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888 :yukikaze:2015/06/12(金) 22:43:20 では投下。まずはF-2。 なお以前どこかでかF-2の愛称を出しましたが、これが拙世界での 正式な名前にしてくださいな。 戦後夢幻会SS  『蒼穹の烈風』 1974年。青く澄みきった空を1機の飛行機が舞っていた。 その流麗な姿は、機能美と共にどことなく日本的な『美』を示すものであったが、 力強く機動するそのさまは、獲物を狙う猛禽のそれに似通っていた。 三菱F-1戦闘機『陣風』 かつて『幻の最強戦闘機』としてモックアップだけで終わってしまった、日本初のジェット戦闘機。 同じ倉崎技師によって産み出されたこの戦闘機に、遂に飛び立つことが出来なかった不遇の姉の 名前を付けたのは、国防空軍の倉崎に対する最上の礼と言えるものであった。 もっとも、彼らがそれだけの敬意を払うのもある意味当然であった。 戦闘攻撃機というカテゴリーでありながら、高い推力重量比からくる機動性の良さと、当時の国防空軍 ではファントムⅡにしか持っていなかった中距離空対空ミサイル『スパロー』の運用能力も付与されて いたのである。 それを考えるならば、国防空軍が狂喜乱舞するのも無理はなかったであろう。 一時期は、F-104の後継機にF-1を導入すべきではという声すら上がる程であった。 (勿論、この声は少数意見でしかなく、大多数の意見はF-15の導入であり、そしてそれはカンボジア 紛争でのアメリカのご褒美として結実することになる) さて、この傑作機の登場によって戦力の底上げを果たした国防空軍であったが、彼らはそれにあぐらを かくほど怠け者ではなかった。 確かに陣風は傑作機であったのだが、あくまでそれは現時点においての傑作機だからだ。 倉崎の慧眼から、性能向上の余地は残していたものの、ソ連邦が開発しているというミグの新型が 出てきた場合、それに対抗できるかどうかは不透明であった。 (事実、スホーイ27やミグ29が相手だと同じ技量のパイロットが操った場合、苦戦するという結論を 国防空軍は下している。相手が悪すぎるだろうという点はあるが) そうであるが故に、国防空軍は1980年代初頭には同機体の後継機計画を煮詰め始めることになる。 それが大いなる茨の道であるということは、この時点では極少数を除いて誰も理解していなかったが。 以上、大まかではあるがF-2戦闘機の計画が始まるまでの前史を紐解いてみた。 恐らくここまでの状況を見れば、国防空軍側に特段の瑕疵など感じることはないであろうと思う。 実際、F-2について言及している書物や議論においても、ここまでは別段批判などしてはいない。 極めて全うなプロセスの元構築されているからである。 F-2において激烈な議論が生じるのはこれ以降のことである。 889 :yukikaze:2015/06/12(金) 22:45:18 1982年7月。国防会議において、陣風の後継機開発計画が内々に着手されることになった。 後知恵論で言えば、この時点で方向性を煮詰めなかったことこそが、これ以降のグダグダさを 後押しすることになった訳だが、神ならぬ彼らはそんなことは知る由もなかった。 実際彼らにとって重要なのは、『F-2戦闘機もF-1と同様国産機開発で』であり、そしてF-1という 輝かしい実績を考えれば、それは予定調和でしかなかった。 ここら辺、かつてのゼロ戦の成功を受けて、どこかその成功神話に酔っぱらってしまった旧海軍 のそれに似通った部分はあるのだが、残念なことに国防空軍もその二の舞を演じることになった。 それが明らかになったのが1985年の性能要求書であった。 ・ 空対艦誘導弾4発を装備した状態で戦闘行動半径450海里を有すること ・ 短距離空対空ミサイルと中距離空対空ミサイルをそれぞれ2~4発装備できること ・ 全天候運用能力を有すること ・ 高度な電子戦能力を有すること これだけ見れば何も問題になることはなかった。 一言で言ってしまえば『陣風の性能強化版』でしかないからだ。 少なくとも三菱や要求書を渡されたアメリカのメーカーはそう判断していた。 だが事はそう単純な話ではなかった。 国防空軍側では深刻なまでの内部対立が生じていたのである。 後に『F-2の国産化の夢を絶たせた愚行』と国産派を激怒させ、国防空軍上層部が責任を取って 総辞任させられるというお粗末な結末を迎えた内部対立は以下のようなものであった。 まず次期戦闘攻撃機計画において、国防空軍側の流れは2つあった。 1つは純粋に『陣風の性能強化版』である。 陣風の性能にほれ込んでいた彼らにとっては、陣風のコンセプトをそのままに、その能力を 向上させさえすればよいと考えていたのである。 運用の点も考えれば極めてオーソドックスなものであり、支持者が多いのもうなずけるもの であった。 それに対し、もう1派の流れは極めて野心的なものであった。 彼らは『陣風の性能強化版』のコンセプトを否定しなかったものの、しかしながらそれだと ソ連との質的優位性を長期間確保できないのではないのかと疑問を示したのである。 この時期、ソ連が手塩にかけて育て上げた満州の軍事力は無視することができず、北朝鮮も 順調に強化されていることを考えた場合、彼らの主張も決して杞憂ではなかった。 故に彼らは、ステルス能力を高めることにより、敵部隊に対して戦略的・戦術的な奇襲能力 を保持させることで、彼らの数的優位性を極小化させようと考えたのである。 最悪の場合、アメリカ軍の援軍が来るまでの間、在日米軍と在韓米軍残存部隊で本土防衛を しないといけない国防空軍にとって、一笑に付すには魅力的なプランであった。 そしてこの両者の対立こそが混乱を生み出すことになる。 前者のプランは技術的なハードルは相対的に低い反面、あくまで既存概念の延長線上のもので あることから、質的優位性の維持に難しい所があり、後者のプランは技術的なハードルこそ 高いものの、成功すれば、ソ連邦に対してドレットノート・ショックに匹敵する程の インパクトを叩きつけ、質的優位性を一気に高められるのである。 どちらともそのコンセプトは正しく、そしてそうであるが故に対立の根は時間が立てばたつほど 根深いものになり、いつしか『妥協=敗北』という子供じみた考えを持つに至ることになる。 本来ならそれを是正するのが上層部の仕事のはずなのだが、上層部が気付いた時には、 両派の対立はかなりのものになっており、彼らの対立を解消させるために三菱に打診した 両派の要求全てを納得させる案は、三菱航空機の『大社長』こと倉崎重蔵から『開発しろというの なら可能であるが、それを成し遂げたければ、最低でも兆単位の開発費と2010年代の初号機開発まで かかる』という回答を得ることで完全に暗礁に乗り上げることになる。 三菱が妥協案として出した『前者のプランをベースに、RCSの低減に努める』というものすら、『技術 屋風情が用兵に口を出すな』と言われた時点で、ある意味まともな議論が成り立たなくなりつつあった と言えるのかもしれない。 890 :yukikaze:2015/06/12(金) 22:46:03 この国防空軍の状況に対して、アメリカ企業の反応は分かれた。 まずMD社は早々にこの件からは手を引いていた。 既に彼らはイーグルとホーネットで十分な利益を得ており、わざわざ空軍の恨みを買うような面倒な 事態に巻き込まれることを嫌っていたのだ。 一方でGD社はこのゴタゴタを徹底的に利用することにしている。 彼らにしてみればF-16が成功を収めつつある中、アジアにおける大規模市場である日本の市場を MD社に独占させてやる必要性を認めてはいなかった。 彼らは、このゴタゴタを尻目に、F-16を性能要求が達成できる機体に改修できることを可能であると し、その計画書を提出。そしてその事実を基にして、徹底的なロビー活動を行うことになる。 彼らがここまで強気に出ていたのは、日本に対して反撃の機会をうかがっていた商務省のバックアップ が期待されていたからであり、商務省はこの件をネタに徹底的に日本側を揺さぶることになる。 そして日本側においても、今回の一件をアメリカ側の譲歩の一環として譲ろうと考える者達もおり、 『国産戦闘機での開発』という命題すら瓦解寸前に陥っていたのだが、この時点においても国防空軍の 内部対立は収まらず、むしろ失態を他の誰かになすりつけようと怪文書が飛び交うという異例の事態に まで陥っていた。 こうした事態に、中曽根首相は、完全に国防空軍を見限った。 既に国防総省や国務省の知日派達からすら『こうした状況においてはもうこちらも庇うのに限度がある』 と助言をされる状況になった以上、国防空軍のグダグダに付き合ってやるつもりなどさらさらなかった。 中曽根の安全保障問題顧問である田中角栄元大将をリーダーとした調査団が国防空軍に乗り込み、その 10日後には国防空軍上層部及び両派において怪文書を送付するなど目に余る行動をした佐官達10数人が 一斉に国防空軍から問答無用で叩き出されたことが、中曽根の怒りの凄まじさを雄弁に物語っていた。 『議論をするのは大いに結構だ。だがそれはあくまで相手の主張を最大限尊重した上でなければならない。 感情的にいがみ合ったり、怪文書をばらまいて相手の評判を落とすなど、それはもう議論ではない。 そしてその事態に対して有効な対処を怠った上層部の怠慢は言語道断である』 田中角栄のこの言葉に、国防空軍は反論することすら不可能であった。 彼らが犯した失態は、擁護しようのない失態であったからだ。 結局、F-2に関して言えば、GD社との協議の末、日本側の全額出資の元、日米共同開発という枠組で 開発を行うことに決定することになった。 GD社にしてみても、開発資金は全額日本持ちで、生産比率も3割以上を獲得。おまけにF-16のデータを オープンにする代わりに、今回の共同開発で得た情報も共有できるわけだから、充分におつりがくる ものであった。 実際、この共同開発によってもたらされた技術によって、GD社は、1994年にはF-16E/Fの初号機を完成 させることに成功し(但しエンジンやコクピット周りなどはブロック50/52相当だが)輸出において インド及びヨルダン、ポーランドと大勝利を収めることになり(台湾やベトナムも追加発注をした) 想定以上の利益を獲得できたのだから。 正にアメリカにとっては最良の結末であったと言えるであろう。 もっとも、こうした事実があったからと言って、F-2の能力に何ら瑕疵はなかった。 初期故障こそあったものの、1997年には部隊配備が開始されることになり(三菱の半ば意地とも言える ものであったが)史実で構想だけされたF-2改といっていいその能力は、新たな主敵と言っていい 中朝のミグ29の系譜相手には充分すぎる能力を保持していたからだ。 国防空軍が内心の感情はどうあれ、同機体の能力を認めていたことは、同機体を計画段階で160機近く 生産することにし、F-35の開発に遅れが出て、ファントムⅡの退役に間に合わなくなった時は、新たに 20機追加し、損耗分用の機体と合わせて、一時的に2個飛行隊編制を組むことで、戦力の穴を埋める ことに成功をしている。(なお追加分は、最終的には東日本大震災での損耗分及び計画時に断念された ブルーインパルス隊に組み込まれることになる) 紆余曲折を経て生まれたF-2であるが、大戦末期、日本の空を守った戦闘機『烈風』の名を受け継ぐに 相応しく、2017年の今でもF-15と共に日本の空を守り続けている。
888 :yukikaze:2015/06/12(金) 22:43:20 では投下。まずはF-2。 なお以前どこかでかF-2の愛称を出しましたが、これが拙世界での 正式な名前にしてくださいな。 戦後夢幻会SS  『蒼穹の烈風』 1974年。青く澄みきった空を1機の飛行機が舞っていた。 その流麗な姿は、機能美と共にどことなく日本的な『美』を示すものであったが、力強く機動するそのさまは、獲物を狙う猛禽のそれに似通っていた。 三菱F-1戦闘機『陣風』 かつて『幻の最強戦闘機』としてモックアップだけで終わってしまった、日本初のジェット戦闘機。 同じ倉崎技師によって産み出されたこの戦闘機に、遂に飛び立つことが出来なかった不遇の姉の名前を付けたのは、国防空軍の倉崎に対する最上の礼と言えるものであった。 もっとも、彼らがそれだけの敬意を払うのもある意味当然であった。 戦闘攻撃機というカテゴリーでありながら、高い推力重量比からくる機動性の良さと、当時の国防空軍ではファントムⅡにしか持っていなかった中距離空対空ミサイル『スパロー』の運用能力も付与されていたのである。 それを考えるならば、国防空軍が狂喜乱舞するのも無理はなかったであろう。 一時期は、F-104の後継機にF-1を導入すべきではという声すら上がる程であった。 (勿論、この声は少数意見でしかなく、大多数の意見はF-15の導入であり、そしてそれはカンボジア紛争でのアメリカのご褒美として結実することになる) さて、この傑作機の登場によって戦力の底上げを果たした国防空軍であったが、彼らはそれにあぐらをかくほど怠け者ではなかった。 確かに陣風は傑作機であったのだが、あくまでそれは現時点においての傑作機だからだ。 倉崎の慧眼から、性能向上の余地は残していたものの、ソ連邦が開発しているというミグの新型が出てきた場合、それに対抗できるかどうかは不透明であった。 (事実、スホーイ27やミグ29が相手だと同じ技量のパイロットが操った場合、苦戦するという結論を国防空軍は下している。相手が悪すぎるだろうという点はあるが) そうであるが故に、国防空軍は1980年代初頭には同機体の後継機計画を煮詰め始めることになる。 それが大いなる茨の道であるということは、この時点では極少数を除いて誰も理解していなかったが。 以上、大まかではあるがF-2戦闘機の計画が始まるまでの前史を紐解いてみた。 恐らくここまでの状況を見れば、国防空軍側に特段の瑕疵など感じることはないであろうと思う。 実際、F-2について言及している書物や議論においても、ここまでは別段批判などしてはいない。 極めて全うなプロセスの元構築されているからである。 F-2において激烈な議論が生じるのはこれ以降のことである。 889 :yukikaze:2015/06/12(金) 22:45:18 1982年7月。国防会議において、陣風の後継機開発計画が内々に着手されることになった。 後知恵論で言えば、この時点で方向性を煮詰めなかったことこそが、これ以降のグダグダさを後押しすることになった訳だが、神ならぬ彼らはそんなことは知る由もなかった。 実際彼らにとって重要なのは、『F-2戦闘機もF-1と同様国産機開発で』であり、そしてF-1という輝かしい実績を考えれば、それは予定調和でしかなかった。 ここら辺、かつてのゼロ戦の成功を受けて、どこかその成功神話に酔っぱらってしまった旧海軍のそれに似通った部分はあるのだが、残念なことに国防空軍もその二の舞を演じることになった。 それが明らかになったのが1985年の性能要求書であった。 ・ 空対艦誘導弾4発を装備した状態で戦闘行動半径450海里を有すること ・ 短距離空対空ミサイルと中距離空対空ミサイルをそれぞれ2~4発装備できること ・ 全天候運用能力を有すること ・ 高度な電子戦能力を有すること これだけ見れば何も問題になることはなかった。 一言で言ってしまえば『陣風の性能強化版』でしかないからだ。 少なくとも三菱や要求書を渡されたアメリカのメーカーはそう判断していた。 だが事はそう単純な話ではなかった。 国防空軍側では深刻なまでの内部対立が生じていたのである。 後に『F-2の国産化の夢を絶たせた愚行』と国産派を激怒させ、国防空軍上層部が責任を取って総辞任させられるというお粗末な結末を迎えた内部対立は以下のようなものであった。 まず次期戦闘攻撃機計画において、国防空軍側の流れは2つあった。 1つは純粋に『陣風の性能強化版』である。 陣風の性能にほれ込んでいた彼らにとっては、陣風のコンセプトをそのままに、その能力を向上させさえすればよいと考えていたのである。 運用の点も考えれば極めてオーソドックスなものであり、支持者が多いのもうなずけるものであった。 それに対し、もう1派の流れは極めて野心的なものであった。 彼らは『陣風の性能強化版』のコンセプトを否定しなかったものの、しかしながらそれだとソ連との質的優位性を長期間確保できないのではないのかと疑問を示したのである。 この時期、ソ連が手塩にかけて育て上げた満州の軍事力は無視することができず、北朝鮮も順調に強化されていることを考えた場合、彼らの主張も決して杞憂ではなかった。 故に彼らは、ステルス能力を高めることにより、敵部隊に対して戦略的・戦術的な奇襲能力を保持させることで、彼らの数的優位性を極小化させようと考えたのである。 最悪の場合、アメリカ軍の援軍が来るまでの間、在日米軍と在韓米軍残存部隊で本土防衛をしないといけない国防空軍にとって、一笑に付すには魅力的なプランであった。 そしてこの両者の対立こそが混乱を生み出すことになる。 前者のプランは技術的なハードルは相対的に低い反面、あくまで既存概念の延長線上のものであることから、質的優位性の維持に難しい所があり、後者のプランは技術的なハードルこそ高いものの、成功すれば、ソ連邦に対してドレットノート・ショックに匹敵する程のインパクトを叩きつけ、質的優位性を一気に高められるのである。 どちらともそのコンセプトは正しく、そしてそうであるが故に対立の根は時間が立てばたつほど根深いものになり、いつしか『妥協=敗北』という子供じみた考えを持つに至ることになる。 本来ならそれを是正するのが上層部の仕事のはずなのだが、上層部が気付いた時には、両派の対立はかなりのものになっており、彼らの対立を解消させるために三菱に打診した両派の要求全てを納得させる案は、三菱航空機の『大社長』こと倉崎重蔵から『開発しろというのなら可能であるが、それを成し遂げたければ、最低でも兆単位の開発費と2010年代の初号機開発までかかる』という回答を得ることで完全に暗礁に乗り上げることになる。 三菱が妥協案として出した『前者のプランをベースに、RCSの低減に努める』というものすら、『技術屋風情が用兵に口を出すな』と言われた時点で、ある意味まともな議論が成り立たなくなりつつあったと言えるのかもしれない。 890 :yukikaze:2015/06/12(金) 22:46:03 この国防空軍の状況に対して、アメリカ企業の反応は分かれた。 まずMD社は早々にこの件からは手を引いていた。 既に彼らはイーグルとホーネットで十分な利益を得ており、わざわざ空軍の恨みを買うような面倒な事態に巻き込まれることを嫌っていたのだ。 一方でGD社はこのゴタゴタを徹底的に利用することにしている。 彼らにしてみればF-16が成功を収めつつある中、アジアにおける大規模市場である日本の市場をMD社に独占させてやる必要性を認めてはいなかった。 彼らは、このゴタゴタを尻目に、F-16を性能要求が達成できる機体に改修できることを可能であるとし、その計画書を提出。そしてその事実を基にして、徹底的なロビー活動を行うことになる。 彼らがここまで強気に出ていたのは、日本に対して反撃の機会をうかがっていた商務省のバックアップが期待されていたからであり、商務省はこの件をネタに徹底的に日本側を揺さぶることになる。 そして日本側においても、今回の一件をアメリカ側の譲歩の一環として譲ろうと考える者達もおり、『国産戦闘機での開発』という命題すら瓦解寸前に陥っていたのだが、この時点においても国防空軍の内部対立は収まらず、むしろ失態を他の誰かになすりつけようと怪文書が飛び交うという異例の事態にまで陥っていた。 こうした事態に、中曽根首相は、完全に国防空軍を見限った。 既に国防総省や国務省の知日派達からすら『こうした状況においてはもうこちらも庇うのに限度がある』と助言をされる状況になった以上、国防空軍のグダグダに付き合ってやるつもりなどさらさらなかった。中曽根の安全保障問題顧問である田中角栄元大将をリーダーとした調査団が国防空軍に乗り込み、その10日後には国防空軍上層部及び両派において怪文書を送付するなど目に余る行動をした佐官達10数人が一斉に国防空軍から問答無用で叩き出されたことが、中曽根の怒りの凄まじさを雄弁に物語っていた。 『議論をするのは大いに結構だ。だがそれはあくまで相手の主張を最大限尊重した上でなければならない。 感情的にいがみ合ったり、怪文書をばらまいて相手の評判を落とすなど、それはもう議論ではない。 そしてその事態に対して有効な対処を怠った上層部の怠慢は言語道断である』 田中角栄のこの言葉に、国防空軍は反論することすら不可能であった。 彼らが犯した失態は、擁護しようのない失態であったからだ。 結局、F-2に関して言えば、GD社との協議の末、日本側の全額出資の元、日米共同開発という枠組で開発を行うことに決定することになった。 GD社にしてみても、開発資金は全額日本持ちで、生産比率も3割以上を獲得。おまけにF-16のデータをオープンにする代わりに、今回の共同開発で得た情報も共有できるわけだから、充分におつりがくるものであった。 実際、この共同開発によってもたらされた技術によって、GD社は、1994年にはF-16E/Fの初号機を完成させることに成功し(但しエンジンやコクピット周りなどはブロック50/52相当だが)輸出においてインド及びヨルダン、ポーランドと大勝利を収めることになり(台湾やベトナムも追加発注をした)想定以上の利益を獲得できたのだから。 正にアメリカにとっては最良の結末であったと言えるであろう。 もっとも、こうした事実があったからと言って、F-2の能力に何ら瑕疵はなかった。 初期故障こそあったものの、1997年には部隊配備が開始されることになり(三菱の半ば意地とも言えるものであったが)史実で構想だけされたF-2改といっていいその能力は、新たな主敵と言っていい中朝のミグ29の系譜相手には充分すぎる能力を保持していたからだ。 国防空軍が内心の感情はどうあれ、同機体の能力を認めていたことは、同機体を計画段階で160機近く生産することにし、F-35の開発に遅れが出て、ファントムⅡの退役に間に合わなくなった時は、新たに20機追加し、損耗分用の機体と合わせて、一時的に2個飛行隊編制を組むことで、戦力の穴を埋めることに成功をしている。(なお追加分は、最終的には東日本大震災での損耗分及び計画時に断念されたブルーインパルス隊に組み込まれることになる) 紆余曲折を経て生まれたF-2であるが、大戦末期、日本の空を守った戦闘機『烈風』の名を受け継ぐに相応しく、2017年の今でもF-15と共に日本の空を守り続けている。

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