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+【かなわないなあ…】 比呂美のバイト その4
 
+
+「眞ちゃん、あなたは駄目よ」
+ 仲上の母はとっておきの笑顔で言った。
+
+ それなりに年齢は出ているものの、元々美しい母である。その笑顔の迫力は
+尋常ではない。
+「なんでだよ!」
+ 気圧された眞一郎は、反発してみせるのがせいぜいだった。
+「成績悪すぎるもの。バイトなんかしたらどうなるか」
+ 声からも表情からも怒りや不快感は全く感じられない。不機嫌さのかけらも
+ない。
+ それであるがゆえに、なおさらその言葉は重かった。
+ 事実、眞一郎の成績は悪いのだ。
+ 比呂美の顔がほんのわずかに陰るのを感じ、眞一郎は焦った。
+「あなたがこの先どんな進路を選ぶにしてもね。今の成績では学びたい事も学
+べないし、行きたい所にも行けないわ。もし好きな女の子が出来たとしても、
+責任を示す事もできないでしょう」
+ 母はそこまで言うと、すました顔でお茶を飲んだ。
+「う…」
+ クリティカルヒット。痛恨の一撃。眞一郎は首をはねられた。色々なゲーム
+の一節が眞一郎の脳裏をよぎる。
+ まずい。大いにまずい。これでは反論も何もできたものではない。
+ 比呂美が外で働き、苦労しようとする時に、手助けしないわけにはいかない
+のに。助けると誓ったのに
+「ちゃんと勉強するから…」
+ 絞り出した眞一郎の言葉は、母に横目で一瞥されただけ。華麗に無視された。
+「比呂美ちゃん」
+ 母は眞一郎を無視し、比呂美に視線を向けた。
+「…はい」
+「社会勉強にもなるし、働くのは良いと思うの。でも、眞ちゃんの成績が心配
+で。このままじゃどうしようもないわ。いつも、やるやる言って全然勉強やら
+ないし…」
+「はい…」
+ 比呂美もそれは承知していた。根本的に頭の悪い男ではないのだが、勉強に
+関心がないのだ。
+ それでもさすがに残念な思いは隠せず、うなだれてしまう。
+「だから悪いけれど、眞ちゃんの勉強を見てやってくれないかしら。それなら
+許すわよ」
+「え…」
+ 比呂美の顔が跳ね上がる。
+「かあさん?」
+ 眞一郎も驚き、隣の父の顔を見る。
+「そういう事だ。二人でしっかり勉強するなら、認めよう」
+ 父はおだやかに笑っている。
+「みっちりしごいてやってね。年度末のテストではまともな成績が取れるよう
+に。叩いても缶詰にしても、遠慮なんかしなくていいから」
+ 再び、母が笑みを浮かべた。
+
+「ありがとうございます、おじさん、おばさん」
+ 比呂美が万感の思いを込めて頭を下げる。
+ 自分のワガママでバイトする事を言いにきただけなのに。バイトが認められ
+たどころの話では終わらなかったのだ。
+ 心臓が動悸し、頬に血が昇る。あまりの嬉しさで表情を変えないようにする
+のが大変だった。
+「それから、相手方に弁済を申し出る前に、必ずこちらに報告に来なさい。い
+いかな、二人とも」
+「夕食、まだなんでしょう? 食べてお帰りなさい」
+ 比呂美は、はい、と答えた。嬉しそうな気配が彼女の身体からあふれている。
+ そして眞一郎は(やられた!)と思っていた。
+ ため息をつく眞一郎の背中を、父が二度、叩いた。
+
+
+ 和やかな夕食の後、眞一郎はアパートに帰る比呂美を送って行った。そんな
+に遠い場所ではないのだが、そこは年頃。小一時間は戻らないだろう。
+「不出来な息子だな」
+ ヒロシは苦笑いしながら杯を傾けた。
+「まったく、誰かの若い時にそっくり…」
+ 理恵子が笑って酒を注ぎなおす。
+「俺はあそこまで鈍くはないぞ」
+「そうだったかしら」
+ 誰もいない、二人きりの時。ヒロシはこうして理恵子にやりこめられる事が
+ある。二人きりの時、だけだ。普段は夫を立てる良い妻である。
+ だが、こうして理恵子が妻から女に戻る時、ヒロシはそんな彼女をいつも美
+しいと思った。
+「比呂美は、ちゃんとわかっていたようなんだが…」
+ ヒロシも自然に父から男に戻り、ちょっとボヤいてみせた。
+「鈍いのは、仲上の男の血統かもしれないわね」
+ 理恵子につつかれる。
+「そうかな…」
+「ふふ」
+ 理恵子は自分の杯をあけた。
+ その姿に以前と変わらぬ色気を感じ、ヒロシは嬉しくなった。
+
+ 比呂美が仲上に来て以来、理恵子は精神的に失調気味だった。それを上手く
+解決できずに1年半もの月日が流れてしまった事を、ヒロシは家族皆に申し訳
+なく思っている。
+ 比呂美が家出してからしばらくの理恵子の後悔も酷かった。様子のおかしさ
+にしばらく目が離せなかったほどだ。
+ だが彼女は強い。今では新しい目標を見つけていた。
+ 今となっては誰が悪いと言う話ではなく、ただのボタンのかけ違い、意思疎
+通の失敗がもたらした悲劇にすぎない。今さら悪者を捜しても仕方ない。
+ 色々な意味で大事に至らなかった事は幸運であった。しかし幸運だけに頼っ
+ているわけにはいかない。それを育て、花を咲かせるのは人間の役目だ。
+「あの二人、上手くいってくれるといいんだが…」
+「いきますよ。今は頼りなくても、貴方の息子でしょう」
+ 理恵子の言葉には、信頼と愛情がある。
+「比呂美は…」
+「私が守ります」
+ そう言い切った理恵子は、美しかった。
+ ヒロシは眞一郎を、理恵子は比呂美を。いつのまにか分担が決まっている。
+そしてヒロシは今の理恵子に全幅の信頼を置いていた。
+「眞一郎は、鍛え直さないとな」
+「よしなに」
+ こうしてまた理恵子と二人で美味い酒が飲めるようになった事を、ヒロシは
+何よりも感謝していた。
+
+
+「かなわないなあ…」
+ アパートへの帰り道、二人で海辺を散歩しながら、比呂美は明るく言った。
+ 聡い彼女は、仲上の両親に話された事を正確に理解していたのだ。
+「みっちり勉強か…」
+ 眞一郎は天を仰いでため息をつく。
+ それを見て、比呂美は吹き出した。全然わかっていない。おなかを抱えて笑
+う。
+「なんだよ…」
+ 眞一郎が憮然とする。
+「だって…、あはは。眞一郎くん、わかってないみたいなんだもの」
+「わかってないって、何が?」
+
+「ああ、苦しい…」
+ 比呂美はひとしきり笑ったあとようやく笑いをおさめた。
+「涙流してまで笑うことかよ…」
+「あのね、おばさんね…」
+「ああ」
+「眞一郎くんの成績が上がりさえすれば、どんなに長時間、二人きりで過ごし
+てもかまわない、って言ってくれたの」
+ 比呂美は海のむこうを見ながら、詩うように眞一郎に告げた。
+
+ 眞一郎に"比呂美に対して"責任を取れる男になりなさいと。そう言ってくれ
+た事については、まだ教えない。自分の胸の中にだけ、納めておく。
+ しかし、これはもう黙認どころの話ではないのだ。本当に、しっかり期待に
+応えなければならない。
+「そんな話だったっけ?」
+「そうよ」
+ 月の光の中、輝くような笑顔を眞一郎に向けた比呂美。
+ 眞一郎は見惚れて時間を忘れた。
+(ああ、前にこうして月灯りで比呂美を見た時は…。兄妹疑惑で泣いてたよな…)
+ その後、比呂美の期待から逃げて乃絵に告白したのは、眞一郎にとって苦い
+記憶であった。そして眞一郎は、今度こそ逃げるわけにいかない責任を背負っ
+たのだと、自分なりに理解した。
+
+「私ね…。たぶん、かなり誤解していたんだと思う…」
+ 比呂美がつぶやいた。
+「あのおばさんにいじめられていたこと。あの人が、理由もなくそんなことを
+するわけがないから」
+「そうかなあ…」
+ 今まで、仲上で起きた事。話した事。そして仲上に来る前の事。
+ 時間はかかるかもしれないけれど、怖がらずに再確認してみよう。比呂美は
+そう決意した。過去に向き合う決意だった。
+
+
+-----------------------------------------------------------
+乱文を読んでいただき…
+
+うう、おかしい。
+なぜこんなに長くなるのでしょう。
+比呂美がなかなかバイトを始めてくれません。
+この場面はあっさり済ませるはずだったのですが。
+
+ぐずぐずしているうちに、ママンがツンデレ最強モードに入ってしまいました…。
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