妖精と並んで歩くというのも稀有な経験だ。たとえそれが現実でなかったとしても。 未だ暗い夜の闇に包まれた街を行くトリニティはそんな想いを抱いていた。 アスナと名乗った青い髪の少女の姿は、アメリカの灰色の景色の中から異様なほど浮き上がっている。 それも当然だろう。絵本から飛び出してきたかのようなファンシーな衣装や装備に加え、今は消しているが可愛らしい羽。 TVゲームの延長上にあるというその妖精は、少なくともトリニティの知る「現実」にはそぐわない。 現実感を伴わないものだ。 (現実感……マトリックスの中でもそれは感じられたのかしらね) マトリックスに繋がれる人間は、基本的に自分が夢を見させられていることに気付かない。 気付きようがない。マトリックスの見せる夢は完璧であり、そこに疑う余地はないのだから。 その完璧さ故、マトリックスから解放されるにはある程度以下の年齢であることが求められる。 生まれて以来長い間繋がれ続けた人間は、仮にマトリックスから解放されたとしても目の前の現実を認めることができず、精神を病むことがある。 ネオの覚醒を急いだ理由でもあり、同時に現実のありようを考えさせられる話でもあった。 マトリックスに対し現実感を抱く人間が居る。彼らを説き伏せることは難しい 仮想であろうとも、彼らにしてみればトリニティの生きる世界こそ非現実なのだ。 人が、何を以てして現実が現実たると認められるかは、答えの出ない問いなのかもしれない。 (怖いのは……私の見る現実が、実は現実でないのではないかという疑念) トリニティはちら、と横を行くアスナを見た。 出会って以来何度か言葉を交わしたが、彼女との常識の乖離をところどころで感じることができた。 先ず彼女の知る「現実」において、機械との戦争は起こっていない。 彼女の21世紀は穏やかな発展を経た平和なものであり、トリニティの知る荒廃と戦争の歴史はどこにもない。 二人の抱える現実は、どうしたって両立できない。同じ現実としてみるには矛盾に溢れている。 アスナはそれを異世界、並行世界といった概念を使って説明しようとした。 確かにそれは否定できないし、最も無難な解であるようにも思えたが、トリニティはまた別の可能性を考えていた。 (もしかしたら、まだ夢から覚めていないのかもしれない) その可能性を、どうしても否定することができなかった。 アスナの知る現実はもしかしたらマトリックスの亜種による仮想かもしれない。 逆に、トリニティの知る現実はVRMMOとやらで疑似的に作られたものかもしれない。 あるいは、二人の現実は共に現実でない「夢」であり、真の「現実」はまた別の形をしているのかもしれない。 ここまで来ると狂人の思考だ。それは分かっている。 分かっていたが、トリニティはその可能性を考えざるを得なかった。 アスナには告げていない。告げたところで何の意味もないことは分かっていたのだから。 「ん?」 不意にそんな声が漏れた。トリニティではなく、アスナのものだ。 トリニティは思考を打ち切りアスナを見た。彼女は何かを感じたのか、不審そうに顔を見上げている。 「どうしたの、アスナ」 「いや、今、あそこの屋上に誰かが居たような気がしたんです」 あそこ、と言って彼女は一つの高層ビルを指差した。 が、そこには誰も居るようには見えない。ビルの角度の関係で隠れてしまったのかもしれない。 「誰か……他の参加者?」 「分かりません。ただ、何だかこっちを見て笑っていたような? 見間違いかな……」 アスナはそう言って腕を組み不思議そうに考える素振りを見せる 「ちょっと見てきます。私ならすぐ行けますから」 しばしの沈黙の末、アスナはそう言って羽を展開し、飛び上がった 確かに彼女の力ならば軽々とあそこまでたどり着けることはできる。他の参加者との接触は早い内にこなしておきたかった。 無論、それが友好的に接してくるとは限らないのだが。 トリニティはそう思い、すっと息を吸い集中力を高めた。 何にせよ今の「現実」はこの殺し合いだ。ここで生き残らないことには何も得ることはできない。 ◇ 彼女はずっと夢をみていた。 ずっとずっと、痛みすら忘れてしまうほど、長いあいだ。 無邪気に、夢のなかに迷い込んだのだ。 ◇ アスナは慎重にその場に降り立った。 とん、という音が屋上に響き、そして淡く消えていく。 周りを見渡すと、ずっと近くなった夜空の下で、冷たいコンクリートの地面が広がっている。 彼女は緊張した面持ちで周りを見渡し、誰かが隠れていないかを確認する。 「…………」 数十秒の沈黙を経ても、何も起こりはしなかった。 からからと吹く風が、摩天楼との擦れあい乾いた音を響かせる。 アスナは「ふぅ」と息を吐き、緊張を解く。どうやら見間違いだったようだ。 少々神経質になっているかもしれない。何しろ久しぶりのデスゲームなのだ。 と、その時、 「ふふふ」 「フフフ」 二つの声が重なり、アスナの周りを反響し始めた。 はっとしたアスナは再び辺りを見渡す。一体どこから――と声を出すよりも早く、彼女たちはやってきた。 「ねぇあたし(アリス)、妖精さんがやってきたわ」 「そうねあたし(ありす)、可愛い可愛い妖精さんがやってきたの」 そんな声を響かせながら、彼女たちは不意に現れた。 僅かな光を伴って、アスナを取り囲むように二人の少女が現れたのだ。 サテンドレスを纏う年端もいかない少女たち。彼女らは瓜二つであり、まるで鏡合わせのような存在だった。 ただドレスの色だけが違う。水色と黒色。奇妙な本を抱えた、色違いの双子。 「これがチェシャ猫さんの言っていた宝物かな、わたし(アリス)」 「そうかもしれないわね、わたし(ありす)」 「だったら捕まえないといけないわね、わたし(アリス)」 「そうねわたし(ありす)、じゃないと妖精さんは逃げちゃうから」 「ふふふ」 「フフフ」 アスナは突然の事態に目を丸くして二人の少女を見ていた。 彼女たちはアスナを挟み、二人だけで仲睦まじく会話を続けている。 中心に居ながら、まるでアスナのことを無視しているかのようだ。 (何……この娘たちは一体――?) 一見して敵意は感じられない。 どこまでも無邪気だ。ここがデスゲームであることを理解していないのだろうか。 「捕まえたら遊ばないといけないわね、わたし(アリス)」 「そうねわたし(ありす)、いっぱいいっぱい遊ばないと」 不意に彼女らがアスナを見た。それまで全く無視していたアスナに対し二人の声が重なり合う。 「ちょっと待っててね、妖精さん。今新しい遊び場を作るから!」 「え……?」 瞬間、再び二人の姿が掻き消えた。 そして、また別の場所に寄りそうように現れる。 二人の少女たちが手を絡ませ、互いの顔を見て微笑んだ。 「ここでは鳥はただの鳥」 「ここでは人はただの人」 踊るように彼女たちは謳う。 くるりと身をひるがえし、再び身体を寄り添わせ、そして―― 「妖精さん、ようこそ! ありすのお茶会へ」 ――世界が塗り替えられていく。 人を心象風景を移し出し、現実を侵食し世界と繋がり自然を変貌させるのだ。 空想具現化(マーブル・ファンタズム)の一種として、世界の法則を捻じ曲げる。 固有結界。 ある世界、ある者たちは、その力をそう呼んだ。 言うまでもなく―――はそんなこと、知る由もない。 ただ、彼女たちの歌が終わった途端、世界が薄いヴェールに包まれたかのような感覚に襲われた。 ―――に分かったのは、世界が何かしら変貌してしまったということだけだった。 「ここではみんな平等なの」 「アナタとかオマエとかスズキとかサトウとか一々つけた名前なんて何の意味もないのよ」 少女たちの言葉が続く中、―――は気付いた。 己の名が、己の存在が何なのか、まるで雲掛かったかのように不明瞭になっていることを。 「みーんな自分の名前を忘れてしまうの」 「だんだん自分が誰だか分からなくなっていくのよ」 「妖精さんも、自分が妖精さんだってことも忘れていくの」 声も出せない―――を尻目に少女たちの声が重なる。 ―――は頭を押さえ、身体をよろめかせた。 事態が全く把握できない。これは一体何なのだ。 浸食される意識の中、微笑みを浮かべる少女たちの姿だけがくっきりと視界に浮かぶ。 「ふふふ、じゃあここで遊びましょ!」 「ふふふ、きっとすっごく楽しいわ」 少女たちは、無邪気な笑みを浮かべている。 ◇ 「何があったの、アスナ!」 トリニティの叫びが街に響き渡る。 何が起こったのか、彼女の距離からは分からなかった。 固有結界の展開に巻き込まれることは免れた彼女は、中で何が起こっているのかは全くつかめなかった。 ただアスナの居る摩天楼を妙なヴェールが包み込み、何か異様な雰囲気を醸し出しているのだ。 「……罠?」 トリニティは似たような光景を見たことがあった。 マトリックスにおいて事象が書き換える様にそれは酷似している。 機械たちがプログラムを書き換えることにより世界の構成を変えてしまうのと、何処か目の前の事態は似ているのだ。 「近づかない方がいいと思うよ」 「っ!」 焦燥に駆られたトリニティに声が掛けられた。 少年とも少女ともつかぬ中性的なそれは、トリニティの記憶には全く覚えのないものだ。 彼女はすぐすまメニューから鉄バットを取り出し、声の主へ振り向きざまに振り払った。 「おおっと、危ないなぁ」 「……猫?」 そこに居たのは、異様な猫、のようなものだった。 トリニティを超す背丈の猫が二つの足で立ち、中世的な格好をしている。 アスナに負けず劣らずファンタジックな姿をしたそれは、突き付けられたバットを面白そうに眺めながら、口を開いた。 「待ってよ。僕は君を襲うつもりはないんだってば」 「答えて。今あのビルの上で一体何が起こっているのか」 「うーん、正直僕もよく分からないんだけどなぁ」 猫はぽりぽりと困ったように頬を掻き、 「僕はどうもあの娘たちに相手にされていなくてね。置いて行かれてから何とか追いついてみた、そんな感じだよ」 「……貴方も事態は把握していない訳ね」 「そうだね。でも、あれが何か危険なものだってのは、君も分かるだろう?」 トリニティは口を閉ざした。 彼女としてもそれは分かる。それ故に足が止まっているのだ。 罠に囚われた仲間を救い出す為に、自分も罠に飛び込むのは無謀な判断だ。 それしかないというのなら一考に値するが、得体の知れなさだけが先行するでは足を止めざるを得なかった。 代わりに猫にバットを突き付けたまま、詰問を続ける。 「あの娘たち、と言ったわね。あそこに居る誰? それは知っているのでしょう」 「え? うーん、まぁそうだね。まぁ僕も襲われた身だからそう多くは知らないんだけど」 「なら教えなさい」 「あ、ミアだよ。よろしく」 どうにもとらえどころのない猫だ、と目の前の存在に若干のやり辛さを感じる。 話を聞くに今のところ敵意はないようだが、どのようなスタンスで居るのか今一つ判断に付かない。 そして何よりその外見だ。アスナのようにこのミアとやらもまたVRMMOとやらのユーザーなのだろうか。 「あの娘たちかぁ。黒と青の服を着た良く似たPCでね」 「何か力を持っているの? プログラムに干渉するような」 「うーんどうだろう。本当によく分からないんだ ――まぁ分かるのは」 ミアはそこで瞳をぎょろりとトリニティへと向けて、 「あの娘たちが、夢の世界に居るってことかな」 ◇ ―――の身体が吹き飛ばされた。再三に渡る衝撃に彼女はうめき声を上げる。 少女の放つ光が嬲るように―――を責め立てる。 それを見た少女たちは愉快そうに笑い声を響かせる。 「うふふ」「ウフフ」そんな声が重なり、エコーして、この空間を支配していた。 (私、は……) 存在そのものを削り立てられながら、―――は何とか意識を保とうとした。 だが、それでも己に起こった異変を把握することはできなかった。 名前は意味をなくなる、と彼女らは言った。―――はその通り己の名前というものを見失っていた。 それどころか、自分には最初から名前などなかったのではないか。自分は何物でもなかったのではないだろうか。そんな感覚さえ覚えていた。 (ううん。駄目。考え、なくちゃ) ―――は焦点の合わない思考の狭間で、これが何らかの魔術スキルの類であると考えた。 無論こんなプレイヤーの精神に働きかけるような効果を持つスキルは―――の埒外であったが、魅了や混乱といったバッドステータスを実際に表すとこうなるのではという推測を立てる。 この場でペインアブゾーバが用をなしていないのは既に確認している。 感覚自体もどこまでクリアかつ鮮烈であり、多大な安全基準を掛けられたアミュスフィアでは絶対に体感しえないようなリアリティを、この世界は誇っているのだ。 それこそかつて囚われていたナーブギアと同等か、いやあのSAOの中でさえこんなスキルはありえなかっただろう。 ここは、それ以上の現実を再現した世界なのだ。 (それとも、マトリックス?) トリニティの言っていた言葉を思い出す。 俄かには信じられない話。仮初の現実を越えたところにある、真の戦乱の現実。 並行世界という概念で説明しようとした、その世界観が、この空間を作り上げるのに一役買っているのだろうか。 「妖精さんと遊ぶの楽しいわ、わたし(アリス)」 「そうね、もっともっと遊びましょ、わたし(ありす)」 「捕まえて」 「羽を千切って」 「首をちょん切って」 「遊びましょ」 ―――の思考を妨げるように少女たちの言葉は続く。 その言葉に相変らず敵意も悪意も感じられない。ただただ無邪気で、そして残酷な子供の遊び声だ。 ただの悪意を持ったPKでないことは―――も感じ取っていた。 だが、彼女たちがこの空間を作り上げていることも事実だ。 抵抗、攻撃の意志を緩める訳には行かない。 再び光弾が来た。 黒い方の少女から光が放たれ、笑い声が反響する。 「はぁっ……」 メニューから死銃の刺剣を取り出し、剣を振るって光弾を捉える。 すると光弾は消え去り、―――の身体を傷つけることはなかった。少女の攻撃をパリィに成功したのだ。 所謂《魔法破壊》の真似事だ。光弾自体の速度はそれほど早いものではないし、ALOにおいてのそれほどシビアな判定を要求されるものではないようだ。 無論今の―――がそんな計算を持っていた訳ではなかったが、それでも抵抗の意志として、半ば無意識のうちに行っていた。 「あはは、凄いね妖精さん」 「楽しいわ、じゃあもっとやってみて」 攻撃を防がれても、少女たちは変らず無邪気な言葉を交わし合う。 そして散発的に転移を繰り返し、黒い少女は光弾を連続して放つ。 ―――はそれを裁いていく。剣を振るい、薄れゆく自我を何とか支えながら少女の姿を探す。 震える視界の中、光を裁いた―――は剣を構え、 「《スター・スプラッシュ》!」 ソードスキルを放った。かつて《閃光》と呼ばれていた頃に―――が最も得意とした上位スキルだ。 基本的に《細剣》カテゴリのスキルだが、斬撃(スラッシュ)の動作が含まれないので今の装備でも使用することができる。 八連撃の斬撃が少女の身体に叩き込まれようと、 「うふふ、残念」 する直前に少女が再び姿を消す。 剣は空を切り、―――はたたらを踏む。そして勢いを殺せずそのまま転倒してしまう。 「鬼さん、こっちよ」 「妖精さんが鬼なんておもしろいわ」 (やっぱり、駄目……) すぐ近くに転移した少女たちの姿を確認し、―――は力なく倒れ込んだ。 この得体のしれない攻撃は、力押しでは絶対に倒せない。それは分かっても、薄まった自我の中で策を練ることはできそうもない。 諦観の思いが―――の脳裏に明滅する。 (……それでも) ―――は立ち上がった。 何故かは自分でも分からない。溶けていく意識を下、―――は既に自分が何故ここにいるかすら分からなくなっている。 だが、それでも戦意だけは衰えなかった。 誰か、名前も知らないけど、誰かに会わないといけない気がしたのだ。 ―――は剣を捨てた。代わりにメニューを開き、また別のものを取り出す。 それは何てことのない杖だ。知らないゲームの物のようだが、この場で装備はできることは確認している。 そして茫洋とした意識の中、スペルワードを唱えていく。ウンディーネはもともと魔術が得意な種族だ。 ―――は左手のひらを胸の前で上向ける。 するとそこに翼のような胸鰭を持つ魚があらわれた。《サーチャー》隠蔽魔術を看破するための存在を放つ。 何でもいい。何か、この結界を破る方法を掴めないかという、必死の抵抗だった。 無論、望みは薄かった。この魔術はALOにおいてのものであり、こんな未知の空間を破る力があるとも思えない。 それでもここは様々な世界観が入り混じった世界。何かしら効果があるかもしれない。そう思ってのことだ。 「わぁお魚。妖精さん、今度は何をしてるの?」 「面白いわ。流石は妖精さんね」 どこまでも楽しむような様子の少女たちを尻目に、《サーチャー》はある一点を示していた。 何か意味があったのだろうか、―――はそこに這うように進み、そしてそれを見つけた。 そこにはメモが落とされていた。 ともすれば塵かと思うような、何てことのないそれに―――は飛びつき、そこにある言葉を読んだ。 『あなたの名前はなあに?』 短い、たったそれだけの問い掛けだった。 それを見た―――は呆然と自問とする。 (私は) 自分の名前。 そんなもの、在っただろうか。 在ったなら、どこに行った。 「私は」 ―――は削られゆく自我の中で、ただ一人立ち続ける。 どこか、どこかにある筈の、自分の名前を探し続ける。 在る筈なのだ。呼んでくれた人が居る。だから、それだけは忘れてはいけない。自分が自分であった証を見失う訳には行かない。 そして、それは在った。開いたままのメニュー。そこに記された意味の分からない文字は―― 「アスナ/明日奈」 そう答えた瞬間、世界が砕け散った。 今まで侵入者を拒むような空気が崩れ去り、そして元ある世界の色彩が返ってきた。 そして、その中にに確かにアスナは居た。 「ああ……【名無しの森】が消えてしまったわ」 「【名無しの森】が消えてしまったわね」 「残念だわ。また新しい遊びを考えないと」 名を取り戻したアスナは髪を振り払い、すっと立ち上がる。 そして、目の前の幼気な少女たちを見た。 その正体は分からない。そして悪意も感じない。だが、彼女らが危険な存在であることは分かった。 (放っておく訳には、いかない) そう思い、杖を仕舞い再び刺剣を構える。 もう既に結界は破った。先の光の威力も大したことはない。ならばもう恐れることはない筈だ。 だが、そんなアスナの戦意をまるで意に介さず、少女たちは再びくるりと回り、笑いあった。 「じゃあ次はどうする、わたし(ありす)」 「どうしましょう、わたし(アリス)」 「また『あの子』を呼ぶのはどう? この妖精さんと遊ぶの楽しいわ」 「さっきはよく分からない内にやられちゃったものね、『あの子』もきっと退屈してるわ」 「うふふ、じゃあ楽しみましょう」 そう言って、青い少女が手を掲げた。 瞬間、規格外の力が満ち溢れた。 「何……!?」 床が鳴動する。視界が歪む。 あまりの出力に一瞬顔をそむけたアスナが、一拍遅れてみたものは―― 「凄いでしょ。この子もわたし(ありす)のお友達なんだ」 「ねぇ妖精さん。この子とも遊んであげて」 赤黒い巨大な体躯、奇怪なる翼、そして圧倒的な威圧感。 ジャバウォック。 その怪物が、再びこの世界に呼び出されたのだ。少女の言葉を聞く為に。 「うふふ」 「ウフフ」 少女たちの夢は終わらない―― ◇ 「夢の世界に居る?」 「うん。何ていうか、そんな感じだったかなぁ、あの娘たちは」 ビルの下で、ミアとトリニティは対峙していた。 トリニティは緊張感と警戒を怠らずバットを構え、ミアは相変らずつかみどころのない様子で頭を捻っている。 「この世界を現実として見てるんじゃなくて、夢だと思ってるみたいな、そんな感じだよ。 自分たちのだけのものだと思ってるみたいなって感じかな」 「夢……」 トリニティはその抽象的な表現にどう反応すればいいのか分からなかった。 夢というのなら、この場はある意味本当に夢なのだ。 マトリックス、またはそれに類似した仮想現実。それはある意味夢と言う表現が似つかわしい。 「……貴方はどう思ってるの?」 アスナとの話以来、そのことに複雑な感情を抱いていたトリニティは、気付けばそんなことを訪ねていた。 この絵本の存在を体現したかのような猫は、一体世界をどう思っているのだろうか。 「僕?」 「そう、貴方はこの世界をどう思ってるの? 夢か、それとも現実か」 「うーん、そうだなぁ」 尋ねられたミアは腕を組み考える素振りを見せた後、 「僕はよく分からないなぁ。夢とか現実とか、その差を深く考えない質みたいだから。 夢を見ている時も、これは現実と変わらないんじゃないかって思ってるし。 だから、そうだなぁ……強いていうなら」 そこでミアは口元を釣り上げ、 「僕はここに居る――そのことがいちばん大事かな。 どんな世界でも、僕がここに居ることだけは確かだ」 「…………」 「そういう意味ではあの娘たちと同じなのかもしれないね。 だから気になって付いていってるんだと思う。同じだからこそ、何も知らない彼女たちに教えたいんだ。 自分たちの世界だけでしか、自分が居ることを信じられない彼女たちに、それ以外の世界を見せてあげようかなって 世界の中で、他の人たちと繋がること。その楽しさを知らないのは、ちょっと勿体ないからね」 ミアの言葉を、トリニティは何も言わずに聞いていた。 その言葉はミアの世界観を端的に示しているようだった。 不意に、何かガラスが割れるような音が響いた。 上だ。アスナが囚われている筈の摩天楼が、再び変容していた。 「おや、空間が戻ったのかな」 ミアが顔を上げながら言う。 確かにそうだ。薄く包んでいたヴェールが剥がれ、元の様相を取り戻していく。上で何があったのかは知らないが、状況が変化したことは確かだ。 一方で、代わりに何か強大な威圧感がそこに座しているのを、トリニティは感じていた。 「僕はここに居る、ね」 ぽつりとトリニティは漏らしていた。 ミアの言葉だ。世界の造りが信用できなくとも、自分の認識だけは見失ってはいけない。 そういう意味だと、彼女は解釈していた。 「そうね。確かにそうかもしれないわ。 世界がどういう作りであれ、私は今目の前に在る現実を生きている。 ――それだけは確かだわ」 その言葉の後、トリニティは跳び上がった。 地面を蹴り、本来の法則ならばあり得ない高さへと跳んでいく。 世界の法則を無視した行い。マトリックス内で戦う上で身に付けた術だった。 「今行くわ、アスナ」 結界が崩れた以上、自分を阻むものはない。 トリニティは目の前の現実を生きる為、戦いの場へと身を投じた。 |Next:[[アスナと聖なる魔剣の現実]]|