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Roots:/殺戮のマトリックスエッジ - (2014/01/29 (水) 10:38:11) のソース

……その感覚は、とても奇妙なことだろうとも思うのだけど、眠りに似ていた。

致死量を超える痛みは、逆に意識そのものを鈍らせ、麻酔に似た効果を与えていた。
押し寄せる激痛の波の最中にあっても、苛烈に責め立てる外と裏腹に朝田詩乃の胸中は静かだった。
火に炙られるような錯覚を抱えつつも、静かに、歩を進めている。

足取りはふらふらとしている。しかし迷いがある訳でもない。
一歩一歩確実に進んではいる。確かな意思はあるのだが、その向かうべき先がひどく不明瞭なのだ。
その瞳は茫洋と濁っている。
自分が何を思い、何を目指しているのか、良く見えていない。

時節波打つように痛みが鋭敏に伝えられる。
その度に薄ぼんやりとしていた彼女は覚醒し「うう……」とうめき声が上がる。痛みにより雲ががった意識は、痛みにより繋ぎ止められる。
それをどこか遠いところで見ている自分も居て、その自分はひどく冷静そうなのだけど、やはり自分の立ち位置を分かっていない。

「ぁ……」
口からは声とも吐息ともつかない、湿った空気が流れ出ている。
その感覚が唯一自分を物質的に捉えられる、意識と身体の架け橋となり得るものだった。
痛みによるものか、彼女は今身体を身体と思うことができていなかった。

意識と身体が分断させられている。
もしかしたらこれは脳に備わっている防御機構なのかもしれなかった。
痛みを追い過ぎた身体を意識から切り離すことで自我を守る。
そんな、その場しのぎの対応策。

あるいはこれが本当の、現実の身体だったら既に自分は意識を失っていたかもしれない。
「これ」が仮想の身体だから、痛みからもワンクッション置いた反応を示すことができるのだろう。

この現実はあくまで仮想。
[[シノン]]というアバターを通して、詩乃という意識は在る。
結びつき重なり合う仮想と現実、それがあるのは同じ「ここ」。
でも、その間にはほんの少しだけ、無視してもいいようなずれがある。

だから自分は歩いている……
でも、どこへ?

「大丈夫?」
ふと、穏やかな響きが詩乃の聴覚を揺らした。
彼女は陶然と響きに身を任せる。惹かれるように振り向いた。

そして彼女は混濁する視界の末に、一つの人影を視えた。
それは漆黒だった。
揺れる黒。黒が形作る様相は、そう、彼女が目指していた答えだった。


「……アトリ」 




@





青髪の少女は、自分を見るなり寄り縋るようにその身を預けてきた。
突然のことに戸惑いつつも志乃はその身を柔らかく抱きしめた。そして囁く、大丈夫、と。

「この人……凄い汗だ」
隣りに立つ[[カイト]]が息を呑む。その顔には心配と焦燥を滲んでいる。
一先ず志乃は少女を近くの石畳の上に寝かせた。何かに突き動かされるように歩き出そうとする少女を抑え、安心させるべく声をかける。
する少女は志乃の顔を見上げ、呻くようにある名前を呼んだ。

「志乃、とにかく回復してあげよう」
「うん、分かってる。待ってて……今、助けるから」
志乃は杖を握りしめスペル発動のコマンドを選ぶ。
その身体を青白い燐光が包み込む。一定時間詠唱エフェクトを続き、途中、回復先を指定を促すアイコンが表示される。
志乃は手慣れた手付きでそれを少女へと指定した後、回復スペルを発動させる。

すると杖から放たれた光が一直線に少女へと向かい、優しげに炸裂する。
そんなファンタジックで、如何にもゲーム的な治療の描写が挟まれた後、少女は顔が僅かに緩んだ。
それを見届けた志乃は間髪入れず詠唱態勢に入る。
ファリプス、リプシュピ、リプムミン……何度も何度も、SPが続く限り志乃はそれを繰り返す。

「この娘のパラメーターが見えないから何とも言えないけど、ここまでかければ危険域は脱した、と思う」
その最中にも志乃が呟いた。その身体は光に包まれおり、詠唱エフェクトは続いていることを示していた。
あくまで詠唱している描写が挟まれるだけで、実際に呪文を呟いている訳ではないのだ。少なくともこのアバターが動いていた、The Worldのシステムでは。

「志乃、大丈夫?」
「……うん、私は大丈夫。でも、ちょっと疲れた、かな?」
カイトの気遣いに対し、志乃は微笑んだ。その額には僅かに汗が滲んでいる。
どうやらこの空間において、ダメージ――HP消費が痛みと繋がっているのと同じように、SP消費はプレイヤーの疲労と繋がっているらしい。
今までの単なるゲームではあり得なかった、気力を絞り取っていくような虚脱感が志乃を苛んでいた。 

「それよりもカイト君、さっきこの娘が言った名前、覚えてる?」
「えっ、確か、アトリって……」
志乃は真剣な眼差しで少女を見下ろした。そしてあくまで落ち着いた口調で、

「前に話したよね。アトリっていう、ハセヲと一緒にThe Worldで頑張ってくれたプレイヤーのこと。
 私を見て、彼女そう呼んだんだ。
 それはたぶん偶然じゃない。だって私とアトリは同じエディットのPCだから」
「じゃあそのアトリって人も」
「うん……多分このゲームに参加してて、近くに居たんだと思う。
 それでこの娘と行動してて……」
少女は未だ苦しげな表情を浮かべる。
危機を脱したとはいえ、先程のダメージは尋常ではない様子だった。
データとして他者のパラメーターを確認するはなくとも、ゲームではありえないリアリティを有するこの空間においては、アバターの様子から状態を推しはかることができる。

「この娘がこんなにダメージを負っていたってことは……」
「アトリの身も危ない。そういうことだね」
事態を察したカイトがそう言って、神妙に頷いた。
助けよう。その決然とした顔はそう告げているように見えた。
志乃もまた頷く。そして石畳続く水の都を見上げた。
自分たちThe Worldのプレイヤーからすれば見慣れ、知り尽くした街だ。その外観はR:2を基調としつつR:1時代の要素をところどころ取り入れている、という感じか。

「じゃあ僕が先に行ってマク・アヌを見て回るから――」
「いや、その必要はないな」
不意に、聞き覚えのない声が挟まれた。

その響きに、酷薄かつ獰猛な攻撃性を感じ取った志乃は緊張の面持ちで振り向いた。
そこに居たのは黒い、フォーマルなスーツに身を包んだ白人男性だった。
白い肌に黒いサングラス。その容姿はマク・アヌのファンタジー風の外観からひどく浮いているようだった。

「やあ、とでも挨拶をしておこうかね。君たちもまた何というかけったいな姿をしているじゃないか。
 ハロウィンのシーズンではなかった筈だがね。私はそういった行事には疎いもので、生憎と何も持ち合わせてはいない」
軽い調子で語られたその言葉には明らかな嘲りと威嚇が見えた。
コツコツ、と音を響かせ男は近づいてくる。それに相対すべくカイトがすっと前へと進み出た。

「志乃」
不揃いの双剣を構えつつ、カイトが背中越しに言った。

「その娘を連れて逃げて」
「カイト君」
「どうやらあの人はPKみたいだ。何とか止めなきゃならない。
 ――大丈夫。PKはしないし、させない」
落ち着いた、しかし強い意志を感じさせるその言葉に、志乃は迷った末頷いた。
そして青髪の少女を抱えカイトから離れる。
重傷を負っている少女は勿論、SPが枯渇した自分も戦うことはできない。
ならば寧ろ居ない方がカイトの負担を減らせるに違いない。
そう思ってのことだった。

去り際に、カイトと黒服の会話が聞こえてくる。

「ほう、あの娘生きていたのか。これはこれはありがたい。
 ――再度報復の機会を得た、という訳だからな」
「そんなことはさせない。PKなんてしちゃいけないんだ」 




@




「楽しいねえ、ハセヲちゃん」
「しつこいんだよ、テメエは!」
奇声と共に放たれる剣をハセヲは双剣で受け止める。
腕にびりびりと痺れるような感覚が走った。一瞬の隙に畳み掛けるようにボルドーは続けて剣を放ってくる。

斬、突、刺、薙。全く統制されていない、乱雑かつ力任せな剣戟がハセヲを襲った。設定された硬直やコンボ制限など全く意に介さない変則的な動きであった。
それをハセヲは冷静に受け止めていく。二対の双剣を巧みに使い剣をいなす。
ボルドーの攻撃モーションは、既にThe World本来の仕様のものとはかけ離れたものだった。
AIDAに感染したPCはシステム外の存在。通常の対人戦と同じ枠で考えてはいけない。
G.U.に所属して以来ずっと続く、仮想を舞台にしながらもその理に反した戦いだった。

「おらぁも@l;m:」
昂揚を声に乗せ、ボルドーは濁った叫び声を上げる。
猛攻をハセヲは舌打ちして受け止める。一度撃破した相手だが、あの時はアリーナ戦――集団戦であることや反撃の仕様など、戦闘システムの点において相違がある。

また単純なステータスではハセヲが圧倒していたが、既にボルドーはシステムの範疇にはない。
そして元よりThe World R:2はレベル差よりもプレイヤースキルが求められるゲームだ。
故に一度撃破しているとはいえ、今のボルドーが全く油断のならない相手であることは確かだ。

「今日の私には『運命』が付いているんだ。
 『運命』がある。だから、私は負けない。負けないんだよ!」
「その言葉、もう聞き飽きた」
だが、負けるつもりはない。
戦闘が始まって以来、猛攻をただ受け止めていたハセヲは、ボルドーのコンボが途切れた一瞬の隙を狙い、攻勢に転じた。
一歩前へ出でて双剣を振るう。通常双剣コンボ、敢えてフィニッシュをキャンセルし、ヒット数が途切れないようコンボを繋げる。
斬撃を叩き込まれたボルドーは苦しげに仰け反る。そしてその身が黒く明滅する――レンゲキチャンス。それを見たハセヲはボルドーを空へと吹き飛ばす。
叫びを上げPCが空を舞う。その身が地に落ちるまでの僅かな時間を狙い、スキルトリガーを発動。

その手から双剣が消える。代わりに虚空より巨大な刃を引きずりだす。

「おらっ!」
大鎌を握りしめたハセヲがボルドーへと躍りかかる。
アーツ「天葬蓮華」。光を帯びた大鎌が一閃される。
レンゲキフィニッシュを決められたボルドーは「かはっ」と呻き声を上げごろごろと身を転がす。

コンボを決めたハセヲはそこで鎌を構える。
先程まで握っていた双剣は既に消えている。捨てた訳ではない。メニュー画面を見れば未だ彼が装備していることが分かる。
この連携こそ錬装士(マルチウェポン)の数少ない長所と言えた。戦闘中に装備を変え、他のジョブではありえない連携で相手を翻弄する。
この長所を最大限に生かす術は身体に染みついている。故にハセヲは外れジョブと言われる錬装士でありながらトッププレイヤーであり続けることができたのだ。

「何でだ……私は……『力』を貰った筈なのに……『運命』が」
「力なんて、それだけあっても何も救えねえんだよ。そんなんあっても……何も」
吐き捨てるようにそう言い、ハセヲは僅かに顔を俯かせた。銀髪がゆらりと揺れ目元にかかる 


倒れたボルドーは動かなかった。
数回に渡る双剣攻撃、連撃フィニッシュによるダメージ増加、更に空中仰け反り状態に対し飛行特効アーツ。
一瞬の隙を突き相当なダメージの出るコンボを決めたのだ。
無論これでHP十割削ることができる訳ではないが、この場ではそれに加え現実と遜色ない痛みがある。
HPが残ってさえいれば戦えるという訳ではないのだ。

一先ずの無力化に成功したことを確認し、ハセヲは息を吐いた。
突然の襲撃だったが何とか退けるができた。それもあまり刺激しない形で。
AIDA-PCは意識と繋がった存在だ。下手に刺激すればAIDAが表層に現れ、より危険な存在となり得る。
そうなる前に、短期で決着をつけることができたのは幸いだった。

「……ボルドー、か」
一度戦い、そして未帰還者になっていた筈の彼女がどうしてここに居るのかは分からない。
とはいえ、彼女がここにこうしていることが、ある意味で榊の言葉の裏付けにもなるのだ。
――志乃や揺光が意識を取り戻している。そんな、言葉の。

ハセヲはそのことに複雑な思いを抱きつつも、ボルドーを見据える。
とにかく再び[[スケィス]]によるデータドレインを……

「……っ!」
その時のハセヲは様々な思いを抱えていた。
碑文、スケィス、榊、志乃、揺光、今彼が立つ局面はひどく入り組んでいた。
だからだろう。全て物事を単純化しようとする者、力さえあればいい、そんな思いを持つ者の、脆さと強さを失念していた。
かつてのハセヲと同じく、ボルドーの執念は、

「かかったなあ! ハセヲおおおおおおおおおお」
単なる痛みでは抑えることができない域まで達していた。
突如として身を躍らせたボルドーがハセヲに剣を振るう。大鎌で何とかそれを受け止めるが、しかし一瞬反応が遅れてしまう。
そして炸裂する煙。視界を遮られハセヲはその動きを止める。

「逃煙球か。待て、ボルドー!」
「ハセヲちゃん、また会おうぜえ」
その隙にボルドーが遁走する。
逃げに徹したボルドーは速い。更に逃煙球使用後数秒は攻撃判定が消失する。追いつくことはできないだろう。
離れていく姿を睨みながらも己の失敗を噛みしめる。
最後の最後の詰めを誤った。ボルドーのような危険なPKを止めることが出来なかった。

「……クソッ」
悔しげに吐き捨てる。
とはいえ全く無駄足だった訳ではない。完全に止めることはできなかったとはいえ、相当のダメージを負わせた筈だ。
これでしばらく戦うことはできまい。そう思ったからこそ彼女も退いたのだろう。
ボルドーの見せた執着からして、これで終わりということはない筈だ。
また会うことになるだろう。きっと、近い内に。

「それよりも」
後悔を振り切り、ハセヲはキッと前方に広がる街を見据えた。
悠久の都、マク・アヌ。草原の先に立つあの街に、あの白いスケィスは向かっていった。

その事実が、何故か無性に不安なのだ。
何故かは分からない。しかし、あのスケィスの存在は、決して無視できないもののような気がしていた。

「さっさと行かねえと……!」
ボルドーとの一件で少し時間を喰ってしまった。
もうスケィスは街に着いていることだろう。何を探しているのかは知らないが、早く行かなければ。

ハセヲは何かに突き動かされるように地を蹴った。
時節何か恐ろしいものが記憶の隅に見え隠れする。 





@




青髪の少女を背負った志乃は隠れ得る場所を目指し走っていた。
あの黒服から距離を取り、態勢を立て直した上でカイトの支援に向かう。
その為には先ず安全な場所を探さなくてはならない。
幸いにしてこのマク・アヌは勝手知る場所だ。幾つか候補は思い浮かぶ。
ギルド用の@ホーム、武器屋、あるいはカオスゲートからアリーナを目指すのもありかもしれない。

しかし、そんな思惑を遮るものが、彼女へと迫っていた。

「…………」
マク・アヌの街の中、志乃は不意に何かを感じ取り思わず足を止めた。
橙に光る石畳はどこまでも続いていた。建物のポリゴンが乱立し、道は入り組んでいる。あの角一つ曲がれば、もうそこに何があるのかを予見することはできない。
目を瞑り聴覚に意識を集中させる。目に頼るより、よほどそちらの方が世界を感じ取ることができる。そんな気がした。

そして彼女は聞き取った。
一つの高音を、ピアノの鍵盤をぽんと一つ叩いただけの、純粋な音を。
その音を耳を傾け、それがハ長調ラ音であると志乃は察した。

そして顔を上げる。

見慣れたマク・アヌの背景がある。

その中心からまるで浮き上がるように、世界の理からかけ離れるようにして、それは居た。

「……スケィス」
志乃はぽつりと漏らす。
白い彫像のような無機質な質感のテクスチャが、陽光を受け不気味に照り光る。

彼女の知るそれと、目の前に立つ存在は様々な部分で違いがあった、
スケィス。元より志乃はその存在と実際に相対したことがある訳ではない。
あくまでデータの海を彷徨っていた意識が捉えた記憶の断片。
オーヴァンと寄り添う形で見たその姿と、いま目の前に居るこのスケィスにはいくらか差がある。

しかし、その差を意識すると同時に、あのスケィスと同じであるという確信もまたあった。
ではその差の正体は……

「――ハセヲ、かな?」
このスケィスには、彼が欠けている。
元より深いことは知らない。しかしそれは不思議と分かった。
彼は、ここに居ない。

ハセヲでないスケィスは徐に杖を掲げる。
薄赤く光るその杖はまっすぐと自分へと向けられている。
狙いが自分であることを悟り、志乃はすっと前を見た。

自分のジョブ、呪療士(ハーヴェスト)は回復補助をメインとするジョブだ。
前衛抜きで戦う場合はひどく苦戦を強いられる。
青髪の少女だけでもどうにかして逃がしたいが―― 

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