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『闇の中の白』(前編) - (2008/07/21 (月) 02:58:27) の編集履歴(バックアップ)
雪が、嫌いだ。
「あー・・・降って来たな」
「早く帰ろう、積もったら大変だ」
降り始めた雪は冷たい風に舞い散り、せわしなく動き続ける街を白く包み込む。雪を避けて駅へ向かい流れていく人波の間を縫うように、私はバス停に向かう。このバスを逃したら、この雪の中、次のバスはいつ来るかもわからない。
駆け足で向かう私に横から誰かがぶつかり、人々に踏みしだかれて灰色に解けた雪の中に私は倒れた。私を倒した誰かは人ごみの中に消え、私はその場で呆然とうずくまっていた。私の嫌いな眼鏡が、倒れた拍子に私の見えないどこかへ飛んでいってしまったからだ。
這うように人波を逃れ、道端の公園の、踏まれた気配の無い白い雪の上にまたうずくまる。眼鏡は、まだ波の中だろうか。どうだっていい。あの眼鏡をしなくていい、その口実が出来ただけ良かった。
雪の中でうずくまる私に目もくれず、人々はせわしなく通り過ぎていく。
ぼんやりと遠くの人ごみを見つめながら、身体に雪の積もるままにさせておく。瞼にかかる前髪にも雪は張り付いて、毛糸に包まれた手足も凍え始める。降り積もる雪に身体中が冷たくなっていくのに、不思議と震えは来ない。白い息も段々弱弱しくなっていって、私は雪の中に仰向けに倒れる。
まるで、心まで冷たく凍り付いていくようだった。
・・・
このままこうしていれば、私は凍えて死んでしまうのだろうか。
それもいいかもしれない。だって、あの冷たく暗い部屋に、もう帰らなくていいんだから・・・
・・・
・・・ギュッ・・・ギュッ・・・ギュッ・・・
意識とのつながりを失くしかけた耳に、くぐもった、それでも耳障りな音が聞こえてくる。
雪を踏みしめる音だ。
薄く目を開けてみても、私の目ではただ、黒い影が差したようにしか見えなかった。
・・・
街の喧騒に混じって何か、聞き取れないほど小さな低い声が聞こえたような気がした。
しばらくぼんやりと影を見つめていると、身体が浮き上がる感覚がする。
黒い影が冷たい腕で、私を抱きかかえたようだった。
抱き上げられた拍子に、かすかに血の臭いが鼻をつく。
ああ、そうか・・・
目を閉じてされるがままになっていると、黒い影は私を抱えて歩き出し、街の喧騒が徐々に遠ざかっていく。
彼が、死神というものか・・・
全て悟ったとき、冷たい腕の中で私の意識は、寒々しい闇に包まれた。
・・・
暖かなベッドの中で、私の意識は目覚める。見覚えの無い、白い天井。
起き上がると、その拍子に額から湿ったタオルが落ちた。ベッドの傍らに置かれた古い木製のナイトテーブルの上に、これまた随分使い込んだ様子の電気スタンド、その手前に水で満たされた洗面器が置かれている。
毛布をめくってみると、私はそれまで着ていた制服でなく水色の、入院着のようなパジャマを着せられていた。前髪に違和感を感じて触れてみると、プラスチックのヘアバンドで前髪が上げられていた。
ヘアバンドを外し、部屋を見渡してみると、周囲の壁はコンクリートの打ちっぱなし、しかし随分前に立てられたものらしく、ところどころひび割れ、薄汚れている。フローリングの床も、よく掃き清められてはいるものの、長年の清めきれない汚れがところどころ染み付いていた。
ベッドのほかにはその中に燃える炎を宿した石油ストーブ、部屋の片隅に鉄製のデスクが置かれているくらいで、後は家具らしいものは一つも無い。寝そべった私の足の方向にクローゼットらしき扉があるが、あとは何も無かった。
ここが、あの世というものか・・・いや、それは多分違う。私は冷たい床にゆっくり降り、窓辺へ向かう。
窓の外、空はどんよりと曇っている。曇り空から白い雪が舞い降りて、人気の無い街を白く包み込んでいた。
「病人は寝てろ」
低く押し殺したような声に振り返ると、部屋のドアの前にすらりと背の高い、黒い影が佇んでいるように見えた。
どうしていいのかわからず、私はその場で立ち尽くす。
何も出来ずにいると、黒い影がゆっくり歩み寄ってくる。近付くにつれて、その姿がはっきり見えてくる。
黒ずくめの服、青白い肌、無造作に伸ばされた銀色の髪、燃える様に赤い瞳。
「吸血鬼・・・?」
そう口にすると、銀髪の男はフンと鼻を鳴らして、私の腕を掴んだ。
男に手を引かれるまま、私はベッドに座らされる。状況が飲み込めず、黙って佇む男を見上げていると、男はまたフンと鼻を鳴らした。
「俺のはただの色素欠乏だ・・・お前らはそんなことしか言えないのか?」
男の言葉で自分の言ったことの意味に気付いて、頬が熱くなる。今自分が口にしたことは、夢見がちな子供の言葉そのものである以上に、男に対して安っぽい偏見と無神経を押し付けるだけの言葉だった。
私が座ったまま何も言えずうなだれていると、男は呆れたように鼻を鳴らし、背を向けた。
「目を覚ましたなら丁度いい・・・待ってろ」
そう言って男は出て行き、しばらく待っていると、湯気の立つマグカップを二つ持って戻ってくる。
「・・・飲め」
素直に受取ると、男は残りの一つを持って部屋の隅に歩いて行き、デスクから椅子を引き出して腰掛けた。
「・・・月島温子」
名前を呼ばれてびくりとする。男は薄く笑っている。見たことも無いくらい冷たい笑みだと思った。
「月島温志・・・の方がいいのか?」
「どうしてそれを・・・!!?」
知られるはずの無い名前を言い当てられ、私は混乱した。男はまだ嘲るような笑みを浮かべている。
「学生証・・・ラベルで隠すより、きちんと作り直せばいいのにな」
男の手には、私の学生証があった。顔写真には、憮然とした表情の少年の顔が写っている。上から貼られていた筈の新しい顔写真と、変わってしまった名前のラベルは剥がされている。デスクの上には私のパスケース、その横に、男が剥がしたらしいラベルの切れ端が散っていた。
「どうしてこんなこと・・・返してください!」
「お前、あそこで死ぬつもりだったのか?」
男は私の言葉を意に介す様子も無く、そう口にする。
「・・・だったら、なんだって言うんですか」
「お前、馬鹿だな」
カッとして、男を睨みつける。男の顔には、相変わらず笑みが浮かんでいる。
「あんなところで不貞寝していても、凍死なんて出来ない。次に目覚めたとき、酷い風邪を引いてるくらいが関の山だ。それに、あんな人通りの多いところで寝てれば、どこかのお節介な奴に見つかってこんな風に助けられることだってある」
浅はかさを指摘されて、頬が熱くなる。男はなんとも楽しそうな様子でこちらを見つめている。今にも声を上げて笑い出しそうな、そんな様子だった。
「だったら!・・・だったら、どうして私なんか助けたんですか。そんな間抜けな子供のことなんて、放っておけばいいじゃないですか」
「・・・見たかったんだ」
男の赤い目が、はっとするほど冷たい光を帯びて見つめてくる。鋭い光に、心の底まで冷たく凍えさせられてしまいそうだと思った。
「・・・死ぬのを邪魔された奴が、どんな間抜けな顔で悔しがるのかをね」
「あなたは・・・!!」
睨みつける私を嘲るように冷たく笑うと、男は立ち上がる。そのまま彼はこちらに背を向けて出口へ向かい、ドアのノブに手をかける。
「気付いてないようだから言っておくが」
「?」
男は背を向けたまま口を開き、私はその背中を見つめる。
「お前は、俺に誘拐されたんだぞ」
「!!」
はっとして駆け寄るより早く男は部屋を出る。駆け寄った私の目の前で扉は閉まり、鍵のかけられる音が冷たく響いた。
「なんでこんなことをするの!出してください!」
「お前をどうにかしようなんて気は無い。飯も出してやる。安心しろ。死ぬまではな」
扉の向こうから楽しげな声が聞こえてくる。悔しくて、何度もその扉を拳で殴りつけた。
「そうそう、どうしてもそこから出たくなったら、遠慮しないで窓から飛び降りろ。今度はお前の望み通り、確実に死ねるぞ」
けたたましい笑い声とともに、足音は遠ざかってゆく。声がかれて、扉を殴りつける手も疲れて、私はうずくまった。
それから、誘われるように立ち上がり、フラフラと窓辺に向かう。窓の外の街は、雪に白く包まれている。道路には、通り過ぎる車の一台もいなかった。ここは一体、どこなのだろうか。
これから、私はどうなるのだろう。あの男に殺されるのが先か、それとも、この窓から・・・
不思議と、涙は出てこなかった。枯れてしまったんだろうか。
・・・
そうか。
もしかすると私は、もうずっと前に死んでいたのかもしれない。自分が自分で無くなった、あの日に。
不安とは裏腹に、自分の心が冷たく凍り付いていく感覚がした。
私にはもう、守りたいものは無いんだ。
だからもう、何も考えなくていい。
何も考えなくていいんだ。
何も。
はるか下に見える白い街並みを見下ろしながら、私は床に跪いた。
こうして、監禁された私と監視する男との奇妙な生活が始まった。