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Lyrical Night13話」を以下のとおり復元します。
 ―― -3742日 PM5:32 ―― 

 新都へ向かうバスの中は興奮醒め止まぬ空気に満ちていた。 
 貸し切られた車内に乗り合わせているのは、三、四十人ほどの幼い子供達。 
 年齢は十歳にも満たない程度だろう。 
 学年で言えば小学校の中学年といった程度だ。 
 誰もが『幼い』という形容詞から逃れられてはいない。 
 しかし、白を貴重とした揃いの制服は、彼らの通う学校が普通ではないことを暗に示している。 
 私立聖祥大学付属小学校。 
 某県鳴海市に居を構える私立学校であり、その仰々しい名称に恥じない実態の学校である。 
 小学校から大学までのエスカレーター式進学制度。 
 公立校のそれを優に上回る水準の学力と学費。 
 世間でいう名門校の条件を見事なまでに満たした私立校といえるだろう。 
 そんな彼らが冬木市にいる理由は、別段特殊なものではない。 
 義務教育にありがちな、単なる社会見学旅行である。 
 二泊三日の日程で他県の工場施設を見学するという差し障りのない内容だ。 
 本日分の見学日程は既に終わっており、今は宿泊する予定のホテルへと向かっているところだった。 
 バスが冬木市の市街に近付いていく。 
 車内の喧騒が数割増しに大きくなった。 
 冬木市、新都。 
 川によって二分された冬木市の東側にあたる地域であり、大規模な再開発計画の最中にある街である。 
 現状はオフィス街の六割までと駅前パーク、ショッピングモールまでが形を成しているところだという。 
 彼らの住む街とて、決して新都に引けを取るものではない。 
 だが、見知らぬ町並みはそれだけで子供達の興奮を煽るのに充分なようだ。 
 何か珍しいものでも見つけたのか、座席の一角から歓声が上がる。 
 教員達が咎めないのをいいことに騒がしさは増していく一方だ。 
 無理もないだろう。 
 多くの児童にとっては、退屈な工場見学よりもこれからの時間の方が楽しみなのだから。 
 ある少年は新品同様のビルに夢中になり、ある少女は友達と自由時間をどう過ごすかの相談をしている。 
 そんな中、一人の少女だけが、不安そうに口を閉ざしていた。 
 少女は、名を高町なのはという。 
 ジュエルシードを巡る戦いの中で成長し、後に『闇の書』が巻き起こす事件に遭遇することになる少女である。 
「何だろ、この嫌な感じ。もしかして……魔力?」 
 不安もあらわに、なのはは車窓の外に目をやった。 
 新都の街並みが後方へと流れていく。 
 その風景は平穏そのもので、異様なところなど見当たらない。 
 真新しい歩道も、建設中のビルも、どれもごく普通の物だ。 
 けれど、この感覚だけは紛れもなく異常だった。 
 言葉では言い表せない不気味な悪寒。 
 体内を巡る魔力がさざめき、内から肌を粟立たせる。 
 恐怖に慄いているわけでもなければ、体温の低下に震えているわけでもない。 
 ただひたすらに、異質。 
 なのはは気分を紛らわせようと、軽く車内に視線を巡らせた。 
 クラスメイト達は誰もが雑談に興じていて、僅かな違和感すらも感じている様子はない。 
 単なる思い過ごしであればと願うなのはの耳に、教師達の会話が入ってきた。 
 不自然なまでに潜められた、深刻そうな雰囲気の声。 
「あの犯人、まだ捕まってないんですよね」 
「らしいですよ。……やっぱり宿泊先を変更しておいた方が良かったかも」 
 教師達が懸念するモノについて、なのはは一つ心当たりがあった。 
 いつかのニュースで報じられていた覚えがある。 
 とある地方都市で発生している連続殺人事件。 
 表現こそ抑えられていたが、手段の残虐さと異常性は例を見ないものであるという。 
 その都市の名は、確か「冬木」ではなかったか。 
 ブレーキ音を響かせてバスが止まる。 
 どうやら信号待ちの集団に捕まったらしい。 
 定められた道を行く車両の列は、さながら働き蟻の行進だ。 
 自分の命を脅かす存在が潜んでいるにも関わらず、いつものように道を走っているのだろう。 
 事実、これから数時間の後―― 
 彼らは自分達を、蟻のように潰し得るモノを目の当たりにするのである。 


 ―― -3742日 PM10:50 ―― 

 なのは達が宿泊するホテルは、未遠川から程近い、十五階建ての中規模なものだった。 
 ランクも決して低くはなく、近辺に存在した冬木ハイアット・ホテルほどではないが、聖祥大付属の宿泊先としては相応だろう。 
「レイジングハート……やっぱりおかしいよ」 
 十二階の一室、五人の児童が宿泊する部屋の片隅で、なのはは自身のデバイスに語りかけた。 
 班員達は既に就寝している。 
 それを察してか、レイジングハートも音量を控えて答えを返す。 
 "Yes, I also think so." 
 近辺に『存在した』冬木ハイアット・ホテル。 
 このある種異様な表現は決して間違いではない。 
 現時点で冬木市最大の高さと最高のサービスを誇る三十二階建てのホテルは、今や残骸と成り果てている。 
 原因は不明だが、小火騒ぎの直後に突如として倒壊したのだと報道されている。 
 冬木という街のおかしさを感じているのは、何も彼女達だけではない。 
 四件に及ぶ連続殺人事件。 
 連続児童失踪事件。 
 湾岸地域での原因不明の爆発事故。 
 冬木ハイアット・ホテル倒壊。 
 これほどの事件が積み重なって、異常を感じないほうにこそ無理があるといえるだろう。 
 もう少し事件の発生が遅れていれば、あるいは旅行の日程が先であれば、この研修旅行は間違いなく中止されていたはずだ。 
 しかし現実にはそうならず、教員達が絶えず心労に胃を痛めているのだが。 
 なのははベランダに通じる窓に近付き、カーテンの隙間から外の風景を眺めた。 
 ――霧が、濃い。 
 未遠川の周辺が濃密な霧に包まれている。 
 そのせいで川に架かる大橋の輪郭すら定かではなく、電飾ばかりが霞んで見える。 
 だが、なのはが感じている異常はそれだけに留まらない。 
 川の中央に渦巻く、尋常ならざる量の魔力。 
 常人には決して近く出来ないであろうそれが、なのはの白い肌を粟立たせる。 
「やっぱりおかしい……」 
 なのはは同じ台詞を繰り返した。 
 理屈の上では理解している。 
 悪意を持った魔導師が、霧の中で危険極まりない行為に手を染めようとしているのだと。 
 だが、感情がそれについてこない。 
 異様な密度で猛り狂う魔力は、まるでどろどろの生き血を絵の具に使った絵画のように狂おしい。 
 術者の心の底を描き出した地獄絵図だ。 
 故に、なのはには信じられない。 
 ここまで歪みきった心の持ち主が、目と鼻の先に存在しているという事実を。 
「――っ!」 
 濃霧の向こうで、水面に変化が起こる。 
 霧の中、大気を震えさせながら、巨大なナニカが悠然と身を起こしていく。 
 巨大。 
 ただひたすらに巨大な、肉の塊。 
 形容する言葉を思い浮かべることすら躊躇われる異形。 
 なのははその怪異を呆然と見上げるしかなかった。 
 そう、ホテルの十二階という高層にありながら、なのははソレを『見上げて』いた。 
 巨大という言葉が生温く感じるほどの巨体だ。 
 恐らくは地上――いや、史上においてこれ以上の生命体が地球に存在したことはないだろう。 
 川岸の民家に次々と電灯が灯っていく。 
 ガラス戸を閉めていなければ、なのはにも狂乱の声が聞こえたかもしれない。 
 名伏しがたき存在が、沿岸を目指して行動を開始する。 
 ".....er! Master!" 
 レイジングハートの呼びかけに、なのはの意識は現実へと引き戻された。 
 焦る手で鍵を開き、ベランダへと飛び出す。 
「いくよ! レイジングハート、セット・アップ!」 
 "stand by ready. set up." 
 桃色の魔力光がなのはを包み込む。 
 瞬時にバリアジャケットが展開され、真の姿を現したレイジングハートがなのはの手に握られる。 
 アレが何であるのか考えている暇はない。 
 なのははベランダの手摺を蹴り、夜の空へと身を躍らせた。 
 ホテルから未遠川までの距離は短い。 


 余分な思考を挟む暇もなく、なのはは未遠川の上空に到達した。 
「…………」 
 形容しがたい巨獣の周囲を一定の距離を置いて旋回する。 
 あまりに常軌を逸したグロテスクな外観に、なのはは直視を躊躇った。 
 頭部に相当する部位はどこにもない。 
 目も、口も、鼻も、耳も、首すらも見当たらない。 
 指もなければ手足もなく、胸と胴の境目すら見当もつかない。 
 ただ只管に大きな肉の塊が、アメーバのように這いずっている。 
 特徴的な器官といえば、肉のそこかしこから突き出した触手らしきものくらいだろう。 
 まるで畸形のイソギンチャクだ。 
 なのはは胸の奥からせり上がってくる酸味に口を閉ざした。 
 百メートル以上の距離を取って飛んでいるのは、怪物を警戒しているからというだけではない。 
 生理的嫌悪感が見えない壁のように立ち塞がっているためだ。 
「でも……このままじゃ!」 
 "Divine buster. Stand by." 
 なのはは空中で足を止め、レイジングハートを槍のように構えた。 
 帯状の魔法陣が杖の周囲を囲み、魔力の集積と加速を開始する。 
「ディバイン……」 
 あれほどの巨体だ。 
 もはや精密に狙いを定めるまでもない。 
 砲身と化したレイジングハートから繰り出される爆発的な魔力は、どう放とうと巨獣の肉体を穿つに違いない。 
 ――それゆえ、心のどこかに油断があったのだろう。 
 なのはが魔力の解放を宣誓するよりも速く、巨獣から繰り出された触手が、彼我の距離をゼロにした。 
 "Protection." 
「きゃあ!」 
 瞬時に百メートル以上伸びた触手がなのはを打ち据える。 
 間一髪で展開されたプロテクションによって直撃こそは免れたものの、サイズに相応しい衝撃力までは殺しきれない。 
 視界がぐるぐると回り、上下の感覚が消失する。 
 吹き飛ばされているのか落下しているのかも分からないまま、なのははどうにか姿勢を整えようと足掻いた。 
「……あうっ!」 
 背中から生じた衝撃が全身を駆け巡る。 
 どこか硬いところに落ちたのだと気付いたのは、首筋に伝わる冷たさと、眼前に広がる夜空を認めた後だった。 
 普通なら身動きどころか命すら危うい高度だっただろう。 
 だがバリアジャケットに護られた身体にとっては致命的なダメージではない。 
 なのはは痛みを堪えて上体を起こし、軽く周囲を見渡した。 
 豪奢に装飾された大きな橋――冬木大橋。 
 どうやらそのアーチの中、鉄骨の支柱の傍に落下したようだ。 
 鉄骨を足場に、なのはは立ち上がる。 
 見上げるは巨体の異形。 
 地上五十メートルの高さを誇るアーチと比しても、更にその倍以上はあるであろう体高。 
 なのはの最大魔砲を以ってしても一撃ではカバーできそうにないサイズである。 
 どうやって進行しているのか見当もつかないそれは、少しずつではあるが確実に市街へと迫っていた。 
「あんなのが街に上がったら……させない!」 
 再び飛び立とうと、両の脚に力をこめる。 
 倒せるか否かは問題ではない。 
 人々に不幸を撒き散らすであろう怪物を放っておくなど、なのはという少女には出来ない。 
 ただそれだけのことだ。 
 飛翔の直前、なのはは確かに怪物を見据えていた。 
 その視界が突如として黒い影に遮られる。 
「……っ!」 
 それが人間の輪郭であることを理解したのは、咄嗟に後方へ飛び退いた直後だった。 
 闇夜に琥珀色の瞳が光る。 
 鎧と呼ぶには薄く、平服と呼ぶには異質な濃緑の装備。 
 絶世と称するに相応しい美貌は、今は怜悧な刃物のような威圧に満ちていた。 
「レイジングハート……あの人が近付いてくるの、分かった?」 
 "......No." 
 緩やかなアーチの内側で、なのははその男と対峙する。 
 赤色の長槍を右手に、黄色の短槍を左手に携えて、男はなのはの姿を見据えている。 
 なのはは無意識のうちに半歩退いた。 
 あの男の顔を見ているだけで、魔術染みた力の負荷に晒されてしまう。 


 直接的な害こそは感じられないが、正体の分からない力というのはそれだけで恐ろしいものだ。 
 ――レジストに成功しているとはいえ、魔貌の効力に一切気がつかないのは、幼さ故なのだろうか。 
 男が赤い槍の切っ先をなのはへと向ける。 
「貴様がキャスターのマスターか?」 
 その表情は、ただ固い。 
 苦渋、嫌疑、あるいは否定。 
 表情から男の真意を確かめることは、なのはには出来なかった。 
「……キャスターの、マスター?」 
 聞き慣れない言葉の羅列を鸚鵡返しに問い返す。 
 なのはの反応を見て、男はどこか安堵した様子で首を振った。 
 どうやら彼が抱いていた懸念はある程度払拭されたらしい。 
 だが、それはなのはにすれば一方的な納得でしかない。 
 そもそもなのはから見れば、男は巨獣を庇うかのように現れたのだ。 
 男の真意はともあれ、なのはが彼を味方と考えうる要素は皆無である。 
 高波のような水飛沫を上げながら、巨獣が沿岸へと迫る。 
 四百メートルを越える遠大な川幅が幸いして、タイムリミットには幾許かの猶予がある。 
 なのはは男の視線が巨獣へ移った瞬間を見逃さず、周囲に複数のディバインスフィアを展開させた。 
 不意を衝いたにも関わらず、男は攻撃の気配を察知し、なのはへ向けて砲弾の如く加速する。 
 そこまでは予測の範疇だった。 
「ディバインシューター、シュート!」 
 繰り出される五条の魔力弾。 
 先行して放たれた三射は男の左右と頭上から迫り、回避経路を封殺。 
 残りの二射が正面から男に襲い掛かっていく。 
 恐らくこの奇襲は簡単に防御されるだろう。 
 だがそれで構わない。 
 これをあえて防御させ、その隙を狙って本命の一手を叩き込むのだ。 
 直線的に放たれた魔力弾は、吸い込まれるように男の胴体へ命中し――消失した。 
「そんな!」 
 男は防御も回避もしなかった。 
 呪文の詠唱どころかデバイスのような補助装置すら使用していない。 
 それなのに、二発のディバインシューターは一切の効力を発揮することなく掻き消えてしまったのだ。 
 まるで、肉体そのものに魔法を打ち消す力を備えているかのような―― 
 "Protec――" 


 緊急防御を図るレイジングハート。 
 その先端部分、赤い珠を囲む金色の環状パーツの隙間に、真紅の長槍の切っ先が滑り込んだ。 
 火花が散り、削ぎ落とされた金属片が宙を舞う。 
 切っ先は更に奥へと突き入れられ、バリアジャケットを掠めて停止した。 
 戦闘の終結は一瞬だった。 
 なのはの身を護る白亜のバリアジャケットが、魔力の欠片と化して霧散する。 
 大きな瞳が驚愕に見開かれ、やがて自身の身体へとその視線を落とす。 
 そこにあるのは、普段着に身を包んだ華奢な体躯だけ。 
 レイジングハートは突如として機能を停止し、最後の護りたるバリアジャケットも消滅した。 
 戦闘の体が成り立つ余地すらない。 
 男が繰り出したのはたった一撃。 
 その一撃で、なのはは抵抗の余地を残らず刈り取られていた。 
「魔術師よ――それがどのような礼装かは知らんが、破魔の紅薔薇の前には全て無力だ」 
 ゲイ・ジャルグ。 
 恐らくは赤い魔槍の名。 
 しかし、男の言葉はなのはに届いていない。 
 なのはは力なく崩れ、冷たい鉄骨にぺたりと座り込んだ。 
 瞳に浮かぶ感情は驚きか、それとも恐れか。 
 男が眼光を鋭くする。 
 苦々しそうに左腕を持ち上げ、黄色の短槍を振り被る。 
「命は取らん。しばらくそこで大人しくしていろ」 
 雷のように繰り出された短槍がレイジングハートの柄を打ち砕く。 
 水面にレイジングハートの破片が散って、小さな波紋を残した。 
 ガラス細工を砕く方が遥かに手ごたえがあったであろう。 
 あまりにも一方的な、そして決定的な決着であった。 
 双槍使いの男はへたり込んだなのはを一瞥すると、現れたときと同じように、虚空へと姿を消した。 
 冷たい風が吹き抜ける鉄骨の足場。 
 霧は依然として濃いままで、彼女の目では水面の様子すら分からない。 
 ――ここで、なのはは目撃することになる。 
 夜空を斬る亜音速の翼。 
 それすらも容易く叩き落す異形の腕。 
 光り輝く神話の船と、漆黒の魔力に染まった戦闘機の食らい合い。 
 そして、魂の隅々まで余すとこなく照らし尽くす、目も眩まんばかりの黄金の光―― 


 ―― -3742日 PM11:00 ―― 

 極光は河面を舐め、異界の巨獣を余さず焼き尽くした。 
 かの征服王の宝具を以ってしても足止めが限度であった巨獣は、遠方より振り下ろされた一太刀によって、肉の一辺も残さず消え失せていく。 
 眩い光が夜景を貫き、そして消えていく。 
 光輝の御名は約束された勝利の剣―― 
「何だよ、あれ……」 
 河の沿岸で、少年、ウェイバー・ベルベットは呆然と呟いた。 
 セイバーの左腕は対城宝具だと聞かされてはいたが、これほどだとは予想もしていなかった。 
 暗さと静寂を取り戻した水面に、深淵の水魔はもはや細胞の一片すら残されていない。 
 あまりにも壊滅的な破壊力。 
 ライダーの固有結界やアーチャーの名も知らぬ宝具も凄まじいが、それらと比べても明らかに桁違いだ。 
 込められた魔力。 
 圧倒的な熱量。 
 この世のものとは思えない閃光。 
 その破壊力はもはや魔術の枠にすら収まらないだろう。 
「流石のキャスターも消えたようだ! さっさと引き上げるか!」 
 鳴り響く雷鳴と、それに掻き消されないほどの大きな声。 
 ウェイバーは紫電を蹴って降下してくるチャリオットを見上げた。 
 巨大な牡牛の蹄と車輪が道路を砕き、地震のような衝撃が土手を揺るがす。 
 慣性をねじ伏せて強引に停止するチャリオット。 
 巻き起こる粉塵に吹き飛ばされそうになり、ウェイバーは苦々しそうな顔で御者台を見上げた。 
「もっと広いところに着地しろ……って……」 
 御者台に座する巨漢の横から、小さな頭がちょこんと顔を出している。 
 茶色い髪を二つに結んだ、見たこともない少女の頭。 
 歳が二桁に達しているかも怪しい顔つきだ。 
 ウェイバーはしばし呆然とし、そして叫んだ。 
「誰だそいつー!」 
「ん? 橋の上で震えとったんでな。拾ってきた」 
 豪放に笑うライダー。 
 ウェイバーは頭を抱えて蹲った。 
 橋の上? 震えてた? 
 そんなところに女の子がいるはずがないだろう。 
 けれどライダーがそんな意味の分からない嘘を吐くとも思えない。 
 少女が身を乗り出して何か話しかけてきているが、生憎ウェイバーにはヒアリングすら叶わなかった。 
「あー、どうやらランサーめに喧嘩を売って返り討ちにあったそうだ。 
 マスターならばサーヴァントに勝負を吹っかけるわけもないだろうし、大方、聖杯戦争とは無縁の魔術師ってとこじゃあないか?」 
 硬い顎鬚を擦りながら、ライダーが通訳の真似事を始めた。 
 時空を超えた知識を付与されているサーヴァントならば、ウェイバーと少女の両方の言語を解するのも容易いのだろう。 
「……で、どうして拾ってきたりしたんだ」 
「何を言っとる。あの高さから落っこちたら間違いなく死ぬぞ?」 
 魔術師なら幾らでも手段があるんだ、とはウェイバーは言わなかった。 
 高所からの落下など、魔術師にとっては気流制御などの初歩的な魔術を駆使するだけで対処できる状況に過ぎない。 
 だがウェイバーにはそのことをこのサーヴァントに説いて聞かせる気力が残っていなかった。 
「はぁ……。とりあえず、その子がどこの誰なのかってことを聞きだしてくれ」 


 相手は犬猫ではなく暦とした人間である。 
 元の場所に戻してきなさいで済む話ではない。 
 ウェイバーは、手早く少女を送り返してマッケンジー邸へと帰ろうと決めた。 
 魔術師であるらしいとはいえ、夜の街にこんな幼い少女を置き去りにするのは流石に気が引ける。 
 すぐに隠蔽工作に訪れるであろう魔術協会や聖堂教会へ引き渡そうにも、果たして取り合ってくれるかどうか。 
 さしもの彼らといえど、今夜はキャスターの所業の後始末に追われてそれどころではないに違いない。 
 御者台によじ登り、早く出発するようライダーを急かす。 
 多少の厄介を背負い込むとしても、さっきからセイバーの同行者が向けてきている『可哀相なものを見る目』からさっさと離れてしまいたかった。 
 と、ウェイバーは少女に語りかけるライダーの言葉の中にマッケンジーという単語を聞き取った。 
「おい、まさかうちの住所とか教えてないだろうな」 
 剣呑に睨むウェイバーに、ライダーは不思議そうな表情を返す。 
 一体何が問題なのかという疑問がありありと浮かんでいる。 
 頭を抱えて御者台に突っ伏すウェイバー。 
 太い指でこめかみを掻くライダー。 
 そんな二人を戸惑った様子で見比べる少女――高町なのは。 
 チャリオットを曳く牡牛たちは、背後の騒がしさを気にすることもなく、出発の命を待って喉を鳴らしていた。 



 これが当時の彼女が知りえた、第四次聖杯戦争。 
 半月後、兄に無理を言ってマッケンジー邸を訊ねたときには、既にすべてが終わっていた。 
 バスで通った冬木の街並みはその多くが焼け落ちて、川岸には極光の名残の廃船が無残に座礁。 
 ライダーは戦いの果てに消滅し、彼女を迎えたのはマッケンジー夫妻とウェイバーだけであった。 
 聖杯戦争という名すら知らず、偶然に戦場へと迷い込んだ一羽の小鳥。 
 すべてが終わってから事情を明かされる蚊帳の外の端役。 
 居ても居なくても影響のない一時の賓客。 
 それが彼女の配役であり、彼女自身もそれで終わると思っていた。 
 六十年後に起こるという『次』には関わりえないのだと信じていた。 
 この不思議な邂逅は次第に記憶の片隅へ追いやられ、本人すらも思い出せないようになっていく。 

 ――十年後の、とある冬の日までは。 





 ―― -3742日 PM10:58 ―― 


「置き去りにするだけしておいてこの様とは、大した不実だな……」 
 薄まりつつある夜霧の中、ランサーは自嘲気味に呟いた。 
 橋上で戦いを挑んできた魔術師の少女。 
 マスターでないのなら命を取ることもないと、礼装だけ奪ってここに残してきたはいいが、どうやら誰かに先を越されたようだ。 
 空を仰げば、征服王のチャリオットが稲妻を撒き散らしながら弧を描いている。 
 着陸する角度を探っているらしいその御者台に、小さな頭がひょっこりと覗いていた。 
 その様子だけ見れば、サーヴァントに助けられたマスターという構図だ。 
 しかし、ランサーはあの少女がライダーのマスターではないと知っていた。 
 ライダーが、自分とセイバーとの戦いに闖入したとき、隣に座していたのは少年であった。 
「己のマスターでもないのに助けたのか。まったく、器の大きな王で在らせられることだ」 
 どことなく皮肉染みた言葉を残し、ランサーは高く跳躍した。 
 かのサーヴァントの性格を考えれば、あの少女を悪く扱うことはないだろう。 
 ランサーは疾風のごとき速度で夜の街を駆け抜けた。 
 今夜、己の破滅が定められたことなど、夢想もせずに。 

復元してよろしいですか?