが昭和天皇を戦犯として引き立てた場合、日本国内で泥沼の地上戦が勃発しかねないのである。 GHQ民政局のトップであるグルーからも「仮に天皇を裁こうとした場合、日本の国民の大多数は連合国に敵意を持ち、それこそ国土を焦土と化しても戦いを止めないでしょう」と アメリカ政府に強く警告し、総司令官のパットン元帥も「日本での円滑な統治を考えるならば、天皇を復讐の道具に使う事はアメリカにとって益なし」と進言している。 余談だが、パットンは昭和天皇と会談した際、昭和天皇が皇室財産の目録全てを差し出し、『自分はどうなっても構わないが、どうか日本国民を助けていただきたい。対価が必要というならばこれを進呈する』と示した事に相当の感銘を受け『陛下の尊厳を汚すつもりも、日本国民を見捨てることもしませんのでご安心ください』と、確約をし、以降、彼なりに、かなり日本に気を使った統治をおこなうことになる。(吉田政権がリベラルであり、彼らと本質的に対立をすることが少なかったことも大きいが) こうした背景から、昭和天皇の検挙は渋々ながら諦められたが、東条に関しては容赦がなかった。 5・3事件のクーデターの責任を取って辞職した東条は、日本の近代戦争において初めての敗北を齎した首相として国民からの怒りを一身に浴びる存在となり、彼を庇う者は誰もいなかったのである。 流石に日本政府は、事後法による戦争犯罪人の処罰に対して抗議をし、連合国側の戦争犯罪も含めた非人道行為に対して国際裁判を開くべきであると反論したのだが、全くと言っていいほど黙殺をされた。 「敗戦国が偉そうに言うな」それが国際裁判を主導する者達の本音であった だが、彼らは見謝っていた。 東条が従容と逮捕される姿を見て「東条は全てを諦めてた」と優越感に浸っていた彼らであったが、東条がこの機会を待っていたという事に気付いていなかった。 そう。東条にとってこの法廷は、自分にとっての最後の戦場であり、奉公の場だったのである。 愚かにも彼らは、獲物に飛びかからんと体制を整える獣を、致命傷を負ってうずくまっていると勘違いしたのである。 彼らはその判断の誤りを痛いほど味わうことになる。 964 :yukikaze:2014/10/13(月) 14:55:23 まず最初に、彼らは東条の戦争責任を断罪したのだが、それに対する東条の反論は激烈だった。 ・ 国家の戦争行為の責任を個人にきせるなど、今までの国際法上聞いたことがない ・ 仮に責任を問うというならば、それは自国によって裁かれるべきものである ・ 東条は、平和を祈念される天皇陛下のご意思に背き、戦争を指導し且つ日本を敗北に導き、国民に苦難を与えてしまった。ならば日本国民によって敗戦の責を裁かれるのが筋である ・ 仮に個人の責を問うというのであれば、中立条約を結んでおきながら、火事場泥棒をしたスターリンの戦争行為の責任を貴国らは問うのか 舌鋒鋭く問い詰める東条の姿は、まるで戦場に立つ鬼将軍の姿であったと、当時傍聴していた新聞記者が手記に残しているが、これ以降も東条は、日本国民に対する責任を認めながらも、執拗に戦争責任を攻撃する連合国各国に対して一歩も引かない戦いを演じてのける。 最大の場面は『日本の計画的侵略性』として中華民国が掲げた『田中上奏文』を全くの陰謀偽書として、合同調査団による調査で、それを立証させたことである。 これにより中華民国は国際的に大きな恥をかくことになり(一方で、計画的な侵略性ではなく、単に日本の政治、軍事双方での戦略的無定見性による戦争であったことが明らかにされ、日本の評価も相応に下落したが)、その他の彼らの証言のあいまいさやいい加減さも相まって、連合国からすら「中華民国が喋れば喋る程、碌な事にはならない」と、中華民国への信頼感を最低限レベルにまで叩き落すことになる。 裁判が中盤になると、もう検事たちも東条を「法廷の素人」などとは取り扱おうともしなかった。 論理に少しでも矛盾があれば的確にそこを突かれ、自白による証言も、結果的には巣鴨の劣悪な環境と取り調べの違法性(誘導尋問や拷問等)がクローズアップされることになり、「公正な裁判」ではなく「負け続けていた国の腹いせ」というイメージが国際的にも形成されつつあったのである。 カミソリ東条の面目躍如というべきものであり、ウォーレスからすれば「だから言ったろうが」という気分であったのだが、だからと言ってウォーレスは手助けするつもりもなかった。 あくまで従来の戦争犯罪に焦点を絞って、俘虜問題や占領地行政問題で得点を重ねていたアメリカ検事の行動は、結果的に「アメリカは比較的公平だが、他の連合国は不公平」という認識を日本国民に植え付けさせており、ウォーレスにしてみれば彼らが醜態を晒せば晒すほど都合がよかったのである。 今なお極東軍事裁判において、アメリカ側の担当した案件については、日本人も大多数が納得して受け入れている辺り、アメリカの法廷戦術は大成功したと言っていいだろう。 一方、それとは対照的に、加速度的に印象が悪くなっていた他の連合国は、問題発言を繰り返していたフィリピンと中華民国の担当検事を事実上更迭させることを余儀なくされるなど、法廷でも劣勢にたつ体たらくであった。 特に中華民国は、大陸での邦人虐殺事件、満州、支那での無差別テロが、満州事変以前や停戦協定以降も頻発していることが一次資料を持ち出して糾弾される(資料提供については日本政府は全面的に協力している)など、藪蛇を突いてしまうという失態を演じている。 如何に中国が「レジスタンス活動」といっても、女子供まで虐殺しているそれをレジスタンスと呼ぶのかという東条の質問に、質問を向けられたフランス代表が、東条ではなく中華民国代表をにらみつけるという一幕すらあった。 東条を嫌いぬいていた日本国民も、一部の陸海軍軍人や政治家たちの責任逃れの言動とは一線を画した東条のこの態度に大いに溜飲を下げ「東条も最初からこういう風に戦争指導していりゃよかったんだよ」位には評価が好転し始めることになる。(そして阿部はこうした風潮に対して『現金なものだ。東条がどんな思いで戦っていると思うんだ』と、親しい人物に不快感を示している) 965 :yukikaze:2014/10/13(月) 14:55:54 こうした動きに、慌てたのがGHQであった。 軍事裁判所の無能によって、アメリカの国益は確保できたものの、だからといって東条を、英雄や殉教者として祀られるまでになっては本末転倒である。 グルー長官はウェブ裁判長に対して「貴官は東条を殉教者にしたいのかね」と、彼らの無能ぶりを糾弾する羽目になるのだが、本国の世論とGHQとの間で板挟みにあい、精神的に追い詰められたウェブは、東条の「天皇の意思に背いて戦争を行った」という証言を、強引に「平和に対する罪を認めた」として、有罪にすることを決定した。 元々が近代国家として今まで先例のない無茶な要求なのである。毒を食らうならば皿まで食らってしまえというのがウェブのたどり着いた結論であった。 「平和に対する罪」により死刑判決が下された時、東条は弁護団と、唯一死刑判決に反対していたパール判事に深々と礼をすると、顔の引きつったウェブに対して、眼光鋭く言葉を放っている。 「貴官らは国際法において最悪の汚点を残すことで歴史に名を残すことになった訳だが、満足か?」 それだけ言うと、東条はウェブの返答を待たずに胸を張って退廷をした。 それはまるで凱旋将軍のようであったと、当時の新聞に記されることになる。 死刑執行の朝、看守が見たのは、割腹して息絶えた東条の姿であった。 東条の遺書には、敗北により天皇と国民に苦しみを与えた事への謝罪と、そして日本国民に罪を裁かれる事ができない以上、自らの手で裁くしかない事が綴られていた。 また、敗将である以上、靖国に祀られる資格はなく、無用にしていただきたいとの意思もあった。 連合国各国ではこの遺書をもって「東条は最後まで反省の色がない」と糾弾することになるのだが、もはやそれは負け犬の遠吠えでしかなかった。 彼らは最初から最後まで東条に勝つ事が出来なかったのである。 彼らに残されたのは、勝者として振る舞おうとする見苦しい姿と、日本国民の侮蔑であった。 そしてそれを知るが故に、彼らは愚行を嵩ね、前述のように日本から手痛いしっぺ返しを受けることになる。 最後に東条家について語ろう。 当初は戦争を敗北に導いた首相の家として嫌がらせを受けることも多かったが、裁判での東条の毅然とした姿勢が世間に浸透されるにつれ、そうした空気は減り、一部の右翼団体から持ち上げられるようにもなっていた。 もっとも、東条家はそうした風潮を苦々しく思っており、一切の政治的活動には関与せず、静かに暮らすことを望み、日本政府も彼を公的に英雄視することはしていない。 東条の3男である東條敏夫が空軍中将にまでなった時、一部の国や団体から抗議が来ることがあったが、既に国連での敵国条項も削除され、東条が一切の政治的発言を行っていないことを、日本政府に突き付けられ、歯牙にもかけなかった位が、政府が東条家に関与した位であろう。 「東条は確かに国を亡国寸前に追い込んだ。だが、家族にまでその罪を着せようとするのは文明国家として鼎の軽重を問われる」 ある雑誌のインタビューに対する吉田茂の返答は、この裁判に対する痛烈な皮肉であった。
961 :yukikaze:2014/10/13(月) 14:54:07 台風で暇を持て余したんで投下。 暗く細長い通路を、男は無言で歩いていた。 以前は無愛想なMPが両脇にいて、彼を罪人よろしく扱おうとしたのだが、男の冷ややかな視線に耐えきれず、今では男の後ろを歩いているに過ぎない。 それが男にとっては実に噴飯ものであった。 全く情けないものだと。所詮、連中は抵抗できない人間にしか強い態度は取れないのだろう。 あの戦争で負け続け馬脚を現した連中に相応しい精神ではある。 もっとも、男にとって現状が不快なのは間違いなかった。 今日もまた男にとってバカげた一日が始まろうとしているのだから。   戦後夢幻会ネタSS——「たった一人の戦場」 所謂戦争犯罪人の処罰に対して、アメリカ側の日本への態度はドイツの時のそれと比べると極めて消極的なものであった。 無論それは日本の戦争が正義の戦争であったと認めたからではない。 アメリカ側は日本の行動を侵略戦争であると断じており、当時の国際的枠組みを自らの手で破壊したことについては徹底的に糾弾をしていた。 しかしながら、それはあくまで国家に対する糾弾であり、個人に対する糾弾であってはならないとウォーレスは考えていた。 仮にそれが認められるとしても、それは事後法としてではなく、国際条約で認められて以降に行わなければ意味がないと考えていた。 ウォーレスにとって裁判とは、法に基づいた罪を裁く場であり、間違っても国家による復讐劇に使われてはならないと考えたのである。 そうでなければ裁判そのものの価値が地に落ちるからである。 だが、このウォーレスの考えは、連合国内では全く賛同を得られなかった。 彼らにすればドイツを事後法で裁く以上、日本に対して例外を認める必要性がないと返したのである。特に中華民国は「日本の侵略はナチスのホロコーストに匹敵する歴史的な罪である」と厳しく糾弾し、オーストラリアやオランダもそれに同調した。 勿論彼らが、裁判の名のもとに報復を行おうとするのは明らかであった。 ウォーレスは彼らに対して「我々は日本の国家的罪を許した訳ではないし、彼らが国際条約に反して行った行為に対しても許すつもりもない」と説得したが、彼らは聞く耳を持とうとはしなかった。彼らの後ろにはそれぞれの国の「世論」というものがあったからである。 962 :yukikaze:2014/10/13(月) 14:54:48 そう。何だかんだ言いながらも日本を追い詰めていたアメリカと違って、それ以外の国は火事場泥棒のソ連を除いて負け続けていたのである。 当然のことながら各国国民の政府に対する視線は冷たかった。 特に中華民国の場合、最初から最後まで負け続けていたという事実は大きすぎた。 面子を何よりも重視する彼らにしてみれば、日本を徹底的に叩きのめさない限り、自らの政治的権威そのものが崩壊するのである。 故に、彼らは執拗なまでに国際裁判による断罪を求め続けるのである。 この動きに、ウォーレスも匙を投げた。 自らの信条からすれば、彼らの言い分を受け入れる気など起きないのだが、連合国の盟主としては、必要以上に彼らの意見を拒絶するのもまずすぎた。 イギリスはともかくとしても、中国やフランスは一定数以上の共産党シンパが控えており、彼らの伸長がこれ以上拡大するのはまずいのである。 心中溜息をつきながら、彼らの要望を受諾したウォーレスであったが、彼は喜色満面の大使達に対して釘を刺しておくことも忘れなかった。 「貴方方は茨の道を歩むことを自ら選んだのですぞ。その責任は偏に貴方方にあるということをお忘れなく」 ウォーレスのこの予言を、各国は30年後に後悔と共に振り返ることになるのだが、その時の彼らには単なる負け惜しみにしか聞こえなかった。 そして、ウォーレスの同意を得た事から彼らはGHQを通じ、嬉々として国際法廷における犯罪人検挙に勤しむことになるのだが、一番の獲物の名前は、東条英機であった。 中華民国やオーストラリアは、昭和天皇の検挙を画策したが、これは英米が全力で止めた。 ワシントン宣言で「天皇主権から国民主権へと移されるが、天皇制については日本国民によって定められるもの」と、事実上の天皇制維持を認めていることから、彼らが昭和天皇を戦犯として引き立てた場合、日本国内で泥沼の地上戦が勃発しかねないのである。GHQ 民政局のトップであるグルーからも「仮に天皇を裁こうとした場合、日本の国民の大多数は連合国に敵意を持ち、それこそ国土を焦土と化しても戦いを止めないでしょう」と アメリカ政府に強く警告し、総司令官のパットン元帥も「日本での円滑な統治を考えるならば、天皇を復讐の道具に使う事はアメリカにとって益なし」と進言している。 余談だが、パットンは昭和天皇と会談した際、昭和天皇が皇室財産の目録全てを差し出し、『自分はどうなっても構わないが、どうか日本国民を助けていただきたい。対価が必要というならばこれを進呈する』と示した事に相当の感銘を受け『陛下の尊厳を汚すつもりも、日本国民を見捨てることもしませんのでご安心ください』と、確約をし、以降、彼なりに、かなり日本に気を使った統治をおこなうことになる。(吉田政権がリベラルであり、彼らと本質的に対立をすることが少なかったことも大きいが) こうした背景から、昭和天皇の検挙は渋々ながら諦められたが、東条に関しては容赦がなかった。 5・3事件のクーデターの責任を取って辞職した東条は、日本の近代戦争において初めての敗北を齎した首相として国民からの怒りを一身に浴びる存在となり、彼を庇う者は誰もいなかったのである。 流石に日本政府は、事後法による戦争犯罪人の処罰に対して抗議をし、連合国側の戦争犯罪も含めた非人道行為に対して国際裁判を開くべきであると反論したのだが、全くと言っていいほど黙殺をされた。 「敗戦国が偉そうに言うな」それが国際裁判を主導する者達の本音であった だが、彼らは見謝っていた。 東条が従容と逮捕される姿を見て「東条は全てを諦めてた」と優越感に浸っていた彼らであったが、東条がこの機会を待っていたという事に気付いていなかった。 そう。東条にとってこの法廷は、自分にとっての最後の戦場であり、奉公の場だったのである。 愚かにも彼らは、獲物に飛びかからんと体制を整える獣を、致命傷を負ってうずくまっていると勘違いしたのである。 彼らはその判断の誤りを痛いほど味わうことになる。 964 :yukikaze:2014/10/13(月) 14:55:23 まず最初に、彼らは東条の戦争責任を断罪したのだが、それに対する東条の反論は激烈だった。 ・ 国家の戦争行為の責任を個人にきせるなど、今までの国際法上聞いたことがない ・ 仮に責任を問うというならば、それは自国によって裁かれるべきものである ・ 東条は、平和を祈念される天皇陛下のご意思に背き、戦争を指導し且つ日本を敗北に導き、国民に苦難を与えてしまった。ならば日本国民によって敗戦の責を裁かれるのが筋である ・ 仮に個人の責を問うというのであれば、中立条約を結んでおきながら、火事場泥棒をしたスターリンの戦争行為の責任を貴国らは問うのか 舌鋒鋭く問い詰める東条の姿は、まるで戦場に立つ鬼将軍の姿であったと、当時傍聴していた新聞記者が手記に残しているが、これ以降も東条は、日本国民に対する責任を認めながらも、執拗に戦争責任を攻撃する連合国各国に対して一歩も引かない戦いを演じてのける。 最大の場面は『日本の計画的侵略性』として中華民国が掲げた『田中上奏文』を全くの陰謀偽書として、合同調査団による調査で、それを立証させたことである。 これにより中華民国は国際的に大きな恥をかくことになり(一方で、計画的な侵略性ではなく、単に日本の政治、軍事双方での戦略的無定見性による戦争であったことが明らかにされ、日本の評価も相応に下落したが)、その他の彼らの証言のあいまいさやいい加減さも相まって、連合国からすら「中華民国が喋れば喋る程、碌な事にはならない」と、中華民国への信頼感を最低限レベルにまで叩き落すことになる。 裁判が中盤になると、もう検事たちも東条を「法廷の素人」などとは取り扱おうともしなかった。 論理に少しでも矛盾があれば的確にそこを突かれ、自白による証言も、結果的には巣鴨の劣悪な環境と取り調べの違法性(誘導尋問や拷問等)がクローズアップされることになり、「公正な裁判」ではなく「負け続けていた国の腹いせ」というイメージが国際的にも形成されつつあったのである。 カミソリ東条の面目躍如というべきものであり、ウォーレスからすれば「だから言ったろうが」という気分であったのだが、だからと言ってウォーレスは手助けするつもりもなかった。 あくまで従来の戦争犯罪に焦点を絞って、俘虜問題や占領地行政問題で得点を重ねていたアメリカ検事の行動は、結果的に「アメリカは比較的公平だが、他の連合国は不公平」という認識を日本国民に植え付けさせており、ウォーレスにしてみれば彼らが醜態を晒せば晒すほど都合がよかったのである。 今なお極東軍事裁判において、アメリカ側の担当した案件については、日本人も大多数が納得して受け入れている辺り、アメリカの法廷戦術は大成功したと言っていいだろう。 一方、それとは対照的に、加速度的に印象が悪くなっていた他の連合国は、問題発言を繰り返していたフィリピンと中華民国の担当検事を事実上更迭させることを余儀なくされるなど、法廷でも劣勢にたつ体たらくであった。 特に中華民国は、大陸での邦人虐殺事件、満州、支那での無差別テロが、満州事変以前や停戦協定以降も頻発していることが一次資料を持ち出して糾弾される(資料提供については日本政府は全面的に協力している)など、藪蛇を突いてしまうという失態を演じている。 如何に中国が「レジスタンス活動」といっても、女子供まで虐殺しているそれをレジスタンスと呼ぶのかという東条の質問に、質問を向けられたフランス代表が、東条ではなく中華民国代表をにらみつけるという一幕すらあった。 東条を嫌いぬいていた日本国民も、一部の陸海軍軍人や政治家たちの責任逃れの言動とは一線を画した東条のこの態度に大いに溜飲を下げ「東条も最初からこういう風に戦争指導していりゃよかったんだよ」位には評価が好転し始めることになる。(そして阿部はこうした風潮に対して『現金なものだ。東条がどんな思いで戦っていると思うんだ』と、親しい人物に不快感を示している) 965 :yukikaze:2014/10/13(月) 14:55:54 こうした動きに、慌てたのがGHQであった。 軍事裁判所の無能によって、アメリカの国益は確保できたものの、だからといって東条を、英雄や殉教者として祀られるまでになっては本末転倒である。 グルー長官はウェブ裁判長に対して「貴官は東条を殉教者にしたいのかね」と、彼らの無能ぶりを糾弾する羽目になるのだが、本国の世論とGHQとの間で板挟みにあい、精神的に追い詰められたウェブは、東条の「天皇の意思に背いて戦争を行った」という証言を、強引に「平和に対する罪を認めた」として、有罪にすることを決定した。 元々が近代国家として今まで先例のない無茶な要求なのである。毒を食らうならば皿まで食らってしまえというのがウェブのたどり着いた結論であった。 「平和に対する罪」により死刑判決が下された時、東条は弁護団と、唯一死刑判決に反対していたパール判事に深々と礼をすると、顔の引きつったウェブに対して、眼光鋭く言葉を放っている。 「貴官らは国際法において最悪の汚点を残すことで歴史に名を残すことになった訳だが、満足か?」 それだけ言うと、東条はウェブの返答を待たずに胸を張って退廷をした。 それはまるで凱旋将軍のようであったと、当時の新聞に記されることになる。 死刑執行の朝、看守が見たのは、割腹して息絶えた東条の姿であった。 東条の遺書には、敗北により天皇と国民に苦しみを与えた事への謝罪と、そして日本国民に罪を裁かれる事ができない以上、自らの手で裁くしかない事が綴られていた。 また、敗将である以上、靖国に祀られる資格はなく、無用にしていただきたいとの意思もあった。 連合国各国ではこの遺書をもって「東条は最後まで反省の色がない」と糾弾することになるのだが、もはやそれは負け犬の遠吠えでしかなかった。 彼らは最初から最後まで東条に勝つ事が出来なかったのである。 彼らに残されたのは、勝者として振る舞おうとする見苦しい姿と、日本国民の侮蔑であった。 そしてそれを知るが故に、彼らは愚行を嵩ね、前述のように日本から手痛いしっぺ返しを受けることになる。 最後に東条家について語ろう。 当初は戦争を敗北に導いた首相の家として嫌がらせを受けることも多かったが、裁判での東条の毅然とした姿勢が世間に浸透されるにつれ、そうした空気は減り、一部の右翼団体から持ち上げられるようにもなっていた。 もっとも、東条家はそうした風潮を苦々しく思っており、一切の政治的活動には関与せず、静かに暮らすことを望み、日本政府も彼を公的に英雄視することはしていない。 東条の3男である東條敏夫が空軍中将にまでなった時、一部の国や団体から抗議が来ることがあったが、既に国連での敵国条項も削除され、東条が一切の政治的発言を行っていないことを、日本政府に突き付けられ、歯牙にもかけなかった位が、政府が東条家に関与した位であろう。 「東条は確かに国を亡国寸前に追い込んだ。だが、家族にまでその罪を着せようとするのは文明国家として鼎の軽重を問われる」 ある雑誌のインタビューに対する吉田茂の返答は、この裁判に対する痛烈な皮肉であった。

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