前回 -[[鬼畜王K1 ─Apocrypha─<外典・二章>]] ---- #center(){ *鬼畜王&color(red){K}1 ─Apocrypha─<外典・三章> } ---- #center(){&bold(){&italic(){汝生命(いのち)の道を我に示したまわん。}}} #center(){&bold(){&italic(){汝の前(みまえ)には充ち足れる歓喜(よろこび)あり、}}} #center(){&bold(){&italic(){汝の右にはもろもろの快楽(たのしみ)永遠にあり。}}} #center(){&bold(){&italic(){『旧約聖書』「詩篇 十六」より}}} 目を覚ますと、陽が傾き始めていました。 ——私の頭は前原くんの膝の上で、体をソファーに横たえていました。 「…あぁ、やっと気が付きましたか」 私と目が合うと、彼はにっこりと微笑みました。 「私は…気を失って、いたんですね」 「はい。少し寝かせました。まぁ、体に心配はないですよ。今日帰ってからゆっくり寝れば、明日に疲れは残らないでしょう」 私の額には、彼の手が乗せられています。——とても温かい手でした。 気づかう彼の顔には、さっきまでの邪悪な笑みはありません。こんな優しい顔が出来る子が、あんなに豹変するとは…。 あれは夢だったのではないかと疑うほどです。 「…つかぬことをお聞きしますが、先生は今まで、男性とのお付き合いはありましたか?」 突然の質問でした。あれだけ激しく私と交わった後にしては、一歩間違えればデリカシーの無い質問では無いでしょうか。 だが、私は正直に答えようと思いました。…これは、何か彼の意図があってのことでしょう。 「…いえ、ほとんど。いや、一人だけ想いを寄せた人がいましたが…」 高校時代に好意を持った後輩がいたけれど——黒縁眼鏡を絶えず掛けていて、よく貧血を起こして早退することが多い人でしたが——、 彼は結局「先輩」としか私を見てくれなかった。当然、男女としての付き合いなどありませんでした。 その後、彼は別の女性とお付き合いを始めたと聞いてきっぱり忘れたのです。 ——その相手は金髪の美女とか、義理の妹さんとか、いろんな噂がありましたが。 私が意図して男性を遠ざけたわけではありません。ただ、出会った人々の中に『愛情』を持てるような男性を見出せなかった。 なにより生真面目な私は、教師になってからも教え子たちや分校のことに情熱を傾けていて、恋愛などしている暇は無かった。 「…そうですか。お見合いですら心動かされなかったんですね」 「お見合いだって、校長先生の御縁で設けていただいたものに過ぎません。 結局、私自身が未だに世間知らずで——男性を意識しないのが問題なのでしょう」 私はそこで彼をもう一度見た。膝枕をしてくれている彼の目は、どこまでも澄んでいる。 光さえ感じるこの人は、私にとって初めて意識せざるを得ない人なのだ。 「…ところで、もう一ついいですか?先生」 私の額に手を置きながら、彼は私の机に目を遣る。 「先生の机の上にあるのは、聖書ですか?」 それは、確かに私の聖書だった。ある出版社の世界古典文学全集から出されているもので、一冊に旧約と新約を収めた、いわゆるショーター・バイブル。 私は一応、旧教を信じる基督教徒だ。ただし公務員である以上、その教義や宗教観を公の場では主張しないし、子供たちに教えることも無い。 熱心な教徒ではないので、この国の一般的な宗教——神道や仏教とも衝突しない程度に、『神』を信じる。 ただ、聖書は宗教観に関係なく幼い頃から好み、繰り返し読んでいた。 特に文語調の美しい日本語で訳されているあの聖書が好きで、普段は机の引き出しに入っている。 今日前原くんが来る前、中を整理するために一度取り出したまま仕舞い忘れていた。 「…そうですが、あれが何か?」 「先生は——『神』というものを、信じておられるのですか?」 急に真面目な顔で、彼は問う。こんな時に、いきなりそんなことを聞いて、なんのつもりだろうか? 「…はい。私は基督教徒ですので」 「では、日本の神道も仏教も認めないと?」 「いいえ。この国の多神教の『神々』というものを私は信仰してはいませんが、多数の人が信じていることを私もまた認める。 つまり、お互いに干渉し合わない程度に留めているんです。互いの宗教観を尊重し合うということです。 でも熱心な一神教を信奉する者でもない。 そうですね…私はこの国の大多数の人がそうであるように、雑多で一慣性が無いながらも、奇妙な統一性がある宗教観を持つに過ぎないでしょう。 明確に一つの『神』を信じるわけでもなく、否定もしない。多様性を認めつつ、しかし多神教を完全に信じるわけでもない。 万物の中に『カミ』らしきものを感じ取りは出来るけれど、それは『神』として崇める対象にはしない。 クリスマスはともかく、年中行事としてはお盆も初詣も許容出来る、そういう程度です。 雛見沢に特有の祭も…参加はするけれど深入りしなければ、宗教に差し障りありませんし」 …真面目に答えてしまった。我ながら、常に教師として生真面目に振る舞おうとする癖があるからだろうか。 彼はそれをじっと聞いて、穏やかに微笑んだ。 「…そうですか。いえ、別に俺は先生を宗教に勧誘するつもりなど無いんですよ。——ただ、気になったんです」 「…何がです?」 「先生がこれまで純潔を通してこられたことに、何か宗教的な理由があったら、それはそれで困るな、と」 ——呆れてしまった。 「な、何を言ってるんですか?今さら、こんな——こんなことをしておいて、今さらそんな——」 「いや、そんなに興奮しないでくださいよ。まぁ、聞いて下さい」 彼は私の髪を撫で、頬を擦りつつ、目を鋭くして静かに言った。 「『神』への強烈な信心ゆえに貞操を守っているような女性だったら、そういう人に乱暴なことはしないと、俺は固く誓ってるんです。 その人の中にある大事な思いを踏みにじってまで、女性を穢すことは出来ないし、俺はしたくない—— その人が、強く信じ、誇りを持っている教えなら、俺はそれを尊重して許容してやるべきだと思うから。 ただ俺は、存在するあらゆる価値観を超えた場所に、自分の身と心を置いてみたい。 そこから見える風景を確かめたい。そして、愛する人々に、同じ風景を見て欲しいとも思っている。 俺は女性を愛する。愛するというのは、つまるところ、相手を俺と同じ存在にまで高め、また俺自身も愛する女性によって高められていくことだとも言える。 だから、宗教とは違う意味で、俺が見込んだ女、俺が愛する女には、俺を信じて欲しいと思っている。 俺もまた愛され、その愛に応えて、至高の存在へと共に歩みたい。 そう、俺は至高の存在になりたい——それがなんだか分かるか、知恵?」 ——至高の存在?あらゆる価値観を超える?つまり、それは—— 彼はにんまりと笑う。これまでで一番、野心を覗かせるように、唇の端を吊り上げる笑顔を見せた。 私が既に答えを見通していることに気付いているのか——。 「——そう。生きながらにして『神』と等しい存在になること」 「…あ…あなたは、なんという…」 言葉が無い。あまりにも途方も無いことで、思考が追い付かない。ただ—— 「…何故、『神』にこだわるのですか?」 一番疑問なのは、そこだった。前原くんは、宗教的存在としての『神』を信じないのに、どうして『神』を意識するのか? 彼は、その問いを待っていたとばかりに、ぐっと私の身体を引き寄せて囁いた。 「——女性の中に、女性と結ばれた時に、『神』を見た」 「女性の、中に…」 「男と女が結ばれる瞬間。二人が一つになり、恍惚が霊肉を支配し、性的絶頂まで到達した時。 それまでの『人間』としての俺ではなく、『神』となった自分がいる。 見える風景もまた『神』のもの。万物を自分の中に感じ、また自分も万物と一つになる瞬間。 全知全能の存在になった瞬間——前原圭一は、その瞬間を永続的なものにしたい」 彼は力を込めて語っていました。その瞳は私に向かっているようで、その先へ語りかけているように見えました。 私の心、根源へと直接響くように。私という存在を変えるために。 「…知恵。お前はさっき、何を見た?——絶頂の瞬間、見えたんじゃないか。あらゆるものから自由になった世界が。 束縛を抜け出した気がしなかったか。この世ではなく、あの世に近いような、自分が自分で無くなる感覚——」 それが、霊肉の一致。 男と女が快楽の果てに至るところで、万能の力が私を包んでいったのを、私は確かに感じた—— 「——だからこそ、俺は『女』を必要とするんだ。 人間には『男』と『女』がある。太極から分かれた陰と陽と言い換えてもいい。 元々一つだった男女が分離したから、それを元通りにしたくて結合を求めるという話がプラトンの『饗宴』にあるのは知っているか? それは比喩ではなく、完全な存在へ昇華されるのに必要なことなんだ。 ——完全な存在こそ、『神』だ。何一つ欠けてはいない存在」 「じゃあ、前原くんは…自分が『神』となって、私たちの上に君臨したいとでも?」 「——いや、そうじゃない。ここが知恵の宗教を否定するかもしれないから迷うんだが…聞きたいか?」 彼は、そこで初めて迷う表情を見せました。でも、ここまで話しておきながら、今さら何を迷うのか? 「…構いませんよ。私も知りたいですし」 「…すまない。 『神』は一つだとするべきか、否か——そこで、俺は一つの『神』を否定する。 俺だけが『神』になって皆を統べるなら、それは俺を崇める宗教だ。だが、宗教ではなく、俺は一人一人の哲学として、『神』を信じてほしいんだ。 ——俺を崇めるのではなく、前原圭一という『神』と、同格になれ。 ——俺を信じ、従いながらも、自らを『神』に近付けるために生き続けろ。 ——皆が己の中に『神』を見出す世界を作る。それこそ俺がここで成し遂げたい目的なんだ」 …前原くんは己を疑わない。 この途方も無い理想を、本気で信じる人など、世界で唯一人だろう。ある意味で…狂っている。 だが、私は何故か彼を狂っていると断じることが出来ずにいた。 狂人。誇大妄想狂。人は彼をこう呼ぶだろう。でも、それは俗人が己の尺度に合わない人を断罪する言い方ではないだろうか。 俗人の遥か彼方にいる人にとっても、彼の側から見れば狂っている。距離があるということは、立ち位置が違うだけ。価値観は絶対ではなく、相対化されるもの。 ——そうだ、ようやく辿り着いた。私がなぜ、彼にここまで惹かれているのか。 私は、私の周りを取り巻くあらゆる俗物が、嫌なのだ。あらゆる俗人と決別したいのだ。 俗世から離れ、落ち着いた生活をしたいのに、つまらない話が日常にはあふれている。 テレビをつければ低俗なゴシップがワイドショーを賑わせ、人々は下世話で卑近な趣味に走り、尊敬を得ることが出来ない大人が道徳を軽んじる子供を育てていく。 矮小な自分を棚に上げて、他者を見下すことで自己のプライドを維持する俗物ども。 私は、知恵留美子は、俗物とは違う。教職者として、子供たちを導く使命がある。 未来を担う子供たちを教え、育て、世の中に役立つ人にする。 ああ、それなのに——私の足を引っ張るのは、やはり俗物ども。 婚期を逃さないようにだの、女として充実した生活を送るためだの、あれこれと理由をつけては、私を下らない男どもとくっつけようとする、あの俗物ども。 下らない、下らない、何もかもが下らない…! 私の人生は私のものだ!私は私が信じたいことを信じ、私自身を信じていく者だ! 私の人生が俗物どもに決められる筋合いはない、私の邪魔をするなッ!! そうだ、私は—— 「——下らないこの世界を、変える。前原くんと——『神』と一緒に」 私は起き上がり、彼に口付ける。 絡める舌先は熱く、身体の芯まで燃え出しそうだった。 「…んっ…ふぁ。前原、くん…」 「…なんだ、知恵?」 「あなたに従います。あなたは『神』になり、私は『使徒』になる。 …あなたを慕うゆえに、従うのです。私はあなたの隣にいて、変革を誰よりも近くで見る立場でいたい」 この人は、俗物ではない。 私と同じ、高潔な志を持ち得ている人であり、その理想を実現出来る人。 ——俗物どもの世界に背を向け、私は『神』とともに新たな世界を創る。 「それでいいんだな?…俺は『悪魔』じゃなかったのか、クックック…」 「——俗物にとっての『悪魔』は、私にとっての『神』です。それに——サタンは楽園を逐われただけ。元々は聖なる存在でしょう」 「ふふ、確かに——俺は堕ちているかもしれない。 だが、堕ちた者にこそ、這い上がって楽園を取り戻す権利が有る。 知恵。雛見沢を楽園に変えようか——俺と、お前で」 私は返事の代わりに、笑いました。 そして今度は私が彼をソファーに押し倒し、乱暴に唇を奪ってやりました。 見出した『神』は、私と同化する。彼と交わり、霊肉が一つになる瞬間に。 だから、もっともっと私を抱いて下さい。 抱いてくれなければ、私があなたを抱きます。 私も近付きたいのですから——『神』よ、あなたの御側へと。 ——こうして、私は前原くんと結ばれたのです。 <続く>