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あるナースの襲来 - (2007/06/22 (金) 01:55:28) のソース

「時期的に夏風邪ですかねぇ。わかりました、すぐにそちらへスタッフ向かわせます」 
「……はい、どうもすいません。わざわざこんなことを……。うッ……ゴホっ! ゴホッ……!」 
 監督に感謝の意を伝えると、俺は受話器から口を離して大きな咳を二、三回吐き出した。 

 今日は六月十五日水曜日。そして今、時計の針は丁度午前十一時を指している。 
 本当なら、生徒は学校にいなければならない時間帯だが、俺は月曜に風邪をこじらせて以来、今日までずっと学校を欠席していた。 
 しかも結構酷いらしく、快方の兆しも見えない状態だ。このままでは、今度の日曜にある綿流し祭りに参加できるかも怪しい……。 
 それに加えて、親父とお袋は息子がこんな状態だというのに、俺が風邪を引く前日に、例によって仕事で関東の方へ行ってしまっていて、看病をしてくれる人もいない状況だった。 
 今回は色々なところへ作品を売り込んでいるらしく、泊まるホテルもあちこちを転々としていて、電話で捕まえることも出来ない。 
 これがもし軽めの風邪だったのなら、別にこんな状態でも何とかなっただろうが、今回みたいな結構重い風邪だとそうもいかない。 
 食事の準備をするのにも一苦労だし、毎日の着替えや、熱を冷ますための水タオルを用意をするのも大変だ。そして、それらによって余計に疲労が溜まってしまうという悪循環にも陥ってしまっている。 
 このままでは、良くなるどころか更に酷くなってゆくだろう……。 

 そこで、はじめは魅音たち部活メンバーに助けを求めようかと思ったのだが、毎日授業が終わってからわざわざ俺の家まで見舞いに来てくれるみんなの姿を見ると、とてもそれ以上を望めなかった。 
 特に、学校から正反対の場所に住んでいる沙都子と梨花ちゃんには尚更だ。 
 しかし、だからと言ってこんな状態のままでは辛くて仕方がないので、せめて薬くらいは貰おうと、今日になって監督の診療所へ電話をしたのだった。 
 最初は事情を話して薬だけを持ってきてくれるように頼んだのだが、監督は丁度今週は患者さんが少ないのでと、今週一杯は毎日スタッフを俺の家へ向かわせて面倒を見させると言ってくれた。 
 都会に住んでいた頃にこんなことはなかったので、俺は監督の対応に少し驚いた。そして同時に、この柔軟性が田舎の人付き合いの良いところなんだろうなと思った。 

「いえいえ、気にしないでください。困った患者さんを助けてあげるのが私たちの仕事なんですから。 
 しかし、どうしてまた風邪なんかに? 薄着で冷房をかけっぱなしにして寝ちゃったりしましたか? ははは、最近は急に暑くなってきましたからね~」 
 電話口から、監督の陽気な笑い声が流れてくる。 
「……いや、そんなんじゃないです。一応、他に思い当たる節があるんで」 
「おや? 何があったんです?」 
「実はこの前の日曜に、みんなで一緒に近くの川に泳ぎに行ったんです。で、その時にちょっと……」 
 俺は、鉛のように重い頭痛に耐えながら、受話器に向かって言った。 
「なるほど。水泳は自分でも気付かない間に結構体力を消費しますからね、少し無理をしすぎたんでしょう。 
 それに、前原さんは引っ越してきてからまだ日が浅い。多分、その疲れもまだ十分に癒えていなかったんだと思います。これを良い機会として、しっかり休養を取ると良いでしょう」 
「……はぁ、そうしときます」 
 監督のいかにも医者らしい言葉に、俺は曖昧に返事をする。 

 ……監督は大きな勘違いをしている。あれは、どう考えても少し無理をしすぎたってレベルじゃなかった。 
 恐らく、監督は俺たちが”普通に”川で遊んでいたと思っているんだろう。それこそ、何処ぞの田舎を舞台にしたドラマの一シーンみたいな感じに、無邪気に川で泳いで、カラスの鳴き声と共に帰宅したとでも思っているんだろう。 
 実際、俺も部活メンバーみんなで川に行こうという話が挙がったとき、そんな感じになるんだろうと思っていた。信じてた。 
 ……だが、それは甘かった。俺はあの部活を少々舐めすぎていたのだ。まさか、あんな惨劇が起こり、そして俺がその一番の被害者になるとは思ってもいなかった。 
 今日、俺がこんなに酷い風邪で苦しんでいるのも、どう考えてもあれが原因だ。というか、それ以外にありえない。 

 ――それくらい、あの惨劇は悲惨で残酷だったのだ。 

 ……まぁ、川で女の子たちと遊泳という、いかにもなシチュエーションが上手い具合に転がって、色々ムフフなイベントも体験できたのだが……それはまた別の物語である。 
 俺の気が向いたら、語ることもあるかもしれない。 

「では、三十分後くらいになると思いますが、スタッフがそちらへ到着したら、家の中に入れてあげてください。 
 何をやるかはこちらで指示しておきますので、前原さんはゆっくり寝ているだけで大丈夫です。それでは、お大事に」 
「はい、どうもお世話になります」 
 そう言って、俺は受話器をフックに戻す。そして、よろよろと階段を上って自分の部屋へ向かい、布団の中へ潜り込んだ。 

 あとは待つだけである。 

電話が終わってから約三十分後、すっかり静寂に包まれた俺の家にチャイムの音が鳴り響いた。 
 俺は布団から起き上がって、部屋の窓から外の玄関を覗く。セールスなどに捕まると厄介なので、一人で留守番の時はいつもこうやって確認をするようにしている。ニ階というのは案外気が回らない場所のようで、一方的にこちらから来訪者を確認することができるのだ。 
 玄関の前に立っているのは、白い看護服に身を包んだ女性のようだった。時間的にも監督が言っていた通りだし、診療所の人だと思って良いだろう。 
 俺は、寝巻きの上に適当な上着を羽織ると、痛む頭を抱えながら下の階の玄関へ向かった。 
 そして玄関に無事到着し、扉の向こうにいる人物に声をかける。 

「はい、どなたですか?」 
「ごめんください、入江診療所から診察に来た者です」 
 ドア越しにその人物の声を聞いて、俺は妙な違和感を覚える。 

 ……あれ、この声。何処かで聞いたことがあるような? 

「あ、はい。今開けます。」 
 そんな記憶の混乱に苛まれながら、俺は玄関の扉を開けた。 
「こんにちは、前原くん」 
 玄関の向こうにいる、白衣に包まれた看護婦。 

 ……それは、鷹野さんだった。 

「た、鷹野さん? どうしてここに……!?」 
「どうしてって……。前原くん、もしかして私が診療所に勤めているって事、知らなかった?」 
「い、いや、そういう訳じゃないですけど」 
 鷹野さんが何処に勤めているのかくらい、この雛見沢に住んでいれば嫌でも耳に入ってくる。そうではなく、診療所から来るのがまさか鷹野さんだとは思いもしなかったのだ。 
 監督は俺に気を使って、顔見知りである鷹野さんを選んだのかもしれないが、俺はむしろ全く知らない人間の方が気が楽だった。魅音たちのお見舞い程度ならともかく、自分のプライベートの大部分を友人や知り合いに見られるのは、何となく緊張してしまう。 
 この年頃特有の、思春期がどうちゃらこうちゃらというヤツだろうが、とにかく抵抗があるのだ。……特に、女性の場合は。 

「なら、別に何の問題もないじゃない。それじゃ、中に入っても良いわよね?」 
 そんな俺の心情を知ってか知らずか、鷹野さんは当たり前のような顔で話す。 
「え、あ……、は、はい。」 
 俺がそれに対して慌てて返事をすると、鷹野さんは俺の横をすり抜けて家の中へ入って行った。 
 その鷹野さんの姿はあまりに堂々としていて、逆に緊張している自分の方がおかしいのではないかと思ってしまう。……いや、人付き合いの形としては、鷹野さんが正しいのかもしれない。だけど、それに反発を持ってしまう幼い自分がいるのも確かだった。 

 玄関で靴を脱ぎ、家の中へ入っていく鷹野さんを追って、俺もそれに続く。すると、玄関から数歩歩いたところで鷹野さんが口を開いた。 
「……さて。それじゃあ、前原くんの寝室へ案内してくれないかしら? まずは診察をしないといけないし」 
「え……? あ、そ、そこの階段を上ってすぐ左の部屋です。ふすま扉の」 
 相も変わらず緊張しながら俺は答える。鷹野さんはそんな俺に意も介さず、わかったわと言って階段へ向かった。診察ならば、患者である自分がいないと話にならないので、俺もその後に続く。 
 …………が、鷹野さんが丁度階段を上り始めた辺りで、俺は足を止めた。 

 何故なら、……このまま上ると、どう考えても”見えて”しまうからだ……。

 鷹野さんの服装は、看護服は看護服でも下はミニスカートにロングニーソックスという、男の欲望をこれでもかというほど抉りまわしてくる格好で、……しかも、スカートの丈は心なしかいつもより短く、太ももの大部分を露出している。 
 このまま階段を上ったら、確実にその中身が見えてしまうだろう……。 
 これでも普段の仕事着なのだから、診療所で鷹野さんの姿を初めて見た時、俺はかなり驚いた。知らない人が見たら、エンジェルモート同様入江診療所が何処ぞの風俗店と思われてもおかしくはない。 
 実際、この姿のためだけに、わざわざ隣の県から診察を受けに来る患者さんもいるとかいないとか……。いや、そんなことはどうでもいいか。 
 ……正直、俺が終始緊張しているのも、この普通にいるだけでも少し目のやり場に困ってしまう格好の影響が大きかった。 
「どうしたの前原くん? 目眩にでもなった?」 
 どうにもこうにも進めず、立ち往生をしている俺に、鷹野さんが階段の途中でこちらへ振り返って言った。 
 その振り返る動作で鷹野さんのミニスカートがあらぬ方向へ揺れ、俺は思わず明後日の方向へ目線を投げる。 
「……い、いや! ははは、何でもないです」 
 俺は目線を逸らしたままで、必死に平静を装って言った。 
「そう?」 
 頭に疑問符を浮かべて、鷹野さんは再び階段を上り始める。 
 数秒の思考の後、このまま階段を上らなかったら角度的に余計に”見えて”しまうということに気付き、俺も大慌てで階段を上った。 
 ……しかし、上りきったところで、どうせなら少しくらい見ておけば良かったかもという考えがふと浮かび、自己嫌悪と後悔が混ざり合った複雑な感情が頭の中を支配したのだった。