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阪神タイガースとは - (2011/07/20 (水) 15:27:47) のソース

*阪神タイガース
日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに加盟。
運営法人は阪急阪神東宝グループ。保護地域は兵庫県、本拠地は阪神甲子園球場。

目次
#contents()
*歴史
実は昔の阪神に詳しくないんだ・・・。という人、虎専でニワカ扱いされないためにも、ここを軽く読んでおこう。

**阪神創生期など
1935年、阪神電気鉄道が管理会社の大阪タイガースとして産声をあげる。&bold(){※1リーグ時代何度も優勝(当然1リーグなので優勝=日本一と捉えてよい)しており、タイガースが球団史上日本一になったのは85年の1回だけ。というのは誤りである}あとこまかいことはwikipedia参考な。うん。ここではとらせん向きの最低限の歴史の知識を紹介します。

まあ阪神は戦後昭和37、39年に2代目ミスタータイガース村山実の大活躍による優勝なんかはあったものの、それ以外は巨人や広島の次点、2~4位ってのが多かったわけよ。まあ最下位にはならないけど弱すぎるわけではないみたいな。これはエース不在とかベンチがアホで野球ができへんかったり
とかいろいろしたわけよ。それでも戦前から関西の地域密着型チームとして、多くの人によって応援されてきたわけだ。しかし、昭和60年、そのエース不在のチームが奇跡を起こした・・・・・!

**Legend 1985
 阪神創立50年のこの年、評論家による大方の首位予想は原とクロマティ擁する巨人か強力投手陣の広島のどっちかだったわけ。阪神はいつもどおり3、4位(まあ一人、阪神がぶっちぎりで最下位と予想しかやつがおったけどな。&bold(){[[カミソリシュート>平松政次]]}やけど)。なんつったって阪神はまあね、その、そう(エース不在)いうのあったしね。スゥー でも、阪神はそういった弱点を超、超、超強力な打線で克服して日本一になった!その打線の軸になったのは核弾頭真弓、三冠王[[バース>ランディ・バース]]神、四番掛布、[[岡田>岡田彰布]]である。 この年は、&bold(){バックスクリーン3連発}、広島との首位決戦2連戦を炎の連勝など多くの伝説とともにいまなお、ファンのなかで語り継がれている。

 なんか85年の時同窓会の飲み会とかいくとあったなあ、昔阪神をさんざん馬鹿にしてた奴が「阪神つええなー!感動したよ!おれさ、隠してたけど本当は阪神ファンだったんだw」とかバースの背番号も知らんくせに言ってたわ。うん。

**暗黒期 そして「栄冠」から「栄光」へ
え・・・・?あー、もう1985年まででええやんか、そんなん。あ?なんでそんな暗黒期のアレを言われなあかんのや!スゥーーー!!

 V2をめざして戦った1986年の阪神だったが、掛布の故障など前年の勢いを貫けず3位。85年ですべてを達成しすぎたせいか、阪神のベンチには何かを求めて闘う覇気がなかった。そんなチームが優勝戦線に残れるはずもなく、87年、ついに最下位になってしまう。それからというもの[[バース>ランディ・バース]]帰国、[[どん様>岡田彰布]]と真弓の急激な衰え、掛布の解説者として日テレと契約&巨人応援団員化など、阪神ファンを地獄の底に突き落とすような出来事が相次いだ。
 しかし、親父は生粋阪神ファン、おかんは根っからアンチ巨人、生まれたときから虎だった阪神ファンが阪神を愛することをやめることなど、できるはずもなかった・・・・・!太平洋戦争を関西人たちとともに戦い、戦後も多くの希望と夢を与え、いつも生活、いや、人生の中にあった阪神をなぜ捨てられよう!
 とはいうものの、やはりファンにとっては辛い日々だった。現時点の戦力に期待が持てないので、バースの再来と和製カンセコ待ち続ける。(暗黒期の外人獲得、ドラフト、FA補強の不作、失敗っぷりはもはや伝説)移動日は阪神が絶対負けない日として心穏やかに過ごす。連敗中はバックスクリーン3連発のビデオを繰り返し見る。5位争い。
 虎ファン「今日は巨人3連戦の初戦、せめて3タテしてやる!スイープGや!見てろよ!」
 TVアナ(今日の巨人の先発は&u(){斎藤雅}と発表されて・・・・) 
 虎ファン「・・・・・。」

 こんな日々が、約15年も続いたのであった。しかし、そこに暗黒阪神を救うベく、1人の救世主が立ち上がった・・・・!

「&italic(){ワシが育てたる}」


[[とらせん【虎専】用語集]]参照。

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***特別ふろく!暗黒年表!
 最近の若いニワカどもはなんじゃ、3連敗ぐらいでこの世の終わりみたいなこと言いよって。
というわけで、日頃の勝利の重さ、ありがたさをみんなでまた思い出すために、暗黒時代を年表にしたよ!若いファンの方の球史の勉強にもどうぞ! 
(補足の記号)
『外』→その年にいた外人
『指』→その年のドラフトで指名された、現在現役の阪神の生え抜き選手


☆1985
&bold(){11.2} &bold(){球団初の日本一達成!!!}

『外』バース ゲイル

             暗黒時代  ~開 幕~



☆1986年 「神様仏様バース様!」 60勝60敗10分勝率.500 3位(監督・吉田義男)   

4.20 &bold(){掛布、左手親指骨折}
5.19 遠山、江夏以来の高卒ルーキー完投勝利
6.26 バース、7試合連続本塁打の日本タイ(投手・江川卓)
7.3 バース、12試合連続打点の日本新
7.6 真弓、対巨人戦5試合連続本塁打
7.19 川藤初のオールスター
10.14 バース、日本記録更新の首位打者を確定させる

『外』バース ゲイル

※解説※
この年、バースが日本新記録となる.389を記録。これは47本109点の三冠王だった。しかし、この年の阪神で明るいニュースは正直これだけ。掛布の故障と投手陣の崩壊、日本一になった前年と比べると暗いニュースばかりであった。その中でも、高卒ルーキー遠山が8勝5敗4.22と奮闘した。山本和がリリーフながら唯一の2ケタ勝利(11勝)、1.57と安定感を見せた。

86年の球界では、星野仙一の中日監督就任や落合の世紀のトレード、原辰徳の結婚などオフシーズンのほうがにぎやかであった。

 

☆1987年 「球団史上最低勝率.331」 41勝83敗6分勝率.331 &bold(){6位}(監督・吉田義男)

5.4 真弓通算200号
5.6 ヤクルトのホーナーに3被弾
5.12 山本和、巨人戦で1イニング4被弾
6.7 竹ノ内コーチボイコット 翌日辞任
7.7 なんと66試合目で借金30到達。やる大矢も真っ青。
9.21 弘田と永尾が引退発表
9.22 大洋に敗戦、全チーム負け越しが確定し&bold(){完全最下位}達成。
10.12 [[よっさん>吉田義男]]辞任。翌日背番号23永久欠番に。その3日後、村山実が監督就任。

『外』バース キーオ

※解説※
.331。こんな姿を85年優勝を見届けたファンは想像したであろうか。投手陣は前年通り崩壊、そこに抑え不在のおまけつき。打線は3割打者がベストナイン獲得のバースのみという散々な結果。4番掛布はなんと.227 14本45点という目も当てあれない状態であった。それでも新外国人キーオが11勝14敗3.80と仕事をした。

87年の球界では、ヤクルトのホーナーの大活躍が紙面を踊った。中日の近藤真一のプロ初登板で巨人相手にノーノーは、打倒巨人の男、星野仙一1年目のタクトという中のカタルシスとして、当時中日ファンを熱狂させた。巨人はほかにもクロマティが宮下に暴行などお粗末が多かったが、ペナントでは就任4年目の王監督がついに優勝をつかんだ。この年、広島衣笠が当時の連続試合出場世界記録達成。



☆1988年 「バース問題 掛布引退」 51勝77敗2分勝率.398 &bold(){6位}(監督・村山実)

5.3 東京ドーム初の伝統の一戦、岡田の逆転3ランで勝利
5.14 バース、長男の病気により帰国
6.14 バース来日せず
7.14 バースの代役 ジョーンズ入団
9.10 柏原引退
9.14 掛布引退会見 10.10に引退試合
9.27 &bold(){バース自由契約}
10.4 和田、シーズン52犠打の日本記録(当時)達成

『外』バース キーオ ジョーンズ

※解説※
阪神に激震。バースと掛布が消えた。この年のキャンプでは、中野、和田、大野の少年隊や村山監督の就任など明るいスタートを切ったが、それがすべてご破算となった。結果、2年連続の最下位。4番岡田が23本72点、初の天覧試合から30年後の日、巨人戦で逆転決勝弾と記憶に残る活躍を見せるが、打線は少年隊と外人ジョーンズが活躍できなかった。投手陣も12勝12敗2.76と健闘したキーオ以外は壊滅的で抑えもやはり不在であった。

88年の球界は、日本初の屋根付き球場、東京ドームが公式戦ではじめて使用されたことが大きなニュースに。しかし巨人には、吉村の大けがや中日に独走許すなど決していい年ではなかった。この年熱かったのはパ・リーグ。10.19がすべての野球ファンの涙を誘った。しかし、南海の球団譲渡や山田久志と福本豊、東尾修の引退などパ・リーグは激動の年でもあった。



☆1989 「投手陣 崩壊す」 54勝75敗1分勝率.419 5位(監督・村山実)

1.12 中西 ストーカーに暴行
3.3 田中オーナー逝く
5.20 ラインバック死去
5.31 渡辺伸彦、ヤクルト戦でパリッシュ・中西に連続死球・危険球・乱闘招き退場
6.18 真弓、3試合連続代打弾
8.13 フィルダー1試合3発 場外弾も
9.14 フィルダー自ら叩きつけたバットで骨折 翌年1.12退団
10.14 &bold(){負広監督就任}

『外』キーオ フィルダー

※解説※
なんとか最下位は免れた。打線は大野と和田の1,2番コンビが大活躍し打線が活気づいた。フィルダーは38本81点と活躍したが、チャンスで打てなかったことと骨折が悔やまれる。一方、投手陣はやっぱり崩壊。キーオが15勝9敗するも先発が彼以外いないという状況で、当時阪神のブルペンはプロのチームとして成り立っていないとまで言われた。打線の活躍むなしく、シーズンはヤクルトと大洋と最下位争いをすることに終始する格好となった。

89年の球界は、まさにジャイアンツイヤーであった。11試合連続完投勝利の日本記録を作ったエース斎藤を軸に横綱相撲を展開。日本シリーズも3連敗後4連勝と日本列島をオレンジに染め上げた。敗れた近鉄もレギュラーシーズンでは西武の優勝を阻むブライアント4連発など力強さを見せた。個人の話題としては、清原和博が史上最年少100本塁打達成、スラッガーの道を着々と歩んでいた。しかし、平沼定晴にバットを投げつけた事件は、自身の功績を汚すことになった。



☆1990 「負広時代の幕開け」 52勝78敗0分勝率.400 &bold(){6位}(監督・中村勝広)

4.7 広島戦で岡田3打席連発、中西完封
6.30 パリッシュチーム5000号
8.2 中日戦でセリーグタイ記録の&bold(){18残塁}(うちZGS4回)
8.27 ヤクルト戦で毎回三振記録 投手は川崎憲次郎
9.5 大洋戦で八木、高井、鮎川の三者連続三塁打のリーグタイ記録
10.17 ウィン入団

『外』キーオ パリッシュ ウイッグス

※解説※
シーズン序盤こそ、3番岡田と4番パリッシュ、そして若虎八木の本塁打量産が話題を呼んだが、結局トータルとしては派手さのない数字であった(岡田20本、パリッシュ、八木ともに28本)。投手陣は中田良弘が10勝7敗3.51、野田浩二がリリーフで11勝と気を吐いたが頼みのキーオが不振。序盤の勢いはいずこ、新生中村阪神は最下位に終わった。

90年の球界は、巨人が2位に22.0ゲーム差をつけての史上最速優勝でV2。吉村のサヨナラ弾で優勝を決めたのである。その他、巨人は広島戦での忍者事件、開幕前に桑田真澄暴露本が出るなどネタにも事欠かなかった。パ・リーグは野茂旋風、トルネードルーキーは先発投手のタイトルを総なめにした。



☆1991 「オマリーでおま!」 48勝82敗0分勝率.369 &bold(){6位}(監督・中村勝広)

5.19 ウィンがシングルヒットでサイクル達成なのに二塁打打つ
7.6 対巨人戦、同一カード10連敗
9.22 中込、大洋戦でプロ初星を完投で飾る
11.23 ファン感で&bold(){たけし軍団に4-2で敗戦}
12.4 パチョレック、金銭トレードで入団
12.5 ラッキーゾーン撤去作業に着手

『外』オマリー ウィン
『指』桧山進次郎(4位 東洋大)

※解説※
オマリーが新加入。4番に座り.307 21本81点の成績を残した。しかし他が散々で、.298の1番和田と22本の八木以外は、ただただ85年戦士の衰えだけが目立った。投手陣は湯舟、野田、田村が頭角を現したが、本当に頭角を現しただけであり、戦える面子ではなかった。

91年の球界は、広島と中日のデッドヒートが壮絶であった。最後の最後で広島が中日を引き離し、巨人の後塵を拝した数年間に見事ピリオドを打った。この年は珍しい個人記録の目白押し。松永の2度目のサイクル、シュルジーのDH後初の投手の本塁打、川相1試合5犠打、彦野の本塁打へ球界初の本塁打代走などがあった。



☆1992 「亀新コンビ!V争い」 67勝63敗2分勝率.515 2位(監督・中村勝広)

4.8 亀山初ヘッスラ
4.25 岡田に代打亀山 その夜、岡田が中西に逆ギレ、灰皿で頭を強打
5.26 新庄、オマリーの代役見事に務める
6.14 湯舟ノーノー
9.11 &bold(){八木、幻のサヨナラホームラン} プロ野球史上最長の6時間26分を戦うもヤクルトと引き分け
11.12 中村監督、にしこりのクジはずす
12.22 &bold(){野田と松永トレード 阪神史上最低最悪のトレード}

『外』オマリー パチョレック

※解説※
当時の阪神の大きな課題は世代交代であった。それは、85年V戦士をベンチに追いやるという、つまり85年の栄光という亡霊との格闘であった。これに中村監督は新庄、亀山、久慈を抜擢した。ひと悶着はあったが、それでもこの3人は見事な活躍をした。結果、ヤクルトと巨人との巴戦を展開し一度は抜け出したが、首位を守り切れずヤクルトの前に倒れた。新守護神田村の離脱、そして暗黒時代にチームを巣食ってしまった精神的弱さ。ロードで大きく負け越したものの残り試合5割で優勝という追い込みで大型連敗。届きそうで届かない非現実、まさに夢であった。しかし、世代交代を成功させたのは見事である。投手陣では湯舟が11勝8敗2.82と活躍。抑えの田村勤はなんと防御率1.10と人間離れしたリリーフを展開した。阪神というチームに強い光が差した年ではあった。

92年の球界は、ヤクルトが野村克也監督3年目にしてついに優勝。ID野球が花開いた瞬間であった。高校野球では星陵の松井秀喜が5打席連続で敬遠され、社会問題に。美徳で塗り固められた高校野球の現実が浮き彫りになり大きな話題となった。



☆1993 「野田・・・・・帰ってきてくれ(´;ω;`)」 63勝67敗2分勝率.485 4位(監督・中村勝広)

6.29 松永の背番号02へ
8.22 松永3試合連続先頭打者ホームラン
9.7 フランスで野球を指導していた吉田義男が、日本高校選抜と対戦
10.12 オマリー、首位打者決定づけるプッシュバント
10.21 退団を決意していた岡田、この日のシーズン最終戦が阪神の選手として最後の試合。
11.29 &bold(){松永、FAでダイエー(現・ソフトバンク)に移籍}
12.8 FAで石嶺和彦入団

『外』オマリー パチョレック 郭李建夫

※解説※
優勝へ向かって若手のさらなる飛躍を目指す中で、その頭角野田がオリックスのベテラン松永とトレード。意図が全くないトレードであった。93年にその松永は背番号02をつけ.294 8本31点の成績を残すがオフにFA移籍第一号でダイエーへ、その際「甲子園は砂場」の暴言を残した。一方野田は95年オリックス優勝の原動力に。ひどい話である。シーズンはパチョレックの大不振と田村につなげる先発投手不足、若手の成長できなかったことから優勝争いに参加できなかった。しかし4番オマリーが首位打者獲得。.329 23本87点という成績であった。

93年の球界は、野村ヤクルトがV2。西武との激闘を制し日本一に輝いた。そして広島の津田恒美の逝去は、球界を衝撃と嗚咽が支配することになった。またこの年、高卒2年目の鈴木一朗が大エース野茂からプロ初本塁打。歴史の第一歩を告げる快音を鳴らした。



☆1994 「新人王 藪」 62勝68敗0分勝率.477 4位(監督・中村勝広)

1.8 岡田恐喝事件の容疑者宅に家宅捜索
5.25 和田、1930打席ぶりのホームラン
6.5 オマリー退場
8.1 吉田義男、外務大臣に表彰される
10.31 藪、満場一致の新人王
12.9 和田、生え抜き初の一億円プレーヤーに 
12.17 オマリー ヤクルトに移籍

『外』オマリー ディアー 郭李建夫

※解説※
ルーキー藪は9勝9敗3.18で1年目からエースの座についた。抑えは故障の田村の代役古溝が投げ抜いた。打線は、3番和田4番オマリーが大活躍、FA砲石嶺と6番新庄もクラッチヒッターとしてしぶとく活躍し、1位から6位まで9ゲームの中にひしめき合ったペナントを立派に戦いぬき一時は優勝争いもした。しかし、投手陣に一人も二桁勝利投手がいないなど、大黒柱がない状態であった。

94年の球界は、210安打のシーズン記録を高卒3年目で作ったイチローが話題になった。セリーグの優勝は、130試合目のGD同率優勝決定戦により巨人が勝ちとった。



☆1995 「深い暗黒の中へ」 46勝84敗0分勝率.354 &bold(){6位}(監督・中村勝広→藤田平)

4.7 中日との開幕戦、延長14回の末敗北
4.10 グレンサヨナラ弾
7.20 &bold(){負広解任}
7.25 &bold(){藤田平、代行監督に}
11.16 仲田幸、ロッテへFA移籍
12.19 新庄「僕には野球のセンスがない 引退します」
12.20 新庄「やっぱり撤回します」

『外』郭李建夫 グレン クルーボー

※解説※
打線の軸オマリーのヤクルト移籍、大震災での準備不足と不穏な空気とともに幕をあけたこのシーズンは、開幕から最下位を快走。94年活躍した主力の故障と慢性的な不振は、中村監督を休養においやった。外人のグレンとクールボーがともに77打点を記録したものの、5番~8番の打率が全員.250に届いていない状況であり、まさに目を瞑りたいとはこのこと。3年目の竹内が10勝、川尻3.08、藪2.98とそれなり健闘したが、そんな投手陣の努力も吹き飛ぶような打線の壊滅っぷりであった。

95年の球界は、オリックス旋風が巻き起こった。イチローを中心としたヒーローたちが日本を席巻した。オリックスはこの年、野田浩二が1試合19奪三振の日本記録、佐藤義則の不惑ノーヒッターなど記録も残していった。海の向こうでは野茂が活躍。日本人がメジャーで戦う姿が多くの人々に勇気を与えた。



☆1996 「鬼平・・・・・orz」 54勝76敗0分勝率.415 &bold(){6位}(監督・藤田平→柴田猛)

3.7 平塚入団
5.1 グレン代打逆転サヨナラ満塁弾
6.10 グレン、クールボー 仲良く同日に解雇
6.20 対ヤクルト 同一カード13連敗
6.23 バースの再来?マース入団 後、9.21 マース退団
6.27 久保、金銭トレードで近鉄へ
9.12 &bold(){藤田、解任迫られるも拒否、甲子園に篭城} 翌日観念、藤田休養へ 
柴田猛チーフコーチが代行に
10・9 新庄 塩谷 1イニング2満塁ホームラン
10.25 吉田義男、3回目の阪神監督へ 「夢よ、もう一度!」 

『外』グレン クルーボー マース クレイグ
『指』関本健太郎(2位、天理高)

※解説※
第二次暗黒時代の2年目であるが、マスコミは阪神の野球についてはほとんど触れず、ひたすらグラウンド外のイザコザをとりあげたといった年であった。和田や関川が奮闘するも、クリンナップは4番マース中心に全く仕事をせず、投手も川尻と藪以外散々であった。シーズン中盤から藤田監督の休養や新外人とドラフト戦略が話題になる様は「夏なのに"ストーブ"リーグ」という珍言をも生みだした。藤田監督自身もメチャクチャで、グラウンドのこと以外で話題になっていた。情けない限りである。

96年の球界は、巨人の清原獲得が大きな関心事に。「僕の胸にとびこんできてほしい」は「タテジマをヨコジマに・・・」で対抗する阪神を退けた。オリックスはV2そして日本一。イチローが3年連続での首位打者を獲得した。



☆1997 「ハッスル!ハッスル!」 62勝73敗1分勝率.459 5位(監督・吉田義男)

4.29 和田、開幕21試合連続安打の日本プロ野球記録
5.11 &bold(){グリーンウェル 神のお告げ}
5.17 吉田監督、初の外国人審判デュミュロに英語で抗議も退場処分
10.19 久慈、関川⇔矢野、大豊 の大型トレード
10.24 遠山、阪神の入団テスト合格
11.19 川尻脱税

『外』郭李建夫 シークリスト コールズ マクドナルド ハイアット グリーンウェル

※解説※
阪神は第三次吉田政権がスタート。この年のキャッチコピーは「ハッスル!ハッスル!」。結果2年連続最下位からの脱出を成した。しかしその事実よりも、グリーンウェルの神のお告げ、巨人清原と桧山&新庄の三振王争い、年の暮には川尻の脱税とネタばかりを産み落としていった。和田豊はしっかり.300と結果を残すも7月に骨折。先発竹内も最後まで防御率のタイトル争いをするが3.01の防御率はそれに及ばず。投手陣はそれなりがんばるが、打線が徹底的に終了しているという第2期暗黒時代の黄金パターンであと一歩でのAクラスを逃した。5位と振るわないなかでの伊藤敦規が2.67、葛西が1.15とリリーフ陣は終始安定していた。これが俗に言う中継ぎ課の誕生である。

97年の球界は、巨人とヤクルトの開幕戦で小早川毅彦が1試合3発。出だしからヤクルトの快走を予告し、そのまま走り切った。初の外国人審判、デュミュロが出場して話題を集めるも結局6月に帰国した。イチローの連続打席無三振記録が注目されたが、6月にストップ、この記録を216打席で止めたのは現阪神の下柳剛。オリックス長谷川がメジャーへ。平成のメジャーリーガー第2号となった。



☆1998 「寅年川尻祭り」 52勝83敗0分勝率.385 &bold(){6位}(監督・吉田義男)

3.31 新庄オープン戦MVP
4.1 &bold(){エイプリールフール企画、「寅年優勝記念祝賀記者会見」}
5.26 川尻ノーノー
6.12 甲子園12連敗
6.25 矢野、審判に暴行
7.7 矢野が横浜・佐々木から逆転サヨナラタイムリー
7.31 ガルベス、甲子園で審判にボールぶつける暴挙
10.25 野村克也 監督就任
11.11 川尻、日米野球で完封勝利

『外』郭李建夫 パウエル クリーク ハンセン ウィルソン メイ リベラ
『指』藤川球児(1位、高知商高) 福原忍(3位、東洋大)

※解説※
この年は甲子園球場でとにかく勝てなかった。12連敗に試合は勝ったが巨人ガルベス事件が、甲子園のファンに影を落とし続けた。投手陣は藪が3年連続の2ケタとなる11勝、川尻が脱税の汚名返上となるノーヒットノーラン含む10勝で2.84、新外人のクローザーリベラが2.38で27セーブと気を吐いたが、打線がことごとく援護できなかった。オーダーの中で最多本塁打が大豊泰昭の21本、最多打点が同じく大豊の61点と、この数字を並べればこの年阪神の打線がどれほど仕事をしなかったか想像に難くないはずである。それでも坪井が新人王にならずも.327の高打率で表彰を受け、シーズンオフには野村克也監督就任、川尻が日米野球で完封勝利をあげお茶の間のヒーローになるなど来年に向けて明るい話題はあった。

98年の球界は、ベイスターズが38年ぶりの日本一。ハマの大魔神はこの年の流行語になった。その裏で18連敗の日本記録を作ってしまったロッテとそのエース黒木が感じさせた悲哀が、野球ファンの涙を誘った。この年、吉井理人と木田優夫がメジャーへ。



☆1999 「ところで、アイデー野球って・・・なんぞ?」 55勝80敗0分勝率.407 &bold(){6位}(監督・野村克也)

1.18 尼崎信用金庫「猛虎元年」定期預金発売
2.21 二刀流新庄 紅白戦で登板
5.14 人生ゲーム阪神版発売
6.9 6年ぶり首位
6.10 &bold(){野村監督、純金製立像(100万円)発売}
6.12 &bold(){新庄、槙原の敬遠球をサヨナラヒット 「明日も勝つ」→次の日から(ry}
7.18 メイ、審判に暴行
8.7 野村監督、生涯初の退場処分
12.9 「親バカトレード」 カツノリ入団

『外』リベラ メイ ブロワーズ ジョンソン ミラー

※解説※
万年Bクラスのヤクルトを常勝軍団に変えた手腕を期待された野村克也も結果が出せず。大きな期待を持った外部の人間が尼崎信用金庫「猛虎元年」定期預金、人生ゲーム阪神版を発売、仕舞いには監督の純金像が出るなど盛り上げるも最下位に変わりなし。6月に首位に立つなど序盤は話題をさらったが、後半の大失速により底まで真っ逆さまとなった。「ID野球、T・O・P野球」と銘打つも、若手と監督との気持ちのズレが発生したり、途中まで1勝12セーブ0.71と大車輪の活躍をしていた抑えリベラを「セットが下手だから嫌いだ」とシーズン途中で解雇といった行動に阪神ファンは懐疑的な心を隠せなかった。それでも左キラーとして、阪神にテスト入団した遠山が松井キラーとして活躍したのは印象的であり、坪井が.304、和田が.302と奮闘した。

99年のプロ野球は、弱小球団ダイエーがついに日本一に。スパイ疑惑の暗雲を、優勝請負人・工藤公康の左腕が掻き消した。初のプロ・アマ混成チームによる五輪で銅メダル。後のWBCの基盤が完成したとも言えなくはない。



☆2000 「新庄メジャー挑戦」 57勝78敗1分勝率.422 &bold(){6位}(監督・野村克也)

2.17 タラスコ キャンプや紅白戦で場外弾炸裂
4.11 偵察メンバー 4番ファースト藪
5.19 中日戦で初の遠山葛西スペシャル
6.7 メイが和田に故意のビーンボール
7.13 ナゴヤドーム13連敗
7.21 大豊、審判に暴行
10.24 新庄FA
12.11 &bold(){新庄、メッツに入団}

『外』ミラー フランクリン ハートキー タラスコ バトル ハンセン ラミレズ
『指』狩野恵輔(3位、前橋工高)

※解説※
野村政権の2年目、前年より勝率を伸ばすも最下位はかわらず。4月上旬なのに4番が定まらずここに偵察メンバーを入れるなど、紅白戦で驚弾炸裂のタラスコがシーズンで仕事をできなかった。最終的に4番は新庄が座り、.278 28本85点と数字を残した。しかしオフにはメジャーに移籍。先発も川尻以外はゲームを作れず最下位やむなし。野村効果どころか、ベンチの重い雰囲気が新庄を追い出したという批判が監督に向かった。

00年の球界は、ON対決となった巨人とダイエーの20世紀最後の日本シリーズが話題に。昭和の野球を彩ったONが20世紀ラストの公式戦を締めくくった。そのオフイチローがメジャーへ。新時代の21世紀野球が始まろうとしていた。6月にはマウンドに上がったオリックスの野手の五十嵐章人が全ポジション出場の大珍記録をやってのけた。



☆2001年 「走れ!F1セブン!  ・・・・。」 57勝80敗3分勝率.416 &bold(){6位}(監督・野村克也)

3.30 開幕戦、11年連続の敗戦
6.29 上坂、監督の誕生日をサヨナラ弾で祝う
8.11 桧山、球団新の27試合連続安打
8.29 &bold(){広沢、六甲おろし熱唱}
9.14 2軍ウエスタン優勝
10.27 赤星、新人王に
12.5 &bold(){サッチー脱税容疑}
12.15 &bold(){星野仙一、監督に}
12.20 片岡FA移籍で阪神へ

『外』ハンセル エバンス カーライル クルーズ ペレス
『指』安藤優也(自、トヨタ自動車) 浅井良(自、法政大) 桜井広大(4位、PL学園)

※解説※
野村政権3年目、ついに阪神は球団記録となる4年連続最下位となってしまった。そんなチームに現れた新星があった。完投型左腕井川、スピードスター赤星、若き大砲浜中である。井川は2ケタ勝利に届かなかったものの、9勝で2.67と安定感ある投球を披露。赤星は盗塁王で新人王、浜中もチーム最多13本塁打を記録。おまけに桧山がまさかの.300を記録した。しかしそれ以外があまりにもお粗末であった。結局5位との勝利数差5(この年は試験的に従来の勝率による順位ではなく勝利数差で全順位を決定した)で最下位となった。

01年の球界は、ローズ55号や大一番での松坂から打った中村憲のサヨナラ弾、北川の代打逆転満塁優勝決定釣り無しHRなど近鉄旋風。海の向こうではなんとイチローが首位打者、MVP、新人王などを獲得。イチローの驀進はメジャーでも止まることはなかった。この年限りで長嶋茂雄が巨人の監督を勇退した。



☆2002年 「阪神はわしが育てる」 66勝70敗4分勝率.485 4位(監督・星野仙一)

3.23 映画ミスタールーキー公開
4.6 &bold(){開幕7連勝}
7.2 星野監督通算800勝
9.9 星野伸之引退
9.15 2軍V2
10.12 2軍ファーム日本一
11.25 金本、FAで阪神入団
※赤星2年連続盗塁王達成!

『外』エバンス ホワイト ハンセル カーライル ムーア バルデス アリアス
『指』杉山直久(自、龍谷大) 江草仁貴(自、専修大) 久保田智之(5位、常盤大) 林威助(7位、近畿大)

※解説※
星野仙一が阪神の監督に電撃就任。成長した若手と心を入れ替えた中堅選手たちによる戦う集団が形成された。他球団で活躍できなかった選手や、阪神で内外部に見下された人間たちが次々に結果を出していった。しかし、シーズン途中でまさかの矢野と赤星の長期離脱。バルデス以外のリリーフが整備できず大失速。4位に終わった。それでも、浜中が18本塁打とまた成長し赤星が終盤復帰して盗塁を稼ぎ2年連続のタイトル、井川は14勝9敗2.49とエースとして申し分ない活躍を展開した。この年、葛西、伊藤、星野、遠山の4名が引退。別れの季節でもあった。

02年の球界は、新生原巨人が序盤は苦しむも5月以降は首位を快走、そのまま4連勝で日本一となった。2冠王松井はヤンキースに移籍した。前年の近鉄ローズに続き、西武カブレラも55本塁打。しかしローズ同様王監督率いるダイエーの敬遠攻めに本塁打記録更新を阻まれ、米国の新聞紙に人種差別を指摘されるなど社会問題になった。



☆2003年 「さらば暗黒!光り輝く明日へ」 &italic(){優勝}(監督・星野仙一)

4.26 広島戦で6点差を8回裏に大逆転!この日から首位から転落することはなかった
5.9 横浜戦で浜中、片岡、アリアスの3連発
5.10 藤本、下柳、今岡のバント3連発
7.2 桧山サイクル
7.8 マジック49点灯
&bold(){9.15} 赤星サヨナラヒットでM1、M対象チームヤクルトの敗戦の瞬間に
&bold(){阪神タイガース、18年ぶりの優勝!}


                         暗黒時代 ~完~
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***暗黒をすこやかに過ごすための十箇条 
-試合は負けるものだと思って観戦する 
-一試合にいいところを一つでいいから探す 
-対戦相手であろうとなかろうと巨人の負けを願う 
-勝った日は野球ニュースをはしごし、これが最後かもしれないと噛み締めながら観る 
-そのうち超大物の助っ人外人(バースの再来)が入団してくるハズだと信じる 
-相手エースが先発の日(特に斎藤雅や今中が先発の日)はいさぎよく負け試合を確信する 
-若手(江夏二世または和製大砲)の成長を何よりの楽しみとする 
-「今日から全勝したら優勝や」と言ってみる 
-どうしても辛くて我慢できないときは1985年日本一のビデオを観る 
-毎週月曜日は「今日は絶対負けない日」と心穏やかに一日を過ごす 


**闘将
 2001年、結局何の成果も出せず終わった野村監督が(阪神は[[吉田義男]]が種をまき、野村が水をやったため花開き、野村政権の3年連続最下位はその布石だといわれるが、野村の強力すぐる農薬「ボヤキドホス」に新庄花と[[今岡>今岡誠]]草は枯れはててしまった。)夫人の脱税疑惑により辞任。後任として[[星野仙一]]を招へいした。
ここで[[星野>星野仙一]]は選手とフロントの意識改革を行った!血の入れ替えである!!

 星野政権2002年は4位だった。しかし、四番浜中、エースイガー、[[今岡>今岡誠]]が有機農法により枯草から大成長など、久し振りの最下位脱出に阪神ファンは優勝への期待感を持ち始めていた。意外と阪神OB以外の解説者も、2003年阪神はAクラス以上確実と予想した人が多かった。そしてFA砲[[金本>金本知憲]]獲得、[[赤星>赤星憲弘]]完全復活と、オフも久しぶりにワクワクしたものだ。あとこのオフ、&bold(){モミー}([[用語集>とらせん【虎専】用語集]]参照)&bold(){と[[連絡なし>桧山進次郎]]が2ちゃんねるに豊富な話題とネタ、AAを提供したことも忘れてはならない!(←重要)}

 2003年、阪神は4月から絶好調!打線が1~8番まで(ムーアが先発の日は1~9番まで)クリンナップ級の活躍を見せた。投手陣も軒並み好調で、イガー、うどん屋、ムーア、下柳の4人で勝ちまくった。7月にマジック点灯、9月15日球団最速優勝、全国に阪神旋風を巻き起こした。横浜銀行さん、HR3連発、次の日バント3連発など、お世話になりました。日本シリーズも奮闘するも、ここは3勝4敗でホークスが日本一となった。このシリーズ前、体調不良による勇退がささやかれていた[[星野仙一]]は、シリーズ後噂どおり監督の座を退いた。(故星野夫人は「あなたの日本一の胴上げが見たい・・・」と遺言を残していた。そのためこのホークスが2003年から超強力な戦力を持ちながらもプレーオフで敗退し続けているのは&italic(){ワシの呪い}といわれていたりいなかったり。)

**期待してもらって結構です
 星野仙一の後任監督はみなさんおなじみ[[どん様>岡田彰布]]。就任記者会見で「&bold(){期待してもらって結構です。}」と豪語。しかし就任1年目、まっていたのはそう(ファンが期待した展開)いうのでなくて、まぁ、その、むしろね、こういう(信じられない)結果だったってことですね、ハイ、スゥー。はじめは首位を走ったが、安定感バツグンのドラに追い越され結局4位・・・。おぉ・・・・もう・・・・。

 もう自分の好きに、えぇ、まあ、やりますよ。そう([[星野>星野仙一]]のスタイルを完全にマネする)いうんじゃなくてですね。ハイ。確かに2004年は[[星野>星野仙一]]の形を強要された采配であったことは否めず、前述の批判の内容が不信の原因のすべてではなかったはず。ここでどん様は大型コンバート決行、[[JFK]]を結成した。これがすべて完ぺきに成功し、2005年ついに[[どん様>岡田彰布]]V1を勝ち取ったのであった。中日がしつこくて完全優勝逃したけど。

 まあここまでが、阪神の歩みのおおざっぱな解説であるわけだ。過去の辛い出来事も掘り起こしてみたけど、今ではいい思い出だね。
え?2005年の日本シリーズについての記述がないって?

なんでそんな過去のアレを言われなあかんのや!


 その後、3年続けて優勝争いを展開するも、結局2位、3位、2位に終わった。2008年については書く気なし どうしても知りたければググればいいと思う。正直阪神ファンにとって「2008年」は最強の“検索してはいけない言葉”であるということは忠告する。
 2008年オフ、岡田監督辞任。

**プロゴルファー監督(ズギャーン!)
 岡田監督のあとにタクトを取ったのは真弓明信。現役時代、超男前選手としてならした。しかし、2008年ドラフトに出席せずゴルフに興じる姿に、とらせん住民はヤバイということをなんとなく感じ取った。
 結果、2009年は4位。ブッチギリでBクラスだった序盤に比べれば、後半は健闘したものの、中継ぎ陣が球児とアッチ以外全滅だったうえに、打線があまりにもお粗末すぎた(メンチ、広島兄弟、イクロー)。真弓監督の采配も、予想通りかなり一貫性と合理性に欠けるものであった。シーズン中、とらせん住民は、辛い人に辛く当たったり、ゴルファー批判に明け暮れていた。オフには赤星が引退という電撃的な事件もあった。
 しかし、ブラゼル登場、桜井開花、久保健闘、浅井奮闘など、新しい選手が名乗りを上げてくれたことは非常に意義のあるシーズンでもあった。
 この新顔打線に、一匹のゴリラとシーツ先生イチオシの助っ人マートンを加えて戦う2010年。はたして、何が待ち受けていることやら。


*フランチャイズ球場
**阪神甲子園球場
 いわずと知れた野球の聖地です。マモノの住処。職業野球発足時は日本一の規模を誇っていた。名前の由来は十干十二支のきのえの年にできたから。
***特徴
 何といっても&bold(){右中間、左中間の深さ}とライトからレフトへ激しく吹きすさぶ&bold(){浜風}。レフト方向への打球にとってはフォロー、ライト方向への打球にとっては壁となる浜風が吹くなかで、ラッキーゾーン(甲子園完成当初、両翼が110mもあったため、球場を狭くするためにつくられた金網)撤廃後、ホームから両翼までの距離を狭めた後、フェンス全体でなくポールから数メートルまでのフェンスしか前に出さなかったという手抜き工事によって深いままとなった右中間に放物線型のホームランを打つことは極めて困難。

楠アナ「&bold(){打った~~~!!!!打球はライトへ~~~!!!}(絶叫)ええええええ!失速してライトフライ~~~!!!??」
有田修三「&italic(){うるさいなあ・・・。あんた何年甲子園で実況やってんの・・・・。}」

はお決まりのパターン。浜風が吹いているときに、ライナーでないフライのホームランを右中間に打つには、某からくりドーム看板直撃級以上の飛距離が求められる。逆にレフトへの打球は

楠アナ「初球打ち上げました。レフトフライ。レフト金本追って、追って、お、お?意外と伸びるぞ!?え!?まさか!!!??&bold(){あああああああ!入ってしまった~~~~!!!}」

になる。甲子園での試合を観戦する際は、無駄に落胆せぬよう気をつけましょう。

***マモノ
#aa(){{{888           ザワザワ
888                      に|
888|\_/ ̄ ̄\_/|            |
888\_|  ▼ ▼|_/ .    に|   ┌’㊦‘┐  に|   ザワザワ
=||    \  皿 /   ___|__| :。。  |___|____
  ||.   /    \  | E EEEEEEE! ’    EEEEEEEEE |
_||._ | | マモノ | |_|   EEEEEEE! ===    … .  …  |___}}}

甲子園の住人。野球場を寝床とする。たまに他球場に旅行する。プロ野球、高校野球など、シリアスなシュチュエーションでちょっかいを出す、敵に回すと恐ろしい、味方にするとちょっと頼りない永遠の18歳。まあ、仲良くしたってや!

***甲子園使用不可能時
選抜高校野球が行われる3月下旬と4月上旬の開幕戦カード、全国高校野球選手権を開催する8月中長期間、甲子園でホームゲームができない。できない間は他球場を使用するが、大抵京セラドームを使用する。オープニングゲームも京セラドームが舞台となる。(昔は倉敷でやっていたりもしたらしい。まあちょっと前までは開幕戦で使う球場のことなんか心配いらんかったよね。え?なんでかって?そんなモンお前・・・・。スゥー)

-死のロード
 &bold(){死語}。死のロードを死語扱いできるようになるなんて・・・。今の阪神ファンは幸せだなあ・・・・・。
 甲子園が使えない8月中、自然とアウェーゲームの連戦(ロード)が増え、選手が疲労困ぱい状態になり、成績がめちゃくちゃになってしまうというマスコミの造語。(確かにタイ以上の成績を残せない年が何十年も続いたことがあり、85年はタイ、03年は大きく負け越し貯金を7も減らした。)しかし、大阪ドーム(現・京セラドーム)完成後、ロードを行う必要性がなくなり、前述のような心配がなくなったといわれているが、「そんなもん、(ただ単に阪神が)強くなっただけのことよ。」ってことじゃないかな?


**京セラドーム
 完成後、センバツ時と夏の高校野球時に阪神が長年お世話になっている球場。近年の甲子園改修工事に伴い、ここかスカイマークスタジアムでクライマックス・シリーズを行う可能性が高い。実は結構ここでのホームゲームは勝率がよかったりする。