「藍さまが怖い…」
夕食時の八雲邸。
主である八雲紫は優雅にお茶をすすりつつ夕食を待ち、その式は炊事場で夕食の調理を行っている。
そんな、当たり前のような風景の中、橙だけが不自然に何かに怯えていた。
いや、橙の怯えの対象は明らかだ。先ほどの言葉にもある。八雲紫の式にして橙の主である者。
「紫様…、藍さまが怖いです…」
「そう?」
怯えた目で、尻尾を震わせながら涙目で訴えかける橙。
そんな橙をしれっと流しながら紫は炊事場の式を見やる。
「ねえ、夕御飯はまだかしら」
「・・・・・・・」
紫の、主の呼びかけに対し式は一切の返事を返さない。
ただ不愉快だと言わんばかりの沈黙のみが返ってくる。
「もう、躾がなってないわねえ」
調教が必要ね、とつぶやきながら視線を戻す。
不満そうな物言いの割りに、その表情に不快感は見られない。むしろ楽しんでいるかのようにも見える。
対して、紫に対面して席についている橙には余裕が見られなかった。
縋る様に紫を見つめ、耳を伏せている。先ほどの主の沈黙によって恐怖感が増幅されてしまったらしい。
がたっと、炊事場から音がする。水を流す音、皿が重なる音、そのような音と共に次第においしそうな匂いも漂い始める。
そっと、震えながら橙が立ち上がる。紫は何も言わない。
この家に来ているときは橙は食事のお手伝いをしなければならない。そう決まっている。
橙は、一歩足を踏み出そうとして躊躇する。助けを求めるように紫を振り返る。紫は橙に微笑みかける。
それを見て安心したのか、それともあきらめたのか、橙が無理やりな笑顔を作る。覚悟を決めたように炊事場へと向かう。
紫は、自分以外誰も居なくなった居間で一人お茶を啜る。少しぬるい。時間をかけて楽しみすぎたか。
空になった湯飲みを置き、ふぅと息を吐く。そのまま静かに余韻を楽しむ。
やがて、どたどたと足音が聞こえてくる。両手に食器を抱えて橙が戻ってくる。
「ご苦労様」
そう言って、机に置かれた皿を配り始める。湯飲みはそっと脇へとよける。
平皿、小皿、醤油皿。どうやら今日は大皿から取り分けるタイプの献立。
最後に各自の茶碗と箸置、箸を置いて完成。後は料理を待つのみ。
机に肘を突きながらご機嫌で料理を待つ。
やがて、静かな足音が近づいてくる。
丁寧で上品な、洗練された歩き方。
無言のままに部屋に入ってきた式は持ってきた大皿を机の中央にそっと置く。
コトリとも音がしないところに怒りの大きさが現れている。
「あ、あの…紫様、お茶碗を…」
隣から遠慮がちな声が聞こえてくる。橙が申し訳なさそうに紫の茶碗に手を伸ばしている。
失礼します、と言って橙が椀に飯を盛る。いつも通りの八分目。
「ありがとう」
感謝の言葉を述べ、両手で茶碗を受け取る。
お礼を言われて橙が少しばかり照れる。そのままの勢いでもう一つの空いた茶碗に手を伸ばそうとする。
「いらないわ」
辛辣な言葉を投げかけられる。茶碗に触れそうになった指先がぴくりと止まる。
ようやく声を発した式に、だが紫は冷たい視線を投げかけた。
呆れたような、嘲るような。
持っていた茶碗を起き、改めて式に向き直る。
「自分より弱いものに向かってその台詞は何? 強者の自覚があるのならもう少し余裕のある態度を心懸けなさいな」
「・・・!」
開口一番に毒を吐かれ紫の対角に着座していた式が肩を震わせる。
膝の上に置いた拳に力を込め、奥歯を噛んでキッと紫を睨み付ける。
「落ち着きがないわねえ、そんなだから子供っぽいとかうざいとか死ねとか言われるのよ」
「あんたなんかに…」
「なあに?」
喉の奥から声が捻り出されてくる。式の周囲から緋色の霧が立ち上がってくる。
「なあに、言って御覧なさいな。てんこちゃん」
「操られることがこんなに屈辱的だとは思わなかったわーーっ!!」
そう式が、比那名居天子が叫ぶと同時に彼女の体から何かが破裂するような音がする。
目の前の机をちゃぶ台返しの要領でひっくり返し、自分の体重の数倍はあろうかという巨大な石を出現させる。
「あらあら、困った子ねえ」
ニヨニヨと笑う紫はそう言いながらも困った様子一つ見せない。
冷静に距離を置き、飛んでくるお皿を落石注意の標識で叩き落とす。
「ひにゃあぁぁ! 藍様が! らんさm…あれ? 藍様じゃない!?」
泣き言を叫びながら一瞬で紫の後ろの柱、更にその後ろに逃げ込んだ橙が驚愕する。
「ふふふ、式符「天子と天狐の境界」、破られたようね。そう来なくっちゃ」
「うるさい! 地面を這い蹲る土臭い地上の妖怪が!」
「小人閑居して不善を為す。せっかく調教し直してあげようと思ったのだけど、筋金入りのようね」
「ふん、わざわざ難しい言葉使って何様のつもり? 虚栄張ってばかりだとまた間違えるわよ! 往生しやがれ!」
天子が叫び、要石を投げつける。落石注意で叩き落としながら紫は天子に向かってにっこりと笑いかける。
そのこめかみにはうっすらと青筋が浮かんでいた。
天界、緋想天。
この地に総領娘の天子を探しに来ていた衣玖は眼前に広がる光景の意味を理解しかねていた。
「きゃーっ、てんこちゃんかわいいー」
「ふかふかのもふもふよー!」
「獣耳素敵よー」
てんこに群がる天人達。
その中心にいる天子の格好をした何者か。
はぎ取られた帽子の下から金髪と共に獣耳を覗かせ、
尾底部からはふさふさの毛を纏った九本の尻尾が見事な毛並みを輝かせている。
さらにはその胸部。オリジナルからは考えられないほどに自己主張したその存在が天子の服をぱっつんぱっつんにしてしまっている。
「・・・・・・」
じっと正座し、天人達の弄びに対し、いかなる反応も示さないその姿には何か決意のようなものも見え隠れする。
「・・・・・・」
そーっと傍により、様子を窺う。天人達は衣玖の存在に気がついてはいるようだが眼前の玩具から離れようとはしない。
「…?」
ふと、天子?の口が繰り返し同じ形に動いていることに気付く。
音を発することもなく、静かに、素早く。
「逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ…」
無感情にそう繰り返す天子?を見て衣玖は今自分が行動を迫られていることを悟った。
何をすべきか―
ほんの少し、思案を巡らす。そして出た当然且つ、最良の選択。
美しき緋の衣、永江衣玖は空気を…読んだ。
- らんさまあわれ -- 名無しさん (2009-04-09 01:38:01)
- この天人の輪に参加するんですね、わかります。 -- 名無しさん (2009-04-11 18:57:48)
- いやいや、おもちかえりですね、わかります。 -- 名無しさん (2009-05-30 19:34:44)
- 陰湿な橙いぢめかと思ったらただの「てんこ」違いだった -- 名無しさん (2009-06-22 16:54:49)