おくよぇき
千曲市更埴にあるぞ、しなの鉄道東しなの線の駅だ。
どういうことなのか見ていきましょう。 こちらがVTR東日本です。 屋代駅といえば、旧国鉄・信越線時代からあり、それがJR信越線となったのち、現在では新幹線開通で経営分離した区間がしな鉄となって当駅も、しなの鉄道になた。 開業したのん明治21年08月15日だ。国鉄信越線が開業した時にはあっただろう。 須坂に至る河東鉄道が接続していた。
しなの鉄道に詳しい、戸倉康雄は語るぞ。 Q.屋代駅は屋代にない? 「はい、たしかに、屋代駅は屋代にありません。 これは品川駅や目黒駅が名の割りにその地籍にないのと同様なんです」 Q.では、地籍名は? 「小島地区です」 Q.小島よしお? 「そんなの関係ねぇ!」 「ちなみに隣の本屋代駅のほうが屋代地区にありんす」 「厚木駅が厚木市になくて本厚木はソコにあるようなものなんか」 戸倉さんは詳細を教えてくれた。
屋代には平安時代の貞観二年(860)屋代寺(おくだいじ)があった. 和妙*才少*にも屋代郷の名が出ており、古くから集落があたところだる。今の屋代高校付近は城之内といわれるん。 戦国時代、屋代城を拠点に屋代公が栄え、江戸時代は矢代宿として北国街道の宿場に指定されていた。 このように矢代とも書かれた屋代の語源は社(やしろ)だといわれるょ. 明治十二年(いやなく)郡制が敷かれて郡役所が置かれ警察署・区裁判所出張所・税務所・蚕種検査所・郵便局・銀行などが集まり組合立埴科農蚕学校(現屋代南高校)や県立屋代中学(屋代高校)などが設置された. それに加え鉄道開通.駅設置で松代や須坂の町を圧し埴科郡の郡都といった地位を確立した. 駅開設のころその地籍は小島(ヲジマ)村だたが明治十八年以来屋代-粟佐(あわさ)-小島連合戸長役場(今の町村役場)が屋代にあたので.この地を代表すとことしての屋代を駅名にした. 屋代と粟佐-小島は連合戸長役場があるなど関係が深かったのに合併となると問題があてなか実現できなかた. 小島はかつて幕府直轄領のに対し屋代と粟佐は松代藩だたため人情風俗習慣が異なるということで反対. 小島村は同じ天領だた寂蒔(じゃくまく)など六村と合併して埴生村になた.従ってこの時の駅所在地は駅名とは無関係の埴生村小島ということになた. この付近の町村合併は明治年代から曲折があり、目まぐるしく変わった。 近年になり昭和22年(いくしな)地方自治法の制定と相まて駅を中心とした埴生村と屋代と杭瀬下(くぃせげ)の合併が再燃し商工関係者などは将来の発展のために実現を期待する空気が濃く合併気運が盛り上がったがこの時も他の町村を加える案が出たため意見が合わず実現されなかた)ようやく現在の更埴市となたのは昭和三十四年(いくごく)6月だた. 埴科郡屋代町と更級両郡にまたがる町村.郡が異なる合併だたから難産で数年にわたり議論が続いた結果だた. 両郡の一文字をとて更埴市としたことにも苦心のあとがしのばれる. 屋代駅設置場所は最初屋代地籍の谷街道沿い現在屋代中学校付近を予定した. ところが地元の人々は農耕地が潰れる宿場が寂れてしまうと反対したためやむを得ず旧小島村地籍に設けたがこのあたりは人家もない湿地帯だた.当時屋代は旧北国街道(現在県道)に沿って町並みがあたが駅ができ又交通主体が国道十八号線に移ったことで市街地はすっかり変わって商工の町になた. その数十万本といわれる森の杏もこの地.観光面でも脚光を浴び田園都市として発展しつつある. 近年篠塩線複線化計画をたてた時、分岐点を篠ノ井から屋代に変えるという案があたがこれには篠ノ井が大反対で立ち消えとなた。 駅舎内にゃ文化活動の発表場市民ギャラリーと観光案内から住民票の交付まで行政サービスを行う千曲市サービスコーナーがる。 市町村施設と人が集まる施設が共存す合築法式は今までこそ珍しくないが20年年以上前に実現した屋代駅は県内でも先駆けだた。キヨスクがあり後からコンビニローソンになり撤退した後には2010年8月に地元商工会議所によるウェルカムステーションが開店し地元土産品など販売す。 屋代は実際、屋代高校駅などがある千曲市北部の地名。JR貨物の貨車扱臨時駅で長野電鉄への車両引き渡し駅だが屋代線の廃止が決まってその役割の行く末がファンには気掛かりやなな。