*■中部経典 第2経 「一切煩悩経」 &bold(){〈 和 訳 〉} ── このように私は聞きました。 ある時、世尊は、サーヴァッティ近くの「ジェータ王子の林」にある、 祇園精舎〈アナータピンディカ僧院〉に住んでおられました。 そこで、世尊は、比丘たちに話しかけられました。 「比丘たちよ」 「尊い方よ」 と、── 比丘たちは、世尊に答えました。 そして世尊は、このように言われたのです。 「比丘たちよ、貴方たちに、あらゆる煩悩を防止する法門を説くことにする。 それをよく聞き、よく考えなさい。それでは話そう。」 「かしこまりました、尊師よ。」 比丘たちは、世尊に答えました。 世尊は、次のように言われました。 「比丘たちよ、私は知る者に、見る者に、諸々の煩悩の滅尽を説く。 知らない者、見ない者にではない。 では比丘たちよ、何を知る者に、何を観る者に、諸々の煩悩の滅尽を説くのか? ── それは、正思惟と邪思惟である。 比丘たちよ、邪思惟をする者には、 未だ生じていない煩悩が生じ、すでに生じている煩悩が増大する。 しかし比丘たちよ、正思惟をする者には、 未だ生じていない煩悩が生ずることは無く、すでに生じている煩悩は断たれるのだ。 そして比丘たちよ、 1.見ること … によって、断たれるべき諸々の煩悩がある。 2.防護すること … によって、断たれるべき諸々の煩悩がある。 3.需用すること … によって、断たれるべき諸々の煩悩がある。 4.忍耐すること … によって、断たれるべき諸々の煩悩がある。 5.回避すること … によって、断たれるべき諸々の煩悩がある。 6.除去すること … によって、断たれるべき諸々の煩悩がある。 7.修習すること … によって、断たれるべき諸々の煩悩がある。 **1.見ること…によって断たれるべき煩悩 それでは比丘たちよ、何が、見ることによって断たれるべき諸々の煩悩と言えるのか? ここに比丘たちよ、凡夫にして、聖者の法を聞く機会を持たず、 諸々の聖者を見ず、聖者の法を熟知せず、聖者の法に導かれることが無く、 諸々の善人を見ず、善人の法を熟知せず、善人の法に導かれることが無く、 思惟すべき諸々の法を知らず、思惟すべきでない諸々の法を知らない者がいる。 彼は、思惟すべき諸々の法を知らず、思惟すべきでない諸々の法をも知らず、 思惟すべきでない諸々の法を思惟し、思惟すべき諸々の法を思惟することが無い。 では比丘たちよ、何が思惟すべきでない諸々の法であり、彼の思惟するもの ── なのか? 比丘たちよ、諸々の法を思惟する彼に、 未だ生じていない欲の煩悩が生じるか、すでに生じいる欲の煩悩が増大する、あるいは、 未だ生じていない無明の煩悩が生じるか、すでに生じいる無明の煩悩が増大する、 ── これらが、思惟すべきでない諸々の法であり、彼の思惟するものなのだ。 ではまた比丘たちよ、何が思惟すべき諸々の法であり、彼の思惟しないもの ── なのか? 比丘たちよ、諸々の法を思惟する彼に、 未だ生じていない欲の煩悩が生じないか、すでに生じいる欲の煩悩が断たれる、あるいは、 未だ生じていない無明の煩悩が生じないか、すでに生じいる無明の煩悩が断たれる、 ── これらが、思惟すべき諸々の法であり、彼の思惟しないものなのだ。 彼には、思惟すべきでない諸々の法を思惟することから、 思惟すべき諸々の法を思惟しないことから、 未だ生じていない煩悩が生じるか、すでに生じいる煩悩が増大する。 彼は、次のような邪な思惟をする。 〈 私は、過去に現われたのだろうか、それとも現れなかったのだろうか? 過去に何になったのだろうか、過去にどのようになったのだろうか? 私は過去に何になり、その後に何になったのだろうか? 私は、未来に現われるのだろうか、それとも現れないのだろうか? 未来に何になるのだろうか、未来にどのようになるのだろうか? 私は未来に何になり、その後に何になるのだろうか? 〉── と。 あるいはまた、 〈 今、現在に、私は存在しているのだろうか、存在していないのだろうか? 何であるのだろうか、どのようであるのだろうか? この生ける者は、何処から来ているのだろうか、そして何処へ行く者になるのだろうか? 〉 ── と、心の内に疑心を抱くのだ。 このように邪に思惟する彼には、次の六つの見のうちのいずれかの見解が生じる。 すなわち、〈 私には我がある 〉との見が、彼に実際に強固に生じる。 あるいは、〈 私には我がない 〉との見が、彼に実際に強固に生じる。 あるいは、〈 我によってのみ我を思う 〉との見が、彼に実際に強固に生じる。 あるいは、〈 我によってのみ無我を思う 〉との見が、彼に実際に強固に生じる。 あるいは、〈 無我によってのみ我を思う 〉との見が、彼に実際に強固に生じる。 あるいは、〈 私のこの我は、語るもの、感受するものであり、 それぞれの処で諸々の善悪業の果報を受けている。 その私の我は、常住のもの、堅固なもの、常時のも、 不変の性質のものとなり、永久にそのまま留まるだろう。〉 ── と、このような見が、彼に生じる。 比丘たちよ、これは見に趣くもの、見の密林、見の難路、見の突き刺し、見の足掻き、見の縛りと言われる。 比丘たちよ、見に縛られ捉えられた、聖者の法を聞く機会を持たない凡夫は、 生まれからも、老死からも、諸々の愁いからも、諸々の悲しみからも、 諸々の苦からも、諸々の憂いからも、諸々の悩みからも解放されることが無い、── と私は説く。 また、比丘たちよ、聖なる弟子にして、聖者の法を聞く機会を得て、 諸々の聖者を見て、聖者の法を熟知し、聖者の法によく導かれ、 諸々の善人を見て、善人の法を熟知し、善人の方によく導かれ、 思惟すべき諸々の法を知り、思惟すべきでない諸々の法を知る者がいる。 彼は、思惟すべき諸々の法を知り、思惟すべきでない諸々の法をも知り、 思惟すべきでない諸々の法を思惟せず、思惟すべき諸々の法を思惟する。 では比丘たちよ、何が思惟すべきでない諸々の法であり、彼の思惟しないもの ── なのか? 比丘たちよ、諸々の法を思惟する彼に、 未だ生じていない欲の煩悩が生じるか、すでに生じいる欲の煩悩が増大する、あるいは、 未だ生じていない無明の煩悩が生じるか、すでに生じいる無明の煩悩が増大する、 ── これらが、思惟すべきでない諸々の法であり、彼の思惟しないものなのだ。 ではまた比丘たちよ、何が思惟すべき諸々の法であり、彼の思惟するもの ── なのか? 比丘たちよ、諸々の法を思惟する彼に、 未だ生じていない欲の煩悩が生じないか、すでに生じいる欲の煩悩が断たれる、あるいは、 未だ生じていない無明の煩悩が生じないか、すでに生じいる無明の煩悩が断たれる、 ── これらが、思惟すべき諸々の法であり、彼の思惟するものなのだ。 彼には、思惟すべきでない諸々の法を思惟しないことから、 思惟すべき諸々の法を思惟することから、 未だ生じていない諸々の煩悩が生じることは無く、すでに生じている諸々の煩悩が断たれる。 そして彼は、〈 これは苦である 〉と正しく思惟する。 〈 これは苦の生起である 〉と正しく思惟する。 〈 これは苦の滅尽である 〉と正しく思惟する。 〈 これは苦の滅尽に至る道である 〉と正しく思惟する。 このように正しく思惟する彼に、三つの結縛、すなわち、有身謬見、疑心、戒禁取、が断たれる。 比丘たちよ、これらが、「見ることによって断たれる諸々の煩悩」と言われるのだ。 **2.防護すること…によって断たれるべき煩悩 次に比丘たちよ、何が、防護によって断たれるべき諸々の煩悩と言えるのか? ここに比丘たちよ、比丘は正しく観察し、眼根の防護を備えて住む。 比丘たちよ、彼が眼根の防護を備えずに住むならば、諸々の煩悩や、破壊をもたらす苦悩が起こり得る。 しかし、眼根の防護を備えて住むならば、このように、それら諸々の煩悩や破壊をもたらす苦悩が生じることは無い。 彼は正しく観察し、耳根の防護を備えて住む。 比丘たちよ、彼が耳根の防護を備えずに住むならば、諸々の煩悩や、破壊をもたらす苦悩が起こり得る。 しかし、耳根の防護を備えて住むならば、このように、それら諸々の煩悩や破壊をもたらす苦悩が生じることは無い。 彼は正しく観察し、鼻根の防護を備えて住む。 比丘たちよ、彼が鼻根の防護を備えずに住むならば、諸々の煩悩や、破壊をもたらす苦悩が起こり得る。 しかし、鼻根の防護を備えて住むならば、このように、それら諸々の煩悩や破壊をもたらす苦悩が生じることは無い。 彼は正しく観察し、舌根の防護を備えて住む。 比丘たちよ、彼が舌根の防護を備えずに住むならば、諸々の煩悩や、破壊をもたらす苦悩が起こり得る。 しかし、舌根の防護を備えて住むならば、このように、それら諸々の煩悩や破壊をもたらす苦悩が生じることは無い。 彼は正しく観察し、身耳根の防護を備えて住む。 比丘たちよ、彼が身根の防護を備えずに住むならば、諸々の煩悩や、破壊をもたらす苦悩が起こり得る。 しかし、身根の防護を備えて住むならば、このように、それら諸々の煩悩や破壊をもたらす苦悩が生じることは無い。 彼は正しく観察し、意根の防護を備えて住む。 比丘たちよ、彼が意根の防護を備えずに住むならば、諸々の煩悩や、破壊をもたらす苦悩が起こり得る。 しかし、意根の防護を備えて住むならば、このように、それら諸々の煩悩や破壊をもたらす苦悩が生じることは無い。 比丘たちよ、彼が防護を備えずに住むならば、諸々の煩悩や、破壊をもたらす苦悩が起こり得る。 しかし、防護を備えて住むならば、このように、それら諸々の煩悩や破壊をもたらす苦悩が生じることは無い。 比丘たちよ、── これらが、防護によって断たれるべき諸々の煩悩と言われるのだ。 **3.受用すること…によって断たれるべき煩悩 次に比丘たちよ、何が、受用によって断たれるべき諸々の煩悩と言えるのか? ここに比丘たちよ、比丘は正しく観察し、衣を受容する。 しかしそれは、あくまでも寒さや暑さを防ぐため、虻(アブ)や蚊(カ)、 風や熱、蛇類に触れることを防ぐためであり、陰部を覆うためでしかない。 彼は正しく観察し、托鉢食を受容する。 しかし、それはあくまでも、この身体の存続のため、維持のため、害の防止のためであり、 〈 このようにして私は、空腹の苦痛を克服しよう。食べ過ぎの苦痛を起こさないようにしよう。 そうすれば私は、生きながらえ、過誤が無く、安らかに住むことになる 〉との梵行を支えるためでしかない。 彼は正しく観察し、臥座所〈住処〉を受容する。 しかしそれは、あくまでも寒さや暑さを防ぐため、虻(アブ)や蚊(カ)、 風や熱、蛇類に触れることを防ぐためであり、時節の危険を除き、独坐を楽しむためでしかない。 彼は正しく観察し、医薬品を受容する。 しかしそれは、あくまでも生起した諸々の病気の苦痛を防ぐためのものであり、 苦痛が最終的に無くなるためのものでしかない。 比丘たちよ、彼がこのように受用しないならば、諸々の煩悩や、破壊をもたらす苦悩が起こり得る。 しかし、このように受用するならば、それら諸々の煩悩や、破壊をもたらす苦悩が生じることは無い。 比丘たちよ、── これらが、受用によって断たれるべき諸々の煩悩と言われるのだ。 **4.忍耐すること…によって断たれるべき煩悩 次に比丘たちよ、何が、忍耐によって断たれるべき諸々の煩悩と言えるのか? ここに比丘たちよ、比丘は正しく観察し、 寒さに、暑さに、飢えに、渇きに、虻(アブ)や蚊(カ)、風や熱、蛇類に触れることに耐える。 罵倒・誹謗の言葉に耐える。 罵倒・誹謗の言葉に、すでに生じている苦しい、 激しい、粗悪な、味気ない、不快な、命を奪うような諸々の身体の感受に耐え忍ぶ。 比丘たちよ、彼がこのように耐え忍ばないならば、諸々の煩悩や、破壊をもたらす苦悩が起こり得る。 しかし、このように耐え忍ぶならば、それら諸々の煩悩や、破壊をもたらす苦悩が生じることは無い。 比丘たちよ、── これらが、忍耐によって断たれるべき諸々の煩悩と言われるのだ。 **5.回避すること…によって断たれるべき煩悩 次に比丘たちよ、何が、回避によって断たれるべき諸々の煩悩と言えるのか? ここに比丘たちよ、比丘は正しく観察し、凶暴な象を避ける。凶暴な馬を避ける。 凶暴な牛を避ける。凶暴な犬を、蛇・切り株・刺の地・穴・断崖・沼・溝・を避ける。 坐所でないようなところに坐ったり、托鉢地でないような場所を歩いたり、悪友のような者に親しむならば、 悪しき処にいると、賢明な同梵行行者〈智慧のある修行仲間〉たちが判定することになる。 彼は、その座所でないところをも、托鉢地でないところをも、悪しき友をも正しく観察し、回避する。 比丘たちよ、彼がこのように回避しないならば、諸々の煩悩や、破壊をもたらす苦悩が起こり得る。 しかし、このように回避するならば、それら諸々の煩悩や、破壊をもたらす苦悩が生じることは無い。 比丘たちよ、── これらが、回避によって断たれるべき諸々の煩悩と言われるのだ。 **6.除去すること…によって断たれるべき煩悩 次に比丘たちよ、何が、除去によって断たれるべき諸々の煩悩と言えるのか? ここに比丘たちよ、比丘は正しく観察し、 すでに生じている欲の考えを認めず、断ち、除き、終わりにし、無いものにする。 すでに生じている怒りの考えを認めず、断ち、除き、終わりにし、無いものにする。 すでに生じている害意の考えを認めず、断ち、除き、終わりにし、無いものにする。 次々に生じる諸々の悪しき不善の法を認めず、断ち、除き、終わりにし、無いものにする。 比丘たちよ、彼がこのように除去しないならば、諸々の煩悩や、破壊をもたらす苦悩が起こり得る。 しかし、このように除去するならば、それら諸々の煩悩や、破壊をもたらす苦悩が生じることは無い。 比丘たちよ、── これらが、除去によって断たれるべき諸々の煩悩と言われるのだ。 **7.修習すること…によって断たれるべき煩悩 次に比丘たちよ、何が、修習によって断たれるべき諸々の煩悩と言えるのか? ここに比丘たちよ、 比丘は正しく観察し、遠離 に基づく、消滅に基づく、滅尽に基づく、棄捨に基づく、念という勝れた覚支を修習する。 比丘は正しく観察し、遠離 に基づく、消滅に基づく、滅尽に基づく、棄捨に基づく、択法という勝れた覚支を修習する。 比丘は正しく観察し、遠離 に基づく、消滅に基づく、滅尽に基づく、棄捨に基づく、精進という勝れた覚支を修習する。 比丘は正しく観察し、遠離 に基づく、消滅に基づく、滅尽に基づく、棄捨に基づく、喜という勝れた覚支を修習する。 比丘は正しく観察し、遠離 に基づく、消滅に基づく、滅尽に基づく、棄捨に基づく、軽安という勝れた覚支を修習する。 比丘は正しく観察し、遠離 に基づく、消滅に基づく、滅尽に基づく、棄捨に基づく、定という勝れた覚支を修習する。 比丘は正しく観察し、遠離 に基づく、消滅に基づく、滅尽に基づく、棄捨に基づく、捨という勝れた覚支を修習する。 比丘たちよ、彼がこのように修習しないならば、諸々の煩悩や、破壊をもたらす苦悩が起こり得る。 しかし、このように修習するならば、それら諸々の煩悩や、破壊をもたらす苦悩が生じることは無い。 比丘たちよ、── これらが、修習によって断たれるべき諸々の煩悩と言われるのだ。 比丘たちよ、比丘に、 見ることによって断たれるべき諸々の煩悩が、見ることによって断たれているならば、 防護によって断たれるべき諸々の煩悩が、防護によって断たれているならば、 受用によって断たれるべき諸々の煩悩が、受用によって断たれているならば、 忍耐によって断たれるべき諸々の煩悩が、忍耐によって断たれているならば、 回避によって断たれるべき諸々の煩悩が、回避によって断たれているならば、 除去によって断たれるべき諸々の煩悩が、除去によって断たれているならば、 修習によって断たれるべき諸々の煩悩が、修習によって断たれているならば、 比丘たちよ、この比丘は、あらゆる煩悩を防止して住んでいる。 彼は、渇愛を断った者である。束縛を取り除いた者である。 正しく、慢心を現に観て、苦の終わりを作った者である。」── と。 このように世尊は言われました。 かれら比丘たちは喜び、世尊が説かれたことに歓喜しました。 &bold(){〈 和 訳・おわり 〉} **● 解 説 ★今回は、「預流果」と関わりの深い「三結」を断ずる方法を、さり気なく示している経典を解説します。 中部経典2経「一切煩悩経」の中の「一節」、「1.見ることによって断たれるべき煩悩」がその部分なのです。 それでは比丘たちよ、何が、見ることによって断たれるべき諸々の煩悩と言えるのか? ここに比丘たちよ、凡夫にして、聖者の法を聞く機会を持たず、 諸々の聖者を見ず、聖者の法を熟知せず、聖者の法に導かれることが無く、 諸々の善人を見ず、善人の法を熟知せず、善人の方に導かれることが無く、 思惟すべき諸々の法を知らず、思惟すべきでない諸々の法を知らない者がいる。 彼は、思惟すべき諸々の法を知らず、思惟すべきでない諸々の法をも知らず、 思惟すべきでない諸々の法を思惟し、思惟すべき諸々の法を思惟することが無い。 では比丘たちよ、何が思惟すべきでない諸々の法であり、彼の思惟するもの ── なのか? 比丘たちよ、諸々の法を思惟する彼に、 未だ生じていない欲の煩悩が生じるか、すでに生じいる欲の煩悩が増大する、あるいは、 未だ生じていない無明の煩悩が生じるか、すでに生じいる無明の煩悩が増大する、 ── これらが、思惟すべきでない諸々の法であり、彼の思惟するものなのだ。 ではまた比丘たちよ、何が思惟すべき諸々の法であり、彼の思惟しないもの ── なのか? 比丘たちよ、諸々の法を思惟する彼に、 未だ生じていない欲の煩悩が生じないか、すでに生じいる欲の煩悩が断たれる、あるいは、 未だ生じていない無明の煩悩が生じないか、すでに生じいる無明の煩悩が断たれる、 ── これらが、思惟すべき諸々の法であり、彼の思惟しないものなのだ。 彼には、思惟すべきでない諸々の法を思惟することから、 思惟すべき諸々の法を思惟しないことから、 未だ生じていない煩悩が生じるか、すでに生じいる煩悩が増大する。 ここまでは、最初に説明した「四正断」と関係のある話になっています。 そして、してはいけない事をして、すべき事をしない …… これが凡夫だと言うのです。 しかも、「何をする」と煩悩が増大し、「何をしなければ」それを断つことが出来るのかを知らない。 つまり、「聖者(釈尊)」の法や、「善人(釈尊の法を教えてくれる人)」の法を知らないのです。 ── すると、次のようなことになるのです。 彼は、次のような邪な思惟をする。 〈 私は、過去に現われたのだろうか、それとも現れなかったのだろうか? 過去に何になったのだろうか、過去にどのようになったのだろうか? 私は過去に何になり、その後に何になったのだろうか? 私は、未来に現われるのだろうか、それとも現れないのだろうか? 未来に何になるのだろうか、未来にどのようになるのだろうか? 私は未来に何になり、その後に何になるのだろうか? 〉── と。 あるいはまた、 〈 今、現在に、私は存在しているのだろうか、存在していないのだろうか? 何であるのだろうか、どのようであるのだろうか? この生ける者は、何処から来ているのだろうか、そして何処へ行く者になるのだろうか? 〉 ── と、心の内に疑心を抱くのだ。 このように邪に思惟する彼には、次の六つの見のうちのいずれかの見解が生じる。 すなわち、〈 私には我がある 〉との見が、彼に実際に強固に生じる。 あるいは、〈 私には我がない 〉との見が、彼に実際に強固に生じる。 あるいは、〈 我によってのみ我を思う 〉との見が、彼に実際に強固に生じる。 あるいは、〈 我によってのみ無我を思う 〉との見が、彼に実際に強固に生じる。 あるいは、〈 無我によってのみ我を思う 〉との見が、彼に実際に強固に生じる。 あるいは、〈 私のこの我は、語るもの、感受するものであり、 それぞれの処で諸々の善悪業の果報を受けている。 その私の我は、常住のもの、堅固なもの、常時のも、 不変の性質のものとなり、永久にそのまま留まるだろう。〉 ── と、このような見が、彼に生じる。 比丘たちよ、これは見に趣くもの、見の密林、見の難路、見の突き刺し、見の足掻き、見の縛りと言われる。 比丘たちよ、見に縛られ捉えられた、聖者の法を聞く機会を持たない凡夫は、 生まれからも、老死からも、諸々の愁いからも、諸々の悲しみからも、 諸々の苦からも、諸々の憂いからも、諸々の悩みからも解放されることが無い、── と私は説く。 ── これに続いて、今度は、今までとは逆の人〈聖なる弟子〉についての説明が始まります。 説明は長いのですが、要は、凡夫の「逆パターン」を考えればいいわけです。 また、比丘たちよ、聖なる弟子にして、聖者の法を聞く機会を得て、 諸々の聖者を見て、聖者の法を熟知し、聖者の法によく導かれ、 諸々の善人を見て、善人の法を熟知し、善人の方によく導かれ、 思惟すべき諸々の法を知り、思惟すべきでない諸々の法を知る者がいる。 彼は、思惟すべき諸々の法を知り、思惟すべきでない諸々の法をも知り、 思惟すべきでない諸々の法を思惟せず、思惟すべき諸々の法を思惟する。 では比丘たちよ、何が思惟すべきでない諸々の法であり、彼の思惟しないもの ── なのか? 比丘たちよ、諸々の法を思惟する彼に、 未だ生じていない欲の煩悩が生じるか、すでに生じいる欲の煩悩が増大する、あるいは、 未だ生じていない無明の煩悩が生じるか、すでに生じいる無明の煩悩が増大する、 ── これらが、思惟すべきでない諸々の法であり、彼の思惟しないものなのだ。 ではまた比丘たちよ、何が思惟すべき諸々の法であり、彼の思惟するもの ── なのか? 比丘たちよ、諸々の法を思惟する彼に、 未だ生じていない欲の煩悩が生じないか、すでに生じいる欲の煩悩が断たれる、あるいは、 未だ生じていない無明の煩悩が生じないか、すでに生じいる無明の煩悩が断たれる、 ── これらが、思惟すべき諸々の法であり、彼の思惟するものなのだ。 彼には、思惟すべきでない諸々の法を思惟しないことから、 思惟すべき諸々の法を思惟することから、 未だ生じていない諸々の煩悩が生じることは無く、すでに生じている諸々の煩悩が断たれる。 そして、ここからが大切なポイントとなります。 そして彼は、〈 これは苦である 〉と正しく思惟する。 〈 これは苦の生起である 〉と正しく思惟する。 〈 これは苦の滅尽である 〉と正しく思惟する。 〈 これは苦の滅尽に至る道である 〉と正しく思惟する。 このように正しく思惟する彼に、三つの結縛、すなわち、有身謬見、疑心、戒禁取、が断たれる。 比丘たちよ、これらが、「見ることによって断たれる諸々の煩悩」と言われるのだ。 ── つまり、「八正道」の「正見解」と「正思惟」によって、「預流果」を得ることができるのです。 彼は、〈 これは苦である 〉 と正しく思惟する。 〈 これは苦の生起である 〉 と正しく思惟する。 〈 これは苦の滅尽である 〉 と正しく思惟する。 〈 これは苦の滅尽に至る道である 〉 と正し思惟する。 というこの言葉は、「定番〈ワンパターン〉」として定着しすぎていますが、 この内容を「楽味・危難・出離・生起と消滅を見る」に置き換えて考えてみてください。 そうすれば、その内容がどういうものであるのかが、より具体的に観えてくるはずです。 「 三結 〈 有身謬見・禁戒取・疑 〉 」は、見道と呼ばれ、 正しい見方を身に着けることによって断じることが出来るのです。 ── この「三結」の中の、一番の「ポイント」は、「疑惑」なのです。 彼は、次のような邪な思惟をする。 〈 私は、過去に現われたのだろうか、それとも現れなかったのだろうか? 過去に何になったのだろうか、過去にどのようになったのだろうか? 私は過去に何になり、その後に何になったのだろうか? 私は、未来に現われるのだろうか、それとも現れないのだろうか? 未来に何になるのだろうか、未来にどのようになるのだろうか? 私は未来に何になり、その後に何になるのだろうか? 〉── と。 あるいはまた、 〈 今、現在に、私は存在しているのだろうか、存在していないのだろうか? 何であるのだろうか、どのようであるのだろうか? この生ける者は、何処から来ているのだろうか、そして何処へ行く者になるのだろうか? 〉 ── と、心の内に疑心を抱くのだ。 つまり、「私」というものの「過去・未来・現在」に囚われ、それをあれこれ考える。 ── これこそが「疑念」なのです。 そこから、「我」についての「六種類」の憶測・分別 … 要するに「四句分別」が生まれてしまうのです。 だからこそ釈尊は、「 無我 〈 そのような考えに囚われるな!!〉 」 を 弟子たちに説いたのです。 ※ このポイントを理解出来れば、「預流果」に至ることは、それほど難しくはありません。 ★また、最後の「7.修習すること…によって断たれるべき煩悩」で登場する「修習」とは、「七覚支」の修行を指します。 それではこれから、「七覚支」と呼ばれる修行法について、簡単に説明します。 この修行法は、「四禅定」のプロセスを、一つ一つ確認してゆくものなのです。 ①念覚支 … 四念処の修行です。 主に、貪りと怒りにアプローチして滅します。 ②択法覚支 … 善法と悪法を選別することです。 念覚支と精進覚支に連動します。 善法 解脱、涅槃の役に立つ、有益な教え。 悪法 解脱、涅槃の役に立たず、有害な教え。 ※社会通念の善悪とは関係ありません。 ③精進覚支 … 択法覚支と連動します。 つまり、善法を増大させ、悪法を減少させる努力のことを言うからです。 ④喜覚支 … ①~③までの努力を続けていくと、やがて、苦受が不苦受に変化します(心の苦の滅)。 するとその人は、煩悩にのた打ち回る人から、のたうち回らない人へと変化します。 その時のサインが「喜」「軽安」(+楽)なのです。 「喜」とは、心の苦しみから解放された喜びなのです。 ⑤軽安覚支 … ストレスから解放された心が、体に軽快さをもたらします。 そして、ここまでが初禅の入り口なのです。 ⑥定覚支 … 四禅定の実践です。三受にアプローチして、貪り・怒り・無知を滅するのです。 貪りから生じる楽受を捨てることで不楽受(新しい楽の現出)に至る。 最後に、不苦不楽の境地に至る。 (これは、不一不二、無分別と同じ境地です) ⑦捨覚支 … 第四禅で到達した、不苦不楽をも捨てて、解脱するのです。 ── これが、七覚支の修行なのです。 〈 編集中 〉