エルク/一ノ瀬薫がThe Worldが来たのは、平たく言ってしまえば逃避の為だった。 現実世界でのコミュニケーションに苦しみ孤立していた彼はゲームの中に居場所を求めた。 誰かと出会う為に彼はあの“世界”にやってきたのだ。 しかし、それで上手くいく筈もない。舞台が現実であれ、仮想であれ、そこに実際の人が居ることに変りはないのだ。 現実で上手くいかない人間が、仮想でも上手くいかないのは至極当然のことだった。 結局エルクはこの“世界”でも一人ぼっちのままだった。 失意のまま彼はこの仮想からも逃げ出そうとした。どこにも居場所をない。そう痛感して。 そんな彼の“世界”を一変させた魔法のアイテムがあった。 それこそエノコロ草。猫じゃらしなどと呼ばれる植物だ。 ゲームの中では何の意味もないアイテム。でも何故かエルクはそれが好きでずっと集めていた。 そんな折にミアと出会い、エノコロ草をきっかけに二人は意気投合したのだ。 それはとある孤独な少女から続く因果だった。 彼の知らない縁が引き寄せたその出会いは何気ない偶然であり、彼にとってはまさしく奇跡だった。 初めて人と繋がる喜びを知った彼はミアと共に“世界”を駆けた。エノコロ草を集める為にフィールドを駆ける。それだけの日々が、彼にとっては掛け替えのないものになった。 そんな日々が変調を来したのが、[[カイト]]とその腕輪だった。 腕輪と接触し少しおかしくなっていくミア――君誰? そんなことを問われもした。 不安を抱えつつもエルクは、カイトたちに諭され行動を共にすることになる。浸食汚染。[[絶対包囲]]。そしてその先に見たのは――第六相、誘惑の恋人・マハ。 事態は彼の知らぬ間に推移していたのだ。ミアは八相へと姿を変え、“世界”の理から外れた恐るべき力を振るい、カイトたちと相対した。 エルクはその様を見ていることしかできなかった。全ては蚊帳の外だった。 気付いたときには、ミア/マハは世界から消え去っていた。 何か言葉を掛けようとしていたカイトに対し、エルクは決然と言った。 僕に触るな、と。 そうして彼は再び一人になった。ミアを失い、カイトたちも拒絶した今、彼のもつ“繋がり”はもうここの世界にはない。 その時彼はようやく自分を見つめることが出来た。 そして気づく自分のことしか考えていなかった――それが、孤立の理由だと。 結局自分はミアを真に見てはいなかったのだ。 ただ自分の為、自分の孤独を消し去る為、都合の良いように付き合っていた。ミアを利用していた。それだけだ。 ミアとの関係だって、もっと自分から彼女について踏み込んでいたら、こんな結末にはならなかったかもしれない。 そう気付いたからこそ彼はカイトたちの下へ向かった。コルベニクに立ち向かった。誰に言われるまでもなく自分から最後の場へと赴いていた。 自分のことだけでなく、他者のことを思うこと――その時初めて“繋がり”ができる。その思いが彼を決断させた。 そして全てが終わった後、エルクはミアと再会する。 それもまた奇跡だったのだろうか。“新たな命”が芽吹くとアウラはそう言った。 メールに記されたエリアでエルクは不思議な猫と遭遇する。 その猫に誘われるようにダンジョンを潜ると、その先には――ミアが居た。 彼女もまた“再誕”していたのだ。 とはいえ何もかも元通りではなかった。 ミアは“世界”での出来事を忘れ真っ新になっていた。 異変が起こる前、カイトたちがやってくる前の状態に、彼女は戻っていたのだ。 それでもエルクは笑った。忘れたならもう一度やり直せばいい。もう一度ミアと“世界”で歩き出せばいい。 今度こそ、真なる“繋がり”を得ることができるだろう。 そう、分かっていたから。 @ 憑神<アバター>と化したエルクは踊る様にその身を捩った。 猫を思わせる身体をその身を揺らすたび、はらはらと薔薇の花弁が舞い散る。 美しく、流麗に、そして――苛烈に、エルクは胸からだくだくと溢れ出る激情に身を任せた。 燃え盛る思いが全てを焼き尽くす。この思いの名は自分が誰よりも知っている。 愛。 何人足りとも侵すことのできない、崇高にして最強の想い。 その熱量は他の全ての想いなど彼方へ消し去る。紅蓮の炎のごとく激烈さを以てしてエルクを突き動かすのだ。。 「守るんだ、今度こそ。ミアを――ミアを!」 彼は力強く宣言する。 その声色はかつてのものに戻っている。 ミアと出会い、ミアと笑い、ミアと別れた、エルクとして彼は戦うのだ。 データが捻じれ狂い上下の感覚すら定かではない憑神空間の中で、その意志だけは確かだった。 「何……? これ」 相対するは見覚えのある魔剣を持った青い妖精――アスナだ。 困惑の色を瞳に浮かべ一面に広がるデータの海を見渡す。何が起こっているのか分からない。そんな思いが彼女には表出していた。 無理からぬことだろう。ここは既に完全にシステムの理を超越した空間だ。 「行くよ」 その困惑を余所にエルク/マハは一人舞った。 しなやかな体躯に薔薇の花が渦を巻いて纏わりつく。花びらの嵐の下、彼は敵へ向かい猛然と突進した。その身に追い縋る様にして花弁が彼の周りを舞う。 妖艶なる紅旋風。その様はあたかも誰か愛すべき一を抱きしめんとするかのよう。巨大な体躯が敵へと襲いかかる。 「……っ!?」 突然の攻撃にアスナは息を呑む。状況が呑み込めていないのだろう。 それでも己に迫る危険を感じ取ったのか魔剣・マクスウェルを構えた。その瞳に戦意が宿り、同時に魔剣に黒い斑点が浮かび上がる。 「遅いよ」 しかしそんなもので憑神・マハを退けられるはずもない。 迎撃せんとしていた魔剣ごと花弁で弾き飛ばし、その身に容赦なく突進を喰らわせる。 攻撃の手は緩めない。愛の紅雷。花弁は舞い、そして光を放ちアスナを追い立てる。光が重層的に交錯する。 「何で。スペルなんじゃないの!?」 花と光の嵐の下、苦し紛れにアスナが声を漏らす。 魔剣の「スペル無効」のスキルが発動しないことに苛立っているのだろう。 彼女はまだ分かっていないのだ。目の前の敵が――憑神が正規のシステムを超越した存在だということを。 正規のスキルでイリーガルスキルたる憑神を縛ることなどできる筈もない。 無限の虚空を花びらが舞い光が交錯する。捻じれ狂う半透明な世界で花びらが咲き誇り一瞬の明滅を経て散っていく。 そこは既に法則の外側。幻惑が全てを塗り替える。何と美しくも歪な光景だろうか。 エルクはその身を激情に焦がし、麗しくも残酷な破壊をまき散らした。 アスナ/敵を討つべくその身を花と散らせるのだ。 「……舐めないで」 だが敵とて、アスナとて黙ってやられはしない。 彼女は立ち現れる幻想を拒絶する。幻惑的な光景に全く飲まれている様子はない。これはただの現実だ。そうとでも言うようにキッとエルク/マハを睨み付けた。 構わずエルクは攻撃する。妖艶なる紅旋風。再び突進を決める――よりも早く目前のアスナは魔剣を掲げた。 重圧が来た。 「え……?」 「『減速』の方は効くみたいね」 突然の失速にエルクは疑問の声を漏らした。 身体が何かに重く伸し掛かられているように重い。エルクはあり得ない感覚に疑問に思う。どこから、そもそも重力などない筈の空間だと言うのに。 「うっ!」 疑問の氷解より早く衝撃が来た。 エルク/マハの身体を殴りつけるような一撃が放たれたのだ。 身を揺らしつつも、エルクは敵を見る。そこには冷徹に彼を見下ろすアスナの姿があった。その手にはAIDAに蝕まれ黒い斑点を零す魔剣がある。 容赦はしないわ。その口が動く。途端嵐のように衝撃波が来た。 降り注ぐ波を躱しつつエルクは歯噛みする。そうだあの魔剣――アリーナで太白が使っていたものだ。 「スペル無効」が魔剣の正規のスキルであるとするならば、「減速」や「無敵」はAIDAによるスキルだった。 憑神がイリーガルな力であると同様に、あれもまたイリーガルな力だ。AIDA反応。アレによるスキルは憑神ですら届き得るか。 黒く蠢くAIDAの姿を見てエルクはその身に敵意を募らせる。またアレが邪魔をしに来た。かつて自分を惑わしたアレが、また。 許さない。 「一度ならず二度も」 花弁を展開し、衝撃波を一つ一つ受け止めていく。 それで全てが裁ききれる訳ではないが、エルクとて“世界”では一角のプレイヤーだった。 かつての自分にはなかったテクニックだってある。俊敏かつ正確な動きで魔剣の攻撃を弾いていく。 「僕とミアの関係を冒涜するんだ――お前は!」 むせび泣くようにエルクは言い、そしてその思いを歌に乗せて世界を響かせた。 誘惑の甘き歓声。全ての者はその歌声に行動を縛られる。魔剣の重圧とは似ても似つかない甘い束縛。 歌声に誘われるように動きを止めたアスナにエルク/マハは猛然と襲いかかる。 舞い散る花弁を突きぬけて憑神の巨体がアスナに肉薄する。 絡み合う視線。すれ違う敵意。マハの接近に合せ、アスナが魔剣を掲げた。 赤の光が走り、空間を重圧が包み込む。 寸前、エルクは身を翻していた。 「君が赤い光を纏っている間は近づいても駄目なんだ。 『無敵』と『減速』の最中に突っ込んでも君は逃げちゃうでしょ?」 エルク/マハは嘲笑うように言った。アスナに迫る直前、さっと身を翻し魔剣のスキルの効果範囲から逃げ延びたのだ。 タイミングは完璧――彼女はまんまと誘いに引っかかりスキルを発動させた。 「そしてあの状態は何時までも続く訳じゃない。途切れる瞬間がある。その時に【反撃】を決めてやればいい。 僕はその剣を知っているからね――どうすれば君を倒せるかくらい分かるよ」 アスナが息を呑むのが分かった。エルクは叫びを上げ『無敵』の切れた彼女へと花弁を差し向けた。 愛の紅雷。誘惑の甘き歓声。妖艶なる紅旋風。容赦なく連撃を決めていく。 アスナが苦悶の声を上げるのが分かった。身を仰け反らせ為すがままにダメージを受けていく。 頃間だ。そう判断したエルクは禁断の力を解放する。 ――データドレイン。かつて八相と化したミアが使った力。腕輪を持つカイトがミアを討った力。 「その魔剣も、AIDAも、みんな全部なくすんだ。ミアを――守る為にも」 さようなら、別れを告げてエルクは己のカタチを変えていく。 蕾のような半身が緩まり、一瞬のうちにそれは大輪の薔薇へと変貌した。その中心部へとエネルギーが収束する。 アスナ/敵のデータを吸い尽くさんと彼は昂ぶる興奮を嬌声に乗せた。 「――ってよ」 思えば自分も随分と遠いところまで来てしまった。 喪った繋がりを求めて、守れなかった過去に追われて、力を求めた。 その結果がこの力。“彼女”の力。 全ては守れなかった過去を守る為に。 「――ってば……!」 力がなかったから喪った。一度ならず二度も。 だから変った世界で一人力を求め続けた。アリーナに固執し、彼女のような何かの居る場所で好き勝手やっていた。 力があるから、彼女は居なくならないと信じて。 でもそれを否定してくれたのは他ならぬ彼で―― 「エルク! 待ってってば、その人は別に悪くないんだ」 「え?」 その時、エルク/エンデュランス/マハはようやく呼びかけに耳を傾けた。 彼女は、荒れ狂うデータの嵐を泳ぐようにしてやってきた。そしてやれやれと首を振りながらアスナを庇うように立ち、 「全くさ、ちょっとは人のことも考えて欲しいなぁエルク――自分のことだけじゃなくてさ」 そう言って悪戯っぽく片目を閉じた。 ミアだった。 かつて居なくなった筈の、彼の親友。 @ ミアは初めどうしたものかと考えあぐねていた。 何が何だか分からなかったのだ。 アスナと険悪なムードになったところを、再会したエルクが激昂し――何かに変化した。 あれは巨大な猫のようなモンスターでいいのだろうか。とにかくエルクのPCは変貌を遂げており、そして自分を余所に彼はアスナと戦い始めた。 常軌を逸した空間で行われる戦いの様は凄烈だった。普段の冒険でやるような戦いとはまるで違う。 言うまでもなくあんなスキルは“The World”には存在しない。 「とにかくさ、落ち着いてよ。エルク」 「……ミア、君はどうしてそこに」 「どうしてってそりゃ君を止める為だよ」 そう言うと巨大な猫はしゅんと項垂れた。集束していた光は既に消え去っている。 元の姿などまるで残っていないが、それでもエルクに違いないことがその様から感じ取れた。 そこにエルクが居る。それさえ分かっていれば姿など些細な問題だ。 故にミアはエルクへと歩み寄る。 巨大な体躯の前に不安気に瞳を揺らすエルクの姿を彼女は幻視した。 「でもミアを守らないと……また、ミアが居なくなっちゃう」 「居なくなる……? 僕が? うん、まぁそういうこともあるかもね」 「なら――」 不安げに自分を見つめるエルクが今にも泣きそうになっていることが、ミアには分かった。 ミアはそこで口元を釣り上げた。何時ものように、何時かのように。 「だからこそさ、僕を一人にしないでくれよ、エルク」 「え……?」 「さっきのPCのこととか、その姿のこととか、それと『マハ』のこととかさ――色々僕に言ってないだろ? 全部一人で喋っててさ。それじゃ分からないよ、ちゃんと他の人のことも考えないとね」 ミアの言葉にエルクが息を呑むのが分かった。 今ここに居るのは確かにエルクだ。でも、自分の知るエルクとは少し違う気がする。 何かまでは分からない。でも、自分の知らない何かを抱えている。それを言ってくれないのは親友として少し不満だ。 「エルク、僕はさ“The World”にログインして以来君に色々教えて貰ってきた。 そのお陰で今の僕は居る。僕の繋がりはある。カイトやブラックローズ、ミストラル……あと司とも知り合えたしね。 どの繋がりも大切だけど、でもやっぱり僕の親友は君なんだ。君とだけはちゃんと繋がっていたい」 「ミア……」 「さっき君の言っていた“マハ”って言葉……僕に関係するものなんだろ? 司が僕のことをそう呼んでたし、あとあのカイトに似た誰かもそう呼んでたな」 “マハ”。 ミアはそんな言葉を知らない。知らない筈なのに、しかし何か懐かしいものを感じる。 遠い遠いどこか、ぼやけた記憶の中で、自分はかつて誰かにそう呼ばれていた。 少女の眠る部屋でその誰かは自分にエノコロ草をくれた。自分の唯一の友だった。 そんな夢のようにあやふやで要領の得ない、でもとても大切で掛け替えのない記憶が、そう呼ばれる度に脳裏に過るのだ。 「それは……」 「今じゃなくてもいいよ。でも、ちゃんと何時か説明して欲しいな。 僕は君を信じてる。だから何も聞かないけどさ……君やカイト、それと司について僕は何か忘れてる気がしてるんだ。 それを知った時、本当に君と繋がれる気がする」 「ミア――」 エルクは言葉を失った後、ゆっくりとその腕をミアへと伸ばした。 巨大な腕が迫ってくる。しかし恐怖はない。代わりに自分で自分を見つめるような奇妙な恥ずかしさを覚えた。 ああこれが“マハ”か。 知らない筈の言葉なのに、その手の平と触れ合った時ミアは自然と確信を持ってそう思えた。 「ミア……ごめん。僕、自分のことしか考えてなかったみたい。 僕が最も軽蔑していた筈の……昔の僕みたいな人間。 そんな人間に戻ってしまっていたみたいだ」 「はは、エルク。また大袈裟だなぁ。別にそこまで思いつめることはないさ」 「ううん。僕は……愛とか口にして、結局自分のことしか見えては居なかった。 君も……ハセヲも……結局見てはいなかった」 「エルク?」 徐々に彼の声音が変っていくことに気が付き、ミアは疑問の声を上げた。 少女のようなソプラノから、美しくもどこか陰のある青年の声へ。彼の言葉が変って行く。 「ごめん、ミア。本当のことを言うと、僕はもうエルクじゃないんだ。 黙っててごめん。確かに今の僕は君とは繋がってなかった。 言うよ、全部。僕が……かつてエルクだった僕がどうなったのか、どうしたのか、それにハセヲのこと……全部君に晒し出す。 そしたらまた……」 僕と繋がってくれるかい? エルクでないという彼はそう尋ねてきた。 不安げに、苦しげな、切なさを滲ませた声音で。 ミアは思わず吹き出してしまった。そして悪戯っぽく笑みを浮かべ、彼の元へと歩み寄る。 データとデータが相克し捻じれ狂う海――何もかもがあやふやな憑神空間の中で、こうして向き合う関係だけがリアルだった。 仮想の“世界”だ。でも、ここには現実が存在する。 それは別に凄い訳でもないし喜ぶようなことでもない、きっととても当たり前のことなんだろう。 「当たり前だろ? エルクじゃなくても君が僕の親友なのは変わりないさ。 だから――」 その後、ミアは何と続けようとしたのか。もしかしたら彼女自身分かってなかったのかもしれない。 しかしどんな言葉であれ、結局それがエルクでない彼に届くことはなかった。 何故なら、 「あ……」 幾多に連なった黒い閃光が刃となって彼女を背後から貫いていたから。 彼女はそれが何なのか知らない。知らないが、貫かれたそれが決して相容れないものであることを確信する。 激しい痛みの中、ミアは己の背後を振り返った。 その先に居たのは―― |Next|[[世界の終わりと君と僕]]|