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文族事始め・ぱあと1:『いきなりですが、始めます』 - (2008/03/30 (日) 09:27:23) のソース

*始めに
・この文章は「文族ってこういうものなんだよ」という紹介を旨として書かれています。もっと具体的で役に立つテクニックは自分で探して見つけましょう。文族の、心さえ理解出来れば、後は実際に始めるだけですから!

*文族事始め・ぱあと1:『いきなりですが、始めます』

あなたは今、誰の目を通してその世界を描写していますか?

あなたが描いた文章は、誰かが感じたことなのです。物語の中で、誰かが感じたことなのです。

それは時に登場人物の感じたことであり、それは時に読者の感じたことでもあります。

文章とは、相手に感じさせることをこちらから指定することが出来ます。

もちろん、それを読んで実際にその人が何を感じるかまではわかりません。けれど、目も耳も聞こえない読者が、唯一頼りにするもの、物語の中でたった一つ与えられた、その世界を知るための唯一の五感、それこそが文字を読むということなのです。

あなたは手を引いていかなくてはなりません。

読者と、登場人物と、そして何より自分自身の手を引いて、物語の世界を、与えられた言葉というもう1つの五感のみで感じ抜いて、1つの心が変わっていく過程を体感していくこと。それが、小説を書くということです。

自分以外の誰かになって、自分も一緒に何かの体験をくぐり抜けていくこと。想像力とは、そういうことです。

描写とは、心です。すべての描写は情報ではなく心を動かすものであることが、一番望ましいのです。

その人がどんな人であるかをもっとも良く知るためには、その人がどういう格好をしているかとか、どういう性格をしているかという情報ではなく、その人がどんな人に見えるのか、どんな行動をして、それがどんな風に映って見えるのか、必ず誰かのまなざしを通して描写しなければ、読んでいる人の心は動きません。

一時間に一行も進まなくてもいいのです。

その一時間で、1つ、誰かのまなざしから、その光景、その人物、その事件を語ってあげてください。小説を書くというのは、その積み重ねで出来ています。

ライトノベルで一人称や登場人物達の会話が多いのは、それが誰かのまなざしを通して描写するのに向いたスタイルだからです。交わされる会話そのものが、それぞれ会話に参加している全員の、どんな人かという行動になって物語られており、また同時に互いにどんな風に映って見えているのかという人間関係を浮かび上がらせる、とても効率のいいものになっているのです。

ライトノベルではない小説には、けれどもいろんな描写があります。それは、どんな景色が目に映っていて、その景色や会話のやりとりが、読者にライトノベルの会話や一人称ほど明快でも強烈でもない、もっとひっそりとしたイメージをそれとなく無意識に与え、そのイメージの無数の積み重ねによって、読者により奥深い、想像の余地を残すという、より洗練された、しかし同じ技法を使っているに過ぎません。

あなたの書きたい物語の中で、どんな事件が起きて、あるいは起こらなくて、それで読んだ人にどういう印象を与えたいのかは、誰もあなたに教えることが出来ません。あなたがただ思いついた断片から、自分自身、本当は何を思っていて、何を描こうとしているのか、知っていこうとすることでしか、物語の深みは育っていきません。

けれど、別に深い物語を書く必要もなければ、深い物語が書けないからといって悩む必要はどこにもありません。書きたいから書いて、それを少なくとも自分だけは楽しむことが出来て、ついでに自分以外の誰かも読んで楽しんでくれればそれでいいのです。

自分が書いたものを読んでもらいたい相手は誰でしょう?その人をもっと満足させるためには、どうすればいいのか、それを考え始めた時に、小説を上達しようという道程は始まります。

流行に乗ることも大事です。自分だけの満足を求めて小説を書くことに何の恥じる必要もありません。たった一人のためだけに特化した、あるいは特定のジャンルを好む相手だけに特化した、そんな小説があることに、そんな小説を書くことに、何の後ろめたさも恥じらいも、持つ必要はありません。小説を書こうと思ったのはあなたで、小説を書けるのもあなたで、あなたの書いた小説を一番楽しめるのも、あなた以外にはいないのですから。

書きたいものを書いてください。自分が誰を楽しませたくて、その誰かが満足したと、感じることさえ出来れば、それが世界のすべてです。

甘いものが苦手な人、お酒が体質で飲めない人、ダイエットをしている人、身近にそもそもそういう食材自体がなくて食べる習慣を持たない人、いろんな人が世界にはいます。

小説は、心の食べ物だと思ってください。

飲めない人に無理に飲ませようとする必要も、苦手だから苦手だと公言している人を気にかける必要も、控えている人に無理にこれはおいしいですよと見せつけるような必要も、何もありません。

ご馳走様、おいしかったよ。そう声をかけられることが、自分が書いたものを食べる以外での、小説を自分で書いた時の、小説家にとっての唯一のごはんです。ないとつらい人、なくても平気な人、いろいろですが、誰しも自分で書いたものの量より読んだものの量の方が多いのですから、忘れないようにしていたいですね。

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