この地区はバングラインドな土地交換にょりく飛び地が解消されました。 なお、この記事はウィキペディアにもあるが 百科事典的でないとう身勝手な理由で改竄された。 作ったユーザーの記述破壊されたのだ。 他人の記述を改竄するクズは我がサイトに必要ない! 他人の記述を台無しにするやつは御断りだああよ!
クチビハールとはインドとバングラディシュの国境地帯にチリのように点在する素晴らしき地であろう。
約200ヵ所にわたって双方の領土が入り乱れる、究極の飛び地で1947年8月 英領インドがインドパキスタンに分かれて独立。クチビハール一帯は両国の入り乱れた飛び地が多数出現
1971年12月 バングラデシュがパキスタンから独立。クチビハール一帯はインドとバングラデシュの飛び地になる
Cooch Behar一帯の地図(1955年)ではのってねぇの
17世紀頃、この一帯を支配していたクチビハール王国と、インド東部へと勢力を拡大しつつあったムガール帝国との間で領土の奪い合いが発生した。ムガール帝国はクチビハール王国の領土の一部を占領したものの、王国に帰順する地方領主は占領地を譲らず居座りつづけた。その後、ムガール帝国側に属していた兵士達がクチビハール王国側の領土の一部を占拠し、ムガール帝国に帰順した。こうして生まれた複雑な境界線が、今日のクチビハールの国境線の起源である[1]。
インドがイギリスによって征服されイギリス領インド帝国となった時、これら一帯はイギリス直轄領の東ベンガル州であるかクチビハール藩王国領であるかという違いしかなかったため、往来することに特に差し支えはなかった。しかし、1947年にイギリスからインドとパキスタンが独立した際、 ヒンドゥー教徒の多いクチビハール藩王国領はインドに、イスラム教徒の多かった東ベンガル州は東パキスタンとしてパキスタンの一部に属することとなったため、かつての境界線が国境線に引き継がれ、多数の飛び地が生み出されることとなった[1]。
その後、言語や民族も異なり、政治の中枢も西パキスタン側に握られていた東パキスタンは、インドの支援を得て1971年にバングラデシュ独立戦争を起こし、バングラデシュとして独立を果たした。クチビハール一帯の東パキスタン領も、飛び地のままバングラデシュ領として今日に至っている[1]。
1950年代以降、インドとパキスタン政府(バングラデシュ独立後はバングラデシュ政府)は、このあまりに不便な飛び地の状況を改善しようと、交渉を続けた。 1950年に飛び地への役人や警察官の立ち入り、生活必需品の輸送についての規定が定められたが、両国政府の緊張の激化に伴い、 1~2年でこの規定は実行出来ない状態となった。その後、1957年にインドとパキスタンの間で、飛び地付近での週2日の国境貿易が認められるようになったが、そもそも飛び地の中に相手国の領事館などがなくビザもパスポートも取得できなかったため、飛び地から合法的に越境することができず、住民は国境警備隊に射殺されるなどの危険を冒して違法越境せざるを得ない状態におかれた[1]。
1958年にはインドとパキスタン政府の間で領土交換が合意されたが、飛び地の住民の反対と、インド最高裁が領土交換には憲法改正が必要との判断を下したため、実行されなかった。1974年にもインドとバングラデシュ政府の間で再び領土交換が合意されたが、インド側の面積が29平方kmあまり減る内容であったため、インド国会で野党に反対され、これも実行されなかった。1980年には、違法越境を減らすために飛び地がフェンスで囲まれたため貿易量が減り、飛び地の住人はさらなる貧困に晒された[1]。
1996年に、1974年と1982年に合意された協定に基づいてバングラデシュ領の最大の飛び地に本土との回廊(ティン・ビガ回廊(英語版))が設けられたが、回廊設置に反対する住人同士の衝突により犠牲者が出たほか、回廊そのものも8時間置きにインド人とバングラデシュ人の往来を切り替える方式であったため、あまり便利なものとは言えなかった。また、住人によっては回廊の設置によって近所のインド領に行く許可が降りなくなり、回廊を通って遠くのバングラデシュ領に行かなければならなくなるなど、却って不便が増すケースすら発生した[1]。
2011年9月、両国政府は領土の整理交換と、飛び地に設けられている回廊の通行許可時間の延長、及び交換される飛び地の住人が国籍を選択できるようにする協定に合意した[2]。
国境よりインド側の地域にバングラデシュの飛び地が点在し、バングラデシュ側の地域にもインドの飛び地がある。ややこしい地域である為、地図にもほとんど載らない。
バングラデシュは、現在は独立国であるが、イギリスからの独立当初はパキスタンの飛び地であった。1947年にインドがイギリスから独立した際、イスラム教徒が多い地区として、パキスタンが東パキスタン(現在のバングラデシュ)もいっしょに独立をした。その際、クチビハール一帯に多数の飛び地ができた。その後、東パキスタンと西パキスタンは、民族、言語が違うためにやりきれなくなり、東パキスタンがインドの支援を得て独立戦争を起こし、1971年にパキスタンからバングラデシュとして独立をする。飛び地はバングラデシュに引き継がれ、現在、インドとバングラデシュの間に200ヶ所以上もの飛び地が点在する。
17世紀頃、この辺りを支配していたクチビハール王国と攻め込んできたムガール帝国との取り合いがきっかけで、領主や兵士達がそれぞれ土地を占領し自分の国の主に忠誠を誓う内に、とてもややこしい事になった。この土地には「飛び地の中の飛び地の中の飛び地」という複雑な場所もある上、面積わずか50平方メートルという世界最小の飛び地もある。
飛び地の住民はとても不便で苦労をしている。国外へ出る許可が欲しくても、申請を行う役所が飛び地の中にないし、飛び地なので、電気や水道を引くなど行政サービスが受けられないでいる。いくつかの飛び地と本土をつなぐ通路も造られているが、問題は山積み。インドのクチビハール州との国境地帯で、インド領内にバングラデシュの飛び地が95ヶ所、バングラデシュ領内にインドの飛び地が129ヶ所。そのうち24ヶ所は飛び地の中の飛び地というものがある。政府も飛び地の中までの人数は把握不可能。
1958年に、飛び地を解消しようと両国が検討し、土地の交換を合意した。こうすることで、インド領の中のバングラデシュの飛び地の住民はインド人に、バングラデシュ領内のインドの飛び地のインド人がバングラデシュ人になるというものだが、イスラム人などが飛び地の中で生活しているため、猛反発が出た。そのため、現在においても飛び地のままだという。
飛び地の歴史1947年8月 - イギリス領インドがインドとイスラム派のパキスタンに分離独立。クーチ・ビハールの一帯は両国の入り乱れた飛地が多数出来る。 1971年12月 - バングラデシュがパキスタンから独立し、境界線錯綜地帯はインドとバングラデシュの飛び地になる。
東パキスタンとブータンの間に「クチビハール」があります でも国境に散在する飛び地はあまりに小さいのでこの地図には出ていません バングラデシュはいまでこそ独立国だが、かつてはパキスタンの巨大な飛び地(東パキスタン)だった。1947年にインドがイギリスから独立した時に、イスラム教徒の多い地区がパキスタンとして分離したからですが、本土から1600kmも離れて民族や言語は違うのでは1つの国としてうまくやっていくのはさすがに無理。インドに支援された独立戦争が起きて、1971年に独立を果たしたのだ。 ところが飛び地でなくなったはずのバングラデシュには、現在もインドとの間に小さな飛び地が200ヵ所以上もある。バングラデシュの北の端、インドのクチビハール州との国境地帯で、インド領内にバングラデシュの飛び地が95ヵ所、バングラデシュ領内にインドの飛び地が129ヵ所。そのうち24ヵ所は飛び地の中の飛び地で、「バングラデシュ領内のインドの飛び地の中のバングラデシュの飛び地の中のインド領」というわけのわからない場所もあれば、面積わずか50平方メートルしかない世界最小の飛び地もある。しかも自由に行き来できる西欧あたりの飛び地と違って、本土と飛び地の間の往来は制限され、政府も飛び地に果たして何人住んでいるのか把握不能というありさまだ。
これらの飛び地が生まれたのは、インドとパキスタンが分離した際に、ヒンズー教徒の集落はインド領に、イスラム教徒の家や畑はパキスタン領になったから生まれた・・・のではない。イギリスの植民地だった時代から、東ベンガル州(現在のバングラデシュ)とクチビハール藩王国(現在のインド領クチビハール州)との間の飛び地として存在していたのだ。
飛び地がグチャグチャできたわけ
むかしむかし、クチビハールの藩王(マハラジャ)と、ランプール(バングラデシュ領)の領主がギャンブルをして、エキサイトした2人は領地を賭けて勝負した結果、領地がごちゃごちゃに入り乱れてしまった・・・という伝説があるが、さすがにこれは作り話。当時インド東部へ勢力を広げていたムガール帝国が、クチビハール王国の3分の1を占領したが、その中の一部でクチビハール王に忠誠を尽くす地方領主があくまで居座り、この地域が1713年の条約でムガール帝国に譲渡された後も、自らの領地から動かなかった。すると今度はムガール帝国の元兵士らがクチビハール側の土地を勝手に占拠し始め、のちにムガール帝国に帰順した。こうして忠に厚いインド人兵士たちのおかげで両国の領土がゴチャゴチャ入り組んでしまったのが飛び地の発端だ。
18世紀後半にイギリスがインド全体の植民地化に乗り出すと、ムガール帝国が獲得した土地は東インド会社直轄のベンガル州となり、クチビハール王のもとに残された土地はイギリス宗主下の藩王国としてマハラジャによる統治が続いた。当時は直轄領か藩領かという違いだけでどっちにしてもイギリス領だし、住民たちの行き来は完全に自由だったから何の不便もなかった。日本でも江戸時代の藩の領地や天領(幕府の直轄領)は飛び地だらけだったが、住民にとってはさして不便が無かったのと同じこと。
ところが1947年にインドが独立した際、イスラム教徒が多い東ベンガル州はパキスタンの一部として分離することになったが、クチビハール藩王国はマハラジャがヒンズー教徒だったのでインドに加わった結果、封建領主の境界線がそのまま国境線になった。カシミールのように旧藩王国の領土を奪い合って核戦争を起こしかねないような対立を続けているよりは、飛び地だらけになっても「歴史的な境界線」をそのまま国境にしたほうがよっぽどマシだが、地元の住民は大変だ(※)。
※イギリス植民地時代には、クチビハールと西ベンガル、アッサムの間にも約50ヵ所の飛び地があったが、これらはいずれもインド領になった。 住民は許可を得れば本土へ行くことができるが、面倒な申請手続きが必要となった。実際にこれらの飛び地に住む人は、ほとんど学校や病院には行けず、選挙にも行けない。国境を跨ぐ電線の敷設がままならないため、いまだに電気が引けない村も少なくないし、電話などの通信手段もない。電気がないから工場などは建てられず、生活手段は昔ながらの農業か牛を飼うくらいしかできない。 飛び地には政府の役人が入れないから、税金を納めずに済むかわりに政府によるインフラ整備や開発援助もない。それどころか国勢調査が実施できないから、両国の政府は一体飛び地に何人住んでいるのかも把握できずにいる。飛び地の人口は2万5000人から150万人までさまざまなことが言われているが、専門家の推測によれば6万5000人から7万人くらいらしい。
警察の目が届かないから飛び地の治安は悪く、山賊たちの格好の餌食になっている。バングラデシュ領内のインドの飛び地に住むヒンズー教徒は、周辺のイスラム住民とのいさかいが絶えず、多くの住民が身の危険におびえながら、細々と農業を営む貧しい生活を続けている。家や畑を捨てて本土へ逃げ出した人も少なくない。
一方で飛び地に住むイスラム教徒は、男性が飛び地での生活に嫌気がさしてどんどん外へ逃げ出していくのに対し、家から出ることができない女性が取り残されている。結婚しようにも周囲の村人は飛び地の女性には足元を見て高額な花嫁持参金をふっかけるので、独身のまま過ごすか妾になる女性が多いという(※)。
※インドやバングラデシュでは、結婚の際に花嫁が「ダウリー」と呼ばれる持参金を用意する風習があり、とてつもない高額を要求されたり、持参金が少ないと花嫁が焼き殺される事件が起きたりと、社会問題になっている。 もともとは「隣の村とはご領主さまが違う」程度だったのに、いつの間にか国際政治や宗教対立に翻弄されて、クチビハールの飛び地住民たちの不幸は今も続いている。 何とかしようとしたものの、かえって不便は増すばかり
これじゃいくら何でもヒドイ!ということで、インド政府とパキスタン政府(後にバングラデシュ政府)との間で、飛び地住民の不便を解消するためのさまざまな方法について交渉は続けられてきた。
その方法の1つが、領土交換による飛び地の解消だ。1958年にインドとパキスタンの政府は領土交換に合意したが、インドへ移される飛び地のイスラム教徒やパキスタンへ移される飛び地のヒンズー教徒が反対したことや、インド最高裁が「領土の交換には憲法改正が必要」と判断したことで実行できなかった。バングラデシュの独立を経て、74年に再び領土交換の案がまとまったが、インドからバングラデシュへ割譲される飛び地が69・5平方kmだったのに対して、バングラデシュからインドへ渡される飛び地は40・5平方kmだったので、インド側の野党が猛反対して頓挫。その後領土交換による飛び地解消の目途は立っていない。
国境線の向こうにある畑へ出かけるにも厳しいチェックが・・・ 2つ目の方法は、飛び地と本土や相手国との通行規制を緩和して不便を解消すること。インドとパキスタンは1950年に、役人や非武装の警官の飛び地へ立ち入りや、本土から飛び地への生活必需品の輸送についてのルールを定めた。しかし役人や警官の立ち入りは両国関係の緊張で1~2年後には実行できなくなり、本土から飛び地への生活必需品の輸送は月1回に制限されて、飛び地から本土へ販売する農作物などの輸送については規定されなかった。 1957年にはインドとパキスタンで貿易協定が結ばれて、飛び地とそれを取り巻く相手国側との1週間に2日の国境貿易が認められた。売り買いできるのは野菜、果物、卵、魚、薪、馬草、油、スパイス、お菓子、石鹸などの食料や日用品で、その量は「頭に乗せて運べるだけ」「1kgまで」などと細かく規制された。ところが、飛び地の住民が規則に従って隣の村へ物売りに行こうとしても、国境を越えるにはパスポートとビザが必要だ。相手国の大使館も領事館もない飛び地でビザを取るには、まずは国境を越えて本土の大都市まで足を運ぶ必要があるが、ビザがない以上そもそもビザを取りに本土へも行けないのだ。結局飛び地の住民は違法を承知でビザなしで国境を越えざるを得ず、国境警備兵による汚職が蔓延し、住民が警備兵に射殺される事件も数多く起きた。
1980年には飛び地を囲んでフェンスが作られ、指定の検問所を通らないと周囲と行き来ができなくなった。不法越境は減ったが、遠回りをして飛び地へ取引にやって来るのは中間業者くらいになった。飛び地の住民は業者のボッタクリ価格で売り買いせざるを得なくなって、貧しさに拍車をかける結果に・・・。
★Tin Bigha回廊
3番目の方法は、飛び地と本土を結ぶ回廊を作ること。1996年にはインド領内にあるバングラデシュの最大の飛び地・Dahagram村およびAngorpota村(上の地図で緑の27と28。面積は合計18.68平方km)とバングラデシュ本土のPatgramとの間に回廊を設けて、自由に行き来できるようになった。
この回廊はTin Bighaという場所にあり、178m×85mの一角。「回廊に対するインドの主権と、インド国民が回廊内を通行する権利を完全に保障する」という条件で、バングラデシュは回廊部分をインドから永久に租借。回廊内ではバングラデシュ本土と飛び地を結ぶ道と、インド領同士を結ぶ道(どちらも車がやっと通れる程度の道)が交差し、周囲はフェンスで覆われ、四隅には「インドの主権」を確認するためにインド国旗がはためいている。
「自由に行き来」といっても、実際にバングラデシュ人が通行できるのは昼間の8時間だけで、しかもインド人と時間を区切って交互に通行させる仕組み。インド人の通行タイムにはバングラデシュ側の門は閉ざされ、回廊両側の待合室で次の通行タイムを待たなくてはならない。バングラデシュの警察や軍が通行するときは、事前にインド政府へ通告する決まりだ。
なんだ、全然不便じゃん・・・と思うが、これでも40年がかりの交渉でようやく実現したのだ。インドとパキスタン政府は1958年に飛び地交換で合意し、Dahagram村およびAngorpota村はインド領に、Berubari村の南部(上の地図の47)はパキスタン領になるはずだった。しかし、Dahagram村とAngorpota村は住民の80%がイスラム教徒で、Berubari村の南部は90%がヒンズー教徒だったため、住民たちが猛反発して実施できずじまい。
71年にパキスタンからバングラデシュが独立した後、1974年と1982年の協定でとりあえずTin Bighaに回廊を設けることになったが、今度はTin Bighaの南側に位置するインドのKuchlibari村の住民たちが猛烈に反対しはじめた。Kuchlibari村からインドの他の地域へ行くには狭い回廊部分を通らなくても、西側をまわって行けばいいように見えるが、Dahagram村とバングラデシュ本土(Dimla)の間は大きな川で、歩いていくならKuchlibari村の人は回廊を通らなくてはならない。それにヘンな回廊など作ったら不法入国者がやって来るし、治安が悪くなって牛が盗まれる・・・とインドの裁判所に提訴し、反対派の抗議活動では警察の発砲で死者まで出た。ティンビガ回廊が設置されると、怒ったインド人がバングラデシュの飛び地を襲撃して、新たに67人の死者が出ている。
飛び地住民の不便解消のための措置が、周辺一帯の対立を煽ってしまったわけで、両国では回廊を立体交差にすることや、Dahagram村とバングラデシュ本土(Dimla)の間に橋を架けることも検討したが、断念。こうしてできた回廊で、バングラデシュ本土と結ばれた飛び地の住民は喜んでいるかと言うと、逆に不便にもなった。それまで住民は一番近いインドの市場に行く許可が取れたが、回廊設置によってインド警察が国境地帯の警備を強化したので不可能になり、回廊を通って遠くのバングラデシュの町まで行かなくてはならなくなったという。しかもこの回廊、現地の治安や両国の政治状況によって、閉鎖されることもしばしばだとか。
両国合意で、いよいよ飛び地解消か!?
ところで、2011年9月にインドのシン首相がバングラデシュを訪問してハシナ首相と会談し、両国の国境画定と飛び地交換についての議定書に調印した発表した。また現在1日12時間に制限されているティン・ビガ回廊の開放時間を(当初の8時間から延長されていた?)、24時間に延長することにも合意した。交換対象となった飛び地の住民は、インドかバングラデシュか国籍を選択できることになるという(※)。
※新聞報道では、交換される飛び地はインド領内のバングラデシュ領が51ヵ所、バングラデシュ領内のインド領が111ヵ所の合計162ヵ所となっている。Cooch Beharの詳細地図では合計224ヵ所が記載されているが、この差は一体何なのだろう?例えば「インド領内のバングラデシュ領内にあるインド領の飛び地」は交換する必要がない(そこはもとからインドだから)のでしょうが、これまでに「解決済み」の飛び地もあったのか、ひょっとして交換対象外になった飛び地もあるのかどうかは不明。
となると、60年以上にわたって懸案だったクチビハールの飛び地問題も、いよいよ解決となりそうだが、実際の飛び地交換には両国国会での承認が必要。58年や74年にも飛び地交換でいったん合意したはずなのに、インドの国会や最高裁が拒否して実現できなかったという「前歴」があるので、ホントに飛び地が解消するかどうかは、最後まで気が抜けない感じがしますが・・・。
●関連サイト
Tin Bigha Corridor ティン・ビガ回廊の写真や地図があります(英語) Welcome to Cooch Behar クチビハール州政府の公式サイト(英語)
運び屋 ティン・ビガ回廊の現地ルポ。現地では「TEEN BIGHA」と看板が出ているようだ。
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17世紀頃、この一帯を支配していたクチビハール王国と、インド東部へと勢力を拡大しつつあったムガール帝国との間で領土の奪い合いが発生した。ムガール帝国はクチビハール王国の領土の一部を占領したものの、王国に帰順する地方領主は占領地を譲らず居座りつづけた。その後、ムガール帝国側に属していた兵士達がクチビハール王国側の領土の一部を占拠し、ムガール帝国に帰順した。こうして生まれた複雑な境界線が、今日のクチビハールの国境線の起源である[1]。
インドがイギリスによって征服されイギリス領インド帝国となった時、これら一帯はイギリス直轄領の東ベンガル州であるかクチビハール藩王国領であるかという違いしかなかったため、往来することに特に差し支えはなかった。しかし、1947年にイギリスからインドとパキスタンが独立した際、 ヒンドゥー教徒の多いクチビハール藩王国領はインドに、イスラム教徒の多かった東ベンガル州は東パキスタンとしてパキスタンの一部に属することとなったため、かつての境界線が国境線に引き継がれ、多数の飛び地が生み出されることとなった[1]。
その後、言語や民族も異なり、政治の中枢も西パキスタン側に握られていた東パキスタンは、インドの支援を得て1971年にバングラデシュ独立戦争を起こし、バングラデシュとして独立を果たした。クチビハール一帯の東パキスタン領も、飛び地のままバングラデシュ領として今日に至っている[1]。
1950年代以降、インドとパキスタン政府(バングラデシュ独立後はバングラデシュ政府)は、このあまりに不便な飛び地の状況を改善しようと、交渉を続けた。 1950年に飛び地への役人や警察官の立ち入り、生活必需品の輸送についての規定が定められたが、両国政府の緊張の激化に伴い、 1~2年でこの規定は実行出来ない状態となった。その後、1957年にインドとパキスタンの間で、飛び地付近での週2日の国境貿易が認められるようになったが、そもそも飛び地の中に相手国の領事館などがなくビザもパスポートも取得できなかったため、飛び地から合法的に越境することができず、住民は国境警備隊に射殺されるなどの危険を冒して違法越境せざるを得ない状態におかれた[1]。
1958年にはインドとパキスタン政府の間で領土交換が合意されたが、飛び地の住民の反対と、インド最高裁が領土交換には憲法改正が必要との判断を下したため、実行されなかった。1974年にもインドとバングラデシュ政府の間で再び領土交換が合意されたが、インド側の面積が29平方kmあまり減る内容であったため、インド国会で野党に反対され、これも実行されなかった。1980年には、違法越境を減らすために飛び地がフェンスで囲まれたため貿易量が減り、飛び地の住人はさらなる貧困に晒された[1]。
1996年に、1974年と1982年に合意された協定に基づいてバングラデシュ領の最大の飛び地に本土との回廊(ティン・ビガ回廊(英語版))が設けられたが、回廊設置に反対する住人同士の衝突により犠牲者が出たほか、回廊そのものも8時間置きにインド人とバングラデシュ人の往来を切り替える方式であったため、あまり便利なものとは言えなかった。また、住人によっては回廊の設置によって近所のインド領に行く許可が降りなくなり、回廊を通って遠くのバングラデシュ領に行かなければならなくなるなど、却って不便が増すケースすら発生した[1]。
2011年9月、両国政府は領土の整理交換と、飛び地に設けられている回廊の通行許可時間の延長、及び交換される飛び地の住人が国籍を選択できるようにする協定に合意した[2]。
国境よりインド側の地域にバングラデシュの飛び地が点在し、バングラデシュ側の地域にもインドの飛び地がある。ややこしい地域である為、地図にもほとんど載らない。
バングラデシュは、現在は独立国であるが、イギリスからの独立当初はパキスタンの飛び地であった。1947年にインドがイギリスから独立した際、イスラム教徒が多い地区として、パキスタンが東パキスタン(現在のバングラデシュ)もいっしょに独立をした。その際、クチビハール一帯に多数の飛び地ができた。その後、東パキスタンと西パキスタンは、民族、言語が違うためにやりきれなくなり、東パキスタンがインドの支援を得て独立戦争を起こし、1971年にパキスタンからバングラデシュとして独立をする。飛び地はバングラデシュに引き継がれ、現在、インドとバングラデシュの間に200ヶ所以上もの飛び地が点在する。
17世紀頃、この辺りを支配していたクチビハール王国と攻め込んできたムガール帝国との取り合いがきっかけで、領主や兵士達がそれぞれ土地を占領し自分の国の主に忠誠を誓う内に、とてもややこしい事になった。この土地には「飛び地の中の飛び地の中の飛び地」という複雑な場所もある上、面積わずか50平方メートルという世界最小の飛び地もある。
飛び地の住民はとても不便で苦労をしている。国外へ出る許可が欲しくても、申請を行う役所が飛び地の中にないし、飛び地なので、電気や水道を引くなど行政サービスが受けられないでいる。いくつかの飛び地と本土をつなぐ通路も造られているが、問題は山積み。インドのクチビハール州との国境地帯で、インド領内にバングラデシュの飛び地が95ヶ所、バングラデシュ領内にインドの飛び地が129ヶ所。そのうち24ヶ所は飛び地の中の飛び地というものがある。政府も飛び地の中までの人数は把握不可能。
1958年に、飛び地を解消しようと両国が検討し、土地の交換を合意した。こうすることで、インド領の中のバングラデシュの飛び地の住民はインド人に、バングラデシュ領内のインドの飛び地のインド人がバングラデシュ人になるというものだが、イスラム人などが飛び地の中で生活しているため、猛反発が出た。そのため、現在においても飛び地のままだという。
飛び地の歴史1947年8月 - イギリス領インドがインドとイスラム派のパキスタンに分離独立。クーチ・ビハールの一帯は両国の入り乱れた飛地が多数出来る。 1971年12月 - バングラデシュがパキスタンから独立し、境界線錯綜地帯はインドとバングラデシュの飛び地になる。
うほ・・・いい飛び地♪
2015年8月1日にインド領側がインドに、バングラデシュ領側がバングラデシュに編入されたあ!
これにより飛び地はなくなった。