<p>1.<br /><br /> 「――なさい……」<br /> まどろみの中で、最愛の人のくぐもった悲痛な声を聞いた。目は見えない。けれど、彼女が泣いているのは分かった。<br /> 「――んなさい、リト」<br /> 泣くなよ、似合わないから。そう言いたかったけど声が出ない。抱きしめてあげたいのに、腕を動かすこともできない。<br /> 似合わないって？<br /> 「ごめんなさい■■」<br /> 耳までおかしくなったらしい。耳障りなノイズが頭の中に響いて、彼女が言おうとした最後の名前をかき消した。<br /><br /> 俺はふたたび泥のような眠りのなかに沈んだ。その中でふと疑問に思った。あれは一体誰だったのだろうと。<br /> やがて意識がまっ黒に塗りつぶされた。<br /><br /> ◆<br /><br /> 「あ、リト。起きた？」<br /> そう言われて目を開けると、ララが真正面からこちらを覗きこんでいた。一瞬自分の立場が分からなくなり、記憶を辿る。<br /><br /> まず、ここは遊園地だ。先月完成を見たばかりの新しいテーマ・パークで、広告を見たララにせがまれて来ることになった。<br /> 美柑は用事があるといって来なかった。本当かどうかは知らない。<br /> 敷地内はかなり広大だった。入園前からララのテンションは下がることを知らず、俺は朝から夕方までずっと振り回されっぱなしだった。<br /> 最後に乗ったのは俺の少し苦手ないわゆる絶叫系というやつで、流石にへとへとになり、少しベンチで休もうということになった。<br /> それでララが売店で食べものを買ってくるといって……。<br /><br /> 「……ああ。そのまま寝ちゃったのか」<br /> 「そーだよ。帰ってきたらリト、ベンチに横になってるんだもん。倒れちゃったのかと思って心配したんだから」<br /> ララはそう言って、少し頬を膨らませた。<br /> 夕陽を柔らかく反射して、ピンク色の髪が垂れ下がる。それをなんとなく弄りながら、思わず笑ってしまう。なんて平和なんだろう。……垂れ下がる？<br /> 寝惚けた頭が一瞬で覚醒した。<br /> 「お前、膝枕……！？」<br /> 慌てて起き上がろうとすると、肩を押されて元の位置に戻された。<br /> 「だーめ。私を心配させた罰。リトはもうすこしこのまま寝てること」<br /> 「いや、ララ、それはちょっと――」<br /> 「……寝てて」<br /> ……その顔は反則だ。何も言い返せなくなる。<br /> 結局俺はそのまま衆人環境ではカップルですらやらないような行為を続けることになった。寝ているときはずっとこうだったのだから、今更なことではあったが。<br /><br /> 「リト、ホット・ドッグ食べる？ 少し冷めちゃったけど、美味しいよ」<br /> 思考停止に陥って10分ほど経ったころ（実際にその数字を時計で確認して信じられない気持ちになったけれど）ララが言った。<br /> 「……腹は空いてるけど。そうするにはとりあえず起き上がんねーとな」<br /> 「むー」<br /> 「ほら。もういいだろ」<br /> そういって起き上がった。ララの無言の抗議と自分の名残惜しい気持ちに気づかないふりをして。<br /> 冷めたホット・ドッグを頬張っていると、ララが心配そうに訊ねてきた。<br /> 「ねえリト、本当に大丈夫？ 寝てるとき、なんだか苦しそうな顔してたけど。悪い夢でも見てたの？」<br /> ああ、それで俺が起きるのを止めようとしたとき変に強情だったのか。まあそうはいっても心当たりなんてない。<br /> 起きてすぐならともかく、起き抜けにあんなサプライズがあっては夢の内容なんてもう朧だ。<br /> 「いや……覚えてねーな。まあ大したことないよ、覚えてないってことは」<br /> 「そっか。うん、それなら良かった」<br /><br /> ララは失意や落胆を隠すのが、意外なほど上手い。物事に悲劇的な解釈を抱くことなどありえないと、単に不運に鈍感なだけなのだと周囲に思わせることが。<br /> 実際、ララがやや常識外れであることを差し引いても、ララほど迅速に不運の傷を癒し新たに行動のできる人間を、俺はほかに知らない。<br /> それでも初めから何も傷つかないわけではない。<br /> だからララがときおり見せるあの微かな悲哀を孕んだ微笑に気づいてからは、俺はどこか危ういものを見せられているようで、いつも何もいえなくなってしまった。<br /> 俺のそういった反応を、ララ自身は望んでいないように見えたけど。<br /><br /> ◆<br /><br /> 一月前、ララがデビルークにいったん帰省することになった。かなり唐突な出来事だった。<br /> 暗にほとんど有無を言わせないという意味の仰々しさがあり、ララのささやかな抵抗は初めから勝ち目がなかった。<br /> 里帰りといえば普通だし、ララはすぐ帰ってくるねと笑っていたけど、俺はどうしても動揺を隠せなかった。そこに潜む深刻さに、美柑でさえ気づかなかった。<br /><br /> ザスティンによると、ララの親父、ギドはララの不在の理由として、ララがある想い人の気を惹くことに腐心しているとあえて公にしていた。<br /> 反体制派や王位の後釜を狙う連中に、それがジェスチャーだと思いこませるために。<br /> ララの滞在先は公にされないものの、それを突き止めるのは権力者ならそんなに難しいことじゃない。<br /> ララの親父は地球の知的水準の低さが誇張されるよう、暗に情報操作していた。<br /> 『未開の惑星人』である俺がララの寵愛を受けているという事実を、いかにもありえないと思えるように。<br /> 破綻は初めから予定されていたことで、それを迎えるのがいつになるかというだけの問題だった。<br /><br /> ◆<br /><br /> 初めこそ疎ましく思ったものの、ララのいない生活が今ではほとんど考えられなくなってしまったことは、認めるしかない。ララのことが好きだということも。<br /> かつては、ララへの愛情の半分は家族に対して感じるそれにすぎないと思いこもうとしていた。<br /> 今でもその考えはときどき頭をよぎり、俺はいまだにそれを確信をもって退けられない。<br /> それは本当かもしれない。違うかもしれない。そんなのは言葉を弄しているだけで、本質的な隔たりなんてないのかもしれない。<br /><br /> それでも春菜ちゃんが好きだという事実は変わりようがなかった。好きな人を忘れられるのは、憎しみがそれを上回ったときだけだ。<br /> 2人の女性が同時に好きだという、とても矛盾して聞こえる感情。優柔不断で利己的で、俺の欠点はいくらでも見つかるけれど、不正直にだけはなりたくなかった。<br /> そして、今と変わらない関係を永遠に続けることは不可能だ。たとえ関わる人間の全てがそれを望んでいたとしても。それがこの1年で俺が学んだことの一つだった。<br /> せめて自分がありえないほどの鈍感さを装い続けていられるうちに、ララが錯覚に気づいてくれたらと願った。<br /> 分不相応な幸せと絶望は、与えるのも与えられるのもひどく重たい。</p>
